休日、用もないのに出勤することはないのだが、わずかに用があるだけでうっかり出勤してしまい、そこから長く過ごしてしまうことはままある。
わずかな用を土日にこなす意味がどれだけあるものか? 月曜の朝、始業前にやればいいのだ。でも、なんだか気が急いて、土曜の夕方だとか、日曜の昼に、つい職場に足を向けてしまう。
「待っている患者がいるのだから一日でも早く仕事をするべきだ」というのは詭弁にすぎない。ぼくらの仕事はすべて主治医の口から患者に伝えられる。ぼくが土日に病理診断報告書を書いたところで、それを説明する主治医は出勤してきていないわけだし、患者だって土日に説明される心の準備もないだろう。つまり、ほんとうはぼくは、土日に休んでいいのだ。そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうも、休めない。
元々土日には学会や研究会を詰めこんでいた。病理医は患者を持たないし、病棟の回診をするという作業も存在しないので、土日は医学に明け暮れていい。この仕事のいいところだ。しかし、感染症禍によって土日の学会はすべてオンライン化され、北海道からえっちらおっちら移動しなくてよくなったせいで、移動分の時間がごっそり余ってしまった。
その時間を自分のために使おうと思っても、うまく使えない。
尻に根が生えるほど過ごした職場のデスクは、見るだけで正直うんざりすることもあるのだが、気に入った本をデスクの回りに挿してある上に、20年以上前から集めたCDの一部も置いてあるから、座ってしまえばあとは快適なのである。通信環境だって完璧だ。過ごそうと思えばいつまででもいられる。
よくない傾向だ。
「仕事と休みとはメリハリをつけてきっちり区別したほうがいい」
そんなことはわかっているのだけれど、そうきっちりと分けきれるものでもないということは、これまで多くの日本人が証明してきただろう。
病理解剖の報告書を仕上げるために出勤した。15分程度で、この日やれることはすべて終わってしまった。まだ追加でいくつか染色をしなければいけない。でも、休日は検査技師が出勤していないから、染色のオーダーを出しても意味が無い。結局月曜日まで待たなければいけない。だいいち、15分くらいの仕事であれば、月曜の朝6時に出勤してからちゃちゃっとやってしまえばよかった。
……そんなことは百も承知で、日曜日にこうして職場にいる。ぼく自身、ほかに何をしていいか、どこにいていいか、よくわからなくなっている。
書店や映画館であれば感染のリスクは低いということはわかっている。服を選びに行けばいいし、なんなら紅葉を見に車を飛ばしてもよかった。それでも、マスクをつけてどこかに移動することに心底うんざりしてしまっていて、どうにも出る気がしない。
もし今、ぼくが感染したら、同じ部屋で仕事をしているほかの病理医や技師たちの感染防御がいくら完璧だとはいえ、やはり一部はPCR検査を施行することになるだろう。あるいは、仮に同僚達が検査をしないで済んだとしても、聞き取り調査や体調調査などで半日近くは無駄にすることになる。
かかったときのダメージがでかすぎて、「かかったらかかったときだ」と納得できない。割り切れない。
ぼくが感染するということは、最前線で診療をしているドクターたちが感染するのとはまた違った意味合いがある。
病理診断科は他科との関わりの数がとても多い。消化器内科や外科とだけ付き合っているわけではない、産婦人科も、耳鼻咽喉科も、泌尿器科も、さらには放射線科だって臨床検査科だって幾度となくコミュニケーションをとる。「100人以上の医者相手に仕事をしている医者が1人欠ける」ということを真剣に考えるとめまいがする。ありとあらゆる他部門の人々に、「本当にマスクをして2メートル離れて15分以内で会話を終わらせましたか?」と確認してまわる作業を考えるだけで頭が痛い。主任部長になってからは会議も多く、院内のお偉方と言葉を交わす機会だって増えている。そういう人たちが「万が一にも濃厚接触になっていないかどうか」なんて、ほんとうのところ、自信がない。「絶対に大丈夫」かどうかなんて誰にもわからない。ゼロリスクは存在しない。
だから休日の移動の足はにぶる。
「でかけなければ生きていけない」ということがないからこそ、でかけられない。
誰もいない職場はひっそりとしていて、感染のリスクなど一切感じられない。誰かに休日の過ごし方を詰問されても、「ここで一人デスクワークをしていた」と言えば、変な言い方だけれど「アリバイは完璧」なのだ。今日も出勤して、脳だけを世界に飛ばす。タイムカードを押さずにデスクに突っ伏して、脳だけが旅をする。