今日の主治医は、わかっている。患者の病気の正体をほぼ確信している。「あーこれはもう間違いなくこの病気だろうなあ」くらいの気分でいる。
診断はほぼ決まりだ。しかし「お作法として」、病理医にも相談してみっか、みたいなことを考えている。先達の研究結果から、「九分九厘この病気だと思っても、念のため『生検』をして病理にも意見を求めるといいよ」ということがわかっているからだ。
生検をする。生検とは患者の体の一部から細胞をちょんと採ってくることだ。患者の細胞を見ることで、それ以外の検査でおぼろげに浮かび上がってきた患者の病気の「本質」を、細胞からも裏付けする。念には念を入れるのだ。病理医にしかわからない目線で自らの確信を99%から100%に押し上げてもらう。
さあ、病理医が細胞を見る。主治医はAという病気を考えている。そのむねが「依頼書」にも書いてある。
じっくり見る。そしておもむろに、病理診断報告書に、以下のように書く。
「A病として矛盾しません。」
病理医としては、「細胞を見ただけでわかったよ! 絶対A病じゃん!」と言えればいいのだが、なかなかそうもいかなかった。まあA病でこのパターンをとることはあるわなー、くらいの感想だった。主治医はずいぶんと鼻息荒く「絶対A病だ!」と思っているようだが。そこ、いっしょになって興奮してもしょうがないので、少しスン……としつつ、「まあ、A病としてもぜんぜんおかしくないですよぉ。」というレポートを書く。
そして一言付け加える。
「ちなみに顕微鏡だけを見れば、A病はまあ考えることは考えますけど、B病の可能性もちょっとありますし、あと、飲んでいる薬の影響ってこともあるかもしれないですね。いや、細胞を見たらそう思ったってだけですよ。あまり気にしないで。普通にA病かもしれないから。でも念のため書いとくね」
主治医はレポートを読む。上から読む。「A病として矛盾しません」。そうだろうそうだろう。よぉし確認終了! 治療開始だッ! ……と思って最後にふと目を留める。二度見する。
「薬剤性……? あっ!」
あわてて患者の飲んでいる薬を再確認する。たしかに、「副作用として、A病のような雰囲気を醸し出すことがある薬」を、この患者は飲んでいる。
ああ、もしや。そんなことがあるだろうか。
くだんの薬を飲むのをやめてもらう。もちろん、この薬は、意味があって飲んでいるものなので、簡単に中止するわけにはいかないのだけれど、そこはほかの薬を使うなど工夫して、なんとか、薬を一時中止する。
すると……「A病」だとばかり思っていた病気が、ぱたりとやむ。
診断:薬剤性○○。
そういったことがある。誤診? 違う、難しいのだ。診断というのは一発で付けられるものではない。複雑系を飛び交うさまざまな光の矢印が交錯する中で影絵のようにぼんやりとうかびあがってくる病気の正体を、手を変え品を変え、見る角度を何度も変えて、時間もかけて探らないとわからない診断というものがある。そこにたどり着くために、主治医が、たとえ自分の見立てを「これは間違いねぇなあ」と思っていたとしても、あえて病理医のような「脳の使い方がそもそも違うスタッフ」に患者を別角度から吟味してもらう。そうすることではじめてわかる診断というものがある。そして、病理医もまた、何度も何度もレポートに「薬もチェックしてね」と書く。それがいつも「当たる」わけではない。ほとんどは主治医の見立てが正しいのだ。書くだけ無駄と思うこともある。定型化してしまった決まり文句に飽きてしまうこともある。
でもそこで心を折らない。何度でも書く。「まあ念のため薬はチェックしてね」。それが数年に一度、芯を抉ることがある。