2022年7月6日水曜日

病理の話(674) 良性か悪性かその中間か

今年の春に、10月末しめきりの原稿依頼が来た。半年くらいかけて書いていいというのだからめちゃくちゃのんびりである。なんだ楽勝だな、文字数もせいぜい6000字だしすぐ書けそうだ。どれどれテーマは……と手紙の下の方に目を移して、思わず天を仰ぐ。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


いわゆる「良悪」の問題。これこそ、病理医の仕事のど真ん中であり、病理医はさまざまな基準を設けていて、「絶対にがんを良性と誤診することのないように」(あるいはその逆)と、日々研鑽を続けているのだから、まさに得意分野、ではある。


しかし、ぶっちゃけ、ギャー、と心で悲鳴である。『ある病気』かあ……。

この『ある病気』は、良悪の判断が非常に難しいことで有名だ。正直に言えば、判定の難しい例にかんしては、病理医どうしで意見が合わないことがある(つまり、Aさんはがんと言い、Bさんはがんじゃないと言う可能性がある)し、同じ一人の病理医が朝顕微鏡を見たときには「良性」に見えて、夜顕微鏡を見たときには「悪性」に見える、なんてこともある。


えっ、病理医って、その日の気分や体調によって細胞の判定が変わることがあるの!?


と言われれば、「人間のやることはぜんぶそうですよ」としか言いようがない。いわゆるヒューマンエラーは絶対にゼロにはできない。だからかわりに、「人間はミスをするものだ」という前提に立って、システムでそのエラーを回収できるような仕組みを作ることのほうが大事だ。『ある病気』の良悪判定についても、同じことが言える。


『ある病気』の病理診断においては、「良悪判定」という二択問題が難しすぎるので、二択にしない、という戦略をとる。

もう少し詳しく説明しよう。





ある細胞を見て、悪性か良性か、と考えることは、「その細胞がどこかに転移するリスクがあるかないか」と考えることに等しい。

転移しない場合は、病気がその場所に留まっている。このときは手術で病気を採りきってしまうか、あるいは放射線で病気をぜんぶやっつけてしまえば、病気を制圧することができる。

しかし、病気が血液やリンパの流れに沿って、体内のあちこちに散らばってしまうと、どこかを倒してもゲリラ的に次の場所で復活してきて、病気を制御できない。

つまりは「転移する」イコール「(体の将来に)悪い」である。


診断をする際に、すでに別の場所に転移しているならば、それは誰が見ても悪性(がん)という診断になる。しかし、医療者も患者も、できれば「転移する前に見つけたい」だろう(当然ですよね)。

このため、医学においては、「転移したものをがんと言います。」だけではなく、「放っておくと転移しそうなものもがんと呼びます。」と定義する。診断の基準に時間軸が導入されるのだ。


では「転移しそう」などという予測をどのように行うか? 幸い、多くの病気では、「細胞の見た目が転移しやすさと相関する」ことがわかっている。



たとえば上の図の一番左のように、「放っておいても100年以上は転移しなさそう、体に悪さをしなさそう」なものを良性と言い、そういう細胞は、核が小さくて、決まった場所に収まっている。逆に、一番右のように、「もうどこかに転移して悪さをしている細胞」だと、核が大きくて、黒々としていて、細胞の形もおかしなことになっている。


一番ひだりは「良性」と断定してよい。一番みぎは「がん」と断定してよい。これらは病理医ごとの意見も一致するし、もちろん、ある一人の病理医が朝に顕微鏡を見ようが、夕方に顕微鏡を見ようが、診断はぶれない。


で、このどちらかにおさまることが圧倒的に多いのだが……中には、難しいケースがある。それは図で言うと中にあるふたつの細胞だ。

左から二番目は、どちらかというと「良性より」だが、ちょっと核が大きくなっていて気になる。三番目は、どちらかというと「悪性より」だが、絶対にがんである細胞とくらべると、まだ迫力に欠ける。

ではこの二番目と三番目を良性と判定するか? 悪性と判定するか? ここはもう、病理医ごとに、意見がわかれてしまうのである。

しかし……じつは、病理医の意見がわかれていても、さほど問題がない。なぜなら、中間的な部分だとわかれば、それが良性だろうが悪性だろうが、主治医がやることはわりと同じだからだ。





厳密に検討すると、左から二番目の細胞は、「10年以内にがん化するかもしれない」細胞で、左から三番目の細胞は「まだ転移してないけど1年以内にどこかに転移するかもしれない」細胞だとする。ではこれらの2つに、それぞれ違う治療をするかというと?


対処が同じなのである。10年以内にがんになるにしても、1年以内に転移するにしても、「今、採ってしまう」という選択肢を選べば大差ない。


「完全に良性」と「完全に悪性」の間に、中間として、「良悪の中間です。」という診断を許容する。病理医ごとに「良性っぽいな」「悪性っぽいな」と判断がわかれてしまうような病気なら、そこがエラーにならないように、対処法でカバーするのである。




というわけで、現実には、病理医の診断は現実に即しており、「ぶれ」が生じないように工夫されている。ただし……。


冒頭の話を覚えているだろうか? ぼくに来た原稿依頼のこと。


「病理医が『ある病気』の細胞を顕微鏡でみて、良性か悪性かを判断する基準について、思いの丈をぶちまけてください」


そう……主治医や患者が「中間があるよね」とわかってくれている状況で、「真ん中の細胞」の良悪はあえて決めなくてもよいにもかかわらず、病理医どうしでは、「まあそうは言うけどさ、グラデーションの部分も区別できたらそのほうがかっこいいよね」と、謎の美意識をもってそこを区別しようとがんばっているのである

専門的なことを言うと、患者の対処法が変わらずとも、細胞の性状だけで病気をさらに細かく分類していくことにはすごく大きな意味があって、それは研究面であったり、創薬面であったりと、さまざまに応用も効くので、無駄ではないし、意義もあるのだが……。


それはそれとして!


わかんねぇから中間をもうけたのに、そこは病理医どうしでもめるとわかっているのに、どうしてぼくに原稿依頼をしてくるのか! いやがらせか! じつに繊細な原稿を書かなければいけない。ぶっちゃけ半年あっても足りないのである。10年くらい考えさせてほしい。