2023年7月11日火曜日

病理の話(796) アーキテクチャとテクスチャとラパルフェについてのこと

書いたことある内容なんですけど、書いたことない切り口と出会ったので、あらためて書きます。


先日、バラエティ番組「水曜どうでしょう」のディレクターがやってる会員ページを見ていたら、お笑いコンビ「ラパルフェ」が出てきた。ラパルフェを知らない人でも、「阿部寛とかトイ・ストーリーのウッディとか森泉のモノマネをしているアレ」と言われれば心当たりのある人はたくさんいるだろう。あの人はじつは大泉洋のモノマネもうまい。言われてみれば、これらの人はみな目がぎょろっとしていて……というかこれらの人(CG含む)がみな形態学的に激似というわけではない気もするのだけれど、なんというか、「ああ、同じ人がモノマネしていてもおかしくはないわなあ」という納得はある。


https://www.youtube.com/watch?v=lezJjD0sOL0

(↑ダイジェスト版は無料でみられます)


で、この大泉洋のモノマネをしている人はさすがにめちゃくちゃうまいのだけれども、というかもちろん会場にいる人の多くは(元々は)この人がやる大泉洋のモノマネを見に来ているはずなのだけれども、おそらく会場の人もぼくも共通して思ったことがあって、それは、

「大泉洋をモノマネしている人の横にいる『相方』のモノマネが激烈にうますぎる」

ということなのである。いわゆる「じゃない方芸人」が、すごい。

「じゃない方」がモノマネしている対象は、「ミスター」こと鈴井貴之だ。北海道FM AIR-Gのパーソナリティであり、大泉洋などの所属する事務所の元社長。タレントではあるし、水曜どうでしょうのメイン出演者の一人でもあるが、全国的な知名度は大泉洋にはるかに及ばない。

鈴井貴之のモノマネというのはぼくはこれまで見たことがない。でも、そういう珍しさゆえの驚きではない。

このモノマネは、似すぎている。

とんでもないレベルだ。

ぼくは昨日、久々にジムに行って走りながらこのフル動画を見ていたのだが、周りに人がいるのに一瞬声を出して笑ってしまって、むせて咳をしたモノマネをしてその場をやり過ごさざるを得なかったがあれは絶対にバレていた。社会的な地位を失う可能性がある場所での笑いを我慢できないくらいに似ている。異常である。

「大泉洋のモノマネをしている人(都留拓也)」のほうは、すでに各メディアでウッディや阿部寛のモノマネがうますぎることで知名度抜群であった。しかし、相方(尾身智志)までモノマネをやるなんて想像もしていなかった。どうせ、片方がやっているからもう片方もいちおう数合わせでやっているんだろう、くらいの気持ちで動画を見始めた。とんでもなかった。仮にこちらが先にモノマネをはじめたと言われても違和感がない。あまりの芸の精度に「尾身先生」とお呼びするレベルである。まさか世の中に「尾身先生」と呼ぶべき人がふたりもいるとは……。


以下は、決して彼らのすばらしい芸をくさしたいわけではなく、本心で言う。

水曜どうでしょうを見ている人からすると、ぶっちゃけ、「大泉洋をモノマネできる人がこの世のどこかにいる」ということ自体にはさほどの驚きはないのだ。や、もちろん、すごいな、おもしろいな、うけるな、と心から思っているけれど、「誰かは大泉洋のモノマネをやるだろうな」という気持ちは拭い去れない。なぜなら、大泉洋にはあきらかな「特徴」があるからだ。素人でもしゃべり方くらいならなんとかモノマネできそうな際だった個性がある。だからこそ大泉洋には国民的な人気が出る。しかし、「鈴井貴之をほぼ完全にコピーできる人」が世の中にいるということはまったくの予想外だった。だからこそ完全に持っていかれた。舞台を袖で見ている水曜どうでしょうのディレクター陣も抱腹絶倒茫然自失。会場からは「おひねり」が飛んでいた。ぼくはジムの係員に「お客様……」と言われた。



さて、本日書きたいのは「病理の話」なので、そろそろ形態診断に関係のある話をしたいのだが、なんと話はまだラパルフェの芸をほめる方向で続く。結局、ラパルフェのふたりのモノマネの何がすごいかというと、これは他方面・他分野からもすでにこすられまくっている言論になるかもしれないけれども、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」がなぜあれだけ流行ったのか論ともつながっていくのである。

「モノマネ」。

人気を博したドラマやバラエティなどに出てくる芸能人やスポーツ選手の、一瞬のシーンを切り取る「モノマネ」。これぞという名台詞、名場面、あるいは歌であれば大サビを歌っている最中の特徴的な形態を模写する「モノマネ」は、昭和の時代からお茶の間を席巻してきた。視聴者たちは、たとえば子どもが志村けんの「アイーン」を形だけ真似したり、若者がIKKOの「どんだけ~」やおすぎの「おすぎです!」のワンフレーズだけをテンションとトーンだけで真似したりといったように、精度は低いが「誰もがあの人の真似をしているとわかる、形態の尖った部分」を拾い上げて模倣して小さな笑いに変え、コミュニケーションのツールにする。

「モノマネ」。

たとえばこれを延長した楽しみ方というのが、水曜どうでしょうのようなオバケバラエティ番組がときおり放つ、「過去作品の名場面集」のようなものに結実していくのではないかと思っている。水曜どうでしょうがときどき開催する「祭り」では、名場面不動の一位として「だるま屋ウイリー事件」というのがあげられ、わからない人はググればいいと思うがどうせググったところでファンしか意味がわからないので無駄にググるだけになってしまうが、「ギアいじったっけロー入っちゃってもうウイリーさ」のようなセリフが大泉洋の独特の節回しと共に何度も何度もファンの間で語り継がれている。これはある意味「モノマネ的な娯楽」だと思う。

テレビのある瞬間で放屁するほど笑った視聴者たちが、同じようにその場面で笑った人たちと「あれよかったよねー」とコミュニケーションするにあたって出てくるのは、モノマネの感覚だ。みんなで「あったあった」「あれな」「あれな~」と笑い合うためにモノマネで使うときの脳が用いられているのだ。

「モノマネ的な娯楽としての名場面集」である。

えっモノマネってそんなたいそうな物なの? ……もちろんである。我々はみな、赤ちゃんのときから、親のしゃべり方を模倣して言葉を手に入れていくのだ。

「名場面集」や「名台詞集」などで我々の脳から自然と浸みだしてくるモノマネ感性は、一種の「素人芸」として気楽に発動できることが重要である。誰でもモノマネできるくらいに形態学的な特徴や「一回性」が際立っているからこそ、みんながそれぞれ自分の声で語っても「あーあれね、あのシーンね」となるからだ。


しかし、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」の笑いのありようは、また少し異なる。

見比べ、照らしあわせを尋常じゃない深度でくり返した結果立ちのぼってくる、「雰囲気」や「ニュアンス」の部分を厚みを残してまるごとモノマネされた結果、見ているほうは「あーわかるわかる、試しにやってみよう」とはならない。できない。「うわあ、そこ切り取るのか、まんまだな! よくここが笑えるって気づいたな! ていうか自分でもなんで笑ってるのかよくわかんねえ! はっきり言って真似できねえ! でもまんまだな!」となって激烈に感動する。

このときの「まんまだな!」がいったい脳のどこを通って「まんま」と認識しているかというのは、なかなか難しい問題である。

ミスターのモノマネをした尾身先生が放つセリフのひとつひとつには「特徴」や「一回性」がない。

「でも金庫あるからいい部屋ですよ」は、歴戦の水曜どうでしょうファン(藩士)たちも、過去に一度も名場面集や名言集で取り上げてこなかった。

しかし我々は、あのように語るミスターを見て……いや違うか……ミスターのモノマネをする尾身先生を見て……でもあれは完全にミスターなのだ……だからミスターを見て、「い、い、言う!!!」となって大笑いしてしまう。そしていざ自分で口ずさもうと思っても、真似できない。「まんま」なのだが、どう「まんま」なのかがわからない、自分で真似できない、でも「モノマネとして高度」であることだけはビンビンに伝わる。


「小林製薬の糸ようじ」はすぐにモノマネできるからファンに語り継がれた。でも、「金庫あるからいい部屋ですよ」は「ファンには真似ができないモノマネ」だ。これがラパルフェのやっている芸のすばらしさなのである。そして、これは確信に近いのだけれど、ラパルフェが抽出して強調したことであらためて、「ミスターがでも金庫あるって言った場面」は、これまでファンもディレクターさえも気づかなかった名場面として、次回以降の「名場面集投票」で上位に食い込んでくる可能性すらある。



このことをいきなりだが病理診断に例える。

「この細胞は核が大きくて、核の形もいびつだから、癌なんですよ」というのは病理医の特殊技能だと思われがちだ。しかしじつは、2,3日医学生に勉強させればすぐに真似してもらえる。わりとわかりやすく「モノマネ」できる技術である。

細胞を構成する構造の輪郭、イラストを描くときの線画の部分、すなわち「アーキテクチャ(構築)」については、説明がしやすく理解が得られやすい。ああそうかなるほどね、形がね。大きさがね、左右の非対称性がね、くびれっぷりがね。

しかし、実際の病理医は、アーキテクチャだけで診断を下しているわけではない。

色調。色ムラ。模様のざらついた感じ、あるいはしっとりとした感じ。均一性と不均一性。。

このようなテクスチャ(肌理:キメ)の部分が診断のかなりのウェイトを占める。ここは、じつは、医学生にはなかなか真似ができない。


ぼくはラパルフェのモノマネを見ながら、「プロの芸人がモノマネをするとき、たとえば絶妙なセリフを選んで言うというのはアーキテクチャの抽出なのだな」と気づいた。「あー、あのセリフね!」と、素人でも真似がしやすい。アイーン、どんだけ、おすぎです。

一方で、「そのセリフの前後にある間、口元以外の部分でどう表情を作るか、首をどの角度にするか、体をどれくらいのスピードで揺らすかみたいな部分はテクスチャのモノマネなのかもな」と思った。これは素人では真似ができない。

ラパルフェは、アーキテクチャだけでなくテクスチャを真似ている。それが、「番組をおもしろくするために元のVTRを何度も見て編集をして字幕を入れたディレクター陣」ですら気づかなかった「水曜どうでしょう出演陣の、出演陣らしさ」を抽出することにつながっている。


ぼくはラパルフェのモノマネをみているとき、ぼうっと、ディレクター陣はあたかも臨床医のようだ、と思った。患者(大泉洋と鈴井貴之)のことを見まくっていて、他者がわかりやすいように彼らの特徴を抽出し、それらに診断(字幕?)を付け、テンポを整え、ときにディレクションして方向性を見せ、ときに伴走して二人三脚で憩いというゴールめがけて進んでいく、そんな姿が、あたかも患者を引っ張っていく臨床医のようだ、と思った。

そしてラパルフェのやっていることは、「患者のことは俺たちが一番よくわかっている」と豪語する臨床医然とした藤村忠寿・嬉野雅道両名の前で、「ぼくらの職能を用いると彼らにはまだこんな特徴があります」と、えぐい角度で「もっと、まんま」の部分を掘り出していく、それはまさに、病理診断のようだ、と思った。もちろん病理医だけがいても患者には一切の治療はなされないから病理医だけいればいいというものではない。しかし、病理医の「見方」を知った臨床医は、明日から患者にもっと優しく(?)接することができるだろうなあと思ったのだ。

ああつながった。よかった。うわっ今日の記事長ぇ。キモ。