2020年12月7日月曜日

まぎらわしの作法

とあるスケジュール調整のメールが届いた。

来年の仕事の予定を問われている。

ほとんどは自分ひとりで都合を付けられた。ただ、年間で2度ほど、別の仕事先(A)との調整をしなければいけない。

そこで(A)に電話をした。



日ごろ、あまり電話でやりとりをすることはない。

ただ、なんとなーくなのだが、(A)はメールをあまり使っていない職場に思えた。

これまでのメールもレスポンスがあまり早くない。

なので珍しく電話にした。先方もそのほうがいいだろうと思った。


相手はワンコールで出た。要件をいうとすぐに了解してくれた。

「のちほど、メールで日程をお送りしますね」

と、すばやいレスポンスをもらえた。






あれから6時間。

メールはこない。






もう一度電話していいのだろうか。迷っている。そろそろ通常の企業であれば定時だ。先方に定時という概念があるのかどうかはわからない。このスケジュール調整はほかにも相手がいることなので、できれば早く決着を付けたかった。だからわざわざ電話したのだ。急いでいます、と一言付け加えればよかったがもう遅い。


連絡というのはむずかしい。自分の脳だけで処理できない案件を抱えるといつも悩む。自分が律速段階になって顔を真っ赤にすることもあるし、相手との意思統一がなかなか図れなくて案件がそもそもスタートしないこともある。「いい人」の顔をしていればいつもうまくいくとは限らない。真剣度が伝わらないと向こうがズボラなときには案件ごと忘れられてしまうこともある。


今回のように、「電話」という乱暴な手段をまず使って、その中で「メールでいいですよね」「いいですね」とお互いに了承し合ったのに、その後の反応がぱたりと途絶えてしまう場合、ここでさらに「電話の追い打ち」をするかどうかは迷うところだ。むこうは1日くらいあとでもいいと思っているのかもしれない。ぼくは今回に関しては20分で結果がほしかった。でもそこをきちんと伝えなかったぼくに非がある。



……なんてことを一日中考えている部分が、脳の中のどこかにある。たぶん頭頂葉くらいにあるんじゃないかな? 今のは適当に言ったけど。なんだかモヤモヤとスケジューリングを考え続けているのは脳の一番上のほうなイメージがある。たぶんそんなところにそういう機能はないのだが、「見立て」でそう考えている。


本質的なことを言うとぼくは心根の根本のところをズボラに保っていたい。数年かけて一冊の本を読むような暮らしにあこがれている。自分の本性はそういう人間だとわかっているからこそ、「人前でそれをやっては迷惑をかけるだろう」と、なかば強迫観念的に、自分の原始的な部分を覆い隠すように大脳新皮質の表面の、ほんとうにうわっつらの部分を強めに加工してテフロンを塗ったのだ。だからぼくは対外的・社会的にはメールのレスポンスもリプライの返答もハイスピードであり続けたいし、そうしないと自分の仕事で誰かが泣くことになるのではないか、という危機感が毎日ぼくの心臓を少し早めに鼓動させている。



メールはこない。「ソロキャンプ 冬 北海道」で検索して気を紛らわせている。これ普通に凍死するな、という結論に到った。