2023年7月31日月曜日

積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて

いわゆる「積ん読」するタイプではない。やむなく積んでも、なるべく早く読み終えたいと考えるほうであり、3か月以上本を読まずに積んでおくことはまずない。

一方で、「買うまでが読書」という言葉は大変よく理解できる。具体的にページをめくるかどうかなんてどうでもよくてまず買え! そして積め! 先に著者に金を送れ! という理屈はわりと好きである。しかし自分ではやらない。やらないというか積んだら読んでしまわないと気持ちが落ち着かない。自分のデスクに何かが未解決で置かれていることに居心地の悪さを感じる。

読まずに積んでおき、ちらちら表紙や背表紙を見て、いつか読む日に備えるというムーブは、ぼくからすると「書店でいつまでも買わずに眺めている本」と近い。あえて自分の部屋においておかなくとも書店においておけばいいだろう、という気持ちになってしまう。

こういう話をすると、本屋には「返本」の仕組みがあるので、自分でいつか読みたいと思ったらその時点で買って積んでおくべきだ、いつの間にか手に入らなくなるぞ、などと反論を受ける。でも積ん読している人だって結局、どこに積んだかわからなくなって読むのを忘れてゆくんだからいっしょだ。積みたいか積みたくないかという感覚が先にあって、理屈なんて誰もがあとづけで適当に用意しているんだから、積ん読する人とぼくとは根本のところでわかりあうことはないし、積ん読している人もぼくもどちらも万人がわかる理屈なんてもたずに性格の部分で好きなようにしているだけである。


ところがそんなぼくが、ちかごろは積ん読気味になっている。理由は明らかでゼルダの伝説のせいだ。いつもなら空き時間すべてで本を読んでいたけれど今は空き時間の半分くらいしか本を読めない。「積みゼルダ」も許せないのでしかたがない。単純にゲームの分だけキャパシティを越えた。そんなわけで読まずに積んである一連のシリーズがある。それは日本看護協会出版会から出されているNursing Todayブックレットだ。


https://jnapcdc.com/sp/ntb/


このシリーズ、たしか#10とか#11くらいまでは読んでいる。いいシリーズだ。しかし今ぼくのデスクの横には、#12「看護管理塾第7章/サルの罠」、#13「認知症と梗塞 尊厳回復に挑むナースたち」、#14「整理の貧困 #peroodpoverty」、#15「認知症高齢者とセクハラ」、#16「戦争のある場所には看護師がいる」、#17「コロナがもたらした倫理的ジレンマ」、#18「災害と性暴力」、#19「孤独と孤立」、#20「妊娠を知られたくない女性たち」が一気に積んである。抱えすぎである。一冊ごとはすごく薄くて読みやすいのに、いっぺんに手に入れたせいでかえって読み進められず、もう数ヶ月くらい積んだままだ。これが本当にストレスだ。

そしてこれらは献本なのである。いっぺんに手に入ったせいでいっぺんに積んで、手が出せないのである。

ぼくはもう何年も、Twitterなどで「献本はお断り 事前連絡なしに送ってもらった本はすべて送り返します」と言って、実際に知らない編集者などから送られた本を元払いですべて返品し続けている。送料だけでこれまでに20000円以上は自腹を切っているはずだ。その多くには手書きの手紙でおわびを一筆添えている。「事前のご連絡なしにいただいたご献本はすべてご返送申し上げておりますのでどうぞご理解ください」みたいなやつだ。一度この手紙を送れば次からその編集者は本を送ってこなくなるし、医療系の版元はほとんどこれを理解してくださっており、新刊が出てぼくに読ませたいときはメールで「出ました」とだけ送ってくれるようになる。こちらのほうがありがたい。自分で買って自分で読むほうが絶対に自分の中にスッと入ってくる、それは自分のタイミングで読めるからだ。

こうしてかたくなに献本おことわりムーブを貫いているのだが、じつは2019年に、日本看護協会出版会のNursing Todayブックレットシリーズの1冊目を、うっかり受け取ってしまった。送ってくださった方にSNS医療のカタチの選書企画かなにかでお世話になった直後で、いきなり返本はさすがにちょっと申し訳ないと思ってしまった。かつ、実際に読んでみたらすごくおもしろかったので、今でも送ってくださったことに感謝をしている。けれども、こういう例外をもうけるとろくなことにならない。

最初に受け取ってしまった名残から、日本看護協会出版会のシリーズだけは献本を受け続けている。どのシリーズもはずれがない(特に #5 「看護学概論」がすごかった)のだが、毎回自分の読みたいタイミングではないときに送られてくるので、読むのに非常にエネルギーがいる。申し訳ないがここからは感謝ではなく愚痴の話になる。

今回まだ読んでいない #12 以降のシリーズはある日まとめて送られてきた。はっきり言ってぼくの性格からするとトータルで感謝よりも迷惑のほうが大きいのである。かつ読んだらおもしろいに決まっているので結局読むのだが、ゼルダの時間を削らないととうてい無理なのだ。それが悲しく、つらく、本当にストレスで発狂しそうなのである。ぼくのリンクは今、とある空島でゴーレムを殴っている真っ最中にセーブして停止している。それがもう2週間くらい続いている。リンクもそろそろ手足がしびれてきているだろう。ふびんでならない。

献本という文化は悪だ。異論はぼくのいないところで勝手にやっていてほしい。どうせ後付けの理屈を振り回すのだろう。だからぼくも自分にしか通用しない理屈を存分にふるわせてもらう。

積ん読するタイプではないぼくが、自分のペースで買えなかった、あるいは買わなかった本を受け取り続けることで抱えるストレスは、積ん読できるタイプの人には理解ができないだろうからこうまでして丁寧に語っているのだ。「読み切れない本を抱えるストレス」を解消する方法はふたつしかない。「自分のタイミング以外で本を増やさない」+「とにかく好きなものを好きなようにできるだけ読む」。献本はその両者に抵触するから悪なのだ。倫理にもとっている。

日本看護協会出版会の方は何も悪くないですし、いつもいい本をほんとうにありがとうございます。でも次からは本が出たという情報だけメールしてください。たとえば医学書院のメガネのイケメンなどは、自分が気になった本があると文字通り前略形式で「こういう本が出ました」と書名だけを送ってきて(アマゾンのリンクすら貼らない)、あとは涼しい顔をしています。そういうのが一番いいです。もうかんべんしてください。しかしこのシリーズおもしろいんだよ。それがまた輪を掛けて腹が立つのだ。

2023年7月28日金曜日

病理の話(800) 八百万の知恵のひとかけら

医療というのは心と都合と理論と確率がせめぎ合う場である。「この薬を飲んだらいいことがこれだけあって悪いことがこれだけ起こりますよ」と、データを前に理路整然と説得されたところで、患者の心になんらかのひっかかりがあったら、その医療はトータルではうまくいかない。データで心を動かすのは無理だ。心は心で向き合わないといけない。

ワクチンを打たないという選択をした人が感染症にかかってしまったらしく、多くの自称医療者からボコスカに「ほれみたことか」「ほれみたことか」と叩かれているさまを見た。それが医療者のやることかとがっくりしてしまった。データが正しければ患者の心を蹴ってもいいのか。理解の範囲を超えている、なぜそこまでして人を叩けるのか。何か理由があるのだろうか。ちょっと調べてみると、どうやらそのワクチンを打たなかった人は、自分だけではなく周りにもワクチンを打つなと言って回っていたらしく、さらにはワクチンを進める医師やジャーナリストたちをことあるごとに罵倒していたからその報いを受けていたのだという。なるほど、「自称医療者たちがここぞとばかりに叩きたくなる理由」は理解できた。しかしまったく共感はできなかった。データの使い方が間違っている。データで心を殴るな。勝手に報いるな。

しかしデータを無視するのもそれはそれでどうかしている。医療は心や都合だけで運用されるものではない。それは先人達の苦難の歴史から背を向ける子供じみた反抗に過ぎない。微調整の過程で得られた無数の知見を、常に最先端の未来に生きている我々が活用しないのはもったいない。心でデータを踏みにじるのだって同じくらいおかしい。理論だって必要なのだ。確率という暴風雨に耐えるだけのしなやかさを手に入れなければいけないのだ。

つまりは両方が必要である。そしてすべての因子はひとりの人の身に降りかかってくるものであり、統合されてはじめてひとつの人生を浮き上がらせるものである。誰かは心だけを、誰かはデータだけを扱えばいいというものではない。みんながみんな、それぞれに得意・不得意があるのは承知した上で、それでもすべてに向き合うことが望ましい。

望ましい。

そう簡単ではない。

だからそれぞれにサポートセンターがある。心をサポートしてくれる人がいる。都合をサポートしてくれる人がいる。理論を、確率を、専門家がきちんとサポートしてはじめて全人的な医療がなんとか形になる。

「病理の話」とはデータをサポートするための知恵のひとかけらだ。それだけのことでしかない。それだけのことを800回書いている。一万分の一も書けていない。

2023年7月27日木曜日

利己的な因子で

あたりさわりないことを言ったりやったりしているとだんだん埋没していく。緩やかに人生の坂を下る。


それが気にくわない人をたまに見かける。彼らは、「法律」や「空気」によって発露を禁止されている暴力衝動を、言葉という賛否両論ある伝達道具を用いて、Twitterのような悪意拡散ツールにかけあわせ、実際には殴っていないぞといいながら実際に殴っている。そうやって自らが埋まり混んだ泥の中から顔と拳ひとつだけ突き出してみせ、ほら、ほら、まだ目立てる、みたいなことをやる。


そういうやり方は下品だと思う。だから距離を置き、なおいっそう、あたりさわりのない方向に向かってゆるゆると下る。そういう感じの毎日を過ごしている。




今年の春に日本医学会総会の仕事がひとつ終わった。この頃のぼくはほかにも日本病理学会や日本超音波医学会など、いくつかの仕事を抱えていたのだが、特に日本医学会総会の仕事の負担が大きかった。個人で具体的にやらなければいけないことはさほど多くなかったのだけれど、毎日考えることがいっぱいあって、そういうのが半年くらい続いていた。なので、多くの仕事を、「できれば日本医学会総会の仕事が終わるまで待ってください」と言って先延ばしにしてもらった。


そのはねかえりが今になって来ている……と書こうと思った。でも冷静に考えると、今はそこまで仕事の量が莫大には増えていない。たしかに告知が必要な仕事の成果などがぽろぽろ出てきており、対外的な仕事はコロナ前と同じかそれより少し増えたかなと思うが、にしても、思っていたほどではない。自分の仕事のスピードが速くなっている分、むしろ帰宅が早くなっている日もあるくらいだ。あれ、こんなものだっけ、もっと猛然と忙しくなると思っていたなあと思って、あらためて医学会総会開催直前のメールを振り返って見ると、「時間をおいてあらためてオファーさせていただきます」と言ってきた人の半分くらいがそれっきり仕事をぼくに振ってきていないということに気づいた。

ああ、これはつまりタイミングを逃したということなのだろう。せっかくできかけた縁をつぶしてしまった、と、悪く考えることもできるが、そこまででもなく、一瞬交わるはずだった二つの矢印が微妙にずれて「ねじれの位置」になってそのまま互いに違う方向へ飛び去っていった、くらいの感覚である。さらに強い縁があればまたお目にかかることもあるだろう。ただ、ぼくはなんとなく、「一度声をかけてくれた人はなんとなくまた声をかけてくれるんだろうな」と思っていたらしくて、肌の奥にあるその気分が今、肩すかし感となって表面ににじみ出てきているのだろう。


それでもオファーをいただくときはいただくが、講演にしても、解説にしても、自分でやったほうが早い仕事を若い人たちにそのままパスする機会が増えてきた。この「仕事振り」によって、2年後くらいにぼくはポカンとヒマになるのではないかという予感もある。臨床画像・病理対比の仕事、病理AIの仕事、学会広報の仕事。自分でどこまでやれるかとずんずん潜り込んで、対比について言えば15年くらいを費やしたが、そろそろ総決算というか、「このテンションでこれくらい取り組めばこれくらいいいものができる」という感覚が身についてしまって、ここから先の成長は難しいかもしれないな、という気持ちが出てきた。ぼくはやれるところまでやれたのだろう。これ以上は次のチャレンジャー達にチャンスを渡すほうがいいのだと思う。AIにも飽きた。学会広報は……もうちょっと泥をかぶったほうがいいかもしれない。大事な仕事だがキャリアの得にならないので若い人もやりたがらないだろう。そういうのは自分でやり続けたほうがいいかもな。


ところで、SNS医療のカタチのメンバーを増やしたり更新したりしてはどうかというアイディアについて、メンバー4名といろいろ考えたことがあった。結局、「この取り組みはぼくらができなくなったら解散でいいんじゃないの、若い人たちは若い人たちで新たにもっといいものを作るだろう」と誰かが言ったときに、まあそんなもんだよな、とみんなが薄く納得して手打ちになった。つまり「若い人に渡す」だけではなく、「ぼくのところで引き取って引き上げる」という方向のまとめ方である。


飛行機は着陸のときが一番難しい、みたいなことを言う人もいるが、本当に難しいのは離着陸や水平飛行をトラブル込みでぜんぶ責任もって運用できるパイロットを育てることだ。優秀なパイロットさえいれば、「一番難しいこと」もなんだかんだでやってくれるわけで、目標はいつだって、難問に立ち向かっていく勇士の数を増やすことにある。教育をしよう。教育しかできない。まだ野心があったとしても、まだ欲望があったとしても、自分の成長に費やしてきた利己的なエネルギーをそのまま、利己的な香りをまんま残したまま、あくまで自分のために教育に注ぎ込むのだ。

2023年7月26日水曜日

病理の話(799) 体温のふしぎ

人間、身長も体重も表情も人それぞれで、見た目が全く同じ人というのはまずいない。双子であっても育っていくうちに少しずつずれていくものだ。

それなのに、「体温」については大半の人が36度前後で、ほとんど差がない。これはよく考えるとふしぎだなと思う。

こういう話をすると、「いや! わたしは平熱が34度5分です!」みたいな人も必ず出てくるのだが、じつはそういう人も深部体温(腸の中などで測る)は36度くらいになっていることが普通である。

それに、そもそも身長なら(極端な人は除いたとしても)上は180センチくらい、下は150センチくらいまで、つまり20~30%くらいの誤差はあるのに、体温だとせいぜい1,2度の差しかない。体温というのは極めてよくコントロールされているんだなあという印象である。


なぜ体温が狭い範囲にコントロールされなければいけないのか? この疑問に対して、おそらくたくさんの理由がある。その全部は完全に証明されているわけではなく仮説にとどまるが、以下、このブログではまとめて「そういう感じです。」というふわっとした結論でおさめる。

まず、生命の中で活動する「酵素」が一番元気になる温度が37度付近だ。化学反応には至適温度というのがあり、これをずれると活動がにぶり、効率が悪くなり、平衡が崩れる。

また、液状のものにタンパク質などをたくさん溶かして体中に配置している都合上、あまりに温度が上がり下がりしてしまうと、析出や過剰融解などの危険が生じる。これは……チョコを溶かしてお菓子を作ったことがある人だとわかりやすいかもしれない、テンパリングのあれだ。微妙な温度差で、チョコの粒子がとけたり出てきたりするやつである。


ほかにも「体温を狭い範囲でコントロールすべき理由」はいっぱいあるし、その一部は、「むしろ体温を狭い範囲で固定することを前提に、体内のあちこちに化学反応の種を仕込んである」という、因果が逆転した話にもなっていくのだけれど、この話をしていくとあるところでふと「あれ?」と別の疑問に気づく。


「たとえば昆虫とか魚とか、触っても冷たいよね? あれも生命なのに体温はだいぶ低いけど、なんで? カエルとかめっちゃ冷たいけど? 哺乳類が体温をわざわざ高めにしているのはなんで?」


体温を狭い範囲に定めるだけでなく、そもそも(深部で)37度付近という自然界よりもやや高めの温度(最近の関東東海あたりはこれくらいの気温になってしまうが……)に設定している理由はなんなんだろうか?


これについては確たる答えはまだ出ていない気がする。ひとまず、「体温が高いほうが雑菌の繁殖が抑えやすい論」というのがある。体温を上げたら上げただけ、感染の原因となる菌やウイルスが住みづらくなるというのだ。

しかしこれはちょっと雑な話で、細菌なんてものはどんな温度でも適応するやつがそれなりにいる。そう簡単な話でもないのでは……と思うけれど、あらゆる温度の中で36.5度前後が総合的に菌やウイルスの防御に向いていた可能性はたしかにある。

しかし体温を高く保とうと思ったらそれだけエネルギー消費が必要なので、生命が無駄にエネルギーを使っているとも思えないからなんらかの理屈はあるのだろう。むしろ、敵となる菌やウイルスを抑え込むというよりも、「味方になってほしい菌」にとって一番有利な温度を選んだ、という可能性はないだろうか。

大腸菌などは37度くらいが一番元気に育つ。こいつらが腸の中で為している仕事は人間たちにとって非常に大きく、粘膜の防御にも、栄養の吸収にも、免疫機能などにもバリバリ関与しているので、大腸菌にとって一番住みよい温度を維持することがヒトにとっても都合がよかったのかもしれない。

大家であるヒトは住人(大腸菌)にとって暮らしやすい環境を整備し、そこにいわゆる「善玉」の菌がすみつくことで、界隈のふんいきが特段によくなる、みたいな感じか。大家さんだって相当投資しないといけないんだよ。

2023年7月25日火曜日

前方にどんどん加速する未来

全エクソーム解析のデータダウンロードが終わらない。3つのファイルはそれぞれ数十GB程度だが、職場の有線LANは5Gではないので遅々たるスピードである。いや、ま、十分早いのかもしれないけれど、2時間の映画を2秒でダウンロードできるという噂の5Gを、スマホより先にPC回線に実装してほしい。時代の恩恵、結局だれが享受しているのだろうか。


胸回りに脂肪がついたためだろう、これまでちょうどよかったはずのワイシャツの、肩の辺りが少しだけきつくなったけれどそれはまだ許せる。しかし問題はむしろ腕丈のほうだ。肩からうしろに布がひっぱられているようで、丈が少しだけ短くなってしまった。ぜんぶ同じサイズで買いそろえているのでどのワイシャツも一様に短い。スーツの袖口からワイシャツが、あまり長く出てくるのも興ざめだが、短すぎるのもどうかと思う。いや、正確には、「短すぎるというほどではないのだがちょっとだけ短い」みたいな感じだ。買い換えるかどうするか、ちょっと微妙なラインではある。

昔イオンに入っていて、今はもっぱらネットで注文しているワイシャツの店があって、さほど高くない上に洗濯に強くてバリエーションも豊富なので便利に使っているのだが、「ちょっと太ったボタン」みたいなものは見当たらなかった。ぼくは胸回りが少しだけきつくなって袖丈が2 cmくらい短くなったわけだが、ではどのサイズを選べばいいのかと、いろいろ見て調べてググってようやくほどよいサイズを見つけた。以前に設定していたマイサイズのひとつ上だった。こういうのが一瞬でスッとわかるのがAI時代なんじゃないのか。時代の恩恵が末端まで届いていないことを実感する。



ロサンゼルスオリンピックの開会式で飛んだという「ロケットベルト」、ぼくは生では見ていないのだが、きっとあれをリアルタイムで目撃していたら、すげー、これいつかぼくも使えるようになんのかな! と未来にすごく期待したと思う。しかしもちろんあんな危ない装置が一般に普及することはなく、中学校一年生のときにスーパーファミコンの「パイロットウイングス」でロケットベルトの操作がめちゃくちゃうまくなった以外には人生のなかであのような装置と携わることはなかった。あの技術は今何に応用されたのだろう。ぼくの知らないところで世界が進歩して、ぼくは今日もまた一つの技術に置いていかれてさみしい思いをする。バーチャルスライドスキャナっていつ当院に入るの? 自動運転の車っていつごろ乗れるようになるの?

2023年7月24日月曜日

病理の話(798) さじ加減をくどくど説明する

「医者のさじ加減」という言葉は、語義をまっすぐ受け取るならば、「粉薬の配合の比率」ということだろう。生薬を乾燥させて粉にして、まぜあわせて調合することで、患者にあわせた薬が作られていた時代がある。今の世に残っている漢方薬の多くもまた、「このブレンドだと効きがよい、キレ味がよいと歴史に選ばれた配合」でできている。


葛根湯は葛根、大棗、麻黄、甘草、桂皮、芍薬、生姜のブレンド。比較的体力がある人の風邪のひき始めに使い、発熱、悪寒、頭痛、関節痛、首や肩のこわばりなどがあり、汗をかいていないときに用いるとよい。

一方、麻黄湯は杏仁、麻黄、桂皮、甘草。こちらは、葛根湯と使いたいシーンが似ているものの、項背部のこわばりよりも関節痛、筋肉痛、腰痛などが強い場合によりよいとされる。

葛根湯と麻黄湯、どちらも似たような生薬が含まれていて、ほとんどいっしょじゃん! と思いたくなるのだが、このような微妙な差があって、漢方医は「証」などを見ながらうまく使い分けていく。これぞ、まさに、さじ加減である。


(参考:『絵でわかる漢方処方』/南山堂)←コンパクトで医療者にお勧め 非医療者はもう少しわかりやすい本のほうがいいです



西洋医学ではそういうお薬のブレンドとかはしないんじゃないの? と思われるかもしれないが、さじ加減は別に配合比率だけのことを指すわけではない。

あらゆる薬は、体内で効くときのことだけでなく、効き終わったあとに分解して排出されるときのことを考えて使う。薬効成分は、腎臓で尿にまぜられて捨てられたり、肝臓でアルコールを分解するかのように分解されて捨てられたりする。薬によって、どこでどう壊されるか(代謝されるか)は異なる。

壊されすぎて効き目が弱くなっては困るし、壊され足りなくていつまでもダラダラ効いているのも(副作用のデメリットが大きくなるので)困る。

したがって、薬を出す際には、患者の腎臓の強さとか、肝臓がどれだけ余裕な表情をしているかといった情報をめんみつに考えて、患者にあわせて出す薬の種類や量、投与のスピードなどを変える。現代のさじ加減だ。

ちなみに処方のうちわけは、医師の主観的な感覚だけでどうこうするものではなく、多くの研究者たちがさまざまな形で検証をしたデータを用いる。患者の状態にあわせてこのように調節したらよいという目安はけっこう存在する。

それでも、最後の最後の微妙な部分は「ひとさじを加えたりすくいとったり」くらいの感覚で医師に委ねられている。

ガイドラインが整備され、名医とヤブ医者との差は生まれにくい世の中だ。しかし、「超絶名医」と「普通の名医」くらいの差はおそらく存在して、たぶん、さじ加減くらいの微妙なバランスでその細かな評価が分けられている。


内科医の処方だけではない。手術だってそうだ。臓器をどこまで取ったら病変を切り取れるのか、残った臓器できちんと人体を保つことができるのかというバランスには一種の「さじ加減」が生じる。

放射線治療などもそうである。患部にどれだけ当てるか。たくさんの研究を元に「その時点での最適解」は示されているけれど、患者には無限のバリエーションがあるから、一期一会の患者にベストな放射線の当て方というのはその都度細かく調整される。


で、まさかと思われるかもしれないが、なんと「診断」においてもさじ加減は存在する。


もっとも、「がんか、がんじゃないか」のような治療の分水嶺となる部分でそういう曖昧さは許されない。そうではなく、もっと細かくてマニアックな部分、たとえば「がんの中でも、低異型度か、高異型度か」みたいな細部の詰めのところだ。

結局どちらも「がん」なので、その後の診療方針にはあまり影響しないにせよ、将来どれくらいの確率で再発するかとか、ほうっておくとどれくらいのスピードで大きくなりそうかといった、「がんごとの個性」をより細かく見抜こうとするとき、そこには診断者の主観がどうしても入る。

それを「よし」とは思わない。できるだけ主観をなくしたいといつも考えている。


したがって病理医は、「みずからのさじ加減」を言語化する機会が多い。「私はこれをこのように解釈したから、この細胞は高異型度だと思うのです」というように説明する。

自分の説明で多くの人が納得すれば、それは「さじの加減を理論化できた」ということになる。


○○という論文に書いてあった基準を参照しました。

数値で計測すると△△なので。

Aという所見とBという所見とCという所見がすべて揃っていますから。


「さじ加減」という言葉には、なんとなくだけど、最後はその医者がエイヤッと決めるというニュアンスが含まれている気がする。でも、「エイヤッ、俺がこう言うんだからこうなんだ! でもその理由はね……」と、くどくど説明していく部分こそが、ぼくは病理医っぽいなあと思う。

2023年7月21日金曜日

そうは言ってもたまには見直しなさいよ

ぼくはよく、ひとつの文章の中にたくさんの枝葉をまぜた書き方をする。これはぼくの作文スタイルが「音声ベース」だから起こることだろうと自分なりに予想している。


「あるひどく暑い夏の日、いつものデスクで仕事をしていたぼくはエアコンの真下にいたにも関わらずだくだくと汗をかいていた。仕事用PCの横にある窓から輻射熱がじわりじわりと、ワイシャツを腕まくりした肘元に伝わってきて、そこから肩のほうに熱が上がってきて、耳もきっと(直接見えはしないが)真っ赤にゆであがっている。そういえば足の静脈も拡張しているようで足の裏はパンとむくんだ感じがする。自前のラジエーターシステムは限界なのだ。しかしぼくはそれでもとにかくこの文章だけは晩飯の前に書き終えてしまいたかったのだ。」


てきとうに今起こっていたことを書いた文章である。ぼくの頭の中でぼくがしゃべった声をそのまま書いた。伝えるべき内容はそんなにない、夏の夕方に暑くて汗が出たというだけの話だ。しかしまあ見事に、たいていの品詞に一つか二つの修飾語がついている。よりみちが多くてなかなか結論までたどり着かない。これがぼくの本来の「書き癖」なのであろう。そしてこの書き癖とはそのまま、「語り癖」である。


何度か自分のしゃべりことばを文字おこししたことがある。ある症例について複数の専門家たちと語り合う「座談会」を書籍化した。このとき、ぼくのしゃべる内容がまさに、さっきの文章と同じような感じなのであった。


「胆嚢にも層構造があるわけです。胆嚢に限らず消化管というものは、内腔にあるやわらかい粘膜、その少し外側の粘膜下層、そのさらに外にある固有筋層、それをとりまく漿膜下層もしくは漿膜下組織といったように、同心円状、あるいはこの場合は同心筒状と言った方がいいかもしれませんが、バームクーヘンのようになってうねうねぜん動しつつ『内部にある外』、『トポロジー的な体外』を流れる物質との相互作用を目的として機能しているからなのですね。」


こんなことを平気で言っている。文章にすると何を言っているのかいまいちわからない、というかくどい。座談会のときには周りの人はうんうんとうなずいており、きちんと理解もしてくださっていたので、なにか、言葉とか音声とかではこれでも通じるニュアンスがあるのだろうが、文章だとどうにも読みづらい。そこで次のように整理をする。


「胆嚢には、層構造があります。内腔から順番に、粘膜、粘膜下層、固有筋層、漿膜下層と、バームクーヘンのように層が重なっています。粘膜によってつつまれた内腔部分は、トポロジー的には『体外』にあたり、胆嚢の内腔には胆汁がため込まれています。」


省略どころか単語や文章を足したりしていて、まるで違う文章なのだけれど、読むならこっちのほうが伝わるし、ほかの人が座談会で話した前後の内容ともこっちのほうがきちんとつながる。

ぼくの脳内で鳴り響いている「しゃべり声」は常に過剰だ。そしてリズムに乗っている。聞く人に「結局なに言ってたかはよく覚えてないけどなんかすごかったな」みたいなことを感じさせる。

その過剰さをそぎ落としてようやく人が読める文書になる。できれば語り言葉でもそぎ落としたほうが丁寧だよな、と思って、講演をするときなどはなるべく意図して、一文を短く、よけいな修飾語を用いず、ストーリーに一直線に進んでいくようなしゃべり方を選ぶ。



しかし最近よく考える。ぼくの本体は「過剰さ」そのものなのだと。中に何か、本質的な芯があるのではなくて、中には誰でも言えるようなどうでもいい芯を申し訳程度に一本通して置いてあとは周りをゴテゴテキラキラ、デコレーションしていく姿こそがぼくのアイデンティティを一番反映しているのだと。クリスマスツリーは飾りが大事なのだと。それがなければ単なる針葉樹なのだと。


まわりが困惑するのは、ぼくがわかりにくいしゃべり方をするからではなく、ぼくが本質的に困惑されるべき人間だからだ。うまくしゃべれば困惑されない、のではなく、自分らしさを抑え込めば困惑されない。逆に言えば、人びとを困惑させているときのぼくにこそ、他でもないぼくがここで何かをしている意義というか交換不可能性がある。


いつからかBlogger(このブログ)の文章をあまり推敲しなくなった。ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。たとえば今の一文、「ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。」は、たった1回見直せばすぐに。「誤字をフォロワーに指摘されることもある。」で十分だとわかる。しかしぼくはそれをやらない。なぜなら、ぼくの脳内に響いたぼくの声は、「ときに誤字もあるので、たまにフォロワーに指摘される。」としゃべっているからだ。それを画面にそのまま表示して、そこから何が自分に跳ね返ってくるのかと、じっと鏡をみるように、自分の声を読むためにこのブログはある。自分の痕跡を消すような推敲はほどほどにしたほうがいい。読者のためならまだしも、自分のために書いているのなら。

2023年7月20日木曜日

病理の話(797) 潤滑液をどう流すか

人体は精密な機構であり、たくさんの部品が文字通り有機的に連携して、同時に複数のことを成し遂げていて、しかもそれらがいちいち互いに関与しているのだからおそれいる。


一方で人間がつくりだした機械のほうにはいろいろとメンテナンスが必要で、それはたとえば歯車の軸というかシャシー的な部分にグリスを塗るとか、パイプの内側を防さび加工するといったふうに、物理刺激や化学刺激に対して「長持ちするような工夫」をいろいろやっていく。


人体においてこれらのメンテナンスが一切やられていないのかというとそんなことはもちろんなく、人体は自律的にグリスを塗ったり防さび加工したり、抗菌加工したりタイル張り替えをしたりしている。


これらの多くは「分泌(ぶんぴつ)」によって行われる。一部は常在菌の手をかなり借りることになるが、基本的には人間が、みずからの栄養を用いてさまざまな分泌物を特殊な細胞の中で生産して、自分でぶしゅぶしゅ吹き出してぬりつけているのである。人体はえらい。本人の得意なことはどんどんほめてあげましょう。


たとえば汗だが、人体の表面はもともと「水も漏らさぬ扁平上皮(へんぺいじょうひ)」によってきっちり覆われているので、外からの水分を中にしみこませない大変すばらしいシステムではあるけれど、逆に言うと中で作った汗のような分泌物を外に出すことも本来ならばできないのだ。ドアのカギも窓も閉めたら買い物に出られないのだ。で、こういうとこ本当に人体ってすごいなと思うのだが、水も漏らさぬ扁平上皮の中に定期的に小さな小さな穴をあけて、そこの下に「汗をつくる細胞」を配置して、噴水のように汗をぽたぽた外に出しているのである。うまくできている。


で、こういうイメージをするとただちに思い付いて欲しいことがあるのだが、公園や大通(※札幌)の噴水というのは、あれ、市の職員がちゃんと管理していないと、落ち葉や子どものウンコなどによってすぐに詰まってしまう。定期的に清掃が必要だ。では人体においては「吹き出し口の清掃」をどのように行っているのか? そこには驚きのシステムが! CMのあと!


(CM)


では人体においては「吹き出し口の清掃」をどのように行っているのか? そこには驚きのシステムが! まだまだ続きます!


(CM)


では人体においては「吹き出し口の清掃」をどのように行っているのか? 正解はなんと、「毛」なのである。汗が噴き出る場所に、ほかにも人体が必要としている毛根を配置して、そこからうぶ毛を生やす。毛は時間とともに伸びていくのだが、このとき、皮脂などといっしょに汗の穴の汚れをベルトコンベアのように外にかきだしていくのである。


この仕組みは非常にうまくいっていて、汗の穴の多くでは基本的につまりのトラブルがおこらない。たまにトラブルがおこるとそれは「ニキビ」とよばれる。毛穴が詰まってターンオーバーができなくなって中に雑菌が増えて、それを倒しにくる白血球の死骸による膿がたまるのである。


ぼくは個人的にこの「穴をひとつ空けたらその穴を使っていくつもの機能を同時に行ってしまう」という人体の省エネシステムがめちゃくちゃ好きだ。


十二指腸のファーター乳頭という穴からは膵臓(すいぞう)由来の膵液(すいえき)だけでなく、肝臓由来の胆汁(たんじゅう)も同時に出す。


胃の壁の中にたくさん埋まっている試験管型の「陰窩」(いんか)では、胃酸のもととなるプロトン(酸)だけでなく、消化酵素のペプシン、さらには胃粘膜保護のための粘液も同時に分泌する。


全身あらゆるところで用いる潤滑用の粘液は基本的に「MUC6」という粘液コアタンパク(意味はわからなくていいのでただ「かっこいい」と思って読んでください)を持っているが、このMUC6が全身で用いられることを利用して、MUC6を持つ細胞はその後いろいろ再利用できるように仕掛けられている(予想)。


人間の作る機械の場合、潤滑液が必要なら潤滑液を射すし、表面のコーティングが必要ならコーティングだけを購入して業者に塗ってもらうだろう。しかし人体の場合は、どれかがどれかだけの役に立つような「単純な」使い方はほぼ行われていない。いい意味でいえば「超効率的、副業大応援」だし、悪くいうと「立っている者は親でも使う」みたいなところがある。

2023年7月19日水曜日

ギャル宇宙

『空に参る』がアニメ化されるなら主題歌は宇宙コンビニにしてほしい。鵯ソラの声優も宇宙コンビニのボーカルの人がやったら一番いいと思う。あのマンガは宙二郎だけプロの声優がやればいいのではないか。いや、マダンもプロがいいかな。


みたいなことを考えながら出勤をした。地下鉄を降りたら外の雨は上がっていたので傘を買わずに済んだ。『宙に参る』と宇宙コンビニの接点はなんなんだろうと少しだけ考えて、そんなのストレートに宇宙じゃん、と思い付くまでたぶん10秒くらいかかった。ストレートに宇宙。


ストレートに宇宙の話。ストレートに恐竜の話。ストレートに死の話。こすられすぎて、かえって真っ正面から語りづらくなってしまった話、言及しようと思ったら「今日はシンプルに宇宙の話です。」とか、「今さらですが恐竜についてお話しさせてください。」とか、「今、あえてじっくり死について語りませんか。」みたいな序詞が必要になる話。


話題によって、やりとりをスタートするのにかなりのエクスキューズが要る状態だと、対話の機会を減らしてしまう。我々は、まっすぐ語るのに恥ずかしさを伴うような内容を互いに触って確認するために、日頃からくだらない話で瞬間的に表層をなであうような関係を作っておくと便利だ。「何を話してもいいけどとりあえず集まっていることが多い場」が必要なのだ。


そしてそんな場を持っている人はめったにいない。これは社会のバグである。


たとえばかつてのギャルはそんな場をきちんと作っていた。見た目と行動をあらかじめ狭く絞り、その場に誰が来ても「前提」が一緒だから対話する資格は十分と見なして、あとは自分の数%にも満たない話題を表層的に交流させて緩い紐帯を保ち続けていく。


もしくは井戸端会議というのもそうだったのかもしれない。フネさんとおカルさんが低い垣根の左右にやってきて立ち話をするのも話題はなんでもよかったのだ。ただ場があるということ。


まあよくケアの文脈で言われていることだ。しかし、冷静に考えると、井戸端会議の中で宇宙の話を出そうと思ったらやっぱり「突然だけど宇宙がさ」のように、ある程度構えて話し始めなければいけない気はする。ストレートで、熱量が高くて、ちょっと重い話題というものは、場があれば語れるというものでもないのかもしれない。でも、場がなければ可能性をはかることすらできないのである。

2023年7月18日火曜日

病理の話(796) しゃっくりは横隔膜のけいれんである

病理学がわりと苦手なジャンルの話である。


我々病理医は、「ダイナミックに臓器が動くようす」を仕事で観察する機会が少ない。心臓が動いているさまを見ないし、肺がふくらんだりしぼんだりするところを見ないし、腸がウネウネぜん動しているところを見ない。

なぜなら、我々が仕事の対象としているものは、体から取り出してきた臓器・細胞だからだ。体から取り出した時点でたいていの動きは止まってしまう。まして、ホルマリン固定して、染色をして、とやっているうちに完全に止まる。

だからたとえば「心臓の先端部の動きがちょっと悪くなる病気」みたいなものを病理医がドンズバで診断するにはかなりの工夫が必要である。

「うまくエンジンがかからなくなった車を工場に持っていって原因を調べる」のにちょっと似ているかもしれない。ボンネットを開けて部品ひとつひとつを見ている間、エンジンをかけてはいけない(※あぶないです)。実際にエンジンがかかっている様子を見ずに、どの部品がどうおかしいから車の挙動がおかしくなったのかを、知識と経験と形態学的な変化を見極める目とでなんとか明らかにする。

でも車の場合は、おかしな場所を修理したらまたエンジンをかけてみるだろう。「あっ、直った直った。」みたいな感じで。人体の場合はなかなかそうもいかない。肺を取り出してホルマリンで固定して、いろいろ調べて、「なるほどこの血管に異常があったのか。」みたいなことを解き明かして、「じゃあ体の中に戻してもう一度動かしてみよう」とはならない。

もちろん車でもそういう「取ってしまったらおわり」な場面はあるとは思うが、人体における検査の場合は、「取って調べるからにはそれなりの覚悟が必要」なケースがかなり多いのである。


運動をしたあとに脇腹が痛くなるのは、体が筋肉などに血液をいっぱい送るコントロールをした結果、脾臓や大腸へ流れ込む血液の量が相対的に落ちるために臓器が悲鳴をあげるからだ、と言われている。

しゃっくりは横隔膜がときどきブルンとけいれんした結果、肺がけいれんした横隔膜に押されて意図せずに息を吐いてしまうから起きる。

こういった「ダイナミズムがもたらす人体のふしぎ」については顕微鏡で細胞を見たところで得られる情報は少ない。

しかし、病理医はどこかのアホによって「Doctor's doctor」などと呼ばれて持ち上げられているので、臨床医が「わからない」と思ったらいろいろ質問を受ける立場である。

そこで、そういう期待に応えるべく(?)、ダイナミズムについてもわりと勉強をすることになる。心臓弁膜症なんて病理ほとんど関係ないけど勉強しておかないといざというときに困るんだよ。

2023年7月14日金曜日

インコの飛び去ったあと

本を読むスピードが遅くなった。一冊に二時間向き合うことが難しくなり、30分くらいずつ細切れに読むから数日かかる。雑に書くと「気が散る」ということなのだが、ほかのものに興味が目移りするというよりも、本当に字面どおりに「気が散逸する」かんじだ。

エヴァンゲリオンだったかガンダムだったか忘れたけれど、モニタの中にコサインカーブみたいなやつが複数表示されて、それぞれの波が左右に動いてマージしたりしなかったりする映像があるだろう。オタクの大好きなやつだ。ぼくの精神もああいう感じで、ぴたりとピントがあったりずれたりをくり返しているような感覚である。

じつを言えばこういうブログを書いているときもそうだ。だいたい段落2,3個を書くたびにほかのことをするようになった。メールを見たりパワポをちょっといじったりしてまたブログに戻ってくる。その間、頭の中ではずっとひとつながりの音声というか音楽が鳴っていて、その音楽に合うような文章を書きパワポを作りメールに返事をする。

ある1時間でこなした仕事が3つあるとすると、あとで見返したときにその3つの仕事はだいたい同じ文体、同じテンション、同じルール、同じ人格で書かれている。そりゃそうだろ、と思われるかもしれないが一人の人の中には複数の文体や人格が混じり合っているものだとぼくは考えていて、それは経時的に変化するので、ある人格が主として存在する時間に片付けておきたい仕事が複数あるときには、どうしても、何かひとつに集中するということが難しくなる。


このような動き、流れについてはぼくが今さらダラダラと説明する必要もなくて、日本語にはそのものずばりの単語がある。

「気分」

である。気持ちは分かれておりその都度違うかたちで発動するのだ。「今は仕事をしたい気分」「今は休みたい気分」などと言うだろう。気持ちは分かたれているのだ。

そしてブログを書く気分のときにパワポをつくるとなんかいい感じになる。昔のぼくはそういう塩梅がわかっていなかったから、ブログを書くなら書くだけの時間にできたけれど、今のぼくは前よりも少しだけ物を知り経験を積んだために、ちょっとだけ打算的になってしまって、ブログを書く気分のとき、ほかにもこういうことをやっておくとあとで便利だぞ、みたいなことを考えてしまう。

そしてやっかいなことに、「本を読む気分」というのは、往々にして、気持ちがふわふわと置き所ない感じになっていて、油断すると散逸してしまいそうなニュアンスがあるのだ。「何かにぐっと集中できる気分」のときに本を読んでも逆に頭に入ってこない。温泉旅館に泊まった翌朝、チェックアウトまでの時間をつぶすのに宿の周りを所在なくぶらぶらするときの気分と似ている。「1時間20分あったから足湯に1時間10分いたんだよ」みたいなことをぼくはできない。あれもこれもと気持ちをばらばらにしておきたい。多くの気持ちが四方八方に飛び去ったあと、真ん中に残っているインコの止まる木の棒のような細い芯の部分に何が止まるかを考える、そういう時間によく本を読んでいる。

2023年7月13日木曜日

病理の話(795) 病理の歩き方2023-2024

ぼくが病理診断の勉強をはじめたのは22歳くらいだ。大学4年生の春である。大学の病理学講座の教室をうろうろして、プレパラートを見せてもらって、診断……はもちろんさせてもらえなかったが(※医師免許がないのだから当たり前である)、自分で顕微鏡を見て診断の文章をまねっこして書き、それを病理医に直してもらって、遅々たる速度で勉強をすすめた。

当時、「胃生検」と呼ばれるものをよく見せてもらった。あちこちの病院から集まってきた生検の検体は、さまざまな理由で患者から採取されていて、大きさは小指の爪の切りカスより小さいのだが顕微鏡でみるととてもバリエーションが多い。

最初は、教科書に書いてあるような所見がどこに出ているのかよくわからず、ガラスプレパラートをみるたびに違う像が目に飛び込んできて、いったいいつになったら「あっ、これはあれだな。」とズバリ診断できるようになるのかと途方もない気持ちがした。好中球はどこだ。リンパ球とはどれだ。好酸球というのもあるのか。形質細胞はリンパ球とどれくらい違うのか。腸上皮化生とはどれを言うのか。びらんとはなんなのだ。

あるとき、外部から来ているベテラン病理医に、「プレパラートをひとつ見て、1種類の病態を覚えるやり方でもいいんだけど、ある領域をまとめて勉強しておくのも手ではないか」という話をされた。ニュアンスとしては、「公文式で数字だけを入れ替えた二次方程式をひたすら解きまくるのもいいけど、一度は参考書で二次方程式の概念を『通しで』勉強したらいいんじゃないか」みたいな話だった。そうか、なるほどな、と思って、ぼくは幾人かの先生から、「胃炎とは」のような話を習った。

それがてきめんによかった。ピロリ菌という菌が胃に棲み着くことによって、胃には段階的な変化が起こる。段階ごとにプレパラート上の像はどんどん変化していくのだけれど、プロセスの全貌をなんとなくわかっていると、多彩な顕微鏡所見も「この胃炎の段階は、富士山の登山でいうとだいたい6合目くらい、ってかんじだな」みたいに頭に入ってくる。

こうして、ぼくは大学を出るころには「胃炎」の診断になんとなく自信がついた。胃炎だったらだいたいどの段階であっても診断を書ける、と思ったのだ。

しかしそれは早とちりであった。ぼくが学んだのは「ピロリ菌によって引き起こされる胃炎」だけだったのだが、病理診断を続けていくと、ピロリ菌以外にも胃炎の原因があるということを知った。それはある種の薬剤による副作用であったり、あるいは「自己免疫性胃炎(いわゆるA型胃炎)」と呼ばれる別の病態であったりした。

ぼくはそういう「珍しいタイプの胃炎」に出会うようになった。そこでまたもや公文式方式で、出てくる検体にそのつど対応して勉強をしていくのだが、かつて学んだ「胃炎とは」の概念にはおさまらない特殊な胃炎は、手強かった。

今、だいたい自分が富士山の何合目にいるかはだいたいわかるつもりだった。でも、毎回自分が富士山を登るとは限らない。ここは白根山かもしれないし槍ヶ岳かもしれない。山ごとに道を覚えなければいけない。

さらに言えば、いくら山ごとの登山道を覚えても、けっこうな頻度で、「そもそもこれはどこの山なのだろう?」と悩むような症例に出会った。ときには、これは登山の例えではうまく伝えられないのだけれど、「富士山と槍ヶ岳を同時に登っているような」風景を目にすることもあった。

さらに、病理診断というのは、胃だけを見ていれば終わるわけではない。大腸を見なければいけない。乳腺を見ることもある。膀胱を見たり、胆嚢を見たり、筋肉を見たりもする。これはつまり、山だけではない、ということだ。航海もするし、ジャングル探検もするし、宇宙にも飛び出していかなければいけない。

歩いたり、泳いだり。俯瞰したり、接写したり。少しずつ、少しずつ、わかる風景を増やしていく。

そして今は……もうおじさんだからさすがにわかってきた……と言いたいが、そうは問屋が卸してくれない。なんと、「富士山の形が変わる」なんてことも起こる。つまりは覚え直さなければいけないのだ。

たとえば社会におけるピロリ菌の感染率が減少したことで、「ピロリ菌による胃炎」というプロセス自体が少なくなり、胃の診断の全体マップが描き直しになった。海でもジャングルでも宇宙でも似たようなことが起こっている。

少しずつ、少しずつ、俯瞰と接写をくり返して、「病理の歩き方」を更新し続ける。地球の歩き方といっしょだ。毎年新しい本が出るのだ。いつまでも歩き続けなければいけないのだ。

2023年7月12日水曜日

ありがとうTwitter

そういえばと気づいたのだがマスクを長時間しても耳が痛くなくなっていた。3年間で耳の裏の皮膚が強くなったのだろう。あっ、今さらに気づいたのだけれど、ぼくは20年くらい前には「皮フ」と入力していたはずだ。すっかり「皮膚」派になってしまった。そしておだやかに気づいたこととして、「気づいたのだが」→「気づいたのだけれど」→「気づいたこととして」のように、語尾がかぶらないように無意識に言い回しを変えるようになった。そういう年の取り方をしている。


文字数こそ多いが、以上の文章は、完全に「Twitter文体」だなあと思った。なにが、と言われてもうまく説明できないのだが、テクスチャがツイのそれ。


このブログが公開されるころにはTwitterは元に戻っているのだろうか。とりあえずこの記事を書いているころのぼくは、APIが制限されてタイムラインを気楽にチラ見できない環境になり、課金しないとTweetDeckも使えなくなると聞いて、いつのまにかソーシャルネットワークと強固に癒着していた自分の暮らしを毎日のように見直して、とてもさみしい気持ちになっている。

「これ」は間違いなく依存だったと思う。

「そこ」から無理矢理はがされてこんなに切ない気持ちになるとも思っていなかった。ちょっと意外だった。こんなにかあ、と。

実際Twitterが使いづらくなったからといって、不便にはなっていないし、不健康にもなっていない、しかし、ただ、切なくてさみしくてやりきれない思いが日々ふくらんでいる。泣きそうにはならない。ただ肩を落としている。いったいなぜこんなにセンチメンタルな感情に襲われまくっているのか、正直理解しがたい。お気に入りの喫茶店が閉店したときもここまで締め付けられるような悲しみは感じなかった。諸行無常の本来の代謝速度を上回る急激な別れに精神がついていけてない、といったところか。


ぼくは本当に病理医「ヤンデル」だったのかもしれないと最近思う。「ええ~、ヤンデルってそれは病んでいるってことなんですかあ?」と40代、50代の人たちにニヤニヤ突っ込まれていたころは、「(いえ、病理の病です)バカじゃないの? んなわけねぇだろ」とタテマエとホンネを間違えながら毅然として対応していたものだけれど、今はぼんやりと思う。たしかにぼくはTwitterと接合して癒合して、それは本当に「病み」の一種だったのかもしれないと。つまり今の切なさは病気が癒えたために訪れた? うーん、それはそれで変か? でも、うん、なんとなくなのだけれど、人はある程度病んでいてこそ精神の平穏が保たれるということも、なくはないのかな、ということもちょっとだけ思う。筋肉痛を愛でる気持ちというか。二日酔いに苦笑する気持ちというか。

アカウント名を決めたとき、まあこれはいくつか考えた名前の中から投票で選んだものだったのだけれど、「病んでいる」ことをアイデンティティにする人たちを軽くひっくり返したいという気持ちがぼくの中にはあった。「ヤンデル」という名称にそれまでと違う何かを感じる人がひとりでも増えたらおもしろいなあくらいの矜持はあったのだ。しかし、Twitterにおけるエントロピーが爆増してカオスに突入していく、そのエッジに立ってよろよろと、瀑布の水しぶきを見下ろしながら体を傾けていくかのような体感の真っ最中に、ああ、ぼくはもしかすると、ここでちょっとだけでもいいから病みたかったのかもしれないな、というくらいの振り返りをしてしまう。健康に生きろという圧が社会からやってくる。ぼくはそろそろ、いよいよ、軽い闇を抜けて光の責任の中で胸を張る側に回らないといけないかもしれないのだ。

2023年7月11日火曜日

病理の話(796) アーキテクチャとテクスチャとラパルフェについてのこと

書いたことある内容なんですけど、書いたことない切り口と出会ったので、あらためて書きます。


先日、バラエティ番組「水曜どうでしょう」のディレクターがやってる会員ページを見ていたら、お笑いコンビ「ラパルフェ」が出てきた。ラパルフェを知らない人でも、「阿部寛とかトイ・ストーリーのウッディとか森泉のモノマネをしているアレ」と言われれば心当たりのある人はたくさんいるだろう。あの人はじつは大泉洋のモノマネもうまい。言われてみれば、これらの人はみな目がぎょろっとしていて……というかこれらの人(CG含む)がみな形態学的に激似というわけではない気もするのだけれど、なんというか、「ああ、同じ人がモノマネしていてもおかしくはないわなあ」という納得はある。


https://www.youtube.com/watch?v=lezJjD0sOL0

(↑ダイジェスト版は無料でみられます)


で、この大泉洋のモノマネをしている人はさすがにめちゃくちゃうまいのだけれども、というかもちろん会場にいる人の多くは(元々は)この人がやる大泉洋のモノマネを見に来ているはずなのだけれども、おそらく会場の人もぼくも共通して思ったことがあって、それは、

「大泉洋をモノマネしている人の横にいる『相方』のモノマネが激烈にうますぎる」

ということなのである。いわゆる「じゃない方芸人」が、すごい。

「じゃない方」がモノマネしている対象は、「ミスター」こと鈴井貴之だ。北海道FM AIR-Gのパーソナリティであり、大泉洋などの所属する事務所の元社長。タレントではあるし、水曜どうでしょうのメイン出演者の一人でもあるが、全国的な知名度は大泉洋にはるかに及ばない。

鈴井貴之のモノマネというのはぼくはこれまで見たことがない。でも、そういう珍しさゆえの驚きではない。

このモノマネは、似すぎている。

とんでもないレベルだ。

ぼくは昨日、久々にジムに行って走りながらこのフル動画を見ていたのだが、周りに人がいるのに一瞬声を出して笑ってしまって、むせて咳をしたモノマネをしてその場をやり過ごさざるを得なかったがあれは絶対にバレていた。社会的な地位を失う可能性がある場所での笑いを我慢できないくらいに似ている。異常である。

「大泉洋のモノマネをしている人(都留拓也)」のほうは、すでに各メディアでウッディや阿部寛のモノマネがうますぎることで知名度抜群であった。しかし、相方(尾身智志)までモノマネをやるなんて想像もしていなかった。どうせ、片方がやっているからもう片方もいちおう数合わせでやっているんだろう、くらいの気持ちで動画を見始めた。とんでもなかった。仮にこちらが先にモノマネをはじめたと言われても違和感がない。あまりの芸の精度に「尾身先生」とお呼びするレベルである。まさか世の中に「尾身先生」と呼ぶべき人がふたりもいるとは……。


以下は、決して彼らのすばらしい芸をくさしたいわけではなく、本心で言う。

水曜どうでしょうを見ている人からすると、ぶっちゃけ、「大泉洋をモノマネできる人がこの世のどこかにいる」ということ自体にはさほどの驚きはないのだ。や、もちろん、すごいな、おもしろいな、うけるな、と心から思っているけれど、「誰かは大泉洋のモノマネをやるだろうな」という気持ちは拭い去れない。なぜなら、大泉洋にはあきらかな「特徴」があるからだ。素人でもしゃべり方くらいならなんとかモノマネできそうな際だった個性がある。だからこそ大泉洋には国民的な人気が出る。しかし、「鈴井貴之をほぼ完全にコピーできる人」が世の中にいるということはまったくの予想外だった。だからこそ完全に持っていかれた。舞台を袖で見ている水曜どうでしょうのディレクター陣も抱腹絶倒茫然自失。会場からは「おひねり」が飛んでいた。ぼくはジムの係員に「お客様……」と言われた。



さて、本日書きたいのは「病理の話」なので、そろそろ形態診断に関係のある話をしたいのだが、なんと話はまだラパルフェの芸をほめる方向で続く。結局、ラパルフェのふたりのモノマネの何がすごいかというと、これは他方面・他分野からもすでにこすられまくっている言論になるかもしれないけれども、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」がなぜあれだけ流行ったのか論ともつながっていくのである。

「モノマネ」。

人気を博したドラマやバラエティなどに出てくる芸能人やスポーツ選手の、一瞬のシーンを切り取る「モノマネ」。これぞという名台詞、名場面、あるいは歌であれば大サビを歌っている最中の特徴的な形態を模写する「モノマネ」は、昭和の時代からお茶の間を席巻してきた。視聴者たちは、たとえば子どもが志村けんの「アイーン」を形だけ真似したり、若者がIKKOの「どんだけ~」やおすぎの「おすぎです!」のワンフレーズだけをテンションとトーンだけで真似したりといったように、精度は低いが「誰もがあの人の真似をしているとわかる、形態の尖った部分」を拾い上げて模倣して小さな笑いに変え、コミュニケーションのツールにする。

「モノマネ」。

たとえばこれを延長した楽しみ方というのが、水曜どうでしょうのようなオバケバラエティ番組がときおり放つ、「過去作品の名場面集」のようなものに結実していくのではないかと思っている。水曜どうでしょうがときどき開催する「祭り」では、名場面不動の一位として「だるま屋ウイリー事件」というのがあげられ、わからない人はググればいいと思うがどうせググったところでファンしか意味がわからないので無駄にググるだけになってしまうが、「ギアいじったっけロー入っちゃってもうウイリーさ」のようなセリフが大泉洋の独特の節回しと共に何度も何度もファンの間で語り継がれている。これはある意味「モノマネ的な娯楽」だと思う。

テレビのある瞬間で放屁するほど笑った視聴者たちが、同じようにその場面で笑った人たちと「あれよかったよねー」とコミュニケーションするにあたって出てくるのは、モノマネの感覚だ。みんなで「あったあった」「あれな」「あれな~」と笑い合うためにモノマネで使うときの脳が用いられているのだ。

「モノマネ的な娯楽としての名場面集」である。

えっモノマネってそんなたいそうな物なの? ……もちろんである。我々はみな、赤ちゃんのときから、親のしゃべり方を模倣して言葉を手に入れていくのだ。

「名場面集」や「名台詞集」などで我々の脳から自然と浸みだしてくるモノマネ感性は、一種の「素人芸」として気楽に発動できることが重要である。誰でもモノマネできるくらいに形態学的な特徴や「一回性」が際立っているからこそ、みんながそれぞれ自分の声で語っても「あーあれね、あのシーンね」となるからだ。


しかし、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」の笑いのありようは、また少し異なる。

見比べ、照らしあわせを尋常じゃない深度でくり返した結果立ちのぼってくる、「雰囲気」や「ニュアンス」の部分を厚みを残してまるごとモノマネされた結果、見ているほうは「あーわかるわかる、試しにやってみよう」とはならない。できない。「うわあ、そこ切り取るのか、まんまだな! よくここが笑えるって気づいたな! ていうか自分でもなんで笑ってるのかよくわかんねえ! はっきり言って真似できねえ! でもまんまだな!」となって激烈に感動する。

このときの「まんまだな!」がいったい脳のどこを通って「まんま」と認識しているかというのは、なかなか難しい問題である。

ミスターのモノマネをした尾身先生が放つセリフのひとつひとつには「特徴」や「一回性」がない。

「でも金庫あるからいい部屋ですよ」は、歴戦の水曜どうでしょうファン(藩士)たちも、過去に一度も名場面集や名言集で取り上げてこなかった。

しかし我々は、あのように語るミスターを見て……いや違うか……ミスターのモノマネをする尾身先生を見て……でもあれは完全にミスターなのだ……だからミスターを見て、「い、い、言う!!!」となって大笑いしてしまう。そしていざ自分で口ずさもうと思っても、真似できない。「まんま」なのだが、どう「まんま」なのかがわからない、自分で真似できない、でも「モノマネとして高度」であることだけはビンビンに伝わる。


「小林製薬の糸ようじ」はすぐにモノマネできるからファンに語り継がれた。でも、「金庫あるからいい部屋ですよ」は「ファンには真似ができないモノマネ」だ。これがラパルフェのやっている芸のすばらしさなのである。そして、これは確信に近いのだけれど、ラパルフェが抽出して強調したことであらためて、「ミスターがでも金庫あるって言った場面」は、これまでファンもディレクターさえも気づかなかった名場面として、次回以降の「名場面集投票」で上位に食い込んでくる可能性すらある。



このことをいきなりだが病理診断に例える。

「この細胞は核が大きくて、核の形もいびつだから、癌なんですよ」というのは病理医の特殊技能だと思われがちだ。しかしじつは、2,3日医学生に勉強させればすぐに真似してもらえる。わりとわかりやすく「モノマネ」できる技術である。

細胞を構成する構造の輪郭、イラストを描くときの線画の部分、すなわち「アーキテクチャ(構築)」については、説明がしやすく理解が得られやすい。ああそうかなるほどね、形がね。大きさがね、左右の非対称性がね、くびれっぷりがね。

しかし、実際の病理医は、アーキテクチャだけで診断を下しているわけではない。

色調。色ムラ。模様のざらついた感じ、あるいはしっとりとした感じ。均一性と不均一性。。

このようなテクスチャ(肌理:キメ)の部分が診断のかなりのウェイトを占める。ここは、じつは、医学生にはなかなか真似ができない。


ぼくはラパルフェのモノマネを見ながら、「プロの芸人がモノマネをするとき、たとえば絶妙なセリフを選んで言うというのはアーキテクチャの抽出なのだな」と気づいた。「あー、あのセリフね!」と、素人でも真似がしやすい。アイーン、どんだけ、おすぎです。

一方で、「そのセリフの前後にある間、口元以外の部分でどう表情を作るか、首をどの角度にするか、体をどれくらいのスピードで揺らすかみたいな部分はテクスチャのモノマネなのかもな」と思った。これは素人では真似ができない。

ラパルフェは、アーキテクチャだけでなくテクスチャを真似ている。それが、「番組をおもしろくするために元のVTRを何度も見て編集をして字幕を入れたディレクター陣」ですら気づかなかった「水曜どうでしょう出演陣の、出演陣らしさ」を抽出することにつながっている。


ぼくはラパルフェのモノマネをみているとき、ぼうっと、ディレクター陣はあたかも臨床医のようだ、と思った。患者(大泉洋と鈴井貴之)のことを見まくっていて、他者がわかりやすいように彼らの特徴を抽出し、それらに診断(字幕?)を付け、テンポを整え、ときにディレクションして方向性を見せ、ときに伴走して二人三脚で憩いというゴールめがけて進んでいく、そんな姿が、あたかも患者を引っ張っていく臨床医のようだ、と思った。

そしてラパルフェのやっていることは、「患者のことは俺たちが一番よくわかっている」と豪語する臨床医然とした藤村忠寿・嬉野雅道両名の前で、「ぼくらの職能を用いると彼らにはまだこんな特徴があります」と、えぐい角度で「もっと、まんま」の部分を掘り出していく、それはまさに、病理診断のようだ、と思った。もちろん病理医だけがいても患者には一切の治療はなされないから病理医だけいればいいというものではない。しかし、病理医の「見方」を知った臨床医は、明日から患者にもっと優しく(?)接することができるだろうなあと思ったのだ。

ああつながった。よかった。うわっ今日の記事長ぇ。キモ。

2023年7月10日月曜日

他者の不機嫌を受け入れる

若者向けに人生を説くような記事をぼくもずいぶん長いこと読んできた。若かったからだ。そしていろいろな影響を受けてきた。少しでもよい人間になれるようにという思いがあった。自分勝手に暮らしているといろいろな人を傷つける。暴力を為そうと思って為すのではない。自分の振り回している手がどこかに当たっていることに気づかない時期というのがあった、ぼくの場合は。だから、他人から見て自分の行動がどう思われるかというのをきちんと知りたいと思い続けてきた。


そんな中で、けっこう長いこと参照していたライフハック、これは守る以外にないだろうと思っていた金言みたいなものがあった。こんなやつだ。

「不機嫌で人を動かすな」

「つねに機嫌よくいろ」

これはまったくそのとおりだと思った。若い自分から見て、上司相当の人間が不機嫌にしているとそれだけで(今でいうところの)ハラスメントを感じていた。目下の人間からすると、自分よりも上にいる人が機嫌が悪いというだけで仕事の量が3倍くらいになるイメージだ。交際している相手が不機嫌で自分を動かそうとするときも腹が立ったし、逆に自分が感情だけで相手の都合をねじまげようとする瞬間がけっこうあった/あるかもしれないということを自覚して、ああ、そういうことではだめなんだと、長い時間をかけて自分の不機嫌さを矯正しつつ、他人が自分に不機嫌の矛先を向けてくることにいつしか過敏になっていた。


そして最近、なぜかその感覚が少しマイルドになった。タイミングはよくわからない。きっかけがどれだったのか自覚していない。しかし、ふと思った。

「自分はなるべく機嫌良くしていよう。それにはまあ、悪いことはないだろう。しかし、相手の機嫌が悪いときに、『なんだこいつ、人前で不機嫌を使って相手を動かそうとしている、なってないやつだな』みたいに、相手をさげすむのはいいことなのか? それはやめよう」

と。



不機嫌でしか自分をドライブできない人は世の中にいっぱいいる。たとえば限りある人生では逆転ができないくらい(その人なりの感覚で)失敗した人。自分の大事な人を傷つけられてしまった人。誰かを失った人。あるいはもっとたくさんの、病気でいる人。こういう人の多くは、どうやっても自分を機嫌良く保つことができない。そういう人の前で、「不機嫌を武器にするな」というのは横暴なのではないか、という気持ちが高まってきた。


みもふたもない言い方だけれどこれはつまり「ぼくは恵まれている論」の一環だと思う。なるべくニコニコ暮らしていきたいと言えるくらいには自分が安定している、ということを忘れて、他人にまで「ニコニコしなさい」と言うことの暴力性に無自覚ではいられなくなったのだろう。

そして、ぼくが「恵まれない人のためにぼくも怒り続ける」とやることには大した意義を感じないのだけれど、それはあくまで「ぼくにとっての意義がない」だけであって、誰かが一緒になって怒ってくれることで、何も解決しないし悔しさも悲しさも晴れないけれど今日という日をかろうじて生き延びることができる、みたいな人が実際にたくさんいる。となれば、不機嫌にすがって人生を作っていくことを決めた人にも尊敬の気持ちを向けなければいけないのではないか。


べつにそんなの要らないよ、と、ネット上の友人は言った。不機嫌ハラスメントはやっぱり問題だよ。自分の感情で職場の人びとをコントロールしようとしてはいけないよ。

でも今のぼくは思う。「やってはいけないことをやっている人」がこれまでの人生の中で選びとってきたもの、そちらに歩まされるようにして歩まされてきた道のりのすべてを、「ニコニコやっていけそうなところに今はいるぼく」がおとしめるのは違うのではないかと。

正しい、間違っている、の話ではない。ちがうのではないかと思ったのだ。ちがわないよ、と言われたらそうなのかもしれない。でも、ぼくは、不機嫌イコール悪と決めつけていた30代の自分を少し幼稚に感じるのである。もうちょっと、もう少しだけ、不機嫌に寛容であってもよいのではないか。やりすぎでなければ。極端でなければ。

2023年7月7日金曜日

病理の話(795) 病理医のコミュニケーション

「上手にコミュニケーションをとっている病理医」として評判になっている人を観察していると、主に二種類のタイプにわかれる。まるで違う2パターン。


【パターン1:偉い】

教授。会長。会頭。すごい海外ラボに留学していた(もしくは今もいる)。すごい論文を書きまくっている。などなど。まとめると「偉い」ということだ。偉い人の言うことは周りの人がふんふんと話を聞くのでコミュニケーションが進む。

えー? と疑問に思う方もいるだろう。でもぼくはこれはかなり真実だと思っている。なぜそう思うかというと、「某教授とよく似たしゃべり方をして、内容もけっこうおもしろいんだけど、まだ偉くない人」がしゃべっても誰も聞いてないというケースを見たことがあるからだ。ああ、これ、言ってることはあの教授と一緒なのに、誰も聞いてないのは単純にこいつが「話を聞きたくなるような経歴」を持っていないからなんだろうなあ、と感じてしまった。さみしい話である。

自分が思うままのことを好き勝手に伝えたいと思ったら偉くなるしかない。


【パターン2:むしろ下僕」

電話をとるのが早い。いつもニコニコしている。小仕事を頼むとすぐやってくれる。忙しいはずなのにいつも臨床のカンファレンスに出ている。メールの返事も早い。敬語を絶対に崩さない。まとめると「下僕」とか「使いっ走り」とか「奴隷」(言い過ぎ)。こういうタイプはめちゃくちゃ便利使いされてボロボロになっていくのだけれど、10年くらい続けているとコミュニケーション強者になっている。

いやいや……それは……と思う人もいるだろう。でもこれも確実によく見る風景だ。こいつ絶対体と家庭を壊すだろ、という働き方をしている人。自分より上だろうが下だろうがとにかく他分野の人の依頼をよく聞いて、誰かの代わりに働いて、自分の仕事もしなきゃいけないからいつも残業まみれでコマネズミのようにくるくる消耗。こういうタイプがいつの間にか病院や施設の中で最強のキーパーソンになっていたりする。ただしなっていない場合もある。単純に疲れて潰れてしまう。ぼくは生存バイアスしか見ていないわけではない。死んでいった善人達のことも覚えている。


というわけで、「上手にコミュニケーションをとっている病理医」とされているのはだいたい上記の2パターンだ。めちゃくちゃ偉いか、めちゃくちゃ下僕か。


それ以外の病理医は、「コミュニケーションになんらかの問題を抱えている」、と言われがちである。臨床医が電話をかけてもいまいち乗ってこない。病理の写真を頼みたいのに「今ちょっと時間がないので……」みたいにシブい顔をされる。自分の専門性以外のことには乗ってこない。相談しても要領を得ない……。



……。



まあそろそろ気づいてほしい。それは必ずしも、「病理医側に問題がある」わけではないのだということに。



「自分のために仕事をしてくれる病理医がいい病理医」であり、「自分から見て尊敬できる病理医がいい病理医」であると公言する臨床医がいる。バカではなかろうか。そんなのは「いい病理医」ではなくて「都合のいい病理医」だろう。そこで起こっていることはコミュニケーションではない。便利な道具、もしくは便利な寄生先を探しているだけに過ぎない。本当のコミュニケーションとは、自分の都合や自分の脳内風景だけのために相手を利用することではなく、自分だけでは考え付かないことに思いを馳せ、自分だけでは達成できないことを達成するために、誰かと自分の「間」になにかを構築することだ。


教授である必要はないし下僕である必要もない。そこに自分とは違う専門家がいてくれたら、患者のためになるはずだという期待があればいい。その願いにボクトツに答えてくれる病理医はいっぱいいる。教授でなくても、下僕でなくても、である。

2023年7月6日木曜日

湯治の旅

30代のころは、どこかの地域でひとつ講演をすると、それを聴講してくださった方がほかの地域でぼくを「おすすめ」してくださって、「うちでもその話してくださいよ」と次のお声がかかって……みたいなことがたまに起こっていた。

大阪でバリウム画像と病理組織像の対比に関する講演をしたら、それが話題になって首都圏の技師さんたちの知るところとなり、横浜に呼ばれて同じ内容をしゃべって、そしたらまた話題になって、新潟で研究会をやっている幹事の耳に留まって……という感じである。

仕事が仕事を、旅が旅を連れてくるような感覚だった。

もっとも、旅とは言っても観光するほどの時間はなく、フォロワーに教えてもらったおみやげを買って帰るくらいのものであったが、振り返ってみるとあれはあれで楽しい旅だった。




ところがここ数年、お察しの理由により講演の多くがオンラインになった。旅ができなくなったことに多少のさみしさはあるけれども、移動の時間を気にせずに職場のデスクから全国に向けて発信できるのだから、便利でしょうがない。

研究会を主催する側としても、講師に交通費を払わなくていいし、懇親会に連れて行く必要もないのだからいいことが多い。会場を借りて人を入れつつ、オンラインでもその様子を放送するいわゆる「ハイブリッド」方式だとお金がかかってしょうがないのだけれど、リアル会場をばっさりあきらめてオンラインだけに注力すればお金はむしろ安上がりになる。

というわけでオンラインバンザイでずっとやってきたのだが、最近、そろそろオンラインやめてくれないかな、と思うこともちらほら増えてきた。

その一番の理由は……旅をしたいから……ではない。

講演のプレゼンを毎回新しく作り直さなければいけないのがしんどいからだ。



Zoomの講演は全国どこでも聴ける。すると、熱心な聴講者は、たとえば首都圏に住んでいたとしても関西や中四国、九州、北海道の講演までぜんぶ聴こうとする。

となると、昔のように「がんばって作ったこのプレゼンを1年間かけてあちこちでしゃべろう」というわけにはいかない。

それは申し訳ないなあと思うからだ。「使い回し」がばれるのが恥ずかしいという気持ちもある。

講演の回数は昔と変わらないが、プレゼン作成の数が数倍になった。



ぼくの病理学に関する講演は、基本的にスライドの枚数が100枚以上になる。1時間の講演だと200枚前後になっていることが多い。「多い!」と感じられるかもしれない。たしかに普通の講演であれば、枚数が多すぎるだろう。しかしこれは「病理の講演」としてはまあ普通の枚数だ。

実際の患者を撮影したCTや内視鏡、超音波の画像をセレクトし、病理の顕微鏡で撮影した細胞の写真と照らし合わせる。複数の「撮り方が違う写真」を見比べながら、患者に何が起こっているのかを統合的に考えていく。

このようなスタイルでは、いかに多くの写真をストレスなく、ストーリーも感じさせるようにプレゼンに叩き込んでいくかが重要だ。とはいえ上限なく写真を入れればいいというものでもない。一切編集しない場合には1時間で600枚以上の写真を入れることも可能だが(「診断」にはそれくらいの情報量が含まれている)、そこをがんばって減らして減らして150枚にする。けっこう時間のかかる作業だ。


いわゆる「講演」と聞いて多くの人がイメージするのは、自己啓発的にインパクトのあるフレーズを画面の真ん中においたり、ベン図のあちこちになにやら書き込んだりして、ひとつのスライドに10分かけて哲学を説明していくようなものではなかろうか。

あるいは、大学の講義のように、箇条書きで要点をずらずら書いた本の目次のようなスライドを背景に偉い学者がずっと学術を語る、みたいなイメージをお持ちの方もいるのではないか。

こないだ聴講したある方の、「医師のキャリア」に関する講演では、1枚のスライドに3行くらい箇条書きで、その人が何を思ったのかが断片的に書かれていて、それを背景に講師がひたすら自分語りをするというものであった。なるほどおもしれえなと思ったし、自分のスライドの労力とつい比べてしまいそうになって、「そういうものではないのだ、そういうことではないのだ」と自分の旧皮質を抑え込むのにちょっと苦労した。あれで講演料をもらえるんならいいよなあ……いや違うか……こうやって短いフレーズで大きなインパクトを聴衆に与えられるところにたどり着いているその人がすばらしいということだ……。

でもまあぼくの求められている仕事は、「ぱらぱらとめくって考える、居酒屋のメニュー」みたいなものだ。さまざまな写真を行きつ戻りつしながら病態を深める。それをやってほしいから呼ばれる。それがいいから仕事になる。

さあ大変だ。



理想を言えばすべての講演で違うプレゼンを使いたい。でも、さすがに、時間が足りない。だから結果として、「プレゼンは同じなのだけれどしゃべり方を少し変える」とか、「前回別の地域で同じスライドをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はこちらの地域の若手のために同じものをお話しするということでご容赦くださいと言い訳をする」など、なんかぐちゃぐちゃと言い訳をしながら乗り切ることもちらほら。

悔しい。

全身全霊で作り込んだスライドには思い入れもあるから、ほとんど内容は一緒なのだけれどなんとか切り口を変えて使い回す姿勢自体が悪いとは思わないが。

悔しい。

あと、同じプレゼンを使い回すと、近頃はしゃべっていて飽きてしまうようになった。この話は前回もしたよなあと気づいたあたりで、しゃべりが少し雑になる。すると初見の人にとっては話がわかりにくくなる。

現地で聴衆と顔をあわせてしゃべっていたころは、ぼくもまだ経験が少なかったためか、「お決まりのフレーズ」が確定演出になるところまでは言っていないというか、毎回違うお客さんに向けて「今日は通じるか!? 今日はどうなんだ!?」とチャレンジをくり返す、みたいな雰囲気があった。「お決まりのフレーズ」のところでみんながどういうリアクションをとっているかを、会場のうなずき方や、漏れ出る声から察するのも大切だった。リアクションが微妙だと、「あっいけね、いつもより早口になってるな。いかんいかん。もう一度やり直そう」みたいな微調整をかけたりもした。

しかし、オンラインでは聴衆はほぼ全員が黒バックにアカウント名でマイクミュートである。うなずくところも笑うところも感じ取れない。自然とプレゼンは「巻き気味」になるし、ぼくは結局、年を経て講演になれてしまったのだろう。昔ほど「今日はどうなんだ!?」とは思わなくなった。「今日もまあ及第点まではこうやってがんばればいいんだよな」くらいの感情がでかくなってきている。

悔しいというのもそうだが……これは……摩耗してきているのかもしれない。それがさみしいのかもしれない。



早く「講演の旅」に戻らないかな。そうしたらまた、新しい刺激を受け取ることができるかも。でもまだまだ、オンラインの会は多い。今日ももっかのウェブ講演に向けて新しいスライドを作っている。



新しい講演をするたびに、いつも反省をしてきた。これをおもしろいと思っていたのはぼくだけだろうか? 前回の話のほうがおもしろかったなとがっかりされたのではないか? たくさんの「いやな刺激」を受けて、それを吸収したり反射したりしていくうちに、ぼくは少しずつ盤石になってきた。

その盤石さがまた腹立たしい。

ぼくは確実に盤石になった、それはさみしいことだ。どんな困難な講演もなんとか乗り切れるようになってしまった。昔は、そうではなかった。昔は、どれも毎回一発勝負の、ヒリヒリするような、失敗と成功とが未確定の状態で、講演の前には必ず足も声も震えていたけれど、今はそこまでではない。このままだと、ぼくはいろんな角度で講演がつまらなくなってしまう。


ああ、ここまで書いてふと思ったことなのだけれど、オフラインで同じ講演を使い回していたというのも、昔はそれでよかったけれど、今のぼくにとってはつらいかもしれない。そうか、旅に戻ればいいというものでもないのだ。旅の暮らしが戻ってきたとして、昔のように、このプレゼンは1年間使い回そうという気持ちに戻れるかというと、どうも戻れない気がする。

そうか、そうか、ぼくはどっちにしても、昔よかれと思っていたぼくにはもう戻れないのだ。ヒリヒリジワジワ苦労し続けなければ飽きてしまうし、新天地でのチャレンジを理由に持ちネタを使い回していた若さからは離れてしまった。なるほどな。オンラインかどうかなんて本質ではないのだ。ぼくは年を取り、偉くなってきて、そういったもろもろのぬるま湯にどっぷり浸かって安心していいよと言われつつある立場がいやでいやでフルチンのまま外に飛び出して走ろうとしているということなのだ。パンツははいてください。

2023年7月5日水曜日

病理の話(794) 病理診断書を小癪にデザインする

ぎりぎり病理の話だとぼくは思ってるんだけど、多くの人は「それは病理の話ではないよ。」と言いそうなことを、今日は書きます。



医療文書は正確性が大事だという。それはもちろん患者に不利益がかかるからだ。

たとえば病理医であるぼくが、顕微鏡で細胞を見て、がんがあるのに「がんはありません。」と報告書(レポート)を書いたら大変なことになる。患者のがんは放置され、後日、大きく育ってしまうかもしれない。

当然、我々は厳密にレポートを書く。血眼になって真実を正しく書く。


しかし、ただ正確に、厳密に書けばいいというものではない。


たとえば、

「断端において癌陰性。」

みたいなレポートの書き方をする病理医は、やっていることは正確なのかもしれないが、個人的には「よくない」と思っている。

簡単に用語を説明しておくと、断端とは臓器を切ったときの「一番はしっこ」の部分をさす。

そこに「癌陰性」というのは、癌(がん)が存在しないという意味である。

では癌が存在するときは何と書くか? この医者は、「癌陽性。」と書くのだ。


癌陰性/癌陽性


ぱっと見たときに、「モニタの黒っぽさ」が似ている。陰と陽なら見間違えないよ! と元気なあなたは思うかもしれない。しかし、

「断端において癌陰性。」

「断端において癌陽性。」

これらは、文字数もいっしょだし、ぱっと目に入ったときの印象もそんなに違わない。徹夜明けの医師なら見間違えるかもしれないではないか。


手術で臓器を切除したときに、端っこの部分にがんが残っているかいないかなんてのは、めちゃくちゃ大事なことだ。一番大事であると言ってもいい。

そこをこんなにわかりにくい平板な表現で表していいと思っている病理医は性格が悪い(?)。


たとえばぼくなら、どうしてもこういう表現を使いたいときには、こう書く。

「断端において、癌陰性(-)です。」

「断端において、癌陽性(+)です。」

全角のカッコとプラス/マイナスを使って強調をかける。これで見間違える人は激減する……と思う。



ほかにも、忙しい主治医がぱーっと読み流してしまうと困るなあ、というところにはいろいろと工夫をする。あえて日本語と英語を併記するなんてのも効果的だ。


たとえばこんな診断文のことを考える。

「この病変は胃底腺型腺癌ではなく胃底腺粘膜型腺癌です。」

一読して、「は?」となりそうだ。二度見しないと意味がわからないし、どこが違うかがわかっても「ふーん」となるだろう。ふーんとなるのはあなたが病理学を知らないからではない。知っていてもふーんとなるくらいにはマニアックな文章である。

こういう文章が自分の指先から生成されたとき、自分で読み返して、ふと気づく。

「なんか目がすべりそうだなー」

そして、たとえばこのように変える。

「この病変は、胃底腺粘膜型腺癌 adenocarcinoma of fundic gland MUCOSA typeです(胃底腺型腺癌 adenocarcinoma of fundic gland type」ではありません)。」

……余計わからん、と思われた人もいるかもしれない、ごめんなさい。ぼくは普段レポートの中にそんなに日本語と英語を併記するタイプのレポートを書かないので、たまにこういうことをすると、読む主治医のほうが、「うわっ市原がなんか気合い入れた! いきなり英語きた!」とびっくりして、ちゃんと読んでくれるという仕掛けなのである。


この……「普段はちょっと書かない病理医が、いざというときにはいっぱい書いて説明してくれる」というのは、単なる萌えポイントではなくてレポートを読む人の目を惹くために必要なギャップだと考えている。いつもいつも長文のレポートを書いている病理医もいるがそれはそれであまりよくない(長文を読み飛ばすことになれた主治医を量産することになる)。

技術を駆使してデザインし、レポートを正しく読んでもらうことが大切だ。なんかコシャクな技だよなーとは自分でも思う。

2023年7月4日火曜日

差異の河原

ガッ! と一気にこの場所に文章を書いて、ぱっとモニタから顔を話して、ぐっと読み返して、つまんなかったので消した。今はいちからぜんぜん違うことを書き始めており、この文章が公開されたということは、二度目に書いた文章が自分なりにOKだったということである。


……このようにを書くと、自分で読んでおもしろい文章だけここに載せているみたいなニュアンスを受けるだろうけれど、そういうわけではない。「つまらない」の反対は「おもしろい」ではないと思う。たぶんもうちょっと幅が広い。自分が書いたものに対して生じる「つまらない」の対局にあるのは、おもしろいとか興味深いとかではなく、「これは確かに今の心のざらざらした部分に手を当てて振動を感じた結果導き出されたものだ」ではないかと思う。「おやっ」の感覚が文章の中に残っていれば、つまらなくないものになる。誰もがそれをおもしろいと感じるかどうかは別だ。しかし、少数の誰かはそれに目を留めてくれるのではないかと思う。


さっき書いた文章はつまらなかった。五感のどこにも引っかからず、スルスル流しそうめんのように流れて読み終える感じだ。手癖で書いたな、という雰囲気。まるでAIが作った文章のようだった。


「AIのおかげ」で、ぼくは最近の自分のブログが相対的にいきいきとしてきたのではないかと思っている。確たるデータがあるわけではないけれど、どうも、AIブームが広まるに連れて、引っかかり、差異、違和みたいなものが削られて平板化したつまらない文章が増えているような気がする。たとえば仕事のメールあたりはだいぶ置き換わってきたのではないか。直接AIを使うかどうかは関係ない。「そういう文章が受け入れられる風潮」が隠し味のように世の中を微調整しているのだと思う。

文章のでこぼこ、ざらつきを残した、引っかかる文章を書きたい。もっと接続詞を多めにしよう。もっと句読点を雑に打とう。改行とスペースを空けて読みやすくする技術なんて捨ててしまおう。伏線を張らず、レトリックにおぼれず、読む人の不安がどこの場所にも引き受けてもらえないような不穏な文章を産み出そう。題材に学びを入れてはいけない。気づく前に書くのだ。成長したなら黙っているといい。後退している最中に「あいのおもいで」を使うことでオリビアののろいは解けるのだ。


ある種の自覚はある。ぼくはもう自分が考える範囲での「到達」をしたのだと思う。イキる必要がなくただ生きていればいい。だからブログに野心を出さなくてよいし、可能性を広げなくてよい。できるだけ多くの人に見てもらうことで仕事をやりやすくするような戦略をとる必要がない。だからこういう文章を書いて、残して、あとで見て、「おや……うーん」という感想をひとり静かに脳内でつぶやくことができるのだと思う。

2023年7月3日月曜日

病理の話(793) そこで一言付け加える

今日の主治医は、わかっている。患者の病気の正体をほぼ確信している。「あーこれはもう間違いなくこの病気だろうなあ」くらいの気分でいる。


診断はほぼ決まりだ。しかし「お作法として」、病理医にも相談してみっか、みたいなことを考えている。先達の研究結果から、「九分九厘この病気だと思っても、念のため『生検』をして病理にも意見を求めるといいよ」ということがわかっているからだ。


生検をする。生検とは患者の体の一部から細胞をちょんと採ってくることだ。患者の細胞を見ることで、それ以外の検査でおぼろげに浮かび上がってきた患者の病気の「本質」を、細胞からも裏付けする。念には念を入れるのだ。病理医にしかわからない目線で自らの確信を99%から100%に押し上げてもらう。


さあ、病理医が細胞を見る。主治医はAという病気を考えている。そのむねが「依頼書」にも書いてある。


じっくり見る。そしておもむろに、病理診断報告書に、以下のように書く。


「A病として矛盾しません。」


病理医としては、「細胞を見ただけでわかったよ! 絶対A病じゃん!」と言えればいいのだが、なかなかそうもいかなかった。まあA病でこのパターンをとることはあるわなー、くらいの感想だった。主治医はずいぶんと鼻息荒く「絶対A病だ!」と思っているようだが。そこ、いっしょになって興奮してもしょうがないので、少しスン……としつつ、「まあ、A病としてもぜんぜんおかしくないですよぉ。」というレポートを書く。


そして一言付け加える。


「ちなみに顕微鏡だけを見れば、A病はまあ考えることは考えますけど、B病の可能性もちょっとありますし、あと、飲んでいる薬の影響ってこともあるかもしれないですね。いや、細胞を見たらそう思ったってだけですよ。あまり気にしないで。普通にA病かもしれないから。でも念のため書いとくね」


主治医はレポートを読む。上から読む。「A病として矛盾しません」。そうだろうそうだろう。よぉし確認終了! 治療開始だッ! ……と思って最後にふと目を留める。二度見する。


「薬剤性……? あっ!」


あわてて患者の飲んでいる薬を再確認する。たしかに、「副作用として、A病のような雰囲気を醸し出すことがある薬」を、この患者は飲んでいる。

ああ、もしや。そんなことがあるだろうか。

くだんの薬を飲むのをやめてもらう。もちろん、この薬は、意味があって飲んでいるものなので、簡単に中止するわけにはいかないのだけれど、そこはほかの薬を使うなど工夫して、なんとか、薬を一時中止する。

すると……「A病」だとばかり思っていた病気が、ぱたりとやむ。


診断:薬剤性○○。


そういったことがある。誤診? 違う、難しいのだ。診断というのは一発で付けられるものではない。複雑系を飛び交うさまざまな光の矢印が交錯する中で影絵のようにぼんやりとうかびあがってくる病気の正体を、手を変え品を変え、見る角度を何度も変えて、時間もかけて探らないとわからない診断というものがある。そこにたどり着くために、主治医が、たとえ自分の見立てを「これは間違いねぇなあ」と思っていたとしても、あえて病理医のような「脳の使い方がそもそも違うスタッフ」に患者を別角度から吟味してもらう。そうすることではじめてわかる診断というものがある。そして、病理医もまた、何度も何度もレポートに「薬もチェックしてね」と書く。それがいつも「当たる」わけではない。ほとんどは主治医の見立てが正しいのだ。書くだけ無駄と思うこともある。定型化してしまった決まり文句に飽きてしまうこともある。

でもそこで心を折らない。何度でも書く。「まあ念のため薬はチェックしてね」。それが数年に一度、芯を抉ることがある。