2022年5月31日火曜日

病理の話(661) カーブだったのかフォークだったのか

患者が病院や自宅で亡くなったとき、そこに「事件性がある」、もしくは「事件性があるかもしれない」ときには、法医解剖が行われる。これは警察の捜査にもかかわってくるので、やるとなったら基本的に患者の家族も医療者も断れない(※細部をめちゃくちゃ省略して書いていますのでご了承ください)。こういう解剖は昔からドラマなどで多く語られてきた。


一方で、患者の死が「病気によるもの」の場合、主治医と患者の家族、あるいは死ぬ前の患者自身が話し合って、上に書いたものとは別種類の解剖をすることがある。


それが「病理解剖」だ。


病理解剖にはさまざまな目的がある。病気を治療しながら患者とその家族と主治医・医療スタッフが、何か疑問に思ったことがあり、それが解決されなかった場合、あるいはなんらかの「モヤり」を感じた場合に、それを解き明かすというのが最も大きな目的だ。


「モヤり」は、わかりやすい例としては、「診断がうまくつけられなかった」とか、「診断はつけたが治療が思ったように効かなかった」なのだけれども、実際の臨床ではもう少し込み入っている。


あえてここで、たとえ話にスライドすることをお許し願いたい(実際の例はどうしても具体的な解剖症例のことを思い出してしまう)。




あなたはプロ野球選手で、バッターボックスに立っている。マウンドにはスゴ腕のピッチャーがいる。9回の裏だ。チームは2点差で負けているが、塁にはランナーが2人出ているので、ここであなたがホームランを打つと逆転することができる。


すごく大事な局面だ。


ピッチャーは直球のほかに、いくつかの変化球を投げられる。ここまでの試合で、カーブとスライダーはけっこう目にした。フォークも持っているが、今日はあまり投げていないようだ。


カウントは3ボール・2ストライク。次にストライクをとられたら三振、ボールをとれたらフォアボールというフルカウントだ。


ピッチャーが振りかぶって、投げるその瞬間、あなたはコーチから聞いていたある情報を思い出す。


(あのピッチャーは、変化球を投げるときに、アゴが微妙に前に出る)


クセだ。あなたはじつは、ピッチャーのクセを知っている。


ボールを投げる瞬間のピッチャーは確かにアゴが前に出ているように見えた。


(……変化球!)


直球に備えた構えから、とっさに重心をわずかに下げてタメを作り、タイミングを変化球打ちのそれに切り替える。


思った通り! 少し緩い速度の変化球だ! カーブ! そう思って、自分の「外角」に逃げるように落ちていくであろうボールにバットを……


と思ったら次の瞬間、ボールは内角低めに落ちてきた。あなたはぎりぎりのところでバットを止めた。


審判の判定は……ボール! 危ないところだった。思わず振ってしまうところだ。


あなたはフォアボールを選んだ。打てはしなかったが、まあいい。塁には出ることができた。




しかしあなたは……1塁に走りながら……モヤっている。

(今のはカーブじゃなくて、「シンカー」ではなかったか? そんな球、あいつ、投げられたか?)

モヤりながら、1塁につくと、ベースコーチも同じことを気にしていた。「おい、ちょっとタイムかけて、次の打者にサインで送るか? 今のシンカーだったよな? あのピッチャー、シンカーも投げるぞって。」



【選択肢】


A. うーん。それがわかったところで、なあ。こっちはもうフォアボールで塁に出たし。


B. そうしよう、このピッチャー、ここまで温存してたシンカーも投げ始めたっていう情報を伝えたら、次の打者はヒット打てるかもしれない。




ここで、「A.」を選ぶか、「B.」を選ぶかで、このチームの「微調整のうまさ」が異なる。


すでにフォアボールという結果で、ヒットは打てなかったけど、まあいいや、やれることはやったし、と満足してしまうのが「A.」だ。一打席ごとに「とにかくそいつが全力でやるしかねぇよな」みたいな雰囲気がチームに蔓延している。情報を次に申し送りしなければ、次のバッターは、あなたがひっかかりそうになった「カーブに見えるシンカー」に、今度は騙されてしまって三振に倒れるかもしれない。


一方、「B.」のほうは、試合の展開で出てきた「モヤり」をチームで共有しようとしている。場面ごとの結果がどうなっていようとも、その内容をチーム全体で分かち合って、経験を積んで、次の勝負でより精度の高い野球をしようと心がけている。





結局コーチは「A.」を選んだ。サインでは「こいつじつはシンカーもあるぞ!」みたいな複雑な連携は取れないと判断したのだ。そして次の打者は、結果的に、同じシンカーを投じられた。


そのシンカーもまた「ボール」となり、次の打者もフォアボールであった。連続フォアボール! 労せず1点が入って、これで1点差だ。チームは押せ押せである。相手ピッチャーも少し汗をかいている。


(なあんだ、わざわざ言わなくても大丈夫だったな。よかった、余計なことしなくて……)


と、あなたとコーチがほっとした次の打席。満塁で打席に望んだチーム最強のスラッガーは、「例のシンカー」であっさりと三振に倒れてしまった。これでゲームセットである。


結局、満塁からの押し出しフォアボールで1点を返すだけに終わってしまった。あなたとコーチは頭を抱えてしまった。


(あああ……なまじ次の打者が見極めただけに……あのシンカーのやばさをきちんと次に伝えられなかった……!!)






めちゃくちゃ長いたとえ話だったが、これと同じことが、病院の医療、そして病理解剖において起こりうる。


・今まで見たことのない変化球 → ある病気Aにかかった患者の検査結果が、普段あまり見たことのないかたちで現れること


・それはおそらくシンカー → その検査結果はたぶんこういうことだろうと説明は付くのだが、一度しか見ていないから確信が持てない。VTRで検証してみたいくらいだ。コーチや解析班といっしょに、みんなでじっくり見てみるしかない


・相手ピッチャーのクセはわりと見抜けていた → その病気に対してはエビデンスがあって、こう来たらこう対処する、というやり方もけっこう浸透している状態


・シンカーのせいでただちに三振したわけではない → ぎょっとする臨床経過にあわてて対処して、そのときはなんとかなった


・次の打者もシンカーにはだまされなかった → 医療者はさすがプロなので、多少予想外のことが起きても基本的にはうまく対処できる


・けれども次の次の打者はシンカーで三振してしまった → やはり情報が少ないパターンの病気にはうまく対処できないこともある


・経験者やコーチが、情報をチームで共有していれば……! → 主治医や病理医が、情報を病院内で共有していれば……!




まあこんな感じなんすよ。ほとんど野球の話になってしまった。