2023年7月24日月曜日

病理の話(798) さじ加減をくどくど説明する

「医者のさじ加減」という言葉は、語義をまっすぐ受け取るならば、「粉薬の配合の比率」ということだろう。生薬を乾燥させて粉にして、まぜあわせて調合することで、患者にあわせた薬が作られていた時代がある。今の世に残っている漢方薬の多くもまた、「このブレンドだと効きがよい、キレ味がよいと歴史に選ばれた配合」でできている。


葛根湯は葛根、大棗、麻黄、甘草、桂皮、芍薬、生姜のブレンド。比較的体力がある人の風邪のひき始めに使い、発熱、悪寒、頭痛、関節痛、首や肩のこわばりなどがあり、汗をかいていないときに用いるとよい。

一方、麻黄湯は杏仁、麻黄、桂皮、甘草。こちらは、葛根湯と使いたいシーンが似ているものの、項背部のこわばりよりも関節痛、筋肉痛、腰痛などが強い場合によりよいとされる。

葛根湯と麻黄湯、どちらも似たような生薬が含まれていて、ほとんどいっしょじゃん! と思いたくなるのだが、このような微妙な差があって、漢方医は「証」などを見ながらうまく使い分けていく。これぞ、まさに、さじ加減である。


(参考:『絵でわかる漢方処方』/南山堂)←コンパクトで医療者にお勧め 非医療者はもう少しわかりやすい本のほうがいいです



西洋医学ではそういうお薬のブレンドとかはしないんじゃないの? と思われるかもしれないが、さじ加減は別に配合比率だけのことを指すわけではない。

あらゆる薬は、体内で効くときのことだけでなく、効き終わったあとに分解して排出されるときのことを考えて使う。薬効成分は、腎臓で尿にまぜられて捨てられたり、肝臓でアルコールを分解するかのように分解されて捨てられたりする。薬によって、どこでどう壊されるか(代謝されるか)は異なる。

壊されすぎて効き目が弱くなっては困るし、壊され足りなくていつまでもダラダラ効いているのも(副作用のデメリットが大きくなるので)困る。

したがって、薬を出す際には、患者の腎臓の強さとか、肝臓がどれだけ余裕な表情をしているかといった情報をめんみつに考えて、患者にあわせて出す薬の種類や量、投与のスピードなどを変える。現代のさじ加減だ。

ちなみに処方のうちわけは、医師の主観的な感覚だけでどうこうするものではなく、多くの研究者たちがさまざまな形で検証をしたデータを用いる。患者の状態にあわせてこのように調節したらよいという目安はけっこう存在する。

それでも、最後の最後の微妙な部分は「ひとさじを加えたりすくいとったり」くらいの感覚で医師に委ねられている。

ガイドラインが整備され、名医とヤブ医者との差は生まれにくい世の中だ。しかし、「超絶名医」と「普通の名医」くらいの差はおそらく存在して、たぶん、さじ加減くらいの微妙なバランスでその細かな評価が分けられている。


内科医の処方だけではない。手術だってそうだ。臓器をどこまで取ったら病変を切り取れるのか、残った臓器できちんと人体を保つことができるのかというバランスには一種の「さじ加減」が生じる。

放射線治療などもそうである。患部にどれだけ当てるか。たくさんの研究を元に「その時点での最適解」は示されているけれど、患者には無限のバリエーションがあるから、一期一会の患者にベストな放射線の当て方というのはその都度細かく調整される。


で、まさかと思われるかもしれないが、なんと「診断」においてもさじ加減は存在する。


もっとも、「がんか、がんじゃないか」のような治療の分水嶺となる部分でそういう曖昧さは許されない。そうではなく、もっと細かくてマニアックな部分、たとえば「がんの中でも、低異型度か、高異型度か」みたいな細部の詰めのところだ。

結局どちらも「がん」なので、その後の診療方針にはあまり影響しないにせよ、将来どれくらいの確率で再発するかとか、ほうっておくとどれくらいのスピードで大きくなりそうかといった、「がんごとの個性」をより細かく見抜こうとするとき、そこには診断者の主観がどうしても入る。

それを「よし」とは思わない。できるだけ主観をなくしたいといつも考えている。


したがって病理医は、「みずからのさじ加減」を言語化する機会が多い。「私はこれをこのように解釈したから、この細胞は高異型度だと思うのです」というように説明する。

自分の説明で多くの人が納得すれば、それは「さじの加減を理論化できた」ということになる。


○○という論文に書いてあった基準を参照しました。

数値で計測すると△△なので。

Aという所見とBという所見とCという所見がすべて揃っていますから。


「さじ加減」という言葉には、なんとなくだけど、最後はその医者がエイヤッと決めるというニュアンスが含まれている気がする。でも、「エイヤッ、俺がこう言うんだからこうなんだ! でもその理由はね……」と、くどくど説明していく部分こそが、ぼくは病理医っぽいなあと思う。