2020年12月9日水曜日

2倍にするととうとうサクサク

WorkFlowyやGoogleカレンダーなどのウェブサービスを活用している。前者は気軽なメモ用紙として。後者はスケジュール管理に。

こまやかに修正できるしアレンジも利く。リマインド機能も便利。

それでも、同時に、紙の手帳を使う。利便性や効率性だけでは語れない部分があるからだ。

ぼくが紙の手帳や紙の付箋といった「手書きのメモ」を未だに使っている理由はなんなんだろう、と、自分の無意識を掘る。するとそこには、


「活字の中に自分の手書き文字が浮き上がるような感触を、大事な記憶を釣り上げるためのフックにしている」


という構図が見えてくる。





スマホのアラームを目覚ましに使っていると、だんだん体がそれに慣れてくる。ときおり寝過ごしそうになることがある。無意識でアラームを止めてしまうようになれば深刻だ。ぼくは日ごろ4時半ころ起きているので、多少寝過ごしてもいわゆる「遅刻」はしないのだが、出張先で寝過ごしてしまうと飛行機に乗り遅れそうで怖い。

ではどうするか?

「出張先では、ホテルの部屋にあるアラームもいっしょにかける」

そうすれば、「いつもと違う感触」に脳がざわめいて、きっちりと目が覚める。


このような対策をとっている人はけっこういるだろう。

ぼくにとって、紙の手帳を使うことも、似たようなところがある。

近頃のぼくは、脳を出入りする文字情報の99%がメイリオやゴシック、明朝でできている。

そこにたまに「手書きの文字」をすべりこませる。すると、手書きの文字はあたかも「旅先のホテルのアラーム」のように、異質な感覚として脳のどこかにひっかかる。

この感触を小出しに用いることが大事だ。なにもかも手書きにしてしまっては本末転倒。「付箋を貼りすぎた本」が広告的・CM的意味合いしか持たないのといっしょである。ここぞというときにピンポイントで「自分の字」を紛れ込ませるからこそ意味がある。



話はちょっとずれるけれど、インタビュー企画などで聞き手の側が、有名人の本に大量に付箋を貼っているのを見る。それを使って引用して記事を書くというのはまだわかるのだが、著者に付箋まみれの本を見せびらかすのはちょっと下品だな、と感じる。恩着せがましい。途中からきっと、読んで考えることではなく、付箋を貼ることが主目的になっているようにも思える。


手帳にもそういうところがある。まっくろになってもうほとんど読めなくなっているような他人の手帳を見るとき、「メモを書き続けたこと」が重要視されていて、手帳の本来の役割はすでに機能しなくなっている。それはなんというか、倒錯しているというか……




いや、いいのか?

倒錯しても、いいのか?




自分の決めたスケジュールに沿って毎日をつつがなく過ごしていくこと「だけ」を目的にするくらいなら、万歩計の数字が増えていくのを見るように、お経を読むたびに数珠を回すように、自分がスケジュールまみれであることを、自分がこれだけ文字を残したということを、わかりやすくアピールすること「自体」が目的になっていても、いいのか?


……いいのかもしれないな。



ぼくは普通に仕事がしたいので、これからも、ウェブのサービスをメインに使って、手帳は「アクセント」としてしか使わないとは思うし、本を読むときも、なるべく付箋は貼らないように、やっていくとは思う。ただし、自分の中にもおそらく、本来の目的がどうでもよくなってしまって、ただ積み重ねてくり返していくことに大きな価値を感じているものが、ある。たぶんある。どこかにはある。たとえばそれはSNSの中に? いや、あれはくり返しというよりも、照り返しなのだけれど。