2022年7月29日金曜日

病理の話(682) 学会のセッションあれこれ

うー。いそがしいぞ。


「日本デジタルパソロジー・AI研究会」の2022年定時総会( https://jsdp2022.com/ )で、「パネルディスカッション」の司会をやることになった。さらに、来年の日本消化管学会、日本胃癌学会、日本消化器関連学会週間(JDDW)で相次いで「シンポジウム」に出ろとのお達しがそれぞれ違うところから一気に来た。準備にあたふたしている。


ここで言う、「パネルディスカッション」とか「シンポジウム」といったカタカナは、社会の人の多くが「なんとなく聞いたことはある」と思うが、実際になにをやっているのかはあまり知られていないのではなかろうか。

そこで今日は、学会・研究会における「いろいろなイベント」の説明をする。



まず、ひとくちに学会や研究会と言っても、規模はさまざまだ。

政令指定都市などにある「国際会議場」を借り切って、1000人入るホールや100人規模の会議室などをいくつも同時に運用する場合もあれば、

ホテルの会議室(200人収容)で朝から晩まで同じメンバーでやりとりをする、というパターンもある。

そこで何をやるかというと、ざっくりまとめれば、「ひとつの場所に人が集まって、少数の人の話をみんなで聞き、場合によっては会場と質疑応答をする」みたいなやりとりである。

で、その、「誰かがしゃべってみんなが聞く」にも、バリエーションがある。



・講演(特別講演、招待講演、教育講演など)

・シンポジウム

・パネルディスカッション

・ワークショップ

・教育セミナー

・一般演題(口頭)

・一般演題(ポスター)



こんなところか。

以上の言葉は一般にも用いられるが、学術集会の場合、多少ニュアンスが増える。そこで、今の一覧に、しゃべる人が「偉いか偉くないか」という観点を加えてみよう。

(※あ、偉いというのはたとえというか、ちょっぴり皮肉も入っているかもしれないので、「そうか~偉いんだ」と正直に受け止めるのではなく、「偉いってことはなるほど年取ってるのね」くらいで読んで欲しい。)



・講演(特別講演、招待講演、教育講演など): 偉い or 超偉いまれに担ぎ上げられて偉くさせられている

・シンポジウム: 業界のエース級たまにめちゃくちゃ偉い

・パネルディスカッション: エース級

・ワークショップ: エース級が多いが若手のホープのこともある

・教育セミナー: 偉い、もしくは偉さを通り越して実績がいらなくなった仙人

・一般演題(口頭): ふつう

・一般演題(ポスター): ふつう(やや若い)



次に、そのような人たちが何をするかを書き加えよう。



・講演(特別講演、招待講演、教育講演など): だいたい偉いまれに担ぎ上げられている人がステージにひとりで上がって、数百人クラスの聴衆を相手に、自分の業績や医学の最新の動向などを自分なりにまとめて1時間前後しゃべる。座長と呼ばれる笑点の司会みたいな人がステージの片隅で話を聞いていて、最初と最後に司会っぽくしゃべる。

・シンポジウム: 業界のエース級たまにめちゃくちゃ偉い人が、数人呼ばれて、決められたテーマに沿って15分とか20分くらい、ほとんど講演じゃんというくらいに自分の実績などを自在にしゃべる。人数分。それが終わったら各演者の発表をもとに「全体討論」をすることもあるが、時間が足りなくて省略されることもある。

・パネルディスカッション: エース級の人が、数人呼ばれて、決められたテーマごとに「立場に分かれて」、立場Aの人が15分、立場Bの人が15分、みたいに順番にしゃべる。そして「全体討論」をする。この全体討論は省略できない(省略するとシンポジウムと区別がつかなくなる)。けどたまに省略されることもある。

・ワークショップ: エース級が多いが若手のホープのこともある人が、数人呼ばれて、決められたテーマに沿って15分とか20分くらい、自分の実績などをしゃべるので、ぶっちゃけシンポジウムとやっていることはほとんど変わらないのだけれど、シンポジウムよりも少し「若い発表」のことが多くて、演者のミニ講演じゃん……というほどは講演っぽくないというか、つまりはなんか、シンポジウムばっかりだと学会っぽくないから一部はワークショップにしとこ、みたいな感覚がある。全体討論というよりも座長(笑点の司会)が全員にツッコんでいくみたいなことをよくみる。けど学会によってはほとんどシンポジウムだったりする。

・教育セミナー: 偉い、もしくは偉さを通り越して実績がもうあまりいらない人が、若手や現場の医療者達の役に立つ内容を普通に講演する。その内容は一度どこかで話したものであってもよい(なにせ教育だから)。したがってすごく役に立つ。どちらかというと「誰か偉い人を呼んできてしゃべってもらう」というよりは、「学会が常備している”しゃべれる先生”をここぞとばかりに繰り出してみんなに勉強してもらう」みたいな感じなので、やっていることは講演なのだけれど実績としては若干評価がされにくいというか、もう業績なんていらないくらいに偉くなりまくった人が余力でしゃべっていることもある。そうじゃないこともある。

・一般演題(口頭): ふつうの医療者が、何人も順番に出てきて、それぞれが自分で調べて研究した成果などを7分とか10分といった短時間でしゃべり、会場から質問を受けたり、座長(笑点の司会)がツッコミを入れたりする。いわゆる「普通の学会発表」はこれ。

・一般演題(ポスター): ふつう(やや若い)の医療者が、自分の研究成果などをフスマくらいのサイズの大きな紙に印刷して、コミケの会場みたいなイメージの会場に何百人も集まって専用の会場にポスターを貼りまくる。学会参加者は好きな時間にそれを見てまわる。決められた時間にポスター作成者は、自分のポスターの前に立って、道行く人に質問を投げかけられそれに直接お返事したりする。わりとおもしろい。ポスターだけ貼って、説明の時間に逃げてしまう人もいる(貼り逃げ)が、学会実績としては登録されるけれどそれだとつまらない。勉強にならない。貼り逃げは卑怯



あんまり書くと怒られるのでこのへんにしておく。ぼくは医者19年目であり「経験年数的にはエース級じゃなければ困る」レベルなので、最近パネルディスカッションやシンポジウムなどの演者としてお声がけいただく機会がふえはじめた(※優秀な人だともう少し早く声をかけられている)。でも一般演題も大事なのでこれからも研修医などといっしょにときどき演題を応募し続けたい。がんばって学術に貢献します。

2022年7月28日木曜日

ゆがみ一刀

雨に濡れて1分後に「はっくしょん!」はなかなかないですからねえ~。


ポッドキャスト「熱量と文字数」に出てきたこの一言に、ぼくは唸った。「アニメゆえの文法」についての話である。

梅雨時、びしょぬれになって軒下に逃げ込んだ女子高生が、すかさずくしゃみをするシーンは何度も描かれているようだが(ぼく自身はあまり見たことがないが)、現実にはそのような人はいない。水に濡れてもすぐに体は冷えないし、鼻からしずくを吸い込まない限りたかだか1分程度でくしゃみは出ない。しかし、「はっくしょん!」が総体としての情景をまるまる伝える表現であることは、おそらく間違いない。「目に浮かぶようだ」。

ちなみに、舞台演劇でこれをやられるとたぶんすごく冷める。創作ならなんでも許容されるわけではない。アニメだからこその表現なのだろう。


***


ぼくはアニメをそんなにいっぱい見てきたわけではないが、アニメというジャンルの特異性のひとつは、「パースを意図的に狂わせることで見るものの印象を操作する表現」にある気がする。アニメでは必ずしも現実の風景がそのまま写実的になぞられているわけではなく、さまざまな「狂わせ」が仕込まれている。現実には歪むことがないパースをこっそりと歪ませ、それによって視聴者は、たとえば「あたかも自分の立ち位置が画面に近寄っているかのような錯覚」を受けるし、「登場人物たちが体感(錯覚?)している世界のゆがみを、登場人物たちの体に入り込んだかのように体験」することができる。パースが歪むと、「視座」がずれる。


「視座」の移動は、テレビドラマや演劇、あるいは写真でも用いられている技法なのかもしれないが、これらの実写映像表現が操作するのは基本的に「視座」ではなく「視線」のほうではなかろうか。視聴者はあくまで客席、あるいはテレビ・パソコンの前に座ったまま、画面のどこかを見るべく「目を動かす」。その視線を自在にコントロールするためのさまざまな技法は、実写作品にも確かに存在する。しかし、「視座」自体が動かされることは少ないように思う。体感型IMAXシアターのように「映像に没入する体験」をうたうサービスもあるが、逆にいえば、シアター側をいじらないと没入までたどり着けないということだ。「いやいや実写映像でも、思わず酔ってしまうくらいの没入映像はあるぞ!」などと言ってCGてんこもりの映画を紹介されてもなあ、という気持ちもある。「気づいたら主人公の心情に自分を重ねていたよ」というのはあくまで精神の没入であって、身体的な視座までずれたかのように感じる経験は、実写作品ではあまり味わえないように思う。


アニメは、「視線」の誘導も行うが、加えて、「あたかも本人の位置が客席からスクリーン側に近寄るかのような」、「テレビ前からいつのまにかテレビの中にいるかのような」視座自体の誘導を他よりも強めに行っている印象がある。カメラワークやライティングだけでは達成することが難しい、現実にはありえないパースの歪みを用いて、現実には寄り切れない場所まで近寄ったときの光景を錯覚させるという表現。


そしてここでようやく冒頭の話に戻るが、アニメではパースだけではなく、時間軸も意図的に歪ませているのであろう。くしゃみが出るのは現実には体が濡れてしばらく経ってからかもしれないけれど、そこをあえて歪ませて、軒下に入って1分待たずに「はっくしゅん!」を描く。これは描写のための歪ませなのである。本来であれば「間が空く」はずのできごとどうしを近接して描くことで、ナラティブの起伏が強調され、アニメの時間に現実にいる視聴者が急速に没入していくのである。

ここで言う「間を歪ませること」は必ずしもアニメだけに特有の文法というわけではなく、それこそ舞台演劇やテレビドラマなどでも頻繁に認められるが、舞台やテレビなどではあまりわかりやすく間が調節されていると「現実離れ」の感が出やすいように思う。興ざめするというか。何事にもさじ加減とバランスが大事である。しかしアニメの場合はわりと大さじを使って、しっかりと味付けをされているものが目立つ。

なぜアニメでは「実写より強く歪ませること」が許されるのかというと、「意図的な歪ませ」が時間軸情報以外にも大量に存在するためではなかろうか。パースだけでなく、たとえば目のサイズ、発声方法といった身体的(?)な描写から、科学技術のようなバックグラウンドにかかわるもの、脳内風景がカットインやナレーションで表現できることなど、アニメの中には無数の歪みがあり、これはあたかも脳内で再構成された記憶の歪み方のようだ。



実写映画のキャッチコピーでよく見るものに、「ありふれた日常が少しずつ歪んでいく――」のようなものがある。実写はやはりお作法として「少しずつ歪ませる」ものなのだろう。一方のアニメは「思い切って視座ごと引き寄せてぐいぐい歪ませる」部分に味わいがある。実写は見るものに作為的な歪みをいかに気づかれないかに心をくばり、結果としてそれを見た人の心の中に大量の「歪ませられた記憶」を蓄積していくものであり、アニメは見るものに「この歪みを見てくれ!」と堂々と提示して、視聴者の心の中で元から歪んでいた何かに静かに寄り添うような印象がある。以上はすべてぼくなりの視座からぼくなりの視線で観察した歪みに歪んだアニメの話である。

2022年7月27日水曜日

病理の話(681) 役に立つか立たないか

病理AI(人工知能)の開発を手伝っていたとき、「これが診療の役に立つのはいつのことかなあ」という疑念が何度かわいてきた。今日はその話をしよう。



そもそも、病理AIの開発とは?

「病理診断」が、どのように行われているのかを細かく分析し、その過程のいたるところに「AI」という道具を導入することで、新しくできることがないか、あるいは効率がよくならないかと、試行錯誤していくことを言う。一般的には道具そのものを作る作業だと思われているけれど、本当はもう少しいろいろなことをやっている。

そう、「AI」とは、道具。

これがたとえば「ハンマー」とか「ノコギリ」のような、単純な構造をしている場合は、ハンマーをどの角度で振り下ろせば釘が効率的に打てるかとか、ノコギリをどれくらいの力で引けば木がきちんと切れるか、みたいなことを検討することで、すぐに大工仕事の効率が上がっていくのだが。

「病理AI」はもうすこし、いや、かなり複雑な道具である。だから研究者の中には、「AIってのは単なる道具じゃないなあ」と感じている人もかなり多い。

木を切る例で言うなら、ノコギリではなく電動チェーンソー、それも切る場所やスピードを勝手に調節してくれるさまざまな機能付き……みたいな感じだ。途中からなんだかロボットとかアンドロイドのイメージもかぶってくる。



さまざまなメカニズムが折り重なっていて、そのメカニズムひとつひとつに「開発」の芽が眠っているし、メカニズムどうしのバランスを整備していく作業も必要。

つまり、「AI開発」と一言で言っても、そこにはものすごくいろいろな研究が含まれている。

さきほどのノコギリ・チェーンソーの例に戻って考えよう。チェーンソーに対する研究とは?

たとえば、

「チェーンソーの歯を効率よく研ぐための石を採掘するためのショベルカーの運転免許をとるにあたって必要な運転免許試験場に配備する練習用の重機の組み立て方」

を研究している人がいたりする。

チェーンソーの歯を効率よく研ぐための石を採掘するためのショベルカーの運転免許をとるにあたって必要な運転免許試験場に配備する練習用の重機の組み立て方を新たに考え出した人が、「自分はチェーンソー開発に携わっている!」と言うことは、間違ってはいない。

しかし、はたからみると、「えっそれ、重機の組み立て研究じゃないの?」としか見えないだろう。

思わず、「それがチェーンソーで木を切る役に立つの?」とも言いたくなってしまうだろう。

ノーベル賞受賞者にメディアの方々がインタビューするときに、「それは何の役に立つのですか?」という質問をぶつけてしまうのと、本質的には同じ構造なのだが、実際に病理AI開発に携わっていると、うん、無理もないなあ、と感じることもある。



研究の最先端だけをクローズアップして見ると、「これってチェーンソーとは似ても似つかない重機の話じゃん」となってしまうし、「その重機を組み立てられるようになったからって、今ここにある木がうまく切れるわけじゃないよね?」とつっこみたくなる。しかし、つながっているのだ。それは必ず診療につながっている。かなり俯瞰して、かなり未来を読まないと、自分が今やっていることがいつか患者の役に立つとはなかなか考えがたいのだが、それはいつかどこかで役に立つ……し、ま、ぜんぶひっくり返すようなことを言うと、「役に立たなそうであっても研究開発することはいいこと」なのだ。


だって、重機の組み立て方を研究したら、チェーンソー以外にもなんかとんでもないところで応用が利くかもしれないだろう。それに、重機の組み立て方そのものだって、知的好奇心を刺激するものに違いはないのである。

2022年7月26日火曜日

松木安太郎はぜんぶやった

今日はやることがあんまりないなーと思っても、いざ出勤してみると、深夜にメールが届いていてそれに返事をするとか、電話がかかってきて問い合わせに答えるとか、新しい仕事の依頼が来てto doリストを書き直すとか、まあなんかそうやっているうちに午前中が終わっていく。

今の「午前中」の部分を「人生」に置き換えるような文章をたまに読むのだけれど、人生は「まあなんかそうやっているうちに」で言い表せるほどでもないなと、今のぼくは考えている。わからないが。





忙しくてもヒマでも落ち着かないように脳はできている。

情報=ボールが飛び込んできて、それを脳の中でいったんキープ=ドリブルして、少しピッチを移動してから誰かにパスなりシュートなりをしていくのだが、このとき、ボールが複数飛んでくると大道芸みたいになる。脳がパンクする(ボールもパンクすることがあるがそれはやばい)。でも、ボールがまったく回ってこないとそれはそれで「なんで俺ゲームに出てるんだろう」みたいな気持ちになる。そういうめんどくさいサッカー選手みたいな性質が、脳にはある。





立場がつくる仕事量。

若いころはとにかく自分で仕事をとってこなければ「ボールが回ってこないサッカー選手」である。出場機会を得てもパスがこないとアピールできない。ルーズボールを奪い取りに行くとか、高い位置からプレスをかけてパスカットをするとかして、なんとか自分の足元にボールをおさめて、そこから無駄に個人技で魅せてからなるべくシュートでプレーを終える。すぐパスすると見せ場にはならない。多少遠い位置でもロングシュートを狙う。結果的に、シュート精度があまりよくなかったり、決定的な場面でパスが遅れたりするけれど、「あーあいつがんばってんなー」というのを、監督やコーチ、同僚は、まあそれなりに、見ている。

で、試合出場機会が増えて、ポジションが「要」に落ち着いてくると、黙っていてもパスは来るようになるし、「パスの来やすいスペースにあらかじめ走りこんでおく」くらいの知恵もつくようになる。敵のマークを外してからパスをうけないと、いざパスが来てもディフェンダーに競られて前を向けなかったりする。経験が増えるにつれて、パスを受けた瞬間の「最初のトラップ」が上手になり、ワンタッチで敵を二人かわしていい体制からいきなりシュートを打って決める、みたいなことも可能になる。ファンタジスタみたいな、ゴラッソ的なゴールも決まる。もちろん敵のマークはきつくなる。

ベテランとなるとプレーはシンプルにせざるを得ない、なぜなら体力が落ちてきているからだ。しかしベテランなのにピッチに立っている人というのはその経験と実力を買われているわけで、パスはいつも決定的な場面で自分にやってくるし、敵も自分の癖を知り尽くしているからいやな守りをしてくる。それに対して、すごく運動量を増やして走ってぶっちぎるみたいな攻め方はできないので、芸術的なダイレクト、顔を振って視線で誘導するだけの高度なフェイントなどで、「テレビで見ているといとも簡単にやっているような、でも実際には技術と経験が詰まったシンプルなプレー」で、最小限の動きで最大の結果を出すようになる。さらにはゲームの経験が長い分、ピッチにいるほかの味方をうまく使うやり方を熟知しているので、サイドを変えるとかオーバーラップを待つとか、双方の息が抜けた瞬間にスルーパスを出すといった、「えっそこでそんなやりかたが!」みたいな技術も身に着けている必要がある。というか、身に着けていないとベテランでピッチに立ち続けるのは無理だ。足の速いだけの若手にポジションを奪われることになる。「昔の、がむしゃらでサッカーを知らなかったころの自分」にポジションを奪われるほうの立場になっている。

選手としての寿命を終えてコーチになる。すると自分が担当していた以外のポジションの選手を今まで以上に見なければいけなくなる。センターバックは基本的に敵のピッチ側(180度)を見て対処をするが、ボランチやトップ下の選手は自分の周囲360度すべてとパスのやりとりをする必要があるし、フォワードだといかに前を向いてゴールを狙うかが求められる場合と、逆に味方のほうを向いてポストプレーをする場合とで戦い方を微妙に変えなければいけない。現役時代はこのどれかを選任して担当していたのに、コーチになると全員に的確なイメージを与えなければいけないし、やり方がわかっていない人には自分がお手本となって重心のとりかたや体の動かし方を指導していく必要がある。監督から話しかけられる、スカウトから電話がかかってくる、控え選手から相談をうけ、レギュラーのメンタルサポートをカウンセラーと詰める。







仕事がないなーと思っていちおう出勤した朝のぼくの忙しさはさしづめ「コーチの忙しさ」なのだ。プレーしているわけではないけれど目配りする範囲が広くてやることが多い。その後、ルーティンワークがたまってくるときのぼくはエース……いや、すでにベテランのやり方をしなければいけない感じである。夜になって学会や研究会の病理解説や講演の仕事が入ると、重い体に鞭を入れながらエースの気持ちに戻る必要がある。若いころのぼくを見ていた監督やコーチの顔を思い浮かべている。今日のブログは解説者として書いている。

2022年7月25日月曜日

病理の話(680) サイトメトラーEIJI

細胞を顕微鏡で診断するのが「病理診断のキホン」である。しかし、じつは顕微鏡以外にも、病理医が使えるツールがある。

たとえば「フローサイトメトリー」だ。

フロー:流れる
サイト(cyte, cyto):細胞
メトリー:はかる、計測する

という意味で、直訳すると「流れる細胞を測る」。どういうものか説明しよう。



あなたは今、手に「おにぎり」を持っている。そのおにぎりは、五穀米でできていて、米のほかに麦、キビ、アワ、そして豆が混ざっている。食感が楽しくておいしい。

おいしいのはよいとして、「この中に入ってる『豆』ってなんの豆なんだろう」と気になった。

その場合、おにぎりを少しくずして、いわゆる「米つぶ」をいくつかピックアップして、その中から豆を探して顕微鏡で拡大すればよい。「どんな豆が入っているか」は、それでわかる。

しかし……「おにぎりの中に、米、麦、キビ、アワ、豆がどれくらいの比率で含まれているか」は、顕微鏡で見てもわからない。



これと同じ事は、細胞を検査する際にも言える。

病変部に見られる上皮細胞、線維芽細胞、炎症細胞、血管内皮細胞ほか、さまざまな細胞の中から、「上皮細胞がどのような性質を示しているか」は、顕微鏡でわりとはっきり見定めることができるが……。

Tリンパ球、Bリンパ球、樹状細胞、マクロファージ、NK細胞が「どれくらいの比率で含まれているか」は、おにぎりを顕微鏡で見てもツブの割合がわからないのと同じで、顕微鏡ではなかなかチェックできない。いや、ま、うまくやるとできるのだけれど、コツがいるし、毎回できるわけではない。



\そこでフローサイトメトリーを使う!/



(1) まずおにぎりをばらばらにほぐします。

(2) つぎにツブツブを一つずつパイプに流します。流しそうめんみたいに。

(3) そして流れてきたツブが何なのかを、その都度、高速で判定する。米麦米キビ米米豆アワアワ麦米!

(4) 最後に量比を出す。今回の五穀米にはわりと米がいっぱいふくまれていました。



これぞまさに、

フロー:流れる
サイト(cyte, cyto):細胞
メトリー:はかる、計測する

という検査である。べんりだよ。

なお、皆さんお察しの通り、この検査を一回やってしまうと、「また元のおにぎりに戻すことは不可能」となる。したがって、細胞の成分比はわかるのだが、それらがどのように配列しているのかは確認できない。

したがって、実際の医療現場でわれわれがこのフローサイトメトリーを行う際には、患者さんから採ってきた検体を「すべて使わず、一部だけつまんで、それを粉々にして流しそうめん的検査にかける」。のこりは砕かずに、顕微鏡でみるのだ。病理医もけっこういろいろ工夫しているのである。

2022年7月22日金曜日

サブミットをくり返すということ

先日、AIエンジニアといっしょに投稿した論文が、不受理(うちの雑誌ではこれを載せるための検討をできませんよ、という通告をうけること)であった。

不受理という言葉からは「ふじゅり…」と湿気を感じる。しかし実際にはreject(リジェクト)という英単語で言い表すことが多く、どちらかというと乾いた打撃を思わせる語感である。

学術論文は、苦労して書き上げてもけっこうな確率でリジェクトされる。雑誌にもよるが、投稿された本数の8割を門前払いならぬ門前リジェクトしているのが一般的だ。では、リジェクトされなかったらそれでOKかというと、そうでもなくて、編集部のOKをもらうと今度は複数の「査読者(さどくしゃ)」と呼ばれる人たちによる審査がはじまる。査読・審査のことをreview(レビュー)とも呼ぶ。

レビューの結果、論文のここのところがわかりにくいから直せとか、ここは議論がこんがらかっているからわからないとか、そもそもお前らの言うことは本当に正しいのかといった指摘がやってくる。

この指摘に対して、返答の手紙を書き、論文を書き直して再投稿し、また査読を受け……というのをくり返して、最終的に「受理」されれば、ようやく学術論文が業績になる。

受理という言葉からも「じゅり……」と湿気を感じる。しかし実際にはaccept(アクセプト)という英単語で言い表すことが多く、なんとなくではあるが乾いた打撃を思わせる語感である。


ちなみに……論文を投稿することをsubmit(サブミット)という。
投稿という言葉からは「とうこう……」と、やや硬い物性を思う。しかしサブミットという英語からは、なんとなくではあるが、少し粘性の高まった物体の中に何かをめりこませたときのような語感を覚える。




***




先日、『映像研には手を出すな!』の最新第7巻を読んだ。すばらしかった。文句なし。

この7巻を読んでいる最中、ぼくは、「浅草氏が世界に対して何かをサブミットしている」ところを思い浮かべていた。

以下、最新刊のネタバレである。核心には一切触れないが確実にネタバレなので注意してほしい。

浅草氏というのは主人公のタヌキでありドラえもんだ(これはまあネタバレではないと思う)。

アニメでは声を伊藤沙莉があてていた。よい演技だった(これもネタバレではないと思う)。

浅草氏はやりたいことをやりたいようにやる。しかしその結果を、ある人物に「わかりにくい」と評される。

浅草氏は「リジェクト」を感じて打ちひしがれ、さまよう。

しかし浅草氏はそれが「リジェクト」ではなく「レビュー」なのだということをわかっている。

だから浅草氏は、自分のやることが「誰かにわかられるかどうか」という目線で、自分の作るものを調整していく。

「やりたいことをやる」のと、「わかってもらえるようにやる」のとを両立するのは難しい。

しかしそこを、深く、鋭く、調整し続ける。

サブミットして、リジェクトに近いレビューを受けて、応答するために懊悩し、リ・サブミット(再投稿)をこころみる。





少し粘り気があって、沈み込むような、縁日のスライム、あるいはヨギボー的な物質の中に、自分で作ったものをドスン、ドスンと打ち込んでいく。サブミットをくり返すということ。

それはとても美しいことなんだなとぼくは思った。ぶちのめすまでやるのだ。

2022年7月21日木曜日

病理の話(679) 将来の悪を予想する

ある病気についての相談を受けている。メールしてきた相手はほかの病院に勤める医者で、ぼくと一緒の病院で勤務したことはないが、各種の学会・研究会でこれまで顔を合わせてきた先輩だ。

この方は、ときおり、病理診断でわからないことがあるとメールしてくる。

メール受信したときに差出人欄にその方の名前が見えると、「ぐっ」と緊張する。なぜなら、この方の疑問は、なかなか一言でズバッとお答えすることができないような「難問」が多いからだ。


今回はこのような質問だった。


「先日、ある患者の病気をとって病理検査に出したら『○○』という診断が来た。論文を調べてみると、『○○には、まれに悪性のものがある』とのことだ。では、今回の病気は、良性なのか悪性なのか、どちらなのだろうか?」


うーむ大変だ、しっかり調べてお答えしよう、とぼくはあちこちの教科書を引っ張り回す。


この方の疑問に答える前に、少し用語の解説をしておこう。



・「患者の病気をとって」というのは、病気がカタマリになっているので、手術でとりきることができたということだ。あたりまえじゃん、って? いや、そうでもないよ。たとえば「糖尿病」は手術でとることができない(カタマリをつくらない)病気ですよね。

・良性、というのは、「とってしまえばそれで根治する」という意味である。

・悪性、というのは、「放っておくと、あるいは手術でとったつもりでも、再発したり、ときには転移するなどして、最終的に患者の命にかかわるかもしれない」という意味だ。さらっと書いたけど、「悪性イコール死ぬという意味ではない」ので気を付けて欲しい。「かもしれない」なのだ。「悪性であっても早い段階で見つけたら死なないかもしれない」。

・良性か悪性かというのは、基本的には「診断名」と切っても切れない。たとえば、「がんです」と診断されたらそれはイコール悪性ということだし、「過形成性ポリープです」と診断されたらそれはイコール良性ということである。診断をくだすという作業は、通常、「良悪を決定する」ことを含んでいる。

・でも、まれに、「○○」という診断がついただけでは「良性か悪性かわからない」、つまり、その患者が今後どうなるかが予測できないということがある。

・今回はそういうケースだ。




診断とはなんのためにするのか? 医者が満足するため? 患者が納得するため? いやちがう、「この先どういう治療方針で行くかを決めるため」である。

より根本的なことを言うならば診断とは未来予測だ。「あなたはもう治りましたよ」「あとはもう放っておいて大丈夫ですよ」という宣言や、「あなたはここから治療をしたほうがいいですよ」「手術をしたあとも毎月病院にきて検査をしたほうがいいですよ」という宣言がある。これらを病名という言葉でまとめたものが診断だ。

しかし、未来は、予測できないことがある。

だって未来だからだ。

病気の診断を天気予報といっしょだというと怒られるし、不安になるかもしれない。でも、本質はそういうことなのである。未来のことを予測してそれに備えるための「診断」だ。

そして、未来はいつも予測できるとは限らない。



先にことわっておくと、病理医が「がん」と診断したもののほぼすべては、統計をとっても、遺伝子をしらべても、顕微鏡で細胞の動向を確認しても、「悪性」と判断できるだけの十分な根拠がある。病理診断は、「未来なんて絶対わからない」というたぐいの予測ではない。今の日本の科学力だと、翌日の天気予報がはずれることがまずないのといっしょで、「良悪のどちらかを決めること」自体は、かっこたる証拠がいっぱいあるので、ほとんどの場合は迷わない。


でも、「まれに」あるのだ。良性とも悪性とも決めきれないような微妙な病気が……。




そういうとき、病理医は、多くの文献を参照しながら、顕微鏡の中にあるマニアックな「所見」を集めていくことになる。


細胞密度:病気をかたちづくる細胞が、どれだけ「密」にそこにあるか。密であればあるほど、「急いで増えようとしている」ことの間接的な証明となる……ことが多い。

細胞形態:細胞そのもののかたち。本来、細胞は適材適所で、場や機能に応じたかたちをしているものだが、それが崩れている(役割を忘れている)かどうか。

核/細胞質比:細胞をかたちづくるプログラムが入っている核(司令室みたいなもの)と、細胞質(細胞の手足にあたる部分)との比。一般に、核ばかりがでかくて細胞質が相対的に小さいと、あたまでっかちで機能がないということになり「やばみがある」。

核の色調と核小体:通常、病理医がもちいる染色(H&E染色)では、核内にあるDNAの束を青紫色に染めているのだけれど、この染まり方が違う場合、細胞がなにやら「まずいプログラムを大量に走らせている」のではないかと推察できる。

多形性:同じ病気の中にある細胞を見比べたときに、こっちとあっちでまるで形状が違う場合はけっこうやばい……とされる。ただこれは判断のしかたがやや特殊なので短い日本語だけでは説明がむずかしい。

多数の核分裂像:増える気まんまん!

壊死:病気の中で不規則に「細胞が死んでいる」ときは、その病気がいろいろ内部統率が取れていないことを意味する。アウトレイジ感。



これらの項目をぜんぶ確認して、なお、「良悪どちらかわからない」というケースは存在する。

しかし、「調べずにわからない」のと、「調べても確定的な所見がでてこないので決めきれない」のとでは、ニュアンスが違う。

今回の病気では、「このような見た目だとより悪性を考える!」というチェックリストがぜんぜん埋まらなかった。悪性のかっこたる証拠はない。

その上で、「さまざまな文献を参考に細胞を確認した結果、悪性とは言えないが、絶対に良性と言うだけの根拠もない。再発がないかどうかをチェックしたほうが患者も医者も安全ではないか」という結論を用意する。

あやふやで、議論が必要ではあるけれど、まずは病理医の立場からそのように述べる。



天気予報でいうところの、「降水確率何パーセントだったらどういう靴を履いていくのか」という判断に似ている、かもしれない。絶対雨が降る(あるいはすでに降っている)なら傘も持つし靴も水が浸みにくいものを選ぶだろう。しかし、降水確率20%となると人によって判断の仕方は変わるだろう。ここからは価値観をすりあわせながら相談するフェーズだ。医療者と患者が納得できるところまで話を詰めるために、病理医はひたすら「議論のタネになる素材」を集めて提示するのだ。

2022年7月20日水曜日

むらびとのくせに生意気だ

これまでのぼくは、自分のレベル上げをずっとがんばってきた。ファイガがあれば便利なんだけどなーとか思いながら。ケアルガほしいなーとか思いながら。

いつのまにかレベルは50を超え、フレアを覚え、ホーリーを覚え、メルトンも覚え、消費MPを1/4にするアイテムも手に入れ、そしてじつは、通常攻撃の威力が強くなりすぎており、8回攻撃とか当たり前で、魔法自体あまり使わなくても敵が倒せる。

ぶっちゃけもう十分だと思う。これ以上レベルをあげても、ゲーム性は損なわれる。

ボスにダメージを与えるごとにセリフが出るタイプの戦闘で、一撃でボスのセリフ数回分をぜんぶ表示させてしまうような、興ざめ展開。

自分というキャラクタひとりのレベルを上げることで、ゲームクリアは余裕になった。しかし、気づけば物足りなさがつのる。

このままクリアはできるがエンディングがさみしい気がする。




話は変わるがRPGでは、すべての「むらびと」に話しかける派だ。でも、たいていの「むらびと」は、同じことしか言わない。

町、村、城のあちこちにいる人びと。

みんな同じことしか言わない。

ただし本当は、セリフが一つしかない「むらびと」にも人生がある。

プレイヤーであるぼくには腹の内を見せてくれないというだけだ。

「ここはアリアハンだよ」の人は、「ここはアリアハンだよ」しかしゃべれないわけではない。ぼく以外の町の人がしゃべりかければ、時候の話題にも乗るし陽気に笑い合ったりもする。

しかしぼくという「勇者」に対しては、「ここはアリアハンだよ」という仕事のセリフしか告げない。

レベル上げをしてボスを倒すためにやってきた「勇者」なんて、「対・勇者用のセリフ」であしらえば十分だ。

勝手にレベルを上げて勝手にボスを倒してゲームをクリアしてしまう「勇者」に、「むらびと」は心を注がないし、人生を分け与えない。




最近、自分が「勇者」になっていないかということが気にかかる。

おはようございます。おつかれさまです。今いいですか。これどうしますか。わかりました。ありがとうございます。お先に失礼します。

ぼくは今、ちゃんと会話できているだろうか。

彼らの人生をシェアしてもらえているだろうか。

「ボスを倒せばみんな平和になるよ」と、ファンタジー的な思考で、世界の登場人物たちを勝手に「むらびと」呼ばわりして、「ぼくにセリフ1個2個しかくれないやつら」などと見当外れなレッテルを貼り付けながら、「レベルを上げれば殴って倒せる程度のボス」を相手に延々と戦いを挑んではいないか。

レベルカンストしてもモンスターしか倒せない、「勇者」……。





いや、そうだな、うーん。

勇者ならまだいいんだ。

ぼくはじつは「レベルカンストしたむらびと」ではないか。

クリアなんてない。

ボスもいない。というかたどり着けない。行動範囲内は町の中だけだ。

それなのに、「おはようございます」や「ありがとうございます」しかセリフをもらっていない。「勇者のように冷たくあしらわれるむらびと」だとしたら、どうする。



別にどうもしないけど、なんかもう少しサブイベントをがんばろうかな、とか思ったりもする。

2022年7月19日火曜日

病理の話(678) ミルクティーからタピオカの味を予測する

肝臓、骨髄、肺、リンパ節……。

臓器の中に、病気ができることがある。

患者が病院に来た理由はさまざまだ。高熱が続いたとか、寝汗がひどいとか、全身が異常にだるいとか、あるいは症状は特にないのだけれど健康診断で超音波検査をやったらたまたま見つかった、とか。

そこで医者が患者と話をし、ねんいりな診察を行い、CTやMRIなどの画像をとって、どうも臓器の中に「原因」があるんじゃないかと目星をつけたとする。

そこで、病変部から細胞を採取する。皮膚に麻酔をかけて、中が空になった針のようなものを刺して少量の細胞をとりだしてくるのだ。

それを病理医が顕微鏡で見る。そして病気の正体を明らかにする……。


のだけれど。


ここで、「狙って細胞をとりにいったけれど、うまくとれてない」ということがあるので、難しい。

サンプリングエラー。「とれなかった」ってことです。

これ、本当に悩ましい。患者にとっても、医療者にとっても。



そもそも針を刺すってけっこうなことじゃないですか。患者も最初説明を聞いたときはびびると思う。麻酔するし、血もそんなに出ないし、わりと安全ですから、なんていって、ハラハラしながら検査を受ける。とった細胞を病理に提出。数日、長いときには1週間とか2週間待って、結果を聞きに病院に行くと、「とれてませんでした」ではズッコケであろう。


なんでそんな残念なことが起こるのだろうか? いくつか理由がある。一気に図解する。




ある臓器に病気がカタマリを作っていることを、超音波などで確認してその場所に針を刺す。うまく病変内部に針の先がとどけば、細胞を取れる。これが成功パターンだ。

ところが、いつもいつも病気の場所がはっきり目に見えるわけではない。

たとえば、腫れ上がったリンパ節に針をさしてみたが、じつは病変はリンパ節のへりの部分にしかないために、針があたらなかったというケースがある(失敗1)。

また、病変が硬くて、「可動性がある」ために、針を刺そうと思っても病変がつるりと逃げていくパターンなんてのもある(失敗2)。


失敗1,2は、わりと事前に予測できるケースもある。対処はけっこう大変で、その都度いろいろな工夫を必要とする。


問題は失敗3だ。もう一度同じ図を貼るぞ。







ある臓器の中に、うっすらピンクの「病変」が広がっていて、針はたしかにそこに刺さっている。うっすらピンク領域は採取できた。しかし、細胞を見て診断をするためには、うっすらピンクの部分だけではだめで、赤い小さな玉の部分がとれている必要がある、というケース。

タピオカミルクティーにストローをつっこんでずずっと吸い込んだところ、タピオカが一つも口の中に入らず、ミルクティー成分だけ味わった。ここで、「タピオカはどんな味でしたか?」と聞かれても答えられないではないか。これが失敗3である。

専門的な用語であえて書くと、「壊死が豊富で、生きている細胞成分が少数散在性にしかみられない」とか、「背景に著明な線維化を伴い、細胞成分が少数しかない」とか、「粘液の産生が強く、細胞成分が採取されていない」というケース。



こういうときに病理医は、「ミルクティーの性状から、ある程度、タピオカを予測する」という技術を用いる。しかし、所詮は予測であって、タピオカそのものを見ているわけではないので、確定診断にたどり着けないことも多い。そのことを主治医に伝えて一緒に悩むのだ。

「どうする? このままだとミルクティー部分しか採れないよ」

「うーん、じゃあストロー少し太くするか……」

「それだと傷が大きくならない? 大丈夫?」

「うん、丁寧にやるよ」

みたいな感じの会話をするのである。現場でミルクティーの例えは使わないけれど。


2022年7月15日金曜日

怒りの窓と虫の心

政治についてのツイート自体は悪いとも思わないし、どんどんしていただければいい。ただし、それが冷静であるかぎり、の話。

世の中が選挙ムードになると、タイムラインに「冷静な議論が苦手な人たち」の割合が増える。選挙の前後でフォローの仕方を変えているわけではないのに、だいたいそうなる。しんどいなあと思う。


選挙があってもなくても、始終なにかに怒っている人たちというのがいる。自分の気持ちを『怒り』を介してしか外に出せない人だ。心の部屋の四方に、「笑い」「怒り」「分析」などと書かれた窓枠があって、たいていの人はそのいくつかを開けて外の空気を取り入れたり、外に向かって声を出したりするのだが、何かのきっかけにより、あるいは経験と慣れにより、「怒り」以外の窓を空けなくなった人。そもそも「怒り」しか窓を持っていないという人もいるように思う。

「怒り」を用いなければコミュニケーションがとれず、部屋の換気をする=自分の心の風通しをよくすることができない人たち。

そういう人に、「怒ってばかりだな、もう少しやり方を変えろ」と言うことを、最近のぼくは控えるようになった。あまりに容赦ない、救いがないと思うからだ。心に窓を造設するのはそう簡単なことじゃない。怒るしかないという人のありように対して、共感はしないまでも、理解はできる。そういう人は怒っていいのだ。ただしその怒りに巻き込まれたいとは思わない。


社会はそうした「怒りのかたちでしかコミュニケーションをとれない人」にも開かれているべきである。自分から見ると「筋の通っていない政策」をかかげている政治家が、街頭でひたすら対立政党の悪口を「怒り心頭」の風情でがなりたて、それに票を入れる人がけっこういるという事実がある。「なんであんな、怒りだけの人間に票を入れるんだ」と昔は思っていたが、今は違う。怒りどうしが手を繋ぐタイプのコミュニケーションは一種の「ケア」なのだ。選挙とはある種のケアを提供する場で、投票とは国民に与えられた、「みずからが緩くつながる紐帯を確認できるチャンス」なのである。怒りによるコミュニケーションは必要悪? いや、悪と言ってもいけない。多様な世の中の一部に純粋に「必要」なことなのだ。……鳥の目で社会を見た場合には。


そしてぼくは虫の目に戻って自分のことを見る。怒りのツイートは日頃ぼくのツイッターアカウントには届かない。そういう人をそもそもフォローしていないし、ぼくは怒りの窓を開けたくないタイプの人間だ。怒りの窓を開けるタイプの人はそのまま暮らしていてほしいが、できれば、ぼくのおうちの側に家を建てないでほしい。

実際、日頃はきちんと住み分けて、なんとかうまくやっている。

ところが、選挙前になると、ぼくがフォローしている人たちの一部が「誰かの怒りツイート」をRTするようになる。トレンドにもわりと「怒りによるコミュニケーション」が並びやすくなる。結果的に、これまで目にしなかった量の「怒り」をタイムラインで見かける。これがしんどい。SNSにおける選挙期間は、「怒りによってコミュニケーションするタイプの人を重点的にケアする週間」なのかなあと感じる。そのケアを止めてはいけない、と、鳥の心は理解しているけれど、虫の心に傷が増えていく。選挙が終わってしばらくすると怒りによるコミュニケーションの総量が少ない世界がやってくる。ぼくはほっとする。でも、選挙期間に活き活きとしていた人たちが再び心に澱んだ空気をため込んでいくだろうことを思って、喜んでばかりもいられないんだよな、と、いったん全ての窓を閉めて室内で音楽でもかけながら目を閉じて考え事をする。最近、よく、目を閉じて考え事をする。SNSはケアの場だ。誰に対してもそのケアは及ぶべきだ。しかし、種類の違うケアは、残念ながら、順繰りに、交代交代でなされていくべきもので、どこかをケアしている期間にはほかの箇所におけるケアが手薄になる。虫は一滴の水でおぼれてしまう。いつも鳥でいられればいいのだが。

2022年7月14日木曜日

病理の話(677) アナログのもろさを回避する

顕微鏡を使って細胞を見れば何もかもわかるなどというのは、幻想だ。

いろいろな困難がある。

たとえば、客観性を保つのが大変だ。「誰が何度診断しても、同じ結果になります。世界のどこで診断がくだされても、同じ診断になります」とならなければいけない。

「それはあなたの感想ですよね」と言われてはいけない。

ではどうするか。教科書の言う通りに診断すればいいだろうか? エライ人の言う通りの「所見」を探して顕微鏡を見ればいいだろうか?


いや……「見て考える」ときの主観は、そうカンタンには排除できないのだ。




たとえば、細胞を見やすくするための染色、H&E染色のことを考える。

染色とはすなわち染め物である。細胞を顕微鏡で見るときは、核や細胞質が見やすくなるように人工的に色を付ける。このとき、じつは、染色の「加減」によって、核の色を薄くすることも濃くすることもできる。

ところが細胞診断においては、「核の色が濃いから『がん』ではないか」といった評価も行う。すると、とうぜん、このような疑念がわく。


「細胞を濃い目に染色したら、なんでもない細胞でもがん細胞っぽく見えてしまうのでは?」


大正解である。濃いめに染色したH&E染色は、第一印象で細胞が「がん」に見えやすい。

ではそのような「誤診」を病理医はどうやって回避するか?


「色が濃い・薄い」のような、染色の程度によってどうとでもなってしまうような基準「だけで」診断をすることを避ける。


たとえば、核の形状が丸いか、少し角張っているかを見てみよう。輪郭は「色の濃さ」とは関係しないから、染色の度合いには左右されずに判断することができるだろう。

また、核のサイズにも着目するといい。実測すればなお確実だ。4マイクロメートルくらいの核と、20マイクロメートルくらいの核では、後者のでかいほうが、「細胞のやばさが強い」と考えられる。


ただし、これらの基準も、あくまで「併せ技」で見ていくことが望ましい。「核のサイズ」だけに頼っていると足下を掬われる。たとえば細胞を採取したときの状態が「少し乾き気味」な場合と、「ウェットなまま」な場合とでは、細胞のちぢみ具合(?)が変わるので、核のサイズにも変化が出る。核の輪郭を見る場合も、プレパラート上に乗った細胞の「厚さ」(※薄切の厚さ)によって、見え方が変わってくることを知らなければいけない。


病理医は、本当に、「油断するとすぐに主観的になる」。さまざまなダマしを乗り越えて、常に安定したクオリティで、確たる診断をしなければいけない。そのためには、細胞を見るときに「自分がどれだけアナログな感覚に頼っているのか」を自覚して、理屈でそこを回避する必要がある。できれば、その理屈は、すべて言語化しておくことが望ましい。言葉にするというのはほんとうに、客観的に何かを考える上では必須と言える技術だからだ。まあ、言葉にすればいいってもんでもないんだけどね。

2022年7月13日水曜日

ツイッターをはじめてからずっと増え続けていたフォロワー数が減り始めた。


ぼくはわりと、「フォロワー数は多いほうがいい」と思っているほうの人間である。さらに言えば、フォロー数が多いほうがなおよい。それだけ飛び交う情報量が増えるということだからだ。少数の人とじっくりやりとりをしたいならばSNS以外を使う。生活の一部にあえてSNSを使うからには、フォロワー/フォロイーが多いに越したことはないと(いまだに)感じている。

もちろん、SNSを狭く細く使うことも可能で、そのような運用に魅力を感じる人もいるだろう。ただぼくはそうではないということ。

そんなぼくにとって、SNSを続けていてフォロワーが減るということは、「原因くらいは考えておこうかな」という行動に自然とつながる。


なぜフォロワーが減っているのか。

近頃、ツイート回数が激減しているから。シンプルにそこに原因がありそう。

「毎日バカスカツイートすること」が他者にとっての価値だったのだろう。

テレビにもラジオにも新聞にも言えることだけれど、「毎日そこにある」というのはたしかに価値だ。ここで思わず「テレビでもラジオでも新聞でも」と例をあげるあたりが中年たるゆえんである。「スマホにも言えることだが」の一言でスマートにまとめればよかった。スマートホンだけに。



ツイッターをはじめたばかりの人が「何をつぶやいたらいいのだろう」というとき、別になんでもいいんだけれど、好きなものの話をするのがとりあえずは訓練として一番いいんじゃないかな、みたいなことを伝えてきた。そして自分自身が、好きな本の話を週に一,二度しかできず、増えすぎたフォロワーをじわりと減らしている今、初心に返って「ツイッターをはじめたばかりの人」を演じて再び好きなことばかりを熱心にツイートするかというと、それはおそらくやらないだろう。

仕舞いが見えてきたのだと思う。

過剰な接続を整理して切断をすすめ、増えすぎた思考の一部を仮固定して決定する前に実行し、自分なりの最前線に手を振って、SNS思春期ならぬSNS思秋期を過ごす。おどろくべきことに、SNSを生きるにあたっては、秋が一番長いのである。ここからが秋だ、根拠はないが、ぼくにはそれがわかる。

秋の過ごし方。

運動の秋と称して自分がこれまでに作ったつながりにバカスカカロリーを流し込むタイプの人もいれば、食欲の秋と称して満腹中枢ぎりぎりまで摂食するタイプの人もいる。ぼくは読書の秋を過ごすことにする。晴耕雨読は夏までだ。

2022年7月12日火曜日

病理の話(676) いきなり治療は学べない

「異常を知るためにはまず正常を知らなければいけない」というのは、おそらく、大学に入った医学生がさいしょに習うことのひとつではないかと思う。


医学生の多くは「患者を治すため」に医学部に入る。あえて「多くは」と書いたのは、全員が必ずしもそう思っているからではないからだ。「勉強ができるから医学部に入った」というパターンもある(はっきり言うがそれもまたすばらしい動機である)。ただし、そういう人であっても、「まあせっかく医学部に入ったんだし、患者を治すこともするよ~」くらいのことは考えている場合が多い。


で、医学部では人を治すことを教わるはずだと思っていると肩すかしをくらう。「治療学」にたどり着くまでにやることがすごく多いからだ。なんなら真の意味で治療を学ぶのは医師免許を取ってからである。医学部6年間のうちは、ひたすら、病気を知ることに精魂を注がなければいけない。そして、病気を知る準備として、医学部生活の序盤は、「正常の人体」を学ぶことであっという間に過ぎ去っていくのである。




ここで、膵臓(すいぞう)という臓器の話をする。

膵臓は、だいじに使えば高齢になってもほとんど劣化しない臓器だ。しかし、暴飲暴食によって痛めつけられると、文字通りボロボロになっていく。最初は「しっかりと実の詰まった」状態だが、ダメージを受けるとだんだんスカスカになって、スキマの部分に脂肪が入り込んで穴埋めをするようになる。

膵臓がダメージを受けるというのはいわゆる「膵炎(すいえん)」を指す。ただし、お腹や背中が痛くなる膵炎をがっちり発症せずとも、長期的にお酒を飲みまくるなどマイルドにダメージを受け続けると、やっぱり膵臓の中身が削られていって、代わりに脂肪が増えていく。

実際の色は違うが……「赤身」だったマグロが「大トロ」に変わる(間に脂肪が入り込む)、くらいの変化が、膵臓には起こり得る。

その様子は、超音波検査などで知ることができる。超音波検査というのはコウモリやイルカが洞窟や海の中で障害物の位置を検知するのと同じように、端触子(プローブ)から超音波を出して、臓器に当たって跳ね返ってきた音波を解析することで、そこに何があるかを調べる検査だ。このとき、膵臓の「実が詰まった」状態と、「間に脂肪が入り混じった」状態では、超音波の跳ね返り方が違うために、模様が変わって見える。



で、だ。



膵臓の機能や、膵炎の評価をする際に、超音波をあてて検査をすると、あることに気づく。

それは、「膵臓は場所によって超音波検査の見え方が異なる」ということだ。

異常でなくても。正常の膵臓の中も微妙にバリエーションがある。

そのことを知らないと、膵臓の一部を見て、「あっ、ここは軽い霜降り状になっているぞ。膵炎だ!」などと、勘違いをしてしまいかねない。

「正常」を知らないと、「異常」の判定ができないというのは、そういうことである。



先日、ある超音波検査士から質問を受けた。

「腹側膵(由来の膵臓)と、背側膵(由来の膵臓)では、超音波の見え方が違いますよね、あれってなぜなんですか?」

超マニアックな話なのでどういうことかは(読者の皆さんは)わからなくていい。ただ、膵臓が場所によって違って見えるよね、という話をたずねてきた、ということだ。

この質問に答えるために、ぼくは、「組織学」の教科書を2冊と、「病理学」の教科書を1冊、そして「内科学」の教科書を1冊、あと「超音波検査」の論文を4本読んで証拠を調べた。

正常の膵臓でも起こっている変化と、異常(病気)の膵臓にみられる所見とを見比べて、違いをあきらかにすることまでやっておいたほうがいいだろう、と思った。だからいくつもの参考資料を……「正常」が書いてある本・論文と、「異常」が書いてある本とを両方参照した。

うまく質問に答えられそうな資料を揃え終わって、パワーポイントで解説スライドを作っている途中に、ふと思った。



「異常を知るためにはまず正常を知らなければいけない」し、

「正常を理解する上で異常を引き合いにだすとわかりやすい」なあ。

どちらかだけ知ろうと思ってもだめだ。

医学生がいきなり「治療」だけ学ぶことができないのと一緒だなあ。

2022年7月11日月曜日

小池栄子の記憶

『宙に参る』というマンガが好きでこのブログでもおそらく書いたことがある。その中に出てくる「判断摩擦限界」という言葉、というか概念に、ぼくはめちゃくちゃ納得していて、そのこともおそらくブログに書いたことがある。


だから今から書くのは二番煎じもしくはn番煎じの話である。しかし、メタな意味でも、今回は「何度も煎じた話」をしたほうがよいと思う。なぜなら執筆は記憶を更新する作業だからだ……みたいな話は今日の本筋ではないのでひとまずおく。


判断摩擦限界という用語は、肋骨凹介(なんちゅーペンネームだ)先生の創作であろう。ググっても『宙に参る』以外では言及されていない。

どういう意味で生み出された言葉かというと、


「リンジン(作中に登場する、いわゆるAIを搭載したロボット、まるで人のように思考する)は、過去のメモリーを元に現在の判断精度を上げていくが、時間と共にメモリーが増えると参照する情報が多くなりすぎて、判断・行動の前に考え込む時間が長くなってしまい、最終的に思考が続けられなくなる。これを判断摩擦限界と言い、端的に言えば人工知能の死に相当する」


とのことだ。最初に読んだときには本当にぶっとんでしまった。膨大な知識を忘れることなくインプットし続けるAIは、無限にかしこくなれるわけではなく、最終的に思考に用いる素材があふれてしまって演算速度が追いつかなくなり、「過剰参照によってフリーズ」するという。とあるひとつのSF作品の設定にすぎないけれど、ぼくはこれにめちゃくちゃ納得してしまった。たぶんそういうことは起こるだろうと腑に落ちてしまった。


覚え続けるというのはそういうことだと思う。考え続けるということもおそらくそういうことだ。


ただし、ぼくはAIではないので、自分の判断の役に立っている記憶・情報は、おそらく直近の5年程度に得られたものに限られており、これまでの情報すべてを素材にしているわけではないと思う。一例をあげると、20年前に「私立探偵濱マイク」で映画館の受付に座っていたメガネをかけた井川遥が好きだったが、今あの映像を見ても「ふーん」としか思わなくなっていて、当時とは好みが変わっていると感じる。現在の井川遥のほうがかわいい。これはぼくが若い頃からの記憶を「すべて」利用して今を生きているわけではなく、現在に直結する「近過去」の情報だけを用いて、遠い過去の情報は捨てて(忘れて)しまうことで、資料が過剰になりすぎないように配慮しながら脳を回しているために起こる、「指向性のキャリブレーション(微調整、較正)」とでも言うべきものだろう。


忘却というアプリがある分ぼくはリンジンよりも高性能だ。いや低性能というべきか? 


もっとも、すべてを忘れているわけでもない。自分では選べないし、なんの法則があるのかもわからないが、なにか、「無闇に覚えている」みたいなこともある。


かつて「電波少年」で、売れない芸人たちがアンコールワットまでの道を舗装するという、多分に網走刑務所的な発想で生まれたであろう企画があった。これに、当時グラビアで人気が爆発していた小池栄子が応援をしにいくという回があり、ただしその応援は小池栄子本人がきちんと企画説明を受けていいですよと答えてロケに行く形式ではなく、日本のテレビ局前でおなじみの「拉致」(行き先をまったく説明せずに芸能人をさらって海外に連れて行く本邦民放テレビ局の伝統的悪ふざけ)によって、唐突にカンボジアまで連行されるというものであり、当時まだ大学生だったぼくはテレビを見ながら、「グラビアアイドルがこんなことされたら泣くだろ」とスティグマむきだしの目でそれを眺めていた。しかし小池栄子は「いいじゃないですか、プレゼント届けますよ」と、当時としてはちょっと驚くくらいのノリの良さで、イヤな顔ひとつ(少なくともカメラ前では)見せずにカンボジアに行って現場の人びとにプレゼントを届けて、ぼくはそれを見て「小池栄子ってかわいいな」と感じた。今、中年になったぼくが当時の番組を見たらこんな「かわいいな」だけの感想が出てくるとは思えない。日本の芸人たちに海外の悪路の砂利を避けさせるという罰ゲーム感しかない見た目、それにグラビアアイドルをサンタコスプレさせて「慰問」に行かせるというあたかも古式軍隊の悪癖のようなシステム、44歳のぼくにとっては眉をひそめるような内容で、今や多くの芸能人が当たり前のように身につけているペルソナ技術のはしりみたいなものを小池栄子が用いているのだろうと邪推までして、かなり暗い気持ちになることは間違いない。しかし、当時の経験、当時の情報、当時の「判断基準」で見た小池栄子は、あの頃、確かにりりしくて美しかった。そのことは別に忘れてもいいはずなのになぜか覚えている。

その後、小池栄子はグラビア出身タレントとしては非常に順当なステップアップを果たし、今やバラエティから大河ドラマまで引っ張りだこ、しかもメディアからたまに漏れ聞こえてくる本人の発言は当時感じたものの延長とも言えるべきもので、屈託がなく裏表もなく、忖度もなく驕り高ぶることもなく、かつよく考えられていて理知的である。いや待て、芸能の世界で成り上がっていった人に裏表がないわけがないだろう、きっと当時の日テレがやった非道い企画、非道い売り方をその後もあらゆる場面でやった/やられたから今売れているのだろうと言われたら、それはそうかもしれないけれど、ぼくが当時、今よりはるかに情報が少ない状態で感じた「推せる」という気持ちが、今から見ても結果的にけっこう妥当だったことを、どう考えていいかは少し迷うところである。


知っていたほうがいい、よく考えたほうがいい、という原則を今さら外れようとは思わない。しかしぼくは現実に、昔の多くは忘れて今の判断をしているし、昔と違う判断をすることも多くなったわけだ。ただし今より情報が少なかったときの判断が全部間違っていたとも言えないから難しい。

今のぼくの複雑な感情と同じレイヤーに、「お医者さんはそういうけどさあ、自分の体のことは自分が一番よくわかるんだよ」と豪語してあまり医者の話を聞かず薬を飲むのをサボる患者がいる。「そういう主観的な印象を絶対視するのはよくない、きちんと情報と証拠に基づいた、エビデンスある判断をしてください」と、ツイッターなどでは思わず説教してしまいたくなることもあるのだけれど、うん、振り返って今思うことは、「わかる……」の一言なのである。

2022年7月8日金曜日

病理の話(675) 学生さんと話しながら

うちの病理にはよく学生さんが見学にいらっしゃる。半日、というパターンが多い。

そのときは実務をご覧頂く。見学ツアーだ。

オンザジョブトレーニング的に、なにかプレパラートをひとつ渡して、診断の手伝いをしていただく手もないわけではないのだが、それだと、顕微鏡を見て無言で考えて本を読んで、いわゆる「学校でもできるやろ、これ……」的展開になりがちである。

病理を短期に見学するならば、ぼくが診断したり作業したりするところを横で見てもらうのがやはり一番よいだろう。

2週間くらいいるなら診断の手伝いもやってもらうけれどね。



で、昨日も学生さんがいらっしゃったので、できあがったばかりのプレパラートを顕微鏡で一緒に見ながら(複数人が同時に顕微鏡を見られるシステムがある)、ぼくが考えたコトをそのまま口に出して伝える。


「これは乳腺の手術検体ですね。端から見ていくと、まずこのあたりには脂肪が豊富にあって、間質には血管や、線維、まれに神経といった構造物があります。『上皮』はこのプレパラートには見当たりません。上皮細胞を見つけてその異常を確認する作業は、病理医の顕微鏡業務のだいたい8割とか9割とかを占めます。それくらい上皮細胞はだいじ。上皮以外も見るけれど、上皮が見当たらないプレパラートでは少し検索は楽です。さあ次々とプレパラートを見ていきましょう。」


こういうのは一切減速しないでしゃべる。話し言葉というよりは歌に近い。なんとなく聞こえてくるなー、という程度でよいと思う。大事な話が出てくるまでは歌うように。聞いているほうもリラックスして流し聞くように。生真面目な学生だとそうもいかなかろうが、モノゴトにはなにごとも、メリハリというものが必要である。


「……あ、上皮がありましたね。これは癌かな。いや、癌ではないですね。」


このへんでしゃべるスピードを抑える。


「そろそろ癌が出てくると思います。肉眼的に病変を確認して、プレパラートで病気の部分が見られるように標本作製していますからね……ほら、言っているそばから、ここが癌です。では拡大を上げましょう。」


歌うような説明をやめて、チューター的なしゃべりにシフトする。最近の学生さんたちの情報受信用脳内OSは「倍速再生」を苦にしないが、ここぞというタイミングではやはり標準速度、もしくは1.25倍再生くらいの速度まで落としたほうがよいようだ。


「拡大を上げると、癌細胞は、周囲にある正常の上皮とくらべて、さまざまな異常を持つとわかります。核が大きく、核膜が不整で、核型がごつごつとしていて多彩性があり、内部のクロマチンの量が多くて分布が不規則。核小体もみられるし、少し探すと核分裂像もありますね……だから癌と診断できます。ただし……。」


いったん顕微鏡から目をはずす。学生はまだ顕微鏡を覗いているが、しばらく待つと、こちらを見てくれる。それを待ってしゃべる。


「ぼくは今、拡大を上げる前に、『ここが癌ですね』と言いました。強拡大倍率で、核の様子を逐一みなさんにご説明するより先に、もう、癌だと半ば確信していた。

それは、顕微鏡の拡大をあげなくてもぼくが『核所見』を判断できるほど視力が良いから……ではなくて、『癌細胞と周囲の構造とが醸し出す雰囲気』から癌だと仮診断しているからです。

弱拡大の段階で、雰囲気、第一印象から癌だろうとわかる。倍率を上げて核のようすを確認するのは、あくまで、それが間違いなく100%癌であることを確認するための、念のための作業。

そして、病理学をさほどわからない臨床医に対してこれが癌であると理解してもらうためには、そこにある異常を言語化することが大事です。病理医が自分の中だけで癌だとわかっていればOKというならば、言葉にしなくてもいいし、なんなら、拡大倍率を上げなくてもよい。しかし、病理診断は主治医に読んでもらう必要があり、患者やほかのメディカルスタッフと共有され、今後の診療方針を左右する情報として現場に残り続けます。病理医だけがわかっていてもしょうがない。

だから、不特定多数の人を説得するための言語化をする。

このとき、言語は、じつは自分をも説得するんですね。

癌を癌と言い切ることにはとても大きな責任がかかります。「なんとなく癌だと思いました、雰囲気で癌に違いないと考えました、私にはわかるんです」では、自信を持って診断し続けられません。自分の感覚がぶれたら診断もぶれるということに対する恐怖・不安はバカにできない。自分がなぜ癌だと思ったのかを、後付けでもいいのできっちりと言語化することは、他者とのコミュニケーションに役立つだけではなく、自分を安心させますし、診断自体のクオリティも保ってくれます。

『私というプロが癌だと言っているのだから他分野の人はそれを信じてください』を10年続けると、自分の診断基準が少しずつずれていきますね。そういう主観的な病理診断をやってはいけない。逆に言えば、病理診断が超絶難しい病気であっても、病理未経験の臨床医がわかる言葉で説明できるくらいに客観視して言語化できていれば、ぶれは少なくなります。

というわけで、我々は顕微鏡を見ながら、1秒にも満たない時間で、ああこれは癌だなとか、癌がここまで広がっているなということを察知するのですが、そこで仕事を終わりにせずに、必ず言語に追随させる。ここにけっこう時間がかかるのです。5分、10分、難しいときは数日かかることもあり得る。

たとえば今この視野に映っている細胞、ぼくが癌細胞だと思っているものを、写真に撮って、下に解説文をつけて、ツイッターで世界に公開したとしましょう。そしたら、『おい、それは癌じゃないんじゃないか?』というクソリプが飛んでくる。でも、飛んでくるようなら、その病理診断は二流なのです。細胞像を誰が見てもわかるように言語化し、解説して、世界の誰が見ても『確かに癌だな』と感じられるような文章にしておけば、クソリプは飛んできません。」


学生さんのほうを見て、顕微鏡に目を戻す。


「……あ、今のは例え話ですよ。患者から得られたプレパラートの写真を安易にツイッターに載せちゃだめです。たとえ勉強目的であっても。もし自分がその患者だとしたらいやな気分になるでしょう。病理写真をツイッターに載せて勉強してる人って、たいてい、勉強したいんじゃなくて、『勉強している自分を世界に公開するのが好き』なだけだったりしますからね。そもそもそういう人が投稿するツイートは、写真のクオリティも低いし、診断根拠もあいまいで、あんまり頭良くない人がやってんなーってわかっちゃう……」


歌うようにクソツイッタラーをディスるぼくに学生さんは苦笑する。そしてぼくらは次の細胞を探して言葉を継いでいく。

2022年7月7日木曜日

つまらない本を大事に読みながら思うこと

「医療本」を読んでいたら夜が明けた。信頼できる医者が丁寧に書いた本を、これまでに何冊も読んできたが、きちんとしたエビデンスに基づいており、あやふやな情報を安易に掲載しないように気配りされている、その結果、だいたいどれも似通った、どこかで見たことのあるような文章ばかりになっている。「よい医者が書いた本ほど飽きる」。でも、飽きるけど役には立つから読んでいる。そしていろいろ考える。


医者の言うことに飽き飽きするというのは、もう、しょうがない。運動、睡眠、食事がだいじ。ぜんぶ聞いたことあるよ! 何度も聞いたことあるよ! でもこれらは、しゃべるほうの口が酸っぱくなり、聞く方の耳にたこができるほどに(これらの表現も「カビが生えるほど」古くさくて既視感があるが)、何度も何度もやりとりされるべきだ。そうやってようやく情報は世の中に浸透していく。古典落語のように語り継がれてほしいもの。


今、ふと落語のたとえを出したが、誰もが語っていることを今さら語り直すには、おそらく落語家のような「噺の上手さ」が要るのだろう。内容が同じであっても語りがうまいとスッと心に入ってくる。今、医者が情報を出すにあたっては、発信者がいかに「落語的能力」を身につけているかが重要なのである……。



といった、「結局は発信者が上手かどうかでしょ」というところに、どうしても話が戻っていくのがやるせないなあと思う。ボクトツで口下手であっても情報がおもしろすぎるので聴き入ってしまう、みたいな関係に、ぼくは以前よりも強くあこがれている。


たとえば、信頼関係ができあがった主治医と患者との間では、主治医が多少口下手であっても患者のほうが意図を汲んで、「あの先生はちょっとしかしゃべらないけど私にいいことを言ってくれてるのがわかるのよ」と、なんだかうまくいっている、みたいなことが起こる。そういう関係って大事だよなーと思う。噺家の熟練技術でなく、長い時間をいっしょに過ごした関係性によって情報を共有。これ、たぶん最強だと思う。信頼関係による情報伝達には、弱点がちょっとしかない。「信頼はあるけど情報がザコいパターン」と、「まだ信頼関係が構築できていない不特定多数の人に一気に情報をわたすのには使えない」くらいだろう。ちょっとだ……しかし、かなり大きい。ワクチンとかお薬手帳とか予防医療といった「多くの人にいっぺんに知って欲しい話」を、医者が、これまで出会ったことのない、「将来自分の患者になるかもしれない人」にいっぺんに伝えることが、いかに難しいか。



ワクチンの伝達はかなりうまくいったほうだ。ほとんど医療との関係がない人たちも含めた全国民の8割の人が打ち、6割の人が3回目まで打ったのだから。しかし、目の前で人びとがどんどん感染して病院が患者であふれ、町から人がいなくなるという「目に見えた恐怖」によって駆動された情報伝達が、いつもいつも使えるわけではない(し、本当はこんなことは二度と起こってほしくない)。この先だれがどう工夫をこらしていくべきか。医者は噺家になり、コミュニケーターになり、多くの人びとと緩い紐帯をむすび……どうも役者の数が足りていないのではないかと思う。医者の書いた本を読みながらそんなことを思った。この本はいい本だ、ただし、圧倒的につまらない……。

2022年7月6日水曜日

病理の話(674) 良性か悪性かその中間か

今年の春に、10月末しめきりの原稿依頼が来た。半年くらいかけて書いていいというのだからめちゃくちゃのんびりである。なんだ楽勝だな、文字数もせいぜい6000字だしすぐ書けそうだ。どれどれテーマは……と手紙の下の方に目を移して、思わず天を仰ぐ。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


いわゆる「良悪」の問題。これこそ、病理医の仕事のど真ん中であり、病理医はさまざまな基準を設けていて、「絶対にがんを良性と誤診することのないように」(あるいはその逆)と、日々研鑽を続けているのだから、まさに得意分野、ではある。


しかし、ぶっちゃけ、ギャー、と心で悲鳴である。『ある病気』かあ……。

この『ある病気』は、良悪の判断が非常に難しいことで有名だ。正直に言えば、判定の難しい例にかんしては、病理医どうしで意見が合わないことがある(つまり、Aさんはがんと言い、Bさんはがんじゃないと言う可能性がある)し、同じ一人の病理医が朝顕微鏡を見たときには「良性」に見えて、夜顕微鏡を見たときには「悪性」に見える、なんてこともある。


えっ、病理医って、その日の気分や体調によって細胞の判定が変わることがあるの!?


と言われれば、「人間のやることはぜんぶそうですよ」としか言いようがない。いわゆるヒューマンエラーは絶対にゼロにはできない。だからかわりに、「人間はミスをするものだ」という前提に立って、システムでそのエラーを回収できるような仕組みを作ることのほうが大事だ。『ある病気』の良悪判定についても、同じことが言える。


『ある病気』の病理診断においては、「良悪判定」という二択問題が難しすぎるので、二択にしない、という戦略をとる。

もう少し詳しく説明しよう。





ある細胞を見て、悪性か良性か、と考えることは、「その細胞がどこかに転移するリスクがあるかないか」と考えることに等しい。

転移しない場合は、病気がその場所に留まっている。このときは手術で病気を採りきってしまうか、あるいは放射線で病気をぜんぶやっつけてしまえば、病気を制圧することができる。

しかし、病気が血液やリンパの流れに沿って、体内のあちこちに散らばってしまうと、どこかを倒してもゲリラ的に次の場所で復活してきて、病気を制御できない。

つまりは「転移する」イコール「(体の将来に)悪い」である。


診断をする際に、すでに別の場所に転移しているならば、それは誰が見ても悪性(がん)という診断になる。しかし、医療者も患者も、できれば「転移する前に見つけたい」だろう(当然ですよね)。

このため、医学においては、「転移したものをがんと言います。」だけではなく、「放っておくと転移しそうなものもがんと呼びます。」と定義する。診断の基準に時間軸が導入されるのだ。


では「転移しそう」などという予測をどのように行うか? 幸い、多くの病気では、「細胞の見た目が転移しやすさと相関する」ことがわかっている。



たとえば上の図の一番左のように、「放っておいても100年以上は転移しなさそう、体に悪さをしなさそう」なものを良性と言い、そういう細胞は、核が小さくて、決まった場所に収まっている。逆に、一番右のように、「もうどこかに転移して悪さをしている細胞」だと、核が大きくて、黒々としていて、細胞の形もおかしなことになっている。


一番ひだりは「良性」と断定してよい。一番みぎは「がん」と断定してよい。これらは病理医ごとの意見も一致するし、もちろん、ある一人の病理医が朝に顕微鏡を見ようが、夕方に顕微鏡を見ようが、診断はぶれない。


で、このどちらかにおさまることが圧倒的に多いのだが……中には、難しいケースがある。それは図で言うと中にあるふたつの細胞だ。

左から二番目は、どちらかというと「良性より」だが、ちょっと核が大きくなっていて気になる。三番目は、どちらかというと「悪性より」だが、絶対にがんである細胞とくらべると、まだ迫力に欠ける。

ではこの二番目と三番目を良性と判定するか? 悪性と判定するか? ここはもう、病理医ごとに、意見がわかれてしまうのである。

しかし……じつは、病理医の意見がわかれていても、さほど問題がない。なぜなら、中間的な部分だとわかれば、それが良性だろうが悪性だろうが、主治医がやることはわりと同じだからだ。





厳密に検討すると、左から二番目の細胞は、「10年以内にがん化するかもしれない」細胞で、左から三番目の細胞は「まだ転移してないけど1年以内にどこかに転移するかもしれない」細胞だとする。ではこれらの2つに、それぞれ違う治療をするかというと?


対処が同じなのである。10年以内にがんになるにしても、1年以内に転移するにしても、「今、採ってしまう」という選択肢を選べば大差ない。


「完全に良性」と「完全に悪性」の間に、中間として、「良悪の中間です。」という診断を許容する。病理医ごとに「良性っぽいな」「悪性っぽいな」と判断がわかれてしまうような病気なら、そこがエラーにならないように、対処法でカバーするのである。




というわけで、現実には、病理医の診断は現実に即しており、「ぶれ」が生じないように工夫されている。ただし……。


冒頭の話を覚えているだろうか? ぼくに来た原稿依頼のこと。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


そう……主治医や患者が「中間があるよね」とわかってくれている状況で、「真ん中の細胞」の良悪はあえて決めなくてもよいにもかかわらず、病理医どうしでは、「まあそうは言うけどさ、グラデーションの部分も区別できたらそのほうがかっこいいよね」と、謎の美意識をもってそこを区別しようとがんばっているのである

専門的なことを言うと、患者の対処法が変わらずとも、細胞の性状だけで病気をさらに細かく分類していくことにはすごく大きな意味があって、それは研究面であったり、創薬面であったりと、さまざまに応用も効くので、無駄ではないし、意義もあるのだが……。


それはそれとして!


わかんねぇから中間をもうけたのに、そこは病理医どうしでもめるとわかっているのに、どうしてぼくに原稿依頼をしてくるのか! いやがらせか! じつに繊細な原稿を書かなければいけない。ぶっちゃけ半年あっても足りないのである。10年くらい考えさせてほしい。

2022年7月5日火曜日

笑い話の凄さ

ワンピースってまとめて読んだほうがおもしろいな、ということを、何度目かわからないけれどさっきも考えた。毎週ジャンプで欠かさず読んでいるけれど、コミックスになってから直近の10巻分くらいをまとめて読み返すとうねりが段違いだなあと感じる。


世に満ちあふれている「ネットで連載されているマンガ」をそのまま本にしたものを読むと「ああ、ネットで連載していたやつだなあ」と感じてしまうことがある。初出がネットだと知らずに読み始めていてもわかる。おそらく、全編を貫く一貫性みたいなものが、ネット連載の忙しさではとろけてしまうのだろう。短い締め切りにあわせてその場で微調整をかけ続けるような執筆方法だと、あとでまとめたときに整合性がとれなかったり、「行き当たりばったりの展開」が多くなる。序盤に仕掛けた伏線を回収するために後付けで設定をねじ曲げなければいけなくなったりもする。


その点ワンピースは連載当初から、1年後の絵、10年後の絵、1000話分の絵がある程度見えた状態で描かれている。週刊連載用に断裁することでむしろ毎話の勢いは削がれてしまうのだけれど(それでも凡百のマンガよりおもしろいが)、あとでまとまったものを読むと「ははーなるほどなー」となる。


だいたいマンガは単行本になる際の修正が(小説と比べても格段に)大変なのだ。ところがワンピースの場合は「あまり修正しなくてもなんとかなっている」。これはすごい。ほんとうに立派な創作だと思う。




そして今日の本題はそこではない。ワンピースと比べると自分の人生のノンフィクション性が際立ってくるという話をしたい。ぼくは20年以上前に自分が考えていたことを一切思い出せない。自分が「ジャンプの誌面」に登場したタイミングを何歳と考えるかはともかくとして、たとえば「単行本1巻のときのぼく」が口にしていたことを現在の「単行本102巻を生きているぼく」はすべて忘れてしまっている。週刊どころか秒刊で連載されている自分の人生は、毎話更新されるたびに本筋が微調整されており、過去に貼られた伏線はほぼすべて消失してしまっているか無意味化している。むしろ、瞬間的に意味化した部分だけで暮らしているというか、意味のエントロピーが限局的に低下した部分を選んで歩いている印象がある。ドラクエIで「たいまつ」を使わずに洞窟を歩いている。


ぼくという連載はまとめて読むと別におもしろくはないのだ。毎秒きちんと誌面で読んでいるとそれなりに盛り上がりもあるし、ダレたシーンも山盛りだが、微弱な電流のようなカタルシスを感じる瞬間も何十万秒かに一回は現れてくる。ただこれを単行本化しようと思うなら、作者の特権としてかなりの修正をかけないと、読者にとっては何を読まされているのかわからなくなってしまう。セリフは変えるし、キャラの顔も変えるし、ひどいときは数話まとめて差し替えたり、単行本オリジナルエピソードを書き下ろしたりしないと「商品としての単行本」にはならない。その点ワンピースは偉い。「効かないねェ ゴムだから」の表情が100巻跳び越えても通用するなんて話、常人にはまず、生きることができない。

2022年7月4日月曜日

病理の話(673) MRIはピアノ

体の中を見るための検査はいろいろあるが、CTとならんで「MRI」という検査があることをご存じの方も多いだろう。

CTとMRIは、一般的にはどちらも、体を輪切りにして断面を見ているような画像である。

本当は輪切りだけではなくて「任意の断面」を表示することができるのだけれど、その話はいったん置いておく。



CTがやっていることは、じつは胸部X線(レントゲン)と同じだ。体の片方からX線という「目に見えない光」を当てて、反対側にフィルムを置いて感光させる。骨はX線をあまり通過させないし、肺は空気が多く含まれていてスカスカなのでX線をいっぱい通過させる。この通過度合いの差がフィルム上に出てくるだけであり、ぶっちゃけ、「影絵」である。X線の当て方を細かく調節したり、影絵の描出方法をコンピュータ処理したりすることで、体の断面の情報を取得するのがCT。


CT=超・高度な影絵、というわけである。




一方でMRIは影絵ではない。きちんと説明するとすごく難しい話になるのだが、ごく簡単に言うと、「人体に当てるものと、フィルム(じゃないけど)に受け取るものとがそもそも違う」のである。なにそれ。


この「なにそれ」をイメージで説明するときに、ぼくがよく使う表現が、ピアノだ。


目の前にピアノがあって、そこに音楽の先生が座っているとする。


音楽の先生は何やら簡単な曲を弾いている。


ぼくらはそれを教室で聴く。


ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ。ファ・ファ・ミ・ミ・レ・レ・ド。


キラキラ星だ。耳から音が入ってくる。


目をつぶって、頭の中で、「先生がどの鍵盤に指を置いているか」を想像することができる。





これ! 今のがMRIである!




MRIは、すごーく簡単に細部を省略しまくって言うと、「聞こえてくる音から、運指を思い浮かべる」ような検査である。音と指の位置というのはまるで違う情報だが、これらはピアノという楽器を通じて、ほぼ一対一に結びついているから、ドレミのどれかが聞こえてきたらたぶん指はここにあるだろうということが連想できる。


「MRIのT2強調が高信号なのでおそらくここには水分がある」


みたいな言い方をする。CTの「影絵」を想像しているとびびる。「は? 画像を見るだけで、ものの輪郭がわかるんじゃなくて、水分があるとかないとかいう物性がわかるの?」そう、わかるのである。


「MRIのT1強調画像、in phaseとopposed phaseで信号強度に差があるからここには脂肪がある」


みたいな言い方もする。なあに、恐れることはない。「聞こえてきた音から指を予測する」ことだって、子どもや動物には理解できない高度な話ではないか。それと同じなのだ。





……「恐れることはない」と書いたが、本当のことを言うと、MRIの解析は非常に難しいので、医者の多くもぶっちゃけ「恐れている」し、「自分の専門領域の臓器以外はうまく意味を掴めない」こともある。キラキラ星なら運指が思い浮かぶけど、ショパンのエチュードとかだと普通の人には無理だろう。それと一緒だ。MRIの画像の解釈をどこまでもやっていける専門家が病院には必要で、それが誰かというと、放射線科医と、診療放射線技師なのである。やつらは音楽家なのだ。

2022年7月1日金曜日

ラジオ流行り

ラジオが大好きなんだけど、今この世で「ラジオがいいぞ」と言う人たちの中に、うさんくさい勢力が混じりつつあるのが少しだけ気になっている。

いや、まあ、べつに、広告とか商売の都合でラジオ番組がどんどんできる分には……コンテンツが増えること自体は、リスナーとしてうれしいことのほうが多いのだが……。

「ラジオ番組をとくに聞いてはいないし好きでもなかったけど、しゃべるといろいろ得だからしゃべる」みたいな人が増えていくことに、「うっ」というひるみがある。

でもまあ……それでもなお……。ラジオが盛り上がっていくのはうれしい。




なぜ広告や商売の世界でラジオが見直されているのかと考えると、すでにいろんなところでも書かれているけれど、たぶん、ラジオが、

・ながら聞きができるくせに

・まとめて聞かないと意味がとれない

という、一見相反しそうなふたつの性質を持っているからだろう。


コンテンツ飽和の時代に、「ながら」はとても大切な技術である。もちろん車や自転車を運転しながらスマホを見るのは危ないので絶対にやめてほしいけれど、電車に乗り「ながら」スマホでゲームをするとか、料理をし「ながら」音楽を聴くとか、若い人の中ではテレビを見「ながら」TikTokをいじり続けているみたいな人も多い。「ながら」にフィックスできるツールの人気が高まり、人が集まってくるのは当然である。だいたい世の中にコンテンツが多すぎるから、「ながら」でも使いながらまとめて摂取しないと追いつかないんだよね。


ただし、「ながら」ツールの多くは、ユーザーがいまいち本気にならないというか、親身にならないというか、没頭できないというデメリットがある。デメリット? いや、メリットかな? ぼくらユーザーにとっては、ライトな使い方が心地よいことはあるよな。でも、広告とか広報をやる人間からすると、まじめにコンテンツと向き合ってくれる人の総数が減るのは問題なのだろう。


そこでラジオである。音声コンテンツは「一部だけを聴く」ことがすごく難しい。サムネが作れない。映像だと切り抜き動画であっても魅力を伝えやすいが、ラジオだと、盛り上がりポイントを切り抜いたら途端に「会話の熱」が一気に冷めてしまう。入り口は「ながら」であっても、わかるためには、「ある程度の時間はまとまって、連続で」聴く必要がある。


多くの動画・文章・マンガコンテンツが断片的、サムネ的見せ方に変わり、広告が付くなんてとんでもない、ジャマ以外のなにものでもない、金を払うから広告をどけろ、みたいな風潮がどんどん強まっている中で、ラジオという「ユーザーの時間を(ながらであっても)ある程度まとまって確保するライブコンテンツ」に、広告屋の目が向くのは当然だろう。



ところで、単純に、「いい声」を聴きたい欲があるよね。もしくは、「いい熱量」を聴きたい欲もあるね。

逆に、ラジオから聞こえてくるものが、「いい声」でもなく、「強い気持ち」でもなく、ただどこかの業界で偉いだけの人が、広告効果があるからという理由だけでプロのパーソナリティ相手に何かを聴き出されているやつは、聴く気がしないな。

ラジオの場合は、ほかの媒体以上に、しゃべり手そのものがコンテンツの核であってほしい。リスナーがラジオの主と、同じ時間を過ごすこと。すっ飛ばし・省略・要約全盛の時代に、ながらであっても、一期一会であっても、「ある人間と時間的にシンクロしている」という体験こそが大事なんだろうなと思う。

だからリスナーとシンクロする気のないラジオはしんどいんだよね。仮に、話している内容が難しくて「リスナーを振り落とすような内容」だったとしても、リスナーがその振り落とされ感を「ライブで楽しんでいる」ならば、そこにはある種独特の「シンクロ」があると思う。ジェットコースターとシンクロする、みたいな感じだろうか。