2022年7月1日金曜日

ラジオ流行り

ラジオが大好きなんだけど、今この世で「ラジオがいいぞ」と言う人たちの中に、うさんくさい勢力が混じりつつあるのが少しだけ気になっている。

いや、まあ、べつに、広告とか商売の都合でラジオ番組がどんどんできる分には……コンテンツが増えること自体は、リスナーとしてうれしいことのほうが多いのだが……。

「ラジオ番組をとくに聞いてはいないし好きでもなかったけど、しゃべるといろいろ得だからしゃべる」みたいな人が増えていくことに、「うっ」というひるみがある。

でもまあ……それでもなお……。ラジオが盛り上がっていくのはうれしい。




なぜ広告や商売の世界でラジオが見直されているのかと考えると、すでにいろんなところでも書かれているけれど、たぶん、ラジオが、

・ながら聞きができるくせに

・まとめて聞かないと意味がとれない

という、一見相反しそうなふたつの性質を持っているからだろう。


コンテンツ飽和の時代に、「ながら」はとても大切な技術である。もちろん車や自転車を運転しながらスマホを見るのは危ないので絶対にやめてほしいけれど、電車に乗り「ながら」スマホでゲームをするとか、料理をし「ながら」音楽を聴くとか、若い人の中ではテレビを見「ながら」TikTokをいじり続けているみたいな人も多い。「ながら」にフィックスできるツールの人気が高まり、人が集まってくるのは当然である。だいたい世の中にコンテンツが多すぎるから、「ながら」でも使いながらまとめて摂取しないと追いつかないんだよね。


ただし、「ながら」ツールの多くは、ユーザーがいまいち本気にならないというか、親身にならないというか、没頭できないというデメリットがある。デメリット? いや、メリットかな? ぼくらユーザーにとっては、ライトな使い方が心地よいことはあるよな。でも、広告とか広報をやる人間からすると、まじめにコンテンツと向き合ってくれる人の総数が減るのは問題なのだろう。


そこでラジオである。音声コンテンツは「一部だけを聴く」ことがすごく難しい。サムネが作れない。映像だと切り抜き動画であっても魅力を伝えやすいが、ラジオだと、盛り上がりポイントを切り抜いたら途端に「会話の熱」が一気に冷めてしまう。入り口は「ながら」であっても、わかるためには、「ある程度の時間はまとまって、連続で」聴く必要がある。


多くの動画・文章・マンガコンテンツが断片的、サムネ的見せ方に変わり、広告が付くなんてとんでもない、ジャマ以外のなにものでもない、金を払うから広告をどけろ、みたいな風潮がどんどん強まっている中で、ラジオという「ユーザーの時間を(ながらであっても)ある程度まとまって確保するライブコンテンツ」に、広告屋の目が向くのは当然だろう。



ところで、単純に、「いい声」を聴きたい欲があるよね。もしくは、「いい熱量」を聴きたい欲もあるね。

逆に、ラジオから聞こえてくるものが、「いい声」でもなく、「強い気持ち」でもなく、ただどこかの業界で偉いだけの人が、広告効果があるからという理由だけでプロのパーソナリティ相手に何かを聴き出されているやつは、聴く気がしないな。

ラジオの場合は、ほかの媒体以上に、しゃべり手そのものがコンテンツの核であってほしい。リスナーがラジオの主と、同じ時間を過ごすこと。すっ飛ばし・省略・要約全盛の時代に、ながらであっても、一期一会であっても、「ある人間と時間的にシンクロしている」という体験こそが大事なんだろうなと思う。

だからリスナーとシンクロする気のないラジオはしんどいんだよね。仮に、話している内容が難しくて「リスナーを振り落とすような内容」だったとしても、リスナーがその振り落とされ感を「ライブで楽しんでいる」ならば、そこにはある種独特の「シンクロ」があると思う。ジェットコースターとシンクロする、みたいな感じだろうか。