※今日の話はフィクションです。ぼくの思い出話などではない。
胃カメラを飲んだら医者が「ちょっと組織をつまみますね」という。
最近の胃カメラは、患者もモニタを眺めていられるケースが多い。自分の腹のなかに洞窟探検よろしくスコープが入っていくところはなかなか不思議な感じである。
「はぎががぎがぎがが」(何かありましたか)とたずねると、不安を察したのか、看護師さんがすかさず背中をさすってくれる。そういうところの呼吸はすごいなと感心する。
医者も慣れたもので、「ええ、ここちょっと赤くなっているんで……悪いもんじゃなさそうですけれどね、少し引きつれた感じもありますし、細胞をとって検査に出しましょう」と説明した。
モニタの右下からなにやらマジックハンドのようなものが硬い感じでズズズズと出てきて、先っぽがパカと開いて、粘膜に近寄っていって……グニとつまむ。ひっぱる。プチ。
少し血がにじんだようだった。うぐ、と声を出してしまった。医者がすぐに反応する。「あ、この血はすぐ止まるんで心配ないですよ」そうか心配ないのか。
ほかの場所をぐいぐい観察している。ちょっと腹の上の方がひっぱられたり押されたりするような感覚はあるが、特段痛いこともない。そういえば胃粘膜をプチとちぎったときも痛みは感じなかった。内臓の中の神経ってのはにぶいのか。
ぜんぶ終わって身支度を調えてからあらためて医者の話を聞く。
「おつかれさまでした、おおむね問題のない胃ですが、1箇所、組織をとって検査に出すことにしました。2週間後に結果を聞きに来てください。」
に、2週間……?
というわけでその間は患者はわりと不安なままなのだが、別にこの間、医者たちがのんびり時間をつぶしているわけもなく……。
まず胃からとった粘膜はすぐにホルマリンという刺激臭の強い液体が入った小瓶にジャボンと漬けられる。そして病理検査室に運ばれる。開業医の場合、病理検査室は自前では持っていないので、外注をしなければいけない。外注ということは郵送なり宅配なりをしなければならないということだ。ここで少し時間がかかる。
ホルマリン瓶を運んだ先の検査室で、検体を瓶から取り出し、パラフィンとよばれる「溶けたロウ」のような物質の中につけ込んでさらに1日待つ。ロウは細胞の外側だけではなく、細胞の中身にもしみ込んでいき、細胞の中に入っていた様々な物質の代わりに細胞を満たす。
「ロウ漬け」になった組織を採りだし、周りをさらにロウで固める。「ロウの煮こごり」みたいな状態が完成する。これをパラフィンブロックという。
煮こごりのイメージをそのまま持って欲しい。ただしすごく硬いやつだ。硬いから簡単に刃物で断面を作ることができる。生体内からとってきた物質は、そのままだと、硬かったり柔らかかったりして切りにくい。だからロウ漬け、ロウの煮こごりにしておいたほうがよく切れる。
ここで組織を実際に切るのは臨床検査技師だ。言っておくがとてもじゃないけど近代の病理医にはこの「組織を切ってプレパラートにする作業」はできない。専門性が高すぎる。
臨床検査技師はカンナのおばけのようなミクロトームと呼ばれる器械を使って、組織を4マイクロメートルという気の狂ったような薄さのペラッペラに切る。
「煮こごりをかつらむきにする」
「煮こごりを削り節にする」
みたいなイメージだ。わかるだろうか? 煮こごりを削り節ぃ? そんなの無理だよ! というのが普通の人間(+病理医)の感想なのだが、それを臨床検査技師は訓練のすえにできるようになっている。
煮こごり削り節は向こうが透けて見える。ペラッペラだ。
このペラッペラをガラスに貼り付けて、さまざまな染色液の中を通過させる。するといろいろな色に染め上げることができる。
こうしてプレパラートが完成する。ホルマリンに漬け込んで1日(+郵送)、パラフィンに埋め込んで1日、そして技師の作業に数時間がかかる。まあ、プレパラート1枚だけを作るのだったら最後の作業はもう少し早く終わるのだが、実際には1日に200とか500と言った数のプレパラートが作製されるので、ここはどうしても流れ作業になり、時間がかかる。
そしてできあがったプレパラートを軽くかわかして、患者を間違えないようにラベルを貼って、病理医の元に届ける。ここからようやく診断がはじまる。
病理医は顕微鏡を見て、2秒で診断をつける。ほんとうに2秒で診断できることがある。しかし、15秒かかることもあるし、5分かかることもある。
ここでの難しさは単に「絵合わせクイズ」のそれとは異なる。病理医の元には患者の情報がたくさん届けられており、どういう患者のどういう組織をとってきたのか、主治医が何を考えているのかがそこに記載されている。病理医はその患者の情報をきちんと読み込んで、顕微鏡で見えているもの(所見)の意味をきちんと考えなければいけない。
そうでなければ病理医が医師免許を持っている意味がないのだ。「細胞はこの図鑑に載っているこの形と似ているから○○病ですね」で仕事が終わればどんなにかラクだろう?
ただまあ何年も勤めている病理医であれば作業にかかる時間自体は短いことが多い。ここで診断がわかれば、病理診断報告書に記載して、打ち出して、主治医の元へと返送する。
ここまで、最短で2~3日といったところだ。ならば患者は2週間も待つ必要はない……。
いや、「最短で」というのがキモである。実際にはさらに時間がかかることがよくある。
まず、珍しい病気が見つかった場合、主治医は病理医がつけた診断名に対してきちんと勉強をし直し、その患者にどのような対応をするかを考える時間が必要だ。世の中には2万とも3万とも言われる数の病気がある。これらをすべて暗記することはできないし、個々の患者ごとに適切な対応をしようと思ったら、単なる暗記だけでも無理だ。つまりは主治医にも考える時間が必要なのである。
そして、病理医がすぐに診断できるとも限らない。「これは、今見ているこの染色だけでは診断に到らないな」と判断して、「染色をさらに追加する」こともある。たとえば免疫染色と呼ばれる特殊な染色をするときには、病理医から技師にオーダーが飛び、技師はあらためてパラフィンブロックを削るところから工程を再開する。
免疫染色は何百種類もある。病理医がまず細胞をチラ見して、「その細胞から病名を確定するのにどの染色が必要か」と判断し、それから免疫染色を適切にオーダーしなければいけない。「最初からあらゆる免疫染色を染めてしまう」ということは無理なのだ。だからここには時間がかかる。
染色とプレパラートを追加する作業には、1回につき1日~2日の追加時間が必要だと考えて欲しい。そうすると時間はあっという間に過ぎていく。
このようなタイムロスを計算して、主治医はあらかじめ患者に「2週間後であればたいてい結果は出ていますので、2週間後に来てください」という。もちろん、2週間経っても病理診断が終わっていないこともある。急いで間違った診断をくだしてしまっては意味が無い。ここではスピードよりも正確性が求められる。
2週間ハラハラした患者には申し訳ないと思うが、こちらも2週間けっこう必死なのだ。
たとえばぼく(病理医)が診断をくだすのに3日かけたとする。その結果、いそいで患者を病院に呼んだほうがいいと判断すれば、主治医は躊躇なく患者に電話をかける。また、「いそいでも結果に影響しないな」と判断すれば、普通に2週間後の予約を待って、患者に丁寧に検査結果を告げる。そのような判断は毎日のようになされてはいる。
*
2週間が経過した。
「先生、どうでしたか」不安そうな患者が医者にたずねる。
医者は答える。「悪いものはありませんでした。がんの可能性はないそうです。私も、胃カメラで見て同じ事を考えていました。
ただし、病理医が、患者の飲んでいる薬を確認してくれ、と言っています。Aさん、事前におうかがいした限りでは、確か今おくすりは飲まれていないということでしたが、何かお飲みになっているものはありますか?」
患者はびっくりして答える。「えっ、くすり飲んでないっていいましたっけ? ぼく関節の病気があるんで、痛み止めを飲んでいますよ。あ、そうか、胃腸に関係ないから書かなくていいのかな、と思って、書かなかったんだったかな……」
医者はピンとくる。「なるほど、そうでしたか。こちらの聞き方が悪くて失礼致しました。病理医が言うには、痛み止めの薬のせいで胃が荒れているのかもしれない、とのことです。適切な用量を飲んでいて、胃があの程度なのであれば、様子を見てもいいかなと思うのですが、ちょっとおくすりの飲み方については相談しましょうか。」
※くりかえすが今日の話はぼくの脳内で適当に考えたフィクションです。