2020年12月30日水曜日

病理の話(490) 口から入ってきたものは敵と認識せず攻撃しないことにしましょう宣言

ほむやアポストロフィ(’)に聞いた話の受け売りなんだけど、人間ってすげえなーと思う仕組みのひとつに「経口免疫寛容」というのがある。


熟語がみっつ組み合わさっているのでわかりにくい言葉だが、すごく単純にわれわれの日常ことばに翻訳するならば、


「口から入ってきたものは 敵と認識せず 攻撃しないことにする」


という意味のことばになる。




人間の体をほかと隔てているものといえば、皮膚だ。自分の腕の皮をひっぱってみよう。お腹の皮でもいい。この中がぼく、この外が世界。そう唱えながら。


人体は実際にそのように考えているふしがある。皮膚に傷をつけて侵入する外界の物質、たとえばバイキンとかウイルスの類いは、皮膚の中から下あたりにある様々な細胞が認識して、「ただごとじゃないな、お前、敵だろう」と判断してボッコボコに攻撃する。


このボッコボコのときに「炎症」が起こり、腫れ上がって、赤くなって、熱くなって、痛みが出てくる。戦いが起こっているわけだ。


で、この防御システムは、皮膚をやぶって入ってくるもののうち誰が敵か味方かみたいなことをなるべく区別しようとがんばるのだが、いいかげん侵入者が多いと、どれが敵かを判断しきれなくなる。


肌荒れを持っている小さなお子さんや、手に切り傷をつけたまま働いているシェフなどの「荒れ・傷口」(皮膚の抜け穴)から、バイキンやウイルスだけではなく、小麦粉とかオサカナの成分などが入り込むと、「ええいめんどくせえ、お前らも敵だろう」と判断して、人体は小麦粉やオサカナの成分も敵だと記憶してしまう。


すると、そのお子さんやシェフがのちに、「口から小麦粉やオサカナを摂取しても」、人体は「こいつ前に皮膚から入ってきたやつだぜ」と判断して、変わらずに攻撃を発動する。この過剰な反応が「アレルギー」と呼ばれ、人にさまざまな症状を引き起こす、というのだ。




まあ実際、よく出来ていると思う。皮膚という国境を越えてひとたび侵入したやつは、小麦だろうが卵だろうがオサカナだろうがみんなお尋ね者だ。そいつが口からしゃあしゃあと入国してきたらやはりマシンガンをぶっぱなす。これは国防としては(過剰だが)理解できなくはない。




そして人体がすごいなーと思うのはここからだ。いつまでも外界のすべてを排除していては厨二病……じゃなかった、それだと栄養すらぜんぶ攻撃して打ち倒してしまう。だから人体においては、外界のすべてを排除する皮膚とはべつに、「我々にとって役に立ちそうなものだったら入って来てもいいよ」と、寛容する(ゆるす)システムがそなわっているのだ。それを担当するのはどこか?


口の中! そして、胃腸! なのである。


人体がこのような「味方を区別するシステム」を口に用意しているというのはめっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃくちゃにかしこい。


「あ、だから舌が味を感じるんだ!」


とぼくは腹オチ・手のひらポンした。とりあえず口に入れてみて、まずかったらペッと出す、ここでとりあえず雑多に敵味方をよりわけていたんだな。


そして、口に入れてなんかおいしいなーと感じたらそのまま飲み下す。舌や胃腸の粘膜に接し、その後吸収された食べ物に関しては、「こいつらは味方なので今後通しても大丈夫です。」という指令を出し、それが全身の免疫細胞によって共有される。


これが経口免疫寛容、「口から入ってきたものは 敵と認識せず 攻撃しないことにする」である。マーなんともうまくできたシステムだ。ほれぼれする。

2020年12月29日火曜日

ブルガリアのほうがたぶん寒い

マフラーを巻いてからコートを着るのは、首筋からのすきまかぜを少しでも減らすためである。ダナーのスノーブーツ(短いが信じられないほど温かい)を履いて、家のカギを締めるのにも苦労するような厚手の手袋を履いて(手袋をはめている人はなにもわかっていないのだ)、車に乗ってエンジンをかける。すぐに膝掛けを取り出す。


そこでふと気づく。あれ、それほど今日は寒くないのでは……。


車のコンパネに表示された外気温をみるとマイナス1.5度だった。だったらこんなに完全装備じゃなくてもよかった。


とりあえず手袋だけを脱ぐ。あとはまあ、車が温まってからでいいだろう。




経験的に外気温マイナス5度くらいを下回ると、これくらい完全装備しておかなければ出勤中にすっかり凍えてしまって、朝イチの仕事でうまくキータッチをできなくなる。いつしか冬はモッコモコになった。スタイルなど気にしていられない。


それでなくても冬至周辺は昼が短いのだ。世界が一番冷たいときにエンジンをかけさせられる車もかわいそうである。走行は12万キロを越えた。ときおりエンジンが身震いをする。


東京に住む友人たちが、こちらでいう「秋程度」の寒さで凍えているとき、はたからそれを見ていると、「おしゃれだからだよ。」と教えてあげたくなる。それで防げるわけがないんだ。あるいは、防げなくても大勢に影響がない程度の寒さなんだ。




かつて北欧から日本にやってきて、高校生時代のぼくに数学を教わっていたベルトーチカ・イルマ……いやこれは本名じゃなくてガンダムの登場人物だな……イルマじゃなくてイリ……しまった、名前を忘れてしまった。

とにかく、「なぜこんな場末の公文式に通ってくるの?」と不思議になるくらいの、アニメの中から出てきたかのような肌の色をした女の子とぼくはたまたま同じ公文式にいた。ぼくはとっくに公文式を卒業していたが確か知り合いに頼まれて数学の採点バイトをしていたのだったと思う。そこに彼女はやってきた。

イル……イリ……細身の彼女は冬になると、ミシュランマンもかくやという防寒をしていたことを覚えている。というか、今、思い出した。

彼女の冬に対する堂々とした備えっぷりは、すごくかっこよかった。

その後彼女は確か、ケンブリッジ的な名前のどこぞの大学の医学部に合格した。オックスナントカにも受かったしほかにもいろいろ受かっていた。あとから聞いて、ああ、かっこよかったもんな、なんて変な納得のしかたをした。


ぼくが彼女に数学を教えていたのは、単に向こうの文化では数学の進度が日本よりも遅くて、「ぼくの程度」でも十分通用したからだ。ぼくのほうが真の意味で「数学に強かった」わけではない。だいいち、北欧の母国語と、英語と、そしてカタコトではあったが日本語を使いこなしてぼくと「数学」でコミュニケーションをとるような秀才である、数学的センスだって申し分なかった。ぼくはたまたま日本という国に住んでいて、たまたま学校でイリなんとかよりも先に微分積分を習っていた、ただそれだけのことで、とてもじゃないが上から目線というか日本から目線で彼女を語ることなんてできなかった。


なんて言ったっけな……あの子の名前……。冬になってもずっと忘れていた。もっときちんと覚えておけば、いまごろ、あるいはTwitterで再開することもできたかもしれないのに。

2020年12月28日月曜日

病理の話(489) 2週間後に結果を聞きに来てください

※今日の話はフィクションです。ぼくの思い出話などではない。




胃カメラを飲んだら医者が「ちょっと組織をつまみますね」という。


最近の胃カメラは、患者もモニタを眺めていられるケースが多い。自分の腹のなかに洞窟探検よろしくスコープが入っていくところはなかなか不思議な感じである。


「はぎががぎがぎがが」(何かありましたか)とたずねると、不安を察したのか、看護師さんがすかさず背中をさすってくれる。そういうところの呼吸はすごいなと感心する。


医者も慣れたもので、「ええ、ここちょっと赤くなっているんで……悪いもんじゃなさそうですけれどね、少し引きつれた感じもありますし、細胞をとって検査に出しましょう」と説明した。


モニタの右下からなにやらマジックハンドのようなものが硬い感じでズズズズと出てきて、先っぽがパカと開いて、粘膜に近寄っていって……グニとつまむ。ひっぱる。プチ。


少し血がにじんだようだった。うぐ、と声を出してしまった。医者がすぐに反応する。「あ、この血はすぐ止まるんで心配ないですよ」そうか心配ないのか。




ほかの場所をぐいぐい観察している。ちょっと腹の上の方がひっぱられたり押されたりするような感覚はあるが、特段痛いこともない。そういえば胃粘膜をプチとちぎったときも痛みは感じなかった。内臓の中の神経ってのはにぶいのか。




ぜんぶ終わって身支度を調えてからあらためて医者の話を聞く。



「おつかれさまでした、おおむね問題のない胃ですが、1箇所、組織をとって検査に出すことにしました。2週間後に結果を聞きに来てください。」



に、2週間……?





というわけでその間は患者はわりと不安なままなのだが、別にこの間、医者たちがのんびり時間をつぶしているわけもなく……。




まず胃からとった粘膜はすぐにホルマリンという刺激臭の強い液体が入った小瓶にジャボンと漬けられる。そして病理検査室に運ばれる。開業医の場合、病理検査室は自前では持っていないので、外注をしなければいけない。外注ということは郵送なり宅配なりをしなければならないということだ。ここで少し時間がかかる。


ホルマリン瓶を運んだ先の検査室で、検体を瓶から取り出し、パラフィンとよばれる「溶けたロウ」のような物質の中につけ込んでさらに1日待つ。ロウは細胞の外側だけではなく、細胞の中身にもしみ込んでいき、細胞の中に入っていた様々な物質の代わりに細胞を満たす。


「ロウ漬け」になった組織を採りだし、周りをさらにロウで固める。「ロウの煮こごり」みたいな状態が完成する。これをパラフィンブロックという。


煮こごりのイメージをそのまま持って欲しい。ただしすごく硬いやつだ。硬いから簡単に刃物で断面を作ることができる。生体内からとってきた物質は、そのままだと、硬かったり柔らかかったりして切りにくい。だからロウ漬け、ロウの煮こごりにしておいたほうがよく切れる。


ここで組織を実際に切るのは臨床検査技師だ。言っておくがとてもじゃないけど近代の病理医にはこの「組織を切ってプレパラートにする作業」はできない。専門性が高すぎる。


臨床検査技師はカンナのおばけのようなミクロトームと呼ばれる器械を使って、組織を4マイクロメートルという気の狂ったような薄さのペラッペラに切る。


「煮こごりをかつらむきにする」


「煮こごりを削り節にする」


みたいなイメージだ。わかるだろうか? 煮こごりを削り節ぃ? そんなの無理だよ! というのが普通の人間(+病理医)の感想なのだが、それを臨床検査技師は訓練のすえにできるようになっている。


煮こごり削り節は向こうが透けて見える。ペラッペラだ。


このペラッペラをガラスに貼り付けて、さまざまな染色液の中を通過させる。するといろいろな色に染め上げることができる。


こうしてプレパラートが完成する。ホルマリンに漬け込んで1日(+郵送)、パラフィンに埋め込んで1日、そして技師の作業に数時間がかかる。まあ、プレパラート1枚だけを作るのだったら最後の作業はもう少し早く終わるのだが、実際には1日に200とか500と言った数のプレパラートが作製されるので、ここはどうしても流れ作業になり、時間がかかる。


そしてできあがったプレパラートを軽くかわかして、患者を間違えないようにラベルを貼って、病理医の元に届ける。ここからようやく診断がはじまる。


病理医は顕微鏡を見て、2秒で診断をつける。ほんとうに2秒で診断できることがある。しかし、15秒かかることもあるし、5分かかることもある。

ここでの難しさは単に「絵合わせクイズ」のそれとは異なる。病理医の元には患者の情報がたくさん届けられており、どういう患者のどういう組織をとってきたのか、主治医が何を考えているのかがそこに記載されている。病理医はその患者の情報をきちんと読み込んで、顕微鏡で見えているもの(所見)の意味をきちんと考えなければいけない。


そうでなければ病理医が医師免許を持っている意味がないのだ。「細胞はこの図鑑に載っているこの形と似ているから○○病ですね」で仕事が終わればどんなにかラクだろう?


ただまあ何年も勤めている病理医であれば作業にかかる時間自体は短いことが多い。ここで診断がわかれば、病理診断報告書に記載して、打ち出して、主治医の元へと返送する。


ここまで、最短で2~3日といったところだ。ならば患者は2週間も待つ必要はない……。




いや、「最短で」というのがキモである。実際にはさらに時間がかかることがよくある。




まず、珍しい病気が見つかった場合、主治医は病理医がつけた診断名に対してきちんと勉強をし直し、その患者にどのような対応をするかを考える時間が必要だ。世の中には2万とも3万とも言われる数の病気がある。これらをすべて暗記することはできないし、個々の患者ごとに適切な対応をしようと思ったら、単なる暗記だけでも無理だ。つまりは主治医にも考える時間が必要なのである。


そして、病理医がすぐに診断できるとも限らない。「これは、今見ているこの染色だけでは診断に到らないな」と判断して、「染色をさらに追加する」こともある。たとえば免疫染色と呼ばれる特殊な染色をするときには、病理医から技師にオーダーが飛び、技師はあらためてパラフィンブロックを削るところから工程を再開する。


免疫染色は何百種類もある。病理医がまず細胞をチラ見して、「その細胞から病名を確定するのにどの染色が必要か」と判断し、それから免疫染色を適切にオーダーしなければいけない。「最初からあらゆる免疫染色を染めてしまう」ということは無理なのだ。だからここには時間がかかる。


染色とプレパラートを追加する作業には、1回につき1日~2日の追加時間が必要だと考えて欲しい。そうすると時間はあっという間に過ぎていく。



このようなタイムロスを計算して、主治医はあらかじめ患者に「2週間後であればたいてい結果は出ていますので、2週間後に来てください」という。もちろん、2週間経っても病理診断が終わっていないこともある。急いで間違った診断をくだしてしまっては意味が無い。ここではスピードよりも正確性が求められる。


2週間ハラハラした患者には申し訳ないと思うが、こちらも2週間けっこう必死なのだ。




たとえばぼく(病理医)が診断をくだすのに3日かけたとする。その結果、いそいで患者を病院に呼んだほうがいいと判断すれば、主治医は躊躇なく患者に電話をかける。また、「いそいでも結果に影響しないな」と判断すれば、普通に2週間後の予約を待って、患者に丁寧に検査結果を告げる。そのような判断は毎日のようになされてはいる。





2週間が経過した。


「先生、どうでしたか」不安そうな患者が医者にたずねる。


医者は答える。「悪いものはありませんでした。がんの可能性はないそうです。私も、胃カメラで見て同じ事を考えていました。


ただし、病理医が、患者の飲んでいる薬を確認してくれ、と言っています。Aさん、事前におうかがいした限りでは、確か今おくすりは飲まれていないということでしたが、何かお飲みになっているものはありますか?」


患者はびっくりして答える。「えっ、くすり飲んでないっていいましたっけ? ぼく関節の病気があるんで、痛み止めを飲んでいますよ。あ、そうか、胃腸に関係ないから書かなくていいのかな、と思って、書かなかったんだったかな……」


医者はピンとくる。「なるほど、そうでしたか。こちらの聞き方が悪くて失礼致しました。病理医が言うには、痛み止めの薬のせいで胃が荒れているのかもしれない、とのことです。適切な用量を飲んでいて、胃があの程度なのであれば、様子を見てもいいかなと思うのですが、ちょっとおくすりの飲み方については相談しましょうか。」





※くりかえすが今日の話はぼくの脳内で適当に考えたフィクションです。

2020年12月25日金曜日

それはお前の行動が甘かったからだ

磯野さんと水野さんの対談をログミーで読み直していた。

https://logmi.jp/business/articles/322304

いろいろと「うっ」と思う記事である。公開されてから1年くらい経つが、いまだにタイムラインにも流れてくる。示唆に富む上質な対話だ。

最近ぼくが気にしているのは連載第2回のこの部分である。ちょっと長いが引用する。



磯野:「どうやってやせますか?」みたいなのがいっぱい出てきたあとに、お洒落なランチの話とかがすごく出てきて、ものすごく両極端に引っ張られる社会です。

だから、具体例を出して申し訳ないですけど、(バラエティタレント/ファッションモデルの)ローラさんのInstagramを見ていると、食べ物の写真がいっぱい出てくるんです。

「今日はビタミンカラー満載のサラダをいっぱい食べちゃったよ」「みんな、いっぱい食べたほうがいいよ!」と言ったようなコメントが書かれていて、でも、ローラさんはBMIが18とかなんですよ(笑)。

彼女を責めたいわけではまったくないんですが、「正しいやり方さえすれば、いっぱい食べても素敵な体型でいられる」というメッセージというのは、ものすごく出ていると思うんですよね。「ライザップ」とかはすごく典型的だったと思うんですけど、あれってけっこう「食べなさい」「やせるためには食べるんです」みたいに言いますよね。

そうすると何が起こるか。やせようとしたけど結局うまくできなくて、例えば「摂食障害になっちゃった」とか「リバウンドしちゃった」みたいになったとします。

すると「それはあなたのやり方、あるいは、あなたの性格に問題があったのであって、正しいやり方さえすればこういう体型は得られるんですよ」というメッセージが流される。つまりダイエットに失敗して、きれいな体型にならなかったのはあなたのせい、というわけです。


これを読んだときの「うむむぐぬぬ」感たるやすごかった。

わかる。

わかるのだ。

「正しいやり方さえすればこういう【いい結果】は得られるんですよ」の圧力というのはものすごい。

ぼくはこれに取り込まれているように思う。



ツイッターをやっていると無数に見かける、以下のようなことば。


「8年間がんばって勉強さえすれば大学以降はとてもいい思いを……」


「手洗いマスク三密回避さえすれば感染症禍でも……」


「ツイッターで他人の悪口を言わずに読んだ本の感想だけ言えば日常が……」


これらの言質に共通するのは、後に続く、(だからもしうまくいかなかったらそれはお前の行動の律し方が甘かったからだ)というメッセージだ。


参ったなあ、と思った。ぼくもこういう言い方をたまにしている。




ストーリーを与えて、「これに正しく沿えばうまくいくし、やり方がへただとそりゃあ失敗するだろうさ」と言うやり方。これ、本当に、世の中にあふれている。ぼくも影響を受けている。


でもなー成功とか理想とか夢とかって、「正しいやり方」をしていれば「必ずたどり着く」ものではないんだよな。


偶然の因子のほうがよっぽど大きく作用する。


「成功のカギは、いかに正しい過程を遵守するかだ!」のメッセージが強すぎる社会はしんどいな……。





しんどくならないために、じゃあ、どうすればいいかって?





いや、今の太字がもう、だめなんだろう。「こうすればしんどくならない」という方法を追い求めることは、すでに、(だからもしうまくいかなかったらそれはお前の行動の律し方が甘かったからだ)というメッセージにつながろうとしている。


この話題、奥が深い。ちょっと継続的に考えてみる。


(だからもしうまくわからなければ、それはお前の考え方が足りなかったからだ。)

2020年12月24日木曜日

病理の話(488) 直感を先行させて理論に追いかけさせる

「これ、どれががん細胞なんですか?」


研修医に質問をされ、一緒に顕微鏡を見る。


あ、一緒に顕微鏡を見ると言っても、ほっぺたをくっつけて一台の顕微鏡のふたつの接眼レンズを片目ずつキャッキャウフフとシェアするわけではない。同時に複数人がみられる「ディスカッション顕微鏡」というのがあるのだ。



前にもこのブログに載せたことがあったので写真を再掲する。鏡筒(きょうとう)を左右に伸ばして「のぞき穴」を増やしただけの極めて単純な仕組みではあるが、そこそこ高価(写真に写っている範囲で○百万円)なので笑える。



さて、顕微鏡を使って細胞を拡大しよう。そこに見えるのは「細胞一個」ではなくて、細胞どうしが大きな構造を作り、水分や粘液、線維などとも混じり合ってできる「組織」だ。町を上空から俯瞰するような気分で視野全体をスキャンする。このどこかに「ヤクザ(がん細胞)」が紛れ込んでいる……と、かつてのぼくは診断し、病理診断報告書に「がん細胞がいる」と書いた。


研修に来ている若い医師は、過去の診断書を検索システムでチェックし、自分が勉強したい病気の名前を探し当ててプレパラートを引っ張り出した。だから、この視野の中には確実に「ヤクザ」がいるとわかっている。しかし研修医は「ヤクザ」が見つけられない。


組織内ヤクザ=がん細胞は、見た目がゴリッゴリに悪そうな姿をしていれば、研修医や医学生、なんなら中学生であっても「あっ」と気づくことができる。派手なリーゼント、そり込み、タトゥー、手に持っているマシンガン、あきらかな返り血などによって(実際には核の形状のおかしさや細胞質の違いなどによって)、顕微鏡を見た瞬間に、「絶対こいつ悪いやつやん」とわかる。


しかし、全ての「ヤクザ」がわかりやすいわけではない。世の中にはリアルヤクザのほかにもインテリヤクザ(IT関連の悪事を働くのだが街中では善良そうな顔をしている)、潜伏ヤクザ(基本的に隠れていて表に出てこない)、教授ヤクザ(説明省略)などがいて、見た目では「悪性」と気づきにくい場合がある。


ではエース格の病理医はこのような「わかりにくいヤクザ」をどうやって見つけ出すのか?


第一に、「勘」である。経験に裏打ちされた洞察。「いやそこに人がいるのはおかしいでしょ」みたいな感覚。


ただしこの「勘」はすべて後から言語化できる。できなければならない。


間違わないでほしいのだ。「勘で見つける」というのは「理論化できない見つけかたをする」とは意味が違う。「先に脳が異常を察知して、あとから理屈を説明できる」のだ。いわゆる「山勘」とか「直感」を、追いかけて分析して言語化できなければ、その勘には「再現性がない」(もういちど同じ場面に出会ったときに見つけられるかどうかわからない)ことになってしまう。それでは診断者としては三流だ。


たとえば……。


GUで買ったパーカーと中日ドラゴンズの野球帽をかぶった大柄な、しかし善良なおじさんが、夜の3時に埠頭のはしにある倉庫の前でタバコを吸っていたら、「見た目は善良そう」であっても警察官は職務質問をするだろう。

「お前なんでこんなところにいるんだ? こんな時間に……」

このとき、警察官に、「なぜ見た目が普通のおじさんに職務質問をしたんですか?」とたずねると、おそらく、


「まあ、勘だよ」


と答えるだろう。でもそこをさらにツッコんで質問する。「ど、どういうことですか?」


すると警察官は自分の勘を言語化するのだ。「確かに、見た目はよさそうに見えるけれどね、格好が普通であっても、居場所がおかしいとか、態度がおかしいとか、現れるタイミングがおかしいとき、つまりは振る舞いがおかしいときにはひっかけるべきなんだ。だってぼくらがやることは、まさに、『悪い振る舞い』を見つけ出すことなんだからね」


実は勘にも理論の裏打ちがある。しかし、それをいちいち言葉で説明するより先に脳が「あっ、おかしい」といったん結論付ける。そして「結論は間違いないけどいちおう、理屈も確認しとこうかな」と、認知のプロセスを巻き戻してあらたに副音声解説を付ける。その解説が付けられない場合は「ほんとうにヤマ勘」なので、他人を説得するにはいささか論拠が足りないということになる。



病理医というのはこの「勘を言語化する仕事」をする。AIが担当できるのは「勘」までだ。AIの普及によって病理医は勘を磨く場面が少なくなり、「他人の直感を代わりに解説する」といういささか困難な仕事が増える。個人的な感想だけれど、この、「AIによって下された直感を人が言語化する」という作業は、高度なゲームに似ていて大変おもしろい。はやくそういう仕事をいっぱいやってみたい。AIの進歩ってチンタラしてるから困る。早く普及しろよ。病理医は手ぐすね引いて待ってるんだよ。

2020年12月23日水曜日

毎ペース

「少し無理をして継続している趣味」みたいなものが、かつてのぼくにはいっぱいあった。

30代前半のころ、毎週火曜日や木曜日あたりで飲みに行っていた。仕事が早く終わる日を週に一回作ろうと心に決めて、その日は5時過ぎに職場を出て、そのまま徒歩でススキノに向かう。だいたい30分でススキノの中心部に着くので、まず吉野家に入って牛丼の大盛りと玉子を食う。腹を満たしたらなじみのバーに向かい、今日はジンにします、あるいはテキーラにしますと、ひとつ酒の種類を決めてカクテルを作ってもらい、数杯ほど飲んだら家に帰る、というのをしばらく続けていた。

これはぼくなりの抵抗であり背伸びであった。ぼくは仕事だけに明け暮れているわけではないのだと自分で自分を認めたかったし、こうやって決め事をしないと無限に職場に居続けてしまって、それがいい加減つらくもあった。

その頃のぼくはすでに他人と飲むことがおっくうになっていて、とにかく一人でやれることがほしかった。一人居酒屋からはじめたのだけれど大将や隣の人が話しかけてくることが数度あってめんどうになってやめた。バーのほうが気楽だった。20代によくウイスキーを飲んでいたのだが、これだと金がかかりすぎる、カクテルなら安いとは言わないがまだそちらのほうが値段は控えめだし、何よりたくさんの味が楽しめてうれしかった。

ある日、いつものようにススキノ方面に歩いて行く途中で、「今日は吉野家じゃなくてラーメンにしよう」と思い立ち、入ったことのないラーメン屋に立ち寄り、しょうがの効いたみそラーメンを一杯食ったら、何もかもどうでもよくなってしまい、そのまま近くのコンビニでビールを買ってタクシーをつかまえて家に帰った。家で飲んだビールはうまくて体に優しかった。それ以来、毎週バーに行くという「無理をした趣味」からは遠ざかっている。

あれはいったい何ブームだったのか。今でも思い出す。

バーは敷居の高い場所でもなんでもない。行きたいと思ったら行けばいい。わからない酒は聞けばいい。感染症禍で外食ができなくなってはや7か月、友人のやっているバーが気になっていないといえば嘘になる。でも、コロナを言い訳にするのは間違いで、バー自体にここ3年ほど行っていないのだからほかに理由があるのだろう。「いつか巨額の金を落としにいきますよ」とうそぶいたままなんとなく足が遠ざかっている。たぶんこのさき40代の後半になったら、宿り木をもとめてうちから歩いて行くことだってあるだろう。でももう「定期的に」ということはないのだと思う。

酒に限った話ではない。人生とか趣味というものはそれくらいのスパンで考えてくれないと、とぼくにとっては窮屈でしょうがないのだ、毎日とか毎週とか、毎月とか、「毎」がついた途端にぼくは何もかもが面倒になる。酒だけではない。釣りも、キャンプも、スキーも、ゲームも、YouTubeだってそうだ、ぼくは不定期でなければ続けられない性分になっている。

このブログ、毎日更新しているじゃないかとつっこまれるかもしれないから、念の為おことわりしておこう。今日書いたのはこの記事だけではない、昨日の記事もおとといの記事もすべて今書いたものだ。そうやって世間をだましてやっている。毎度お騒がせしております。

2020年12月22日火曜日

病理の話(487) 後回しにしないけれど早回しにもしない

昨日の午後から夜にかけてめちゃくちゃ診断をしたので、今日の午前中は書き物をする。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。


ぼくは病理医としてさまざまな仕事をしているが、「病理診断」は後回しにしたくない。待っている人の数が多く真剣度が高いからだ。後に回さないのであれば「先に回して」いく。もう帰ろうかなと思っても、そこでもうひと粘りして、早めに早めに。患者のためにも、医療者のためにもだ。


ただしここで注意点がある。


ほかならぬ、仕事のクオリティだ。早く終わることばかりを気にしていると細部に気が回らなくなる。後で見返してみるとびっくりするほど誤字が増える。誤字が増えるということは、脳のチェックが甘くなっているということで、字の間違いだけならいいが概念の勘違いなどもおそらく増えていくはずなのである。「確定診断」的役割を求められる病理診断で、ちょっとした勘違いでした、は許されない。

だから急いでこなした仕事は、少し時間を置いた後にもう一度目を通すようにする。ひとり時間差ならぬひとりダブルチェックだ。すると、急げば急ぐほどダブルチェックに時間をとられ、その後の仕事が遅くなる。急いだつもりが時間がかかる。

だから仕事は早すぎてもいけない。「クオリティコントロールができる範囲で最速で」というバランスを狙う。

そもそもぼくの業務は医療のクオリティを担保することだ。質とスピードのトレードオフについては敏感でなければいけない。



ここからは完全に例え話でイメージの話なのでピンとこない人もいるかもしれない。でもそのまま書いてみる。



自動車に乗ってどこかに行くことを考えて欲しい。

あなたは、「目的地に一番早くたどり着くための、エンジンの回転数」を考えたことがあるだろうか? 車の速度ではないぞ、もちろん走行ルートでもない、「エンジンの回転数」だ。エンジンが高回転すれば車の速度も上がると思いがちだがそうとは限らない。坂道のような場所ではギアをうまく選ばないと、いくらアクセルを踏み込んでエンジンをふかしてもなかなか車が上がっていかないことがある。また凍結路面で思い切りアクセルを踏んでもスリップするばかりで、ひどいときには車がそのまま横滑りしていく。

つまりエンジンが高回転するかどうかと車の速度自体が上がるかどうかは、「関係はあるのだが、完全に対応はしていない」。

こういうことをよく考える。

脳の回転数を高めていくというのは自分の中で発想を次々と切り替えていくことに等しい。最高速でぶん回せば、仕事がその分早くなるか? 路面に噛み合わないレベルのアクセルワークではタイヤはスリップするばかりだ。おまけに周囲の渋滞状況を考えずにアクセルをべた踏みして車を急発進させたらそれはそれで事故るだろう。目的地に早く、しかも事故なく着くためには、法定速度をそこそこ守り、オートマティックのギアチェンジもスムースに行い、アクセルを踏みまくるだけでなくブレーキのバランスも考えなければいけない。そうしなければハンドルが効かないし運転手の肩も凝るだろう。

では脳は常に60%くらいで回転させておくのがいいということか?

そうではない。ぼくはときにレースに臨む。時速の上限がないサーキットで、いかにギアをつないで車の最高スペックの時速まで出せるか、ということも必要だ。この世界で車に乗っているひとのほとんどはサーキットを走らないが、ぼくはこの仕事の特性上、ときおりF1やゼロヨンの場面で戦わなければいけない。

ギアチェンジやコーナリングやタイヤのスリップなどを考慮してなお、エンジンのトルクをスペックの最高値まで高めていくにはどうしたらいいか。

そういうことも考える。





「昨日の午後から夜にかけてめちゃくちゃ診断をしたので、今日の午前中は書き物をする。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。」


という文章はこう読み解くことができる。


「昨日の午後から夜にかけて予定より先の『道の駅』まで運転したので、今日の午前中は博物館に寄っていく。いろいろと順調だ。助かる、いつもこういう日ばかりならいい。」


すると周囲からはこう言われるだろう、「おっ、体力あっていいね、楽しそうだね、でも安全運転でどうぞ。」

2020年12月21日月曜日

見ささる聞かさる言わらさる

「たれぱんだ」や「リラックマ」、あるいは「プーさん」や「ミッキー」のグッズをかばんに付けたり手帳ケースにしたり、ローソンでお茶を買ったときの小物を集めたりする人は「オタク」とは呼ばれず、「かわいー」とチヤホヤされる傾向があるのだが、これが「鬼滅」や「ゆるキャン△」、「プリパラ」や「アイマス」のグッズだと、同じローソンであっても「オタク」と呼ばれて「きもいー」とイヤハヤされるのはなぜなのだろうか?


答えはコンテンツそのものに含まれているというよりも、コンテンツが育んできたユーザーもしくは周囲環境との関係性にあるので、コンテンツの絵柄を細かく解析したところで両者の差はなかなか見出せない。「最初にどの界隈で流行ったか」にも答えは隠れているだろうし、「声優さんがどこまで関与しているか」にも関係するかもしれない。


何かを解析するときに、そのもの自身をいくら掘り下げても見えないモノがあると気づいたら、観察眼の眼輪筋にかかる力が少し変わってくる。


筋肉にグッと力を込めて、水晶体をゆがませて、強いレンズ効果を引き出して、より細部を、より近接して眺めてばかりではだめなのだ。


目の周りの力を抜いて、水晶体を弛緩させて、全体をぼんやりと、見るというよりは眺める、あるいは「見えてくる」、さらに北海道弁を用いて表現するならば「見ささる」状態まで持っていってはじめて見えてくるものがある。






大学時代まで剣道をやっていた。相手の目を見ながら剣先を見て、同時に相手の手元を見て、そして相手の右足の動きを見る必要がある。どこかを「注視」するとたちまち相手にそれが伝わる。相手がぼくの右コテを見たなというのはわかるし、ぼくが相手の面の左上あたりを見たら相手がそれを察する。だから、お互いに目線で「牽制球」を投げるように、「今そこを見ているのはブラフだからな」という動きを小刻みにやっていく。

三段になって数年経ったときに、当時の師範に、「もう少し全体を見てもいいと思う」と言われたのでいろいろ試行錯誤した。そのときぼくがやったのは、向かい合った相手の2メートルほど後ろに、ジョジョのスタンドのように「相手がもう一人いる」ことを思い浮かべて、そのスタンドの方に目のピントを合わせるというやり方だ。すると相手の本体はむしろぼんやりとピント外れで見えるのだが、これをすると全体が同時に見える、いや、「眺められる」、というか、「見ささる」。スタンドの位置があまりに遠いと本当に何も見えなくなるのでバランスが難しかったが、慣れてくると、「相手の右足が親指ひとつぶん前に出てくる直前の重心移動」がわかるようになり、いわゆる「後の先」(相手より後に動き出すのに相手より先に打ち据えること)ができるようになった。最終的には「相手がまだ動いていないのだけれど、相手の脳がこれから動くぞと指令を送っている最中にこちらが動き出す」こともできるようになり、そこから団体戦では2年間無敗となった(個人戦では普通に負けました)。






こうしてエピソードを書いていくというのが実は「微視的」だと思う。文章を読むときも常にピントを文面の後方にあわせて「ぼうっと全体が見ささるようにする」。そこで気づくことがある。「なあんだ、個人戦は負けてるんじゃないか」。


このように人生の経験をアレンジして自分なりに考えて使っている。精度はイマイチだが……。

2020年12月18日金曜日

病理の話(486) 英単語からみる症状と病気の歴史

医学用語の一部は、ギリシャ/ローマ時代に端を発する。昔、治療の方法は今とはまるで違ったけれど、少なくとも、「この人に何か異常が起こっている」ということは興味の対象となっていた。


たとえば、人類が「がん」と真っ向勝負できるようになったのは、せいぜいこの30年と言ったところだ。しかし、当たり前のことを言うようだけれど、治療法など一切なかった昔から「がん」はあったわけで、昔の人だってがんにかかった人に何が起こるかはしばしば経験していた。

ただし、胃がんや大腸がん、肝臓がんなどは昔の人にとっては直接手に取って見ようがない、知りようがない病気だった。体の中を覗く方法がないし、手術だってなかったからである。

見られなければ、名付けられない。

だから胃がんや大腸がん、肝臓がんなど、体内のがんを指し示す病名はもともと存在しなかった。

後年になって病理解剖が行われるようになって、ようやく、gastric cancer(胃の+癌)、colon cancer(結腸+癌)、rectal cancer(直腸の+癌)、liver cancer(肝臓+癌)と言ったように、病名がついた。これらはいずれも「○○(の)+癌」という二語構造になっている。いかにも後年になって機械的に名付けられた病気、というかんじだ。


これに対して、食べても吐いてしまうとか、肛門から絶えず血を流しているとか、体が真っ黄色になるなどの症状には古くから名前が付けられている。Vomit(嘔吐), melena(下血), jaundice(黄疸). これらは昔の人も十分に認識することができた病態であり、由来が古い単語だからか、「たった一語」で状態を表すことができる。


必ずしも絶対だとは言わないけれども、「なんだか小難しい一単語で病名が表される場合」、その病気は太古から人々に気づかれていたケースが多いように感じる。


昔も今も、皮膚の病気や病態というのは外から見ることができるので名前が付く。Psoriasis(ソライアシス)というみなれない不思議な単語は「乾癬(かんせん)」という皮膚の病気に付けられた名前だ。Verruca(ヴェルッカ)というのはイボのことである。Callus(カルス)は、タコ(医学用語では胼胝(べんち)という)。


逆に、内臓の病気そのものにはなかなか一語の名前が付かない。しかし全身に影響を及ぼすような病気だと古い名前が付けられている場合もある。Cirrhosis(チローシス)、肝硬変などはいい例かもしれない。


Sarcoma(サルコーマ)という古い単語がある。これは、「肉腫」をあらわすのだが、いわゆる体の表面付近にできる「がん」のことだ。普通、がんというと内臓にできそうだけれども、骨や筋肉、脂肪のなかにがんができることもある。体の外部から認識できるタイプのがんには古くから名前が付けられていたということだ。


Melanoma(メラノーマ)も古い。これは皮膚にでるがんの一種で、広い意味では肉腫、すなわちサルコーマに含まれるのだが、特別扱いされてひとつの英単語が当てられている。なぜならメラノーマはほかのがんと異なり、メラニン色素を含有し「黒い」のだ。事実、日本語では悪性黒色腫という。「見た目」が明らかに違うから、名前も別についている、と考えればいい。


なお、Cancer(キャンサー)という古い言葉は、日本語でいう「癌(漢字で書く)」にあたる。語源は「カニ」だ。カニの足のように周囲にしみ込み、カニの甲羅のように硬く引きつれるからその名がついたと言われている。さきほど、胃がんや大腸がんや肝臓がんは昔の人にとって見ることができなかった、と書いたばかりだが、実際には外から見られるがんもある。それは何かというと「乳がん」だ。


乳がんは発症年齢が比較的若く、昔の短い平均寿命であってもかかる可能性が比較的高かった。というか、昔の人にとっては、「乳がんだけが目に見えるがん」だったと思われる(メラノーマは黒いし、サルコーマはいろいろ理由があって肉々しい印象があったので、昔の人もまさか同じがんの一種とは思わなかったのだろう)。すなわち、Cancerという言葉は、もともとは乳がんが進行したあとの性状から名付けられた。今では乳がん以外の多くの「悪性・上皮性腫瘍」をすべてcancerと呼ぶが、たしかにどんな臓器から出るがんも、どこか「カニの足のようにしみこむ」傾向があるし、「線維化してガチガチに硬くなっていく」ことが多い。



昔の人だからと言ってバカには出来ない、むしろ、人間ができることの無力感に今よりもまともに向き合って、「せめて詳しく記載することでなんとか将来の人類の英知に希望を託した」のかもしれないな、と思う。古い単語の由来を追いかけていると、当時の人間の執念のようなものを感じることがあり、自然と背筋が伸びる。

2020年12月17日木曜日

本当の無言

出張に来ている。移動中は全部無言だし周りのおじさんたちも一言もしゃべらない。飛行機は空調ががんがん効いているし、感染リスクはごく小さいと信じたい。空港からは病院の手配した車に乗る。この間も一言もしゃべらない。

出張先の病院に着く。もちろん一言もしゃべらない。病理検査室に入る。1か月ぶりですよろしくお願いします。あとはもう、一言もしゃべらない。顕微鏡に向かい合い、積まれたマッペ(プレパラート入れ)を端から片づけていく。夕方まで診断をしたらホテルに向かう。途中にあるコンビニで晩飯を買う。パスタを温めてもらった。ビールを買い込む。ホテルまで歩いてチェックインして部屋にこもって、手を洗って、ジャケットもワイシャツもぜんぶ脱いで部屋着に着替えて、ビールを開けてパスタを食う。ずーっとしゃべらない。パスタを食べ終わる。

ああーと声が出た。それっきりまた一言もしゃべらない。

ビールは少々買いすぎたかもしれない。3本目の500ml缶を開けたところで飽きてしまった。PCを付けて音楽をかける。

ああーと声が出た。




いろいろと言いたいことはある。




コンビニでビールを買うとき、500ml缶だけを買うということはない。なぜか昔から、500mlの缶を何本買ったとしても、最後に必ず350ml缶を1本買い足してしまう。実際、500mlの缶を3本も飲むといつもぼくはいったん酒に飽きるのだ。そして飲みかけのビールを置いたまましばらくの間、音楽を聴いたり映像を見たりする。出張先ではどこにも出かけない、それは感染症禍に見舞われる前から変わらない習慣だ。3時間もだらだらと動画を見ながらTwitterやメールを返したりしていると、夜が深まったあたりで、ついさっきまでたどり着く気がなかった場所にたどりつく。

そこでぼくはもう一度だけ、いちからビールを飲みたくなる。ここぞとばかりに500ml缶のぬるいビールを流しに捨てて、冷蔵庫の中にもう1本だけ残った、冷たい350ml缶のプルトップに指をかける。




だいたいそこで本当の無言にたどり着く。


2020年12月16日水曜日

病理の話(485) 5Gにならないと使えない

プレパラート。


顕微鏡で見るガラスのこと。


これを今は、「ホール・スライド・イメージング」(Whole slide imaging; WSI)と言って、すべてスキャナでとりこんで、PC上で見られるようにするというのが流行りだ。

ホールというのはケーキのホールと同じで、「全部」を意味する。スライドというのはプレパラートのこと。全プレパラートを画像にする。そのまんまだ。


顕微鏡いらずでPC上で診断をすることには利点と欠点がある。でもまあ、これからはどんどんそうなっていくだろう。顕微鏡で「しか」診断をできないと言っていた人たちも、感染症禍でZoom会議が当たり前になって、みんなで一緒に顕微鏡を見ることが難しくなり、かわりにZoomの画面上でPCデータを共有するようになったら、結局みんながWSIを使い出した。ほら、使ってみれば簡単なのだ。変化してしまえばそれが当たり前になる。


ところが……いざ、多くの業務をWSIにしてみると、けっこう大変なことが多くて、日常的に病理医が苦労することも増えた。


まずWSIスキャナの値段。だいたい800万とかする。そして大量の取り込みデータを補完するためのハードディスク。ぶち壊れたら大変なことになるので基本的にはクラウド運用するのだが、テラバイトレベルでないと容量が足りない。保守管理費用を含めると、ひとつの施設で年間に1000万くらいのランニングコストがかかる。


となるとうちの病院(市中のいち中核病院)では導入ができません。なのでぼくの手元にはWSIスキャナがありません。すみません。多方面にご迷惑をおかけしております。


こんな高額な機械を入れたところで病院の収益にはあまり寄与しない。なぜならWSIにしたからといって診療報酬(患者と国からもらえる医療費)が増えないからだ。ぼくらがただ便利になるという理由だけで病院が高額な何かを仕入れてくれることはそんなに多くない。ないわけじゃないんだけど今はどこの病院も信じられないくらいの赤字なので(うちなんか関連施設全体の損益を計算すると月に○○億の……いやこれはやめておこう)、収益が増えないような投資は当分の間できないだろう。しょうがないと思う。


というわけで、ぼくがWSIを使いたいときは、連携している大学や知人の施設などに頼んで、「ここぞ!」という症例のプレパラートを郵送し、先方でスキャンしてもらって、デジタルイメージにする。


先日も、とある症例のプレパラートをデジタルデータに変えてもらった。先方は快く引き受けてくれて、データをDropboxに入れてくれた。それをダウンロードすればぼくのPCでも使える。

ところがそのダウンロードが毎回スムーズにいくわけではないので困るのだ。個人情報は消去しているけれども患者由来のデータだから、個人のPCではなく職場の回線を用いて職場のPCにダウンロードしなければいけない。たかだか10数枚のプレパラートにもかかわらず4GBを超える容量があって、途中でダウンロードがうまくいかなかったりする。職場のファイヤウォールがきつめであることも理由のひとつだろう(病院のセキュリティは強い)。そして、なによりべらぼうに時間がかかる。


なぜあんな小さいプレパラートをスキャンするとそんなに大容量データになってしまうのか? それは、プレパラートをスキャンするときには「高倍率で全視野を保存」しなければいけないからである。顕微鏡で600倍に拡大した視野と同じレベルの拡大ですべてを保存しないと、単に遠目にスキャンしただけでは、拡大に堪えない。ぼくらはしばしば、髪の毛の太さ(約80マイクロメートル)の20分の一しかないような好中球の、しかもそれが崩壊したときに現れる核塵、つまりは2マイクロメートルくらいの物質を見極める必要があるわけで、それをプレパラートから読み込もうと思ったら、それはそれは膨大なデータ量になる。おまけに全視野読まないと意味がないからね。


ダウンロードが不便な場合、施設によってはクラウド上にデータを保存していて、ダウンロード抜きでウェブ上でプレパラートのデータが展開できるようにしているのだけれど、そうなると今度は通信速度によって表示に遅延が出る……。


結局、デジタルデータで診断をしようとすると高速回線は必須。ましてiPadでやろうと思ったら5G回線がなければ仕事にならない。プレパラートならちょろっとワレモノ注意のシールを貼ってクロネコヤマトで送ればそれで済んでたのになあ、なんて言いながら、ダウンロード待ちの時間にちまちまツイッターで暇を潰していたりする。




ところで、マンガ「フラジャイル」のタイトルの由来が、本当はなんなのかをぼくは知らないが、海外にプレパラートを送るときに「ワレモノ注意」として貼るシールに「FRAGILE」と書いてあることから、なんとなく、「脆弱なものに人間の命をかけている」、みたいなニュアンスをタイトルに込めたんだろうなあ、みたいなことを考えたことはある。ではフラジャイルなガラスを使わなくてよくなったら病理診断は強固になるかというと、決してデジタルデータのほうが強いなんてことはなくて、究極的なことを言えば、どれだけ強固なモノを使ったところで診断するのはぼくらの弱っちい脳なわけだし、せめて回線速度を高め、脳の演算速度も高め、どうにかこうにかやりくりして、ようやく「弱い命」を強く考えるための手段を得る。なにやらぼくらは昔も今もこの先もそういう風にできている。

2020年12月15日火曜日

つまんない本を完読する

今日のテーマ、「つまんないんなら途中で投げ捨てればいいべや」というツッコミが来て終わりな気もするし、斜め読みでも拾い読みでも読書には違いない、という哲学もあるし、「つまんない本を完読する」というタイトルがどれだけの人に刺さるかというと、たぶん刺さんないと思うんだけど、ちょっと語ってみる。




つまんない本を完読すると達成感がある。


「なんでこんな内容で一冊書こうと思ったのか」の全貌が見えてきたりすることがあって、ゾクゾクする。


最後の最後に著者の本音がダダ漏れてたりする。


ずーーーーっとつまんなかったけど最後からめくって3ページ目くらいのところに急激にエモい話が出てくる、なんてこともあって油断はできない。


ぼくにとってはつまんないんだけど、これが楽しいと思う人は相当いっぱいいるだろう。


この著者の選んだ、鼻につく書き方を、技術として貫くぞと決めた思考回路をトレースするのはおもしろい。


自分とまったく違う視座からたどり着いた他人の結論を見て、ずいぶんと飛躍してるなあ、などと安易につっこむことは危険だ。見る角度を変えれば、ぼくの側から見えていた穴は奥のほうで塞がっているかもしれない。ぼくから見ればマリオの大ジャンプが必要でも、向こうから見たらドラクエ方式のノージャンプウォークで十分回避できるかもしれない。


書籍編集者はこれでよしと思って出版したわけだ。

版元の営業はこれでよしと思って本屋に紹介したわけだ。

書店員はこれがいいと思って並べたわけだ。

その価値観とぼくとが合わないというのはどういう構造なのか?

外れているのはぼくのほうなのではないか?

そうやって探っていくのもまた楽しい。


昔読んだ本と比べてみる。先にこの本に出会っていたらあそこでどう変わっただろうか、みたいなことを考える。摩耗した今だからこそ言葉が入ってこないだけで、鋭敏な感性をもっていた昔ならもっと浸れたかもしれない。中学生の時ならどう思ったろうか。大学院のときならどう受け止めただろうか。


なんでもかんでも最後まで読めと言っているわけではもちろんない。「途中で読むのをやめてしまった読書」にだって価値がある。そこにまとまった量の文章があるのに思わず読み飛ばしてしまうとき、財布を開いて自腹を切って買ったのに途中でシュレッダーゴミと一緒に捨ててしまうとき、自分の脳はどういう選択をしているのだろうかと追いかけていくと、なかなか複雑な感情にぶち当たることもある。


これはあくまでぼくの場合なんだけど、どんなクソみたいな本でも、あるいは逆に最高の辞書を前にしたときとかも、「完読」することでだけつかめるフンイキみたいなものが多少ある。途中ガクンガクンと首を折りながら寝てしまった場合でも、とにかく最後まで自分の指でページをめくり続けた記憶さえ残っていれば、その本が本棚に挿さっているのを見たときに、いつもある種の独特な感情に包まれる。これが完読したときの「ごほうび」なのだ。この本を確かにぼくは最初から最後までめくって文字を追ってみたんだ、つまんなかったけど……。ブツブツ言いながらしまった本が、まれにあとで光り輝くことがある。たとえばゴリゴリのハードSFなんかで経験することだ。純文学、恋愛小説、自己啓発本とかでもあり得る。まあ自己啓発本を読んでよかった試しはないのだけれど、それもあくまで「今のところは」という注釈つきだ。


フーン興味ねぇなーつまんねーと思ってから何年も何年もその小説のことが気になってしょうがない、ということもある。まして、「どこがおもしろいかはわかんないんだけどなぜか最後まで読んでしまった」なんてのは読書の中に厳然と存在するひとつの「萌え」。ペルディード・ストリート・ステーションというSFが完全にそうだった。何がどうおもしろいのか説明できないし、これってぶっちゃけつまんねぇんじゃねぇかなと半信半疑で最後まで読み終えて、ぱたりと本を閉じたときに「あああ読んでよかった気がする……」と深く息をついた、あれはたしか札幌から釧路までJRで4時間10分かけて移動していた車内の、おそらく帯広を超えて白糠あたりに停車したかしないかで、ぼくはこのクソ長いSFを読み終わって大きくため息をついて、そのあと釧路に着くまでの短い時間で何度も何度も表紙を見直してはため息をついたのだ、あらすじなどは全く覚えていない、しかし「ぼくはこれでSFを読んだと言えるんだ」という達成感と、脳の中に尾を引くように残るSF色の残像に身を委ねる不思議な快感とに包まれて、ぼくはディーゼルの走行音の中で幸せに居眠りをし、世界にこんなことを書こうと思った人と、編もうと思った人と、売ろうと思った人と、買ったぼくとがいたのだなあと、なんだか本当に救われたような気持ちになったのだ。




2020年12月14日月曜日

病理の話(484) 細胞の自爆戦術

秋田大学の総合診療・検査診断学講座のホームページがおもしろい。


http://www.med.akita-u.ac.jp/~gimclm/research.html 


人体の中に存在する「はたらく細胞」のひとつである、「好酸球」を相手に、ここまで深く……というか、なにより、ここまでおもしろく科学エッセイを書けることがすごい。仮にも大学の診療部かつ大学院の研究講座のウェブサイトにこれを載っけるには多くの信頼と筆力が必要だ。感動する。


さてここに書かれている内容はどれもいいのでぜひじっくりとご覧いただきたいのだが、今日かんたんに取り上げるのは、好酸球ではなくて「好中球」のほうだ。


講談社から出ているマンガ「はたらく細胞」では、好中球が主人公的ポジションにいる。

好中球は、人体に敵が侵入してきたときの第一歩が早くて、まっすぐターゲットに向かって行って殴りつけ、さらにはその一部をバリバリと食べてほかの炎症細胞たちの到着を待つ。

今のはマンガ内での表現だが、実際に人体の中で起こっていることそのものである。非常によいマンガなのでみんな読んでみてほしい。


しかし、上記の秋田大学のホームページにもあるように、好中球の働き方はどうやらそれだけではない、ということが知られている。まだマンガには反映されていないようだ。以下にその「新たにわかった好中球の働き方」を解説する。


ぼくら病理医が顕微鏡で、好中球がバイキンと戦う様子を眺めていると、「好中球はもろいなあ」という感想が自然と出てくる。「おもろいなあ」ではなく、「脆(もろ)いなあ」だ。

なぜなら、好中球は炎症が起こると大量に登場するが、すぐにバイキンと「心中」してしまうからだ。マンガだと何話にもわたってずっと主人公なのだが本当はすぐ死ぬ。特攻部隊、あるいはカミカゼのイメージなのである。

一節によれば好中球は組織内での寿命が2日しかないとも言われている。だから「急性炎症」のマーカーとして用いられる。


ただ、好中球がすぐ死ぬのは、必ずしも「もろいから」だけではなくて、そこには生体のこまやかな計算と機能があるようだ。

好中球は、自分の中にあるネッバネバの物質を自爆によって放出し、周りにあるものたちをそのトラップで絡めとって動けなくする、という機能を持っている。つまりは弱いから死ぬんじゃなくて戦略的に自爆する。その名も「細胞外トラップ死」という機能。


これが非常に特殊であるということは、顕微鏡を見ているとピンとくる。

ためしに、好中球以外の細胞が死んだ「痕跡」を顕微鏡で見てみよう。そこには「うっすらとした残骸」しか見えない。病理医がしばしば「ゴースト」と呼ぶ、輪郭がぼやけていて細胞核が存在しないモヤモヤモンヤリとした塊ができる。これが一般的な細胞死のひとつ、「ネクローシス」の末路だ。

また、ときに、アポトーシス、あるいはプログラム死と呼ばれる細胞死の場合には、細胞がキューンと縮んで濃縮してその場で消えていく、という痕跡がみられることがある。ネクローシスがゴーストならアポトーシスはブラックホールみたいな消え方をする。この2つは病理医であればしょっちゅう観察している。

ところが、好中球の場合は、ネクローシスともアポトーシスとも少し異なる死に方をしている場合が確かにある。好中球が死んだあとに、うっすらとした残骸ではなく、一点に凝縮したキュン死でもなく、「明らかに元は核だったと思われる色」をした物質が絡み合った毛糸のようにはじけている、「核塵(かくじん)」と呼ばれる像を呈することがある。

ぼくはこのことを今まで特に不思議とも思っていなかったのだが、よく考えると、「なぜ好中球だけは核塵を残すのか」?

「ほかの細胞は薄くなって消えたり一点消失したりするのに、なぜ好中球の場合は漁師町の海岸に放置された古い地引き網みたいな形状で死ぬのか?」


これがつまりは「細胞外トラップ死」を顕微鏡で見ていたということなのだろう。好中球は死ぬときに、核の中に含まれているネバネバ(実はDNAである)を網にして、周りの物質になげつけるという、ウソップも驚くような頭脳戦略をとることがある。そのネバネバで何かを辛み取ったときに見えるのが核塵なのだな。たぶん。



「自爆したら周りの物質がからめとられるから便利だ」みたいなことを好中球が逐一考えているわけではなかろう(そうだったら怖い)。


じゃなくて、「自爆したらたまたま周りの物質を絡めとってしまうタイプの細胞を持っていた生命が、いろんな意味でうまく生き残った」と解釈するのが妥当なんだろう。




なーんてことを考えながら冒頭のホームページを読むとおもしろいです。

好中球の話は注釈として小さい文字でちょっと出てくるだけで、くだんのホームページの主人公は好酸球なんだけど。


http://www.med.akita-u.ac.jp/~gimclm/research.html

2020年12月11日金曜日

冬の駐車場に誰も居ない

勤め先の職員駐車場は値段が高い。

札幌駅から一駅となりという、そこそこいい立地だからだろうか。職員割を効かせているはずなのに月額12000円も取られるのは、札幌という田舎にしては珍しいと思う。

そのためか、職員は医療者や事務員含めて1000人規模のはずなのに、車はせいぜい80台くらいしか停まっていない。公共交通機関を用いる人のほうが多いし、あるいは少し離れたところに、もっと安く借りているのだろう。



今日、早朝に出勤したところ、だだっぴろい駐車スペースに車は3台しかなかった。

通路かどうかに関係なく、仕切りの白線を越えて車を走らせる。がらんどうの駐車場でだけ味わえる、背徳の楽しみ。

うっすらと凍り付いた中、ぼくはハンドルを右に切って自分の駐車スペースへと向かう。

すると後輪がわずかにスリップした。

瞬間的に、「このまま車が左前方にスリップしてどこまでも滑っていくところ」を想像する。



滑っていく先にはいかにも高級そうな車が一台停まっているのだ。

ぼくは慌ててブレーキをかけるが、横方向に滑ったタイヤにABSは無意味である。摩擦係数が限りなくゼロに近くなった、「凍ったばかりの地面」は何物をも受け付けない。

1トン弱の鉄の塊が、慣性だけで高級車の横っ腹に向かって等速運動で滑っていく。

ハンドルを左右に小刻みに回してカウンターを当てる。車体は滑りながらもいやいやと首を振り、1メートル以上滑ったところでわずかに地面とタイヤがグリップするのを感じる。すかさずブレーキではなくアクセルを踏む。すると滑っていく方向とは直角に車がずれる。ここぞとばかりにハンドルを操作して車の操縦性を取り戻す。

あんなに滑っていったのが嘘だったかのように、ぼくの車は再び前方に向かって静かに進んだ。

高級車との間はもう2メートルも空いてなかった。ひやりとする。



いったん車を停めて外に出る。すかさずメガネが曇る。マスクをしていなくても曇る。

ぼくは路面に目をやる。新雪の柔らかさとは大局的な、「新氷」の残酷な反射が朝日をはじき返していた。ここでぼくがハンドルやタイヤと戦ったことを誰もしらない。あの高級車も知らない。これから出勤してくる人々も知らない。患者も知らない。世の中の誰もわからないままにぼくだけが一人汗をかき、カロリーを使い、密かな戦いを終えてその根拠はどこにも残っていないのだ。スリップ痕すらほとんど見えなかった。

戦いは何も生まない、というのはこのことだろうか――――




というようなことを、「後輪がわずかにスリップした」のときにちょっとだけ想像して、でも車はすぐに自分の駐車スペースについてしまったので、静かに車をバックさせて、鞄の中からタイムカード代わりのIDパスを取り出して左手に持ち、出勤した。誰も戦ってなどいなかったけれど、ここは確かに戦場だったのだ。

2020年12月10日木曜日

病理の話(483) 病理医としてやれる病理診断以外のこと

病理医は、

・臨床医が診断・評価して患者の体内からとってきた細胞や臓器を、

・目で見て切って

・臨床検査技師さんにプレパラートにしてもらって

・それを顕微鏡で見て

・診断書のかたちにして臨床医ほか医療者向けに説明する

ことをやっていれば給料が十分にもらえる。これらをまとめて「病理組織診断」という。


しかし、病理医は、実はほかにもやれることがある。


あくまで「やれることがある」であって、「やらなければいけない」ではないが、自分が給料を稼ぐためとか自分が達成感を得るためといった「自分のため」以外にも何かやってみようかな、医療をもうちょっと担ってみようかな、と思った場合は、病理組織診断以外の仕事を同時に行う。ほかならぬぼくも、病理組織診断以外の仕事を勤務中に行っている。


(※医師免許があるからついでに他の仕事もしよう、といった「資格があるからやれちゃうバイト」については今回は割愛する。いわゆる「寝当直」(医者としてある決められた時間に当直室にいるだけでお金が発生する)などは、以下には書かない。ぼくはそういう「医師免許を活用してお金をかせぐこと」は、借金をして大学院に行っていた時代から一切やっていないし今後もやる気がないので、ぶっちゃけ、詳しいことはわからない。また、株取引など医師免許とは関係ない仕事については興味がないので書けない。他人の趣味に口出しをするつもりもない。)



病理診断以外の仕事その1: 細胞診(さいぼうしん)

病理医が行う病理組織診断以外の仕事として最もポピュラーなのは、「細胞診」である。えっ、細胞をみて診断するのはふつうに病理医の仕事でしょ? と思われるかもしれないが、「組織診(そしきしん)」と「細胞診(さいぼうしん)」は微妙に異なる仕事で、今ここでとりあげているのは「細胞診(さいぼうしん)」のほうだ。


細胞診は、臨床検査技師さんが主として行う。ただし、臨床検査技師さんだけでは仕事を完遂できないことになっていて、細胞診の最後には必ず病理医がチェックをする。このとき、ふつうの病理医が持っている「病理専門医」とは違う資格が必要で、「細胞診専門医」という資格を別に持っていなければいけない。病理専門医の資格をとること自体が決して簡単ではないが、細胞診専門医の試験は段違いに難しい。かくいうぼくは、病理専門医の試験は学生時代や大学院時代の勉強と診断補助経験を活かして労せず取得することができたが、細胞診についてはめちゃくちゃ受験勉強をした。英検に例えると準2級と準1級くらいの差があると思う(※ぼくは準1級持っていないので適当に言いました)。

細胞診専門医のほとんどは病理医である。まずは土台としての病理専門医を取った上で、細胞診専門医という「二階」を積み重ねることで、ようやく臨床検査技師さんたちの仕事の手伝いができる

よく病理医は、「技師さんに手伝ってもらって病理診断をする」などと偉そうにいうのだが、細胞診(さいぼうしん)という局面においては逆に技師さんを手伝う側にまわるのだ。持ちつ持たれつの関係によりお互いの仕事が鋭くレベルアップする。細胞診をやっていない病理医は、技師さんにお手伝いしてもらうばかりで、お返しをしていない……とまで言うと言いすぎなのだけれど個人的にはそのように感じている。



病理診断以外の仕事その2: 検査室の管理

病理医のはたらく病理診断科という部門は、病棟をもたず、臨床検査技師さんと一緒に作り上げる場所だ。そしてたいていの場合、「臨床検査室」に附属していることが多い。

検査室を取り仕切るのは基本的に技師さんたちだ。しかし、近年、臨床検査「科」にも医師をおくべきだという意見がある。そして臨床検査専門医という制度も存在する。血液検査や生理検査、一般検査、細菌検査など、画像診断以外のあらゆる検査を統括する医師が必要だろう、という考え方だ。それ自体はいいことだと思う。

ただしこの「臨床検査専門医」という資格は極めてマイナーで取得者が少ない。聞いた話だが、北海道には20人もいないという噂もある(それどころか一ケタだと言う人もいる)。資格をとるには事実上、大学での勤務経験が必要なので、大学で働いていないぼくをはじめ、多くの市中病院の医師たちはそもそも取得できない。

ではほとんどの病院の臨床検査室は医師抜きで回っているということか? まあぶっちゃけそうなんだけど、病理医がいる病院では、病理医が臨床検査科の維持業務の一部を手伝っていることもある。いつも病理診断部門で技師さんと持ちつ持たれつやっているのだから、病理以外の検査技師さんのことも手伝おう、と考えるのは当然のことである。ぼくは臨床検査専門医資格はもっていないのだけれど、「臨床検査管理医」というチョロい資格をいちおうとっていて、まあこんなもの申請して講義を受ければすぐ取れるんだけど、「臨床検査室を管理する手伝いをしますよ!」と宣言している。予算でめんどくさいことがあったとか、技師さんが勉強会を企画する、とか、技師さんが論文を書きたいなどといったときに、事務作業やアイディア出しなどを一緒になって手伝う。



病理診断以外の仕事その3: 臨床・病理対比

病理医は日ごろからおおくの医者を相手にして書類仕事を行う。「医療における総務課ポジ」的なところがある。ただし医療の知識は持っているので、毎日顔をあわせる臨床医たちと、医学的な話について相談をしたり、ときには論文作成を手伝ったり、共同で研究をしたり、臨床医がみた患者の姿を病理の知識を使って解釈し直したりする。「臨床」と「病理」を照らし合わせる。この作業を雑談だとか暇つぶしのように捉えている病理医……なんてものはたぶんもうほとんど存在しない(昔はいた)。最近の病理医はみな、臨床医との関係が良好で、コミュニケーション能力が高く、みんなに一目おかれて病院の中でなかなかいいポジションを勤め上げている印象がある(インターネット上にいる病理医は不満ばかり言っているなどとよく耳打ちされるのだが、ぼくが知る限り、ここ10年の病理医はかなり臨床医に愛されている印象がある)。



病理診断以外の仕事その4: 医学研究

多くの病理医は研究目線をもっている。めちゃくちゃ雑に言えば「医学の発展に寄与する」ことは病理専門医という資格の中に、あるいは病理医の給料の中に含まれているとぼくは考えている。どんな研究をどのようなかたちでやるのかはバリエーションがありすぎるのでひとまずおくが、基本的には論文を書くか、他人の論文を病理の力で良くすることがメインとなると思う。学会・研究会などに出席して発言することも含まれる。



病理診断以外の仕事その5: 教育・啓蒙

多くの臨床医と一緒にはたらき、日常的に文章を作る仕事をしている病理医は、教育現場との相性がいいと思う。病院内の研修医教育に携わり、病院図書室の書籍目録を充実させ、病院の研究費を統合して病院内外に向けた研究会を企画し、臨床・病理検討会(CPC)で活躍する。医療系の大学や専門学校での講義を行い、ときには一般向けの書籍を書いたりもする。




「病理医という特殊な職業人を、病院が医師としての給料を払って雇う」ということをぼくはだいぶ重く考えている。病理診断だけでももちろん給料分のはたらきはできる、それはまちがいない。でも、「あの病理医は雇って正解だったな」とみんなに思ってもらおうと考えるとき、ほかにもこれくらいの仕事があるぞと思っていたほうが健全なのではないか、という気がする。今日は日ごろから自分が何度も考えていた話なので長くなってしまった。

2020年12月9日水曜日

2倍にするととうとうサクサク

WorkFlowyやGoogleカレンダーなどのウェブサービスを活用している。前者は気軽なメモ用紙として。後者はスケジュール管理に。

こまやかに修正できるしアレンジも利く。リマインド機能も便利。

それでも、同時に、紙の手帳を使う。利便性や効率性だけでは語れない部分があるからだ。

ぼくが紙の手帳や紙の付箋といった「手書きのメモ」を未だに使っている理由はなんなんだろう、と、自分の無意識を掘る。するとそこには、


「活字の中に自分の手書き文字が浮き上がるような感触を、大事な記憶を釣り上げるためのフックにしている」


という構図が見えてくる。





スマホのアラームを目覚ましに使っていると、だんだん体がそれに慣れてくる。ときおり寝過ごしそうになることがある。無意識でアラームを止めてしまうようになれば深刻だ。ぼくは日ごろ4時半ころ起きているので、多少寝過ごしてもいわゆる「遅刻」はしないのだが、出張先で寝過ごしてしまうと飛行機に乗り遅れそうで怖い。

ではどうするか?

「出張先では、ホテルの部屋にあるアラームもいっしょにかける」

そうすれば、「いつもと違う感触」に脳がざわめいて、きっちりと目が覚める。


このような対策をとっている人はけっこういるだろう。

ぼくにとって、紙の手帳を使うことも、似たようなところがある。

近頃のぼくは、脳を出入りする文字情報の99%がメイリオやゴシック、明朝でできている。

そこにたまに「手書きの文字」をすべりこませる。すると、手書きの文字はあたかも「旅先のホテルのアラーム」のように、異質な感覚として脳のどこかにひっかかる。

この感触を小出しに用いることが大事だ。なにもかも手書きにしてしまっては本末転倒。「付箋を貼りすぎた本」が広告的・CM的意味合いしか持たないのといっしょである。ここぞというときにピンポイントで「自分の字」を紛れ込ませるからこそ意味がある。



話はちょっとずれるけれど、インタビュー企画などで聞き手の側が、有名人の本に大量に付箋を貼っているのを見る。それを使って引用して記事を書くというのはまだわかるのだが、著者に付箋まみれの本を見せびらかすのはちょっと下品だな、と感じる。恩着せがましい。途中からきっと、読んで考えることではなく、付箋を貼ることが主目的になっているようにも思える。


手帳にもそういうところがある。まっくろになってもうほとんど読めなくなっているような他人の手帳を見るとき、「メモを書き続けたこと」が重要視されていて、手帳の本来の役割はすでに機能しなくなっている。それはなんというか、倒錯しているというか……




いや、いいのか?

倒錯しても、いいのか?




自分の決めたスケジュールに沿って毎日をつつがなく過ごしていくこと「だけ」を目的にするくらいなら、万歩計の数字が増えていくのを見るように、お経を読むたびに数珠を回すように、自分がスケジュールまみれであることを、自分がこれだけ文字を残したということを、わかりやすくアピールすること「自体」が目的になっていても、いいのか?


……いいのかもしれないな。



ぼくは普通に仕事がしたいので、これからも、ウェブのサービスをメインに使って、手帳は「アクセント」としてしか使わないとは思うし、本を読むときも、なるべく付箋は貼らないように、やっていくとは思う。ただし、自分の中にもおそらく、本来の目的がどうでもよくなってしまって、ただ積み重ねてくり返していくことに大きな価値を感じているものが、ある。たぶんある。どこかにはある。たとえばそれはSNSの中に? いや、あれはくり返しというよりも、照り返しなのだけれど。

2020年12月8日火曜日

病理の話(482) 自分の弱みをなんとかする

病理医をやっていると、専門性とかサブスペシャリティとか呼ばれる、「自分の強み」が身についてくる。ただ、今日はむしろ、「弱み」の話をしたい。


ぼくを例にあげて説明する。

ぼくは市中病院に勤めているので、基本的にあらゆる臓器をまんべんなく診断する。胃腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、卵巣、膀胱、尿管、前立腺、リンパ節……。

しかし、このすべてに対してまんべんなく知識を持っているかというと、そういうわけではない。

たとえば、胃腸の病理についてぼくは詳しいが(これは「強み」である)、卵巣のめずらしい腫瘍の病理についてはあまり詳しくない(つまりは「弱み」だ)。自分ひとりでレアな卵巣病変をいちから十まで診断する自信はない。



「自分が専門としていない臓器の診断」



これを責任もってやろうと思ったら、自分でなんとかしようというプライドだけではどうにもならない。

誰かに手伝ってもらう。

そのためのシステムが複数存在する。



まず何よりも大事なのは、「複数の病理医を雇用して、専門性を分担する」こと。

ひとりでカバーしきれないならみんなでやればいい。単純なことだ。

しかし、それにしたって限界がある。10人雇ったってせいぜい専門性は20個までだろう。病理の専門分野というのはもっと多い。おまけに、AさんとBさんの専門性が少しかぶっている、なんていうパターンもある。人を集めればすべて解決するわけではない。

それに、複数の病理医を雇える施設ばかりではない。いわゆる「ひとり病理医」という病院は全国に数多く存在する。

ひとりで病理医として勤務している人にも必ず「強み」と「弱み」は存在する。オールマイティになろうと思って勉強する姿勢はすばらしい。しかし、あらゆる臓器の最新医療の深みに到達するというのは物理的に無理である。


ではどうするか?

「コンサルテーションシステム」というのを使うのだ。


日本病理学会が窓口となって、「難しい症例の診断に答えてくれる人」と、「難しい症例を持っている人」をマッチングするサービスが展開されている。これが無料で行われていることは他科の医師にはあまり知られていないだろう。なんともすごい話だ。

「自分一人で病理診断なんてできるわけない」ということを、日本中(というか世界中)の病理医がよくわかっているから、相互互助の精神で持ちつ持たれつやっている。




では、コンサルテーションシステムさえあれば、経験が少なくても、勉強が足りてなくても、「ひとり病理医」として活躍できるものかというと……。


少なくとも、「コンサルト(相談)できるくらいには、その患者・その臓器のことを語れる能力」が必要なので、手放しでは喜べない。


自分の「弱み」をも具体的に分析しておく必要があるのだ。なぜこの腫瘍が珍しいと思ったのか? なぜ自分だけでは診断しづらいのか? どうして専門家の目を借りようと思ったのか? そういったことが説明できずに、「わからなさそうなので見てください」だけメールで送っても、適切なコンサルテーションは得られない。


「見立て」を人に頼ることもまた専門的な技術が必要なのである。弱みの部分を誰かに助けてもらうにも経験がいる。その意味で、病理診断には豊富な経験が必須なのだ。もっとも、経験を積み上げる土台にある程度の知性は必要な気がするし、経験を積み上げたあとに知性で色を塗るくらいのことはしなければいけないのだけれど……。

2020年12月7日月曜日

まぎらわしの作法

とあるスケジュール調整のメールが届いた。

来年の仕事の予定を問われている。

ほとんどは自分ひとりで都合を付けられた。ただ、年間で2度ほど、別の仕事先(A)との調整をしなければいけない。

そこで(A)に電話をした。



日ごろ、あまり電話でやりとりをすることはない。

ただ、なんとなーくなのだが、(A)はメールをあまり使っていない職場に思えた。

これまでのメールもレスポンスがあまり早くない。

なので珍しく電話にした。先方もそのほうがいいだろうと思った。


相手はワンコールで出た。要件をいうとすぐに了解してくれた。

「のちほど、メールで日程をお送りしますね」

と、すばやいレスポンスをもらえた。






あれから6時間。

メールはこない。






もう一度電話していいのだろうか。迷っている。そろそろ通常の企業であれば定時だ。先方に定時という概念があるのかどうかはわからない。このスケジュール調整はほかにも相手がいることなので、できれば早く決着を付けたかった。だからわざわざ電話したのだ。急いでいます、と一言付け加えればよかったがもう遅い。


連絡というのはむずかしい。自分の脳だけで処理できない案件を抱えるといつも悩む。自分が律速段階になって顔を真っ赤にすることもあるし、相手との意思統一がなかなか図れなくて案件がそもそもスタートしないこともある。「いい人」の顔をしていればいつもうまくいくとは限らない。真剣度が伝わらないと向こうがズボラなときには案件ごと忘れられてしまうこともある。


今回のように、「電話」という乱暴な手段をまず使って、その中で「メールでいいですよね」「いいですね」とお互いに了承し合ったのに、その後の反応がぱたりと途絶えてしまう場合、ここでさらに「電話の追い打ち」をするかどうかは迷うところだ。むこうは1日くらいあとでもいいと思っているのかもしれない。ぼくは今回に関しては20分で結果がほしかった。でもそこをきちんと伝えなかったぼくに非がある。



……なんてことを一日中考えている部分が、脳の中のどこかにある。たぶん頭頂葉くらいにあるんじゃないかな? 今のは適当に言ったけど。なんだかモヤモヤとスケジューリングを考え続けているのは脳の一番上のほうなイメージがある。たぶんそんなところにそういう機能はないのだが、「見立て」でそう考えている。


本質的なことを言うとぼくは心根の根本のところをズボラに保っていたい。数年かけて一冊の本を読むような暮らしにあこがれている。自分の本性はそういう人間だとわかっているからこそ、「人前でそれをやっては迷惑をかけるだろう」と、なかば強迫観念的に、自分の原始的な部分を覆い隠すように大脳新皮質の表面の、ほんとうにうわっつらの部分を強めに加工してテフロンを塗ったのだ。だからぼくは対外的・社会的にはメールのレスポンスもリプライの返答もハイスピードであり続けたいし、そうしないと自分の仕事で誰かが泣くことになるのではないか、という危機感が毎日ぼくの心臓を少し早めに鼓動させている。



メールはこない。「ソロキャンプ 冬 北海道」で検索して気を紛らわせている。これ普通に凍死するな、という結論に到った。

2020年12月4日金曜日

病理の話(481) 採り切れましたか

息を詰めてプレパラートを見る。


15枚。20枚。25枚。30枚……。


途中で呼吸を止めていたことに気づいて、大きく深呼吸をする。


外科医の顔がちらつく。


「採り切れればいいんですが……」





術前カンファで、この患者のことはよく聞いていた。


病変がかなり大きい。


すべて手術で切り取ることができれば、文字通り、「患者の命を延ばす」ことはできるだろう。


しかし、病気というのは、雑草や害虫のごとく、「まさかこんなところにまで」という勢いで、広がってしみ込んでいくことが往々にしてある。


手術の前に丹念にしらべたCT、MRIなどの画像で、病気の広がり具合をどこまで正しく評価できるか? 大きなカタマリの動向はだいたい読める。ミリ単位で病気のしみ込み方を判定することもできる。しかし……


ときに、病気の本質は、「細胞1個」のレベルで解析しないと見誤る。


手術で切り取った臓器のきれはしに、「病気の細胞が1個でも」残っていたら?


それは、おそらく、採り切れていないのだ。


まして、10個、100個、1000個という細胞が、きれはしに存在していたら。


体の中に残っている臓器のかたわれにも、きっと病気の細胞は存在するだろう。


細胞のサイズというのはマイクロメートルオーダーである、ミリ単位の1000分の1だ。


顕微鏡を使わなければまず判定は不可能。





そして外科医は祈るのだ。


「この見立てで採り切れるはずだ……ゲリラ兵みたいに孤独に先進する、病気の細胞がいなければ。」


「これだけ大きく切れば採り切れるはずだ……CT, MRIであれだけ見て確認したんだから。」


「たのむ……病理医が顕微鏡で見て、採り切れているよと言ってくれますように。」






息を詰めてプレパラートを見る。


15枚。20枚。25枚。30枚……。


途中で呼吸を止めていたことに気づいて、大きく深呼吸をする。


外科医の顔がちらつく。


「採り切れればいいんですが……」


すべてのプレパラートを見終わってため息をつく。


一行、記載する。


「断端陰性(4 mm)」





2 cmほどの余力を残して病気をすべて切りとった、と言っていたけれど。


きれはしまではなんと、4 mmしか余力がなかった。危ないところだった。


こういうことが、年に数度、ある。これで外科医は患者に説明するだろう。「無事、採り切れました。さあ、これからのことを一緒に考えましょう。」


よかったね、と思う間もなく、次のプレパラートがぼくらを待っている。

2020年12月3日木曜日

福原選手は敬称を付ける

「卓球の張本選手は、実はひとつスマッシュを決めるたびに悪霊を退治してるんだ。」


「あ? なに?」


「除~霊! ってね」


「あ? なに?」




みたいな会話があったとき。

一度目の「あ? なに?」と、二度目の「あ? なに?」は、たぶん発音の仕方とか、表情の作り方とか、全身の動かし方が違う。


……この「違い」は、日本語が母国語の人であればなんとなくわかってくれるだろう。




会話を文字にするとき、それを読んだ瞬間に頭の中で、「実際に人間がそれをしゃべっているときのイメージ・モデル」が組み上げられる。文字に書いていない情報が、すごい勢いで付け足されていく。

これがコミュニケーションの真髄だと思う。

「文字に書いていない情報」のほうが、なんなら文字そのものよりも情報量は多いなあ、と感じることはとても多い。




プロの俳優さんとか声優さんがセリフを読むとき、素人のそれと何が違うか。

声質とか滑舌とかそういうのももちろんぜんぜん違うんだけど、なにより、「文字の外にある情報を脳に喚起させる力」が段違いだと思う。

ところで、「プロの俳優さんや声優さんがセリフを読みました。」という一文には、「現場が感じたありがたみ」の痕跡があまり見受けられない。文字の外の情報というのは、確実に存在するのだが、文字で人に伝えるのがとても難しい。現場にいれば必ずわかる、「プロのすごみ」を、どう文字にしたらいいか……。


「文字にならない部分を文字にする」ということ。

なんだそれ矛盾じゃねぇか、と、字面通りに受け止めてもらっては、言外の情報がちっとも伝わらない。

身振り手振りが脳内再生されるような文章を書くということ。

それを、お互いに、やるということ。

2020年12月2日水曜日

病理の話(480) 臨床と研究と教育と

大学時代には至る所で耳にした話。


医者の仕事は三つあるのだという。臨床、研究、教育。


臨床というのはあらためて眺めてみると変なことばだが、「ベッドサイド」(患者の寝ている横にいること)の日本語訳である。患者に直接会って話して手をさしのべる一連の医療行為のことをいう。


でも医者の仕事はベッドサイドだけでは終わらない。医学の研究をして、新しい治療法を開発したり、病気の正体を今までよりもっと解像度高く見極めたりするのも、立派に「仕事」だ。


さらには教育。自分一人がフルで働いたら年間に1000人の患者を相手にするとして(それはだいぶ優秀なほうかもしれないが)、その勤務時間を削って、相手にする患者数を500人にまで減らしたとしても、かわりに「年間200人の患者を担当できる後輩を10人育てれば」、より多くの患者を救えるだろう。


「これらをすべてやるのが医者だ」。




……でも実際には、この三本柱の比率は一様ではない。人生の三分の一を臨床、三分の一を研究、三分の一を教育に当てている、というバランスの良すぎる医者を、ぼくは見たことがない。


大学にいる人間たちの多くは研究がメインだ。「いや、自分は大学にいるけれど、臨床がメインだよ」という人を15年も観察すれば、99%は大学以外の場所で働くようになっている。大学というのはそういう場所だ。


逆に、市中病院の多くは、研究をする環境が大学ほど整っていない。そして臨床がメインとなる。研究をしっかりやっている医者もいるのだけれど、よくよく話を聞くと、そういう医者は「市中病院に在籍してはいるけれど、実は大学にも籍を置いている」ことがほとんどである。


教育をメインにすえている医者をあまり見ない。教育を相当熱心にやっているなあ、と感じる医者は多いが、それでも、臨床と教育を半分ずつ、というくらいのバランスであって、教育が臨床を上回るような医者はほとんど存在しない。なぜなら、医者の世界で教育をしようと思うと、生意気な後輩達が、

「おまえ、偉そうに先輩面してるけれど、臨床の経験たいしたことねぇじゃねぇか」

と蔑んでくるからだ。教育をしっかりやろうと思ったら、臨床の経験を磨かないとうまくいかない。




じゃんけんよりもう少し複雑な三角関係がある。臨床・研究・教育をどの配分でこなすかというのは人それぞれ。


で、ぼくはどうなのか、という話。


ぼくの精神力の割り振りは、


臨床:40%

研究:20%

教育:40%


くらいではないかと感じる。昔はもう少し臨床が多かったのだけれど、「病理診断医が臨床診断にかける時間は年次をかさねるごとに短くなる」。勤め続ければ診断の速度は早くなる。おかげで教育の割合が増えてきた。


臨床医の場合はこうはいかない。診断のスピードが速くなったら、その分で患者に向き合う時間を延ばしたり、治療の判断や実施にかける時間を長くしたりすることができる。この場合、診断が早くなっても「臨床」に向き合う時間は短くならない。


しかし病理医は診断しかしない。だから診断が早くなれば、余った時間はまるまる、「研究」と「教育」に振り分けることができる。そしてこのことは、「病理医」という職業を考える上で、実はすごく大切なことなのではないか、と考えている。


いっしょに働く臨床医たちのために、忙しい臨床医たちに変わって、最新のガイドラインを読んで理解してただちに現場に反映させること。


臨床医たちに混じって、症例に病理学的な解釈を加えながら、臨床医の疑問を解消する方向に会を導くこと。


学生や修行中の若い医師への指導。これらの時間をどんどん増やしていくことで、トータルで医療の底力を上げるように立ち居振る舞うこと。


これらを「ドクターズドクター」(医者のための医者)と呼んでいる人があまりに多くて閉口する。ぼくらのやっていることは「ドクターズティーチャー」ではないか。「先生(医者)のための先生(教育者)」であろうとすること。センセイズセンセイ。




ま、人それぞれ、好きに配分すればいいんだけど。

2020年12月1日火曜日

脳だけが旅をする

休日、用もないのに出勤することはないのだが、わずかに用があるだけでうっかり出勤してしまい、そこから長く過ごしてしまうことはままある。


わずかな用を土日にこなす意味がどれだけあるものか? 月曜の朝、始業前にやればいいのだ。でも、なんだか気が急いて、土曜の夕方だとか、日曜の昼に、つい職場に足を向けてしまう。


「待っている患者がいるのだから一日でも早く仕事をするべきだ」というのは詭弁にすぎない。ぼくらの仕事はすべて主治医の口から患者に伝えられる。ぼくが土日に病理診断報告書を書いたところで、それを説明する主治医は出勤してきていないわけだし、患者だって土日に説明される心の準備もないだろう。つまり、ほんとうはぼくは、土日に休んでいいのだ。そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうも、休めない。


元々土日には学会や研究会を詰めこんでいた。病理医は患者を持たないし、病棟の回診をするという作業も存在しないので、土日は医学に明け暮れていい。この仕事のいいところだ。しかし、感染症禍によって土日の学会はすべてオンライン化され、北海道からえっちらおっちら移動しなくてよくなったせいで、移動分の時間がごっそり余ってしまった。


その時間を自分のために使おうと思っても、うまく使えない。





尻に根が生えるほど過ごした職場のデスクは、見るだけで正直うんざりすることもあるのだが、気に入った本をデスクの回りに挿してある上に、20年以上前から集めたCDの一部も置いてあるから、座ってしまえばあとは快適なのである。通信環境だって完璧だ。過ごそうと思えばいつまででもいられる。


よくない傾向だ。


「仕事と休みとはメリハリをつけてきっちり区別したほうがいい」


そんなことはわかっているのだけれど、そうきっちりと分けきれるものでもないということは、これまで多くの日本人が証明してきただろう。





病理解剖の報告書を仕上げるために出勤した。15分程度で、この日やれることはすべて終わってしまった。まだ追加でいくつか染色をしなければいけない。でも、休日は検査技師が出勤していないから、染色のオーダーを出しても意味が無い。結局月曜日まで待たなければいけない。だいいち、15分くらいの仕事であれば、月曜の朝6時に出勤してからちゃちゃっとやってしまえばよかった。

……そんなことは百も承知で、日曜日にこうして職場にいる。ぼく自身、ほかに何をしていいか、どこにいていいか、よくわからなくなっている。



書店や映画館であれば感染のリスクは低いということはわかっている。服を選びに行けばいいし、なんなら紅葉を見に車を飛ばしてもよかった。それでも、マスクをつけてどこかに移動することに心底うんざりしてしまっていて、どうにも出る気がしない。


もし今、ぼくが感染したら、同じ部屋で仕事をしているほかの病理医や技師たちの感染防御がいくら完璧だとはいえ、やはり一部はPCR検査を施行することになるだろう。あるいは、仮に同僚達が検査をしないで済んだとしても、聞き取り調査や体調調査などで半日近くは無駄にすることになる。


かかったときのダメージがでかすぎて、「かかったらかかったときだ」と納得できない。割り切れない。


ぼくが感染するということは、最前線で診療をしているドクターたちが感染するのとはまた違った意味合いがある。


病理診断科は他科との関わりの数がとても多い。消化器内科や外科とだけ付き合っているわけではない、産婦人科も、耳鼻咽喉科も、泌尿器科も、さらには放射線科だって臨床検査科だって幾度となくコミュニケーションをとる。「100人以上の医者相手に仕事をしている医者が1人欠ける」ということを真剣に考えるとめまいがする。ありとあらゆる他部門の人々に、「本当にマスクをして2メートル離れて15分以内で会話を終わらせましたか?」と確認してまわる作業を考えるだけで頭が痛い。主任部長になってからは会議も多く、院内のお偉方と言葉を交わす機会だって増えている。そういう人たちが「万が一にも濃厚接触になっていないかどうか」なんて、ほんとうのところ、自信がない。「絶対に大丈夫」かどうかなんて誰にもわからない。ゼロリスクは存在しない。


だから休日の移動の足はにぶる。

「でかけなければ生きていけない」ということがないからこそ、でかけられない。




誰もいない職場はひっそりとしていて、感染のリスクなど一切感じられない。誰かに休日の過ごし方を詰問されても、「ここで一人デスクワークをしていた」と言えば、変な言い方だけれど「アリバイは完璧」なのだ。今日も出勤して、脳だけを世界に飛ばす。タイムカードを押さずにデスクに突っ伏して、脳だけが旅をする。