2019年6月18日火曜日

病理の話(334) なんでや全身関係ないやろ

病理医は「全身あらゆる臓器の病理」に詳しい、ということになっている。

実際、病理専門医の資格試験を受ける時には、脳腫瘍から皮膚の病気、肝臓に肺、乳腺に大腸に胆嚢に、とにかくありとあらゆる臓器に発生する「病気」とその「見た目」、さらには「顕微鏡でどう見えるか」、「遺伝子にどのような異常があるか」を学ぶ。だから、病理専門医である限り、過去に一度は「全身に習熟した状態」になっている(最低限の知識に過ぎないとはいえ)。

けれども、たとえば今のぼく……。医者になって16年目のぼくは、全身あらゆる臓器の病理に詳しいわけでは、ない。

残念ながら。



自分が今勤めている病院で、頻繁に扱う臓器の病理については、詳しい。

胃、大腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、乳腺、甲状腺、肺、リンパ節については、詳しいといっていいレベルだ。

子宮、卵巣、膀胱、腎臓、尿管、精巣、唾液腺、皮膚などについては、まあそのへんの医者よりは詳しいが、病理医としてはわりと普通……だと思う。あまり大きなことはいえない。

脳や軟部組織については、もはや「苦手」になりつつある。10年くらい新しい情報をあまり仕入れていない。普段みないからだ。

細かいところでは、「腎腫瘍は頻繁にみるのだが、腎生検はみない」なんてのもある。

「肝腫瘍はいっぱいみているが、肝門部病変だけはみる頻度が少ない」というのもある。

どちらも、「当院では扱っていない」からだ。

同じ理由で、小児の病理もあまり詳しくない。

ムラが出てしまっている。




「病理」というだけでだいぶマニアックなのだが、その中にもさらに専門性がわかれており、ぼくは病理の中でもこことここ、というように、どんどん偏っている。

毎日とんでもない数の医学論文が出され、医学は常に過去をとんでもないスピードで置き去りにして進んでいく。

詳しかった分野から、何かの理由でふと離れてしまうと、1年経った頃にはもうついていけない。





これは病理に限った話ではない。

よく言う笑い話(このブログにも書いたことがある)として、

「整形外科医はそれぞれ専門分野がある。1丁目の佐藤先生は、人差し指のさきっぽの関節のことに詳しい。4丁目の鈴木先生は、中指の根元の関節に詳しい。そして、二人とも、小指の関節は診たくないと言っている」

なんてのがある。

これはいくらなんでも冗談だろう、と思っていたが、先日実際に整形外科医に話を聞いてみると、

「実際、肘に詳しい整形外科医の中には、膝を診たがらない人がいるぜ」

といわれて驚いてしまった。





臓器ごとに専門が細かくわかれた今の時代、世界中を探し回れば、たいてい、どんなマニアックな部位にも専門家が控えている。インターネットがあるから大助かりだ。

ただ、あらゆる医者が苦手にしている分野というのがある。

それは、「複数の場所に異常が出る病気」だ。




たとえば、頭皮と肺と腎臓に同時に病変がでる病気、というのがある。

この病気に「皮膚の専門家」が出会った場合、肺や腎臓にも病変が出るということを知らないと、診断できない。

この病気に「腎臓の専門家」が出会った場合、頭皮とか肺に病気があるかないかを気にしておかなければ、診断名にたどりつけない。

口でいうのは簡単だがこれはけっこうたいへんなことである。

最近の病理医は、臓器ごとに細かく細分化された専門にすがって生きている。だから、複数の臓器をまたいで病変が出現する病気については、いつも……というほどではないけれど、ときおり……ビクビクしている。

ぼくも、ときどき、思いついたように、専門外の教科書を読みながら、いつか必ずやってくる「専門外」に備えている。

やっぱ全身あらゆる部分が診られるのが一番だよなー、などとうそぶいたりもする。

……でもそんなことほんとに可能なのだろうか……と、図書館にあふれる膨大な本、雑誌、さらにはPubMedにさんぜんと輝く「掲載医学論文 全3000万本」という数字をみて、たじろいでしまう。

2019年6月17日月曜日

グレーゾーンの続きでぇす

いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

たとえば医療のプロとアマチュア、なんてどこで分けたらいいんだ? 大学で専門的な知識を6年間学べばそれでプロの医者と呼べるだろうか? 「医人」とでもいうべき人間が、医師免許をもたずに、人々に寄り添うシーンを多く目にする。

「いやー医者は医者でしょ。やっぱさあ。」

そうかなあ。

例えば、ぼくがこうしてブログに毎日ああでもないこうでもないと書きながら多くの人に読んでもらえるなんてのは、「プロの物書き」という概念が溶けつつある現代だからこそできていることだ。

かつての素人ってこんなに読んでもらえる場所はなかったとおもうよ。

かつての玄人はこんな品質の文章を簡単には世に出さなかったと思うし。

文章、音楽、マンガ、なんでもそうだ。プロ顔負けの素人がごっそりいるし、食っていけない玄人だって山ほどいるではないか。

医者だけが、たかだか国家試験ひとつで、「プロです」と名乗り続けていられると思ったら大間違いだ。

素人と玄人の境界がぼやけ、個人と社会の境界がぼやけ、いろいろなものの線を引きなおす。

あるいは、線が存在しないものとして考える。

あるいは、線ではないけれど移行帯みたいなものはあるよ、くらいの気分でやっていく。




いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

「腹をくくる」と書いた。腹をくくるというのは境界線を引く作業だと思う。

ここからはぼくが担当する、と、足元の土にギッと線を引いて、内側で構える。それが「腹をくくる」だ。

素人と玄人の境界がない世界で、ぼくは玄人としてやるからな、と、自分で宣言して、その内側でシャドウボクシングをしながら、備える。

あるいは逆に、ぼくは素人なのだ、と、線の外に出て、外をぐるぐると走り回って、線の中をときおりちらちらと眺めて、うらやんだり、あこがれたりをする。




自虐とか謙遜はひとつの芸だ。たまに、「そんなに謙遜せずに堂々と行動してください」みたいな的外れなことを言ってくる人がいるが、昔の価値観に凝り固まりすぎだと思う。

自虐と謙遜は境界線を引き直したときの「副反応」みたいなものにすぎない。そこに本質はない。

ぼくが自分を一段低く見積もって「素人だ」と発言するとき、素人と玄人がとろけた世界で、宣言して素人側に回るだけの覚悟を示したのだと、わかってもらわないと、そこが伝わらないと、やりにくくってしょうがない。




極論するならば、「玄人だ」と宣言するほうが簡単で、効果も高いが、それだけではカバーしきれない部分というのが、世の中にはおそらく、ある。

2019年6月14日金曜日

病理の話(333) グレーゾーンをどう語るか

國松淳和先生の「仮病の見抜きかた」は芥川賞の候補作になるべき作品なのでぜひ読んでほしい。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784307101974

この本はブンガクなのであるが、ゴリゴリの医学書でもある。

医学書? そんな、小難しい医学の専門知識を使ってミステリとかやられても、ワシにはさっぱりわからんで! という反応も予想されなくはないのだが、ぼくは最近思うのだ……。

ぼくら、ルミノール反応がどうとか、死後硬直がどうとか、くわしいことはまったく知らんけど、刑事ドラマ普通にみてるやんけ、と。

京極堂が何言ってるかぜんぜんわかんなくても、憑き物落としの空気感は、十二分に楽しんでるやんけ、と。

たぶんこの「ゴッリゴリの医学書なのに芥川賞GO」というニュアンスも、ふつうに世間には通じるのではないかと思う。

だからあなたが医療者じゃなくてもぜひ読んでみてほしい。おもろいで。理不尽さもある。爽快感もある。



最近は、医学情報だからってなんでもかんでも、噛んで含めて子どもに教えるように……読者を子ども扱い・素人扱いして平易に語らなくてもいいんじゃないかナーとか、考えており。






さて今日の話は、國松先生の本に出てきたあるフレーズから連想したものである。

詳しくはネタバレになるので書かないが、この本のある章において、國松先生は、「グレーゾーン」みたいな部分のことを重層的に語るのだ(とってもすばらしい表現なのでぜひ体験してもらいたい)。

医学というか医術には「グレーゾーンをどう扱うか」という大きな命題がある。

あなたはかぜです、ズバーッ、見事に診断が確定して、その瞬間にふさわしい治療が決定する、というクリアカットな臨床ばかりではない。

優れた臨床医というのは、白黒はっきりしない中間色の部分に対する「さじ加減」が見事だ。

ただ……同じ医療者と言っても、病理医の場合は、どうも事情が異なるように思う。




臨床医が、粘膜から細胞を採取して、病理に提出する。

「これはがんですか、あるいはがんではない、なんともない粘膜ですか?」と、まさに、白黒決めてくれ! という願いを込めて、病理検査室に検体を搬送する。

ここで病理医が、「グレーです」というと……

冗談ではなく、ほんとうに、ありとあらゆる医療現場が「困惑」するのだ。





病理に出しても決まんないのかよ!

直接細胞みても決まんないのかよ!





そう、われわれ病理医は「ジャッジメント」をする立場である。臨床にはグレーゾーンがあることをわかった上で、それでも、細胞がシロかクロかだけは二択で決めてよいだろう、という裁判官だ。

しかしご想像のとおり、病理医も、「こりゃグレーだな」と言いたくなる瞬間は経験する。




たとえば細胞をみて、細胞核が異常に大きくなっており、かたちもいびつで、正常の核からすると明らかに「かけはなれている」としても……。

周囲に強い炎症がある場合には、この「かけはなれ」は、がんだからかけはなれているわけではなくて、炎症のせいでたまたまそのときその場所だけかけはなれてしまっているだけかもしれない、みたいなことがある。





そこで病理医はこう書くのだ。Group 2, indefinite for neoplasia, と。

Group 2というのは「白黒決められません。すみません」という意味。

Indefinite for neoplasiaというのも、「腫瘍かどうかわかりません。すみません」という意味。





で……みんなが困惑するときに……こう……どこまでその「グレーさ」を雄弁に語れるかどうかに、病理医の底力が出る、と言っていい。




ダメレポートの例はこうだ。

「Group 2, indefinite for neoplasia.
がんの可能性も炎症に伴う反応性変化の可能性もあります。決められません。再検してください。」

こういうレポートは、結局のところ、「グレーでした。」しか言っていない。

なぜグレーと判断したのか。同じグレーにしても、白よりのグレーなのか、黒よりのグレーなのか。

そういったことが書かれていない。要は依頼してきた臨床医に対してまともに向き合おうという気持ちが足りないのである。

医療者が患者に優しくするのはあたりまえのことだが、同業者、医療者同士でも優しくしなければ、ぼくらは人としてなにかちょっと足りねえんじゃねぇかな、って思う。





よいレポート……というか、四苦八苦が伝わるレポートはたとえばこんな感じである。

「Group 2, indefinite for neoplasia; suspected of tubular adenocarcinoma.

 ある程度の領域性をもって、核の腫大、核縁の不整、クロマチン量の増加を呈する異型核をもつ細胞が、正常と比べて大小不同性が際立つ腺管を形成して増殖しています。周囲の正常粘膜との間に境界(フロント)があるように見えるため、癌である可能性をまず考えます。ただし背景に強い炎症が出現しており、炎症の強い部で核異型が強くなる傾向が一部に垣間見られるほか、フロント形成がはっきりせずグラデーショナルに非腫瘍粘膜に移行するような像も一部にみます。

 以上、得られた細胞所見からは、癌のほうをより強く疑いますが、非癌の再生粘膜である可能性がわずかに残ります。「癌>>炎症に伴う再生異型」です。内視鏡所見上、検体が採取された部が病変の真ん中あたりにあるにも関わらず、非癌粘膜が大量に混在している点も気になります。臨床的にピロリ菌除菌後であれば非癌粘膜の混在は十分ありえますが、そうなるとなぜ大量の炎症が出現しているのかが解釈できません。臨床像をあわせた追加検討が必要です。再検の是非については直接電話連絡します。」

そしてこのレポートを登録・送信したあとに、直接臨床医に電話をかける。





グレーがグレーであるという「文脈」を共有しないと、医療者に依頼されて働く医療者としては誠意が足りない。

文脈の共有というのは、ときに、過剰な干渉にもつながる。うっとうしいと思われてはもったいない。

日ごろから、「ぼくがこの病院で病理医をやっています」という自己紹介を欠かさず、臨床医ときちんと関係を築いていないと、病理がグレーになるたびに電話をするという「うっとうしさ」の理解が得られない。

……グレーね。

褐色とかでもいいか。

あっ國松先生のネタバレになるからもう書かない。とにかく、「グレーゾーンの医療」には、(患者にとってはたまったものではないので申し訳ないのだが、正直)やりがいがあり、武者震いする部分が、確かにある。

2019年6月13日木曜日

A字で堂々と

書いたり読んだりの暮らしには満足しているが、いかんせん、下っ腹がやわらかくなってきているのが気になる。

基本的にうちで本を読んだりスマホをいじったりするときには必ずV字腹筋をしながら読むことに決めた。

V字腹筋も、ずっと動いているタイプのやつではなくて、いわゆる「V字で固定した状態」を保つやつだ。

ものの15秒もがまんしているとプルプルしてくる。

プルプルしながら本のページをめくったり、スマホをフリックしたりしている。

一度、このブログも書いてみようと思ったのだが、ちょっと無理があった。

脳から「腹筋を維持せよ」という信号が出るわけだがこれにけっこう集中力が必要らしく、そのためか、腹筋をプルプルさせながらだとどうにも文章が落ち着かない。なにより、フリックミスが増える。

だからまあV字腹筋をしながら書くのはあきらめて読むだけにした。




けれどもV字腹筋をしている最中に読んだ本の内容はいまいち思い出せないのだ。あの大事なシーンで腹筋が限界を迎えて横向きにコロンと転げたなあとか、あの教訓めいた説話の項目でぼくは腹筋と対話していたなあとか、そういうことばかり思い出してしまう。




かつて、サカナクションの「klee」という曲をはじめて聴いたときに、たまたまあるマンガを読んでいたのだが、それから何十年も経つのに、ぼくはいまだにiTunesでサカナクションのあのアルバムをかけて、kleeがなり始めると、そのマンガのあるシーンのことをはっきり思い出してしまう。

シナプスどうしがそうやって接続してしまったのだろう。

kleeという曲の世界観は、そのマンガにはまるで似合わない。完全にバグだ。なお、マンガの作者は「高橋しん」である。





本を読むときには余計な環境負荷を加えないほうがいい。

本に集中できなくなる。

おまけに腹筋だって、本を読みながらでは鍛えられないのだ。

ぼくは、こないだ、ずーっとV字腹筋をしていたはずだったのに、本に夢中になるあまり、気づいたら、L字になっていた!

2019年6月12日水曜日

病理の話(332) 誰のための病理診断なのさ

医療の世界では、「なんとなく習慣でやっていた仕事」みたいなものはけっこういやがられる。

たとえば、「念のための検査」とか、「念のための投薬」。

昔のお医者さんはやってたからさ。安心のためにね。何かあってからじゃまずいから。

そういう、だらけた、なしくずし的な医療というのは、すごく厳しくカットされるようになった。

でもこれって言うほどかんたんじゃないのだ。





例えとして、冬のインフルエンザのことを考える。

多くの人が熱が出たと言って病院をおとずれる、冬。市町村はインフルエンザ警報をがんがん鳴らしている。

そんなおり、とうとうぼくにもやってきた。あいつが。

38度以上の熱があって、全身がだるくて、ごほごほ、ずびずび、ぐったり。

まあインフルなんだろうなー。

そう思って病院に向かう。

すると、鼻の穴にほそい綿棒をつっこんで、インフルエンザの迅速検査をされる。なかなか不快な検査ではある。

検査の結果は……陰性! インフルエンザの証拠は検出されなかった。

じゃあインフルじゃないってことかなあ。

すると医者は言う。

「まあ検査は陰性だったんですけどね、検査って100%正しいわけじゃないんですよ。あなたの場合は、症状を考えると、インフルエンザである可能性がかなり高いと思いますから、インフルエンザの薬出します。」




……検査した意味、あったか……?





や、ま、繰り返しになるのだけれど、この場合、ぼくがやられた検査がまったく無意味だったとはなかなか言えない。難しい理屈もある。けれども結果的には、

検査の結果を見ても、見なくても、結局はほかの症状とかから総合的に判断して、インフルエンザである確率が高いからインフルの治療ゴー!

となったわけで……。

なかなかフクザツな気分になるではないか。




今まで、「なんとなくやるべきだと思っていた検査」、「やった方が良くわかるんだからやるべきだと思っていた検査」の一部は、その後、さまざまな情報を元に冷静に考えてみると、

「やってもやんなくても結果に影響を与えないことがあるなあ」

ということがわかりはじめた。インフルエンザのキットが絶対にだめだと言いたいわけじゃないよ。悪しからず。でも、「絶対にこの検査をやらないとだめ!」みたいな判断も難しくなっているということだ。






さて……。

話は「病理診断」に向かう。それも、「顕微鏡診断」の話だ。





今、病理医というマニアックな職業人が主戦場としている、顕微鏡診断の世界。

顕微鏡をみて細胞の挙動を直接観察することで、ぼくらはとても多くの情報を手に入れるのだが……。

その「細胞の情報」がほんとうに、患者や医療者にとって、役立つものなのか、ということを、ぼくらはすごくきちんと見直さなければいけなくなった。

さっきのインフルキットみたいに、「陽性であっても陰性であっても、診断や治療の方針に影響しない」場合がある。

あるいは、「陽性だろうが陰性だろうが、その他の検査で得られるデータのほうが貴重である」場合もある。




このことがはっきり見えてきたのは実はAI(人工知能)の参入が見えてきたからだ。

AIは、細胞をみている病理医が一番エライ、みたいな価値観をもたない。

そのためか、ありとあらゆる臨床情報を、AIにぶちこんで、患者が今後どうなるかを予測させると、どうやら、細胞の情報が必要なくなっている場合があるようなのだ。

細胞診断が無駄だと判断される未来がくるかもしれない……。

そうなったら、顕微鏡診断しかできない病理医は廃業するしかない……。




けれども、そう落ち込むことでもない。

AIによって、逆に「病理医が細胞だけみてくれれば、その他の検査は必要ないという場面」も浮き彫りになってくるからだ。





医療の現場に無数にころがる選択肢のうち、どれが一番「患者の将来を正しく予測できるか」を判断するのはなかなか難しい。

検査A,B,C,D,Eが取りそろえられているときに、AとDだけやればいいと気づくためには膨大なチャレンジが必要だ。しかし、どうも、AIはそういう「どの選択肢が一番効率的か」を判断するのは得意なようである。





ぼくはAIの開発に携わらないかと声をかけられたときに、いろいろなことを考えた。

顕微鏡診断の一部を終わらせながらも、病理医がこれまで以上に活躍できる未来、というのは、それなりに高確率で、見えてきたような気がするなあ……というのが、考えた中では一番希望的な観測だ。

ほかにもいろいろ見えてきたものはあるけれど、それを書くのはまた別の機会に譲る。

とりあえず最後に書いておきたいのは、病理診断というものは病理医が飯を食うために行うものではなく、患者と医療者の未来のためにあるべきものだ、ということだ。

2019年6月11日火曜日

かこさとしがすごいよ

いつからかツイートの半分くらいが本の話になった。

ぼくのフォローする人間およびぼくをフォローしてくる人間たちは、基本的に、

「本はそんなにいっぱいは読まないけれど、多くの人がおもしろいおもしろいと読む本であれば、まあたまには読んでみてもいいかなー」

というタイプが一番多いように見受ける。

ほかにもいろんなタイプの人がいるんだろうけれど。

なんとなくリアクションをみてるとそう感じる。

本の話をすると、たいていは誰もいやな思いをしないし、興味がない人も「本の話ばっかりするなよ」とか言って怒り出したりはしない。

いやな思いをする人、怒り出す人、そういうのが少ない話題というのは、ツイートしたあとのリアクションがおだやかで、ぼくの心を削らない。

本の話がいちばんいいんだよ。





ぼくはツイッターに人生の8%くらいはかけている。ここから得られるものを大事にしているし、ここに注ぎ込むものにもそれくらいの熱量を込める。……でも今書いていて思ったのだが、人生全体の8%というよりは、人生に上乗せした8%かもしれないなー。

100%で生きている毎日に「税金」をのっけて108%生きている感じだなー。

となるとあまり無駄遣いはできないな。手間だってかかっている。せっかく余計に支払うのだったらそれを有効活用したいな。

あまり自分が腹を立てたり悲しくなったりする内容にはしたくないな。

支払ってなお損するみたいな気持ちになるからね。

となると周りの人を怒らせたり悲しませたりする内容をつぶやいてはだめなのだね。とにかく自分のためにね。






本の話に消費税を払い続けたおかげだろうか、自分の知らない世界の優れた人々を目にする機会は以前より多くなった。

自分の職種とか趣味に近い本も読むけれど。

近年は安楽死、ケア、当事者研究みたいな内容の話をよく好んで読んでいる。このへんはツイッターをはじめる前にはほとんど読んでいなかったと思うなあ。

病理医というのは医者ではあるけれど、ぼくは読書でまで死のことを読もうとは、以前はあまり思っていなかったはずだ。

そしてもちろん、子供のころはまず読まなかった内容である。大人になってようやく読めるようになったのだな。



……でも、冷静に考えてみると、ブンガクとか絵本なんてものは元来、死生観を大切に扱うジャンルなのであった。まったく読んでないわけではないんだ。

子供のころに「中動態」とか「早期緩和ケア」とか「無責」みたいな専門用語を読む機会はなかったけれども、人はなぜ死ぬのか、人はどのように死ぬのか、みたいな話は読む機会があった。

直接死に触れずとも、「何かをおおらかに観察するやり方」みたいなものだったらいくらでも触れることができた。





かがくのとものもと」という、至高のクロニクルを読んでいて、思った。

「〇〇になりたい人はこれを読め」っていうタイプの啓蒙や教育って意味ねぇなー、って。

一見、自分のやることに関係がなくても、伝え方が優れているものをただ読むだけで、なんだか、いろいろ、つながっていくものなのかもしれないなー、って。





あんまり難しいこと考えずに本の話してゲラゲラやっていきてぇなー。

2019年6月10日月曜日

病理の話(331) 細胞の形状がどうおかしいかを人に伝える技術

病理医が細胞をみて「がんだ!」と言ったらそれは基本的にがんなのである。

もっと正確にいうならば、いったん病理医が「がん」と名付けたものを、それ以外の人間が「いや、これはがんではない。がんによく似ているが違う。」というように、意見をひっくり返すことは極めて難しい。

なにせ実際に病気そのものを見ているわけだから。強い。

CTとかMRIで、病気の「影絵」だけをみて、がんかもしれない、がんではないだろう、と診断する行為はあくまで「推理」である。では答え合わせをしましょう、といって細胞を採取して、細胞そのものをみて、「がんでした。」といえば、事前の推理などは歯が立たないのだ。




……とは言ってみたものの。

病理医だって人間なのである。自信がなくなることもある。また、錯覚だってすることもある。

「細胞が悪そうにみえた」からがん。では、その、「見え方」というのはどうやって決めているのか? なんだか話を聞いていると、ひどく主観的ではないか?



いやー病理診断ってのは客観的ですよ。そうやって病理医が抗弁すれば、もはや臨床医たちは反論ができない。

そうか、では客観的に病理診断してください。よろしくお願いしますよ。

疑念に満ちた目で、病理医を見つめることしかできないだろう。



病理医の診断に疑問を持ってしまうと、日常診療がちょっとだけつらくなる。だから、優れた臨床医ほど、「なぜあなた(病理医)は、これががんだと思ったのですか?」という疑問を、躊躇せずに、口に出す。直接病理医にぶつける。

そこで病理医がどうこたえるか。

きちんと、自分の診断の根拠を、臨床医に伝えることができるかどうか。

ここに、「病理診断が信頼されるか否か」の分水嶺がある。




いくつかの例をあげて説明する。今から出す例は、すべて、「Q.」と「A.」でできている。「Q.」は臨床医からの問い。「A.」はそれに病理医がどう返すか。


【例1】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核異型がはっきりしているから、がんです。」

まずこれが一番最悪のパターンだ。

「核異型」という言葉が専門用語なので、この時点でたいていの人は、「あーなんかわからない基準に従ったんですね」と、理解することをあきらめてしまう。

仮に、「核異型」という言葉の意味を知っていたとしても……。というかこの言葉はそれほど難しい言葉ではない。ありとあらゆる細胞の中には「細胞核」というのが含まれている。「異型」というのは、「正常からのかけ離れ」という意味だ。つまり「核異型」というのは、「細胞の中にある核が、正常からどれくらいかけ離れているか」という意味の言葉だ。

したがって、「核異型がはっきりしているから、がんです」は、「核が、正常と違うから、がんです」という意味になる。

こんな答え方をする病理医は、ダメなのだ。

はっきりダメ出しをしてやるべきだ。

「核異型がはっきりしているからがんだって? じゃあその核は、正常と比べて、どう違うんだ? はっきりしているというが、どれくらいはっきりしているんだ?」

そう、この回答には、「具体的にどのようにかけ離れているか」、「どれくらいの程度、かけ離れているか」という、種別や量の概念がまったく含まれていないのである。

あるのは「はっきり」という、病理医自信が確信をもったのだろうなあという極めて主観的な言葉だけだ。



【例2】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、すごく大きくなっている。核腫大があるから、がんです。」

今度の病理医は少し丁寧になった。

細胞ががんであると判断するために、説明のなかに「何が」「どのように」を加えた。

「核のサイズが大きい」。

しかしこれもまだ主観的だ。「すごく」というのはどれくらいなのだ。




【例3』

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」

だんだん具体的になってきた。「正常の細胞よりも2倍以上大きい」というのは、主観というよりは客観に近い説明方法だ。「すごく」というと「どれくらい?」と尋ねたくなるが、「2倍から3倍以上」となれば、より具体的にイメージしやすいだろう。

たとえばこれくらいのことを、日常的にレポートに書いていてくれれば、臨床医は「病理医の目の付け所」をよく理解するようになる。



ただ、これを読んだあなた方の一部が今感じたような……

「核が大きいとがんだってのはわかったけど、それはなぜなの?」

という疑問には、答えられていない。

だから、ほんとうに臨床医と仲良くやっていこうという病理医は、ときおり、臨床医に対してこのように説明を加える。




【例4】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。細胞核というのは、細胞の中にあるタンパク質の量や質をコントロールし、細胞の動きをつかさどる『染色体』の入れ物です。この入れ物が大きくなり、色合いも濃くなっているときは、染色体が非常によく使われていることを意味します。細胞が激しく増殖しようとしているときや、細胞が異常な活性を示しているときに、核は大きくなります。直径にして2倍になれば、断面積は4倍、体積は8倍大きいということ。核の直径が2倍でかいということは、染色体の入れ物が事実上は8倍でかくなっているということです。そんなことは、正常の細胞ではほとんどありえません。おまけにこれだけ増殖活性(といいます)が高くなっている細胞が、1つ、2つではなく、ある程度のボリュームである場所に固まって増えている。あちこちにぽつぽつと散らばっているのではなく、ある1か所に領域として固まって異常が起こっているということは、その場所の細胞たちがみな、同じように増殖異常をきたしているということになります。これは偶然ではありえません。領域全体が、異常増殖を示す細胞、すなわち腫瘍であると断定できます。腫瘍といっても良性と悪性がありますが……」




まあこうやって毎回説明できれば完璧ではあるだろう。

でもこんな文章を毎回病理診断報告書に書かれては、読むほうもたまったものではない。

くどい。

長い。




そう、完全な説明というのは厳密すぎるのだ。

日常診療の中で、毎回、客観的な判断の根拠を不足なく書き連ねると、過剰になってしまう。

過不足なく書ければいいのだが……不足はわりと簡単に埋められるけれど、過剰を避けるのは思った以上に難しい。

ということでぼくが考える現時点での最善手……。

「病理医が、ある細胞のどこがどのようにどれくらいおかしいのかを、臨床医に過不足なく伝える方法」

は、たぶん以下のようなものだ。



「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」(※なおこの病理医はどんな診断のときにも必ず客観的な指標を用意していて、ここに書いた以上の根拠と基準をきちんと持っているのだが、報告書を読む臨床医にとっては報告書があまり長文だと大変なので、とりあえず日常的な病理診断報告書はシンプルに書いているが、いざというときには長文で説明してくれるし、そもそもとても気さくで、電話をすればいつでも応じてくれるし、病理検査室を訪れればいつでもニコニコ応対してくれるし、知りたいことがあればどこまででもじっくりと答えてくれるので、今回の件についてもあとでじっくり話を聞こうと思えば聞ける。なお実はすごくいいやつなので、用がなくてもたまに話しかけたくなるタイプであるとする。)

2019年6月7日金曜日

それほどでもないよ

そういえば最近ようやく出張のときに時間を余らせることができるようになった。

仕事にかける時間が短くなったからだろう。

仕事が早くなったというよりも体力がもたなくなった。

あまり長時間集中していても途中から効率がまったく上がらなくなる。これ以上はいくらやってもだめだな、というポイントがみえる。すると自然と時間が余るのだ。



もちろん時間の使い方がうまくなったというのもあるかもしれない。けれども単純に疲れやすくなったというのが大きいかもしれない。

こないだ、京急蒲田のあたりでポカっと4時間ほど余ってしまった。

だから京急川崎まで移動して、そこで映画をみた。今までだったら何もできないとわかっていてもとりあえずバッテリーが差せる喫茶店を探してパソコンを開いてみたりはしただろう。でもそういう努力はしたくなかった。もうできないのだ。

川崎ではプロメアというアニメをみたのだがおもしろかった。堺雅人が声優で出ているというから絶対見たかった。新谷真弓が出ていたのでさらにうれしかった。ぼくがいうのもあれだがアニメには強烈なケアの文脈がある。




出張の最中に映画をみるなんて……。

本も読まず、原稿を書くでもなく、映画をみるなんて……。

われながら……いいご身分だな……




などとは全く思わなくなった。

この「我ながら、どう思うか」の変化はでかいように思う。





「休む」「あそぶ」「ゆるむ」に対して罪悪感があると、なんかいろいろだめだったのだ。そういうのがスポンと消えてなくなって、ようやく、なにやら人生に湿度の高まりが出てくるというか、ひとつのカメラだけではとらえきれない大きな演芸場の全貌が見えてくるというか、まあよくわからんけれどぼくは少しマシな人間になったのではないか、という気がする。もちろん比較の問題だ。誰かとくらべてマシなのではない。昔のぼくと比べてマシだということだ。




40をこえてようやくぼくは、時間の「あまり」とか、行動の「むだ」を楽しめるようになった。あちこちでいろんな人が言っていることだけれど、こういうところでにこにこできるようになると、人生はたぶん、楽しい。

……楽しくなったかどうか、自分ではわからないけれど……。

まだ今のところ、「必死であまらせ」たり、「頑張ってむだを捻出したり」しているから、これがほんとうに楽しいかどうかは、あまり自信がない。

けれどもそろそろ「ぼくは楽しいよ」と声を張っていかなければいけないような気もする。

このへんで納得しないで、いつ納得するんだよ、という気持ちが、なくもないし、そういう社会的な要請に基づいた「楽しいよ」ではなくて、うん、もしかすると、ぼくは今楽しいのかもしれないなあ。





2019年6月6日木曜日

病理の話(330) プレパラートをつくるコツ

子どものころに、学研の科学雑誌などのふろくで顕微鏡がついてきたことがある。これを読んでいる方の中にも経験者がいるのではなかろうか。

仕組みはとても単純だ。ボディはチャチで軽い。子供用の顕微鏡。

これでまずは、おまけについてきたプレパラートをみると、きれいな模様が見られて大興奮する。

次になにか……小さなものを……見ようと思っても、子どもが見つけることができる「顕微鏡でみる小さなもの」などそうそう思い付かないのだった。

たとえば髪の毛をレンズの下に入れてみる。

……髪の毛くらい分厚いと、下から透過してくる光をさえぎってしまい、視野には真っ黒い影しかうつらない。

髪の毛でもだめなのかよ……。

困って、ティッシュの繊維であるとか、ぼろぼろになった落ち葉だとかを入れる。

サランラップにマッキーで字を書いたもの、なんてのも意外とよく見える。




そう、下から光をあてて、上から覗くタイプの顕微鏡では、半透明のものしか見ることができないのだ。

ある程度厚みがあると、光が遮られてしまい、影絵になってしまって細胞の中身などは全くみえなくなる。




人体の中からとってきた臓器を顕微鏡でみるときも、これと全く同じだ。

とってきたものをそのまま顕微鏡でみることはできない。

虫眼鏡のような見方では細胞は観察できないのである。

だから、とってきた臓器を、「半透明」にする必要がある……。

でもそんな都合のいい薬品は世の中には存在しない。

そこで昔の人は一計を案じた。




とってきたものを、うすーく切るのだ。

カツオブシを作るように。カンナをかけるかんじで。

臓器の表面の部分から、特殊なカンナで、シャッシャと、薄い膜のようなものを採取する。

具体的には、「厚さ 4 μm」という極薄の膜を作る。

元あった臓器からこの薄い膜を切り取るためのシステムが「薄切装置」だ。

この装置はいまや、病理検査室にいる臨床検査技師さん以外は、なかなか使いこなせない。昔の病理医は自分で薄切ができたというのだが、ぼくは、この薄切ができない。というかぼくより若い病理医はたいてい薄切ができないだろう。



さて、あるカタマリにカンナをかけて、4 μmの膜を取り出してくるためには、そのカタマリの表面部分に見たいモノがなければいけない。

カタマリの内部に見たいモノがあるときに、表面からカンナをかけては大変だ。削っても削っても中身が出てこない。

だから、薄切装置を使う前に、とってきた臓器を「割る」必要がある。

病変が表面に出てくるように、ナイフで臓器を切る。

切って、病変を目で見て、よーしここを顕微鏡でみるぞーと、あたりをつける。

そして病変の大事な部分だけを、「切って、出して」くる。

この作業のことを「切り出し」という。




プレパラートを作って細胞をみる一連の技術の中で、一番テクニカルなのは薄切、すなわち技師さんの仕事だ。ここは熟練の技術が要る。

そして、一番頭脳を使うのは、実は「切り出し」の部分である。

肉眼で病変を見極める段階で、病気のことがよくわからないと、顕微鏡をみても実はよくわからない。そもそも、顕微鏡でどこを見るか決められなければ、顕微鏡診断自体がはじまらないのだ。

顕微鏡をみるためには顕微鏡以前のところでワザと頭脳を使わなければいけないのだ、という、なんだか教訓みたいなお話である。

2019年6月5日水曜日

むきの反対はふむきではなくゆうき

香川県観音寺市にある「大阪大学微生物病研究会(阪大微研)観音寺研究所瀬戸センター」というところにいる。

観音寺市は、香川県の左端にある。ほぼ県境だ。愛媛県がすぐそこ。

そんな、香川のはしっこの海に近い場所に、妙にきれいで豪華なビルが唐突に建っている。

今いるのは、講師控室がわりの小さな会議室だ。3階にある。写真だとなんだかそんなに高さがない建物みたいにみえるが、視界の後ろ側にニョキっとビルがもちあがっている。



早く着きすぎたので、ポケットWi-Fiのスイッチをいれてパソコンをたちあげた。

1時間後にはじまる研究会で講演をするが、予行もしたのですることがない。持ってきた本は1冊をのぞいてすべて読んでしまった。帰りの飛行機に1冊とっておきたいからここでは読まない。急ぎの原稿は昨日の夜に大急ぎで終わらせてしまった。こんな空き時間があるなら、今書けばよかったな、と少し後悔している。

暇をもてあましたのでブログを書くことにした。最近はあまり旅先でブログを書かないようにしているのだけれど。なんだかあとで読み返すと、わかってしまうのだ。旅先ではメンタルの一部が過敏になっているせいか、文章も少しナイーブになっていて、ぼくはあまりそういうのが好きではない。もっと淡々と書けるようになりたい。無理だというのはわかっているけれど。




このビルはきれいすぎるなあと思いスタッフにたずねてみると、せいぜい5年しか経っていないのではないか、と言われた。ここは国内のインフルエンザワクチンの6割が作られているといううわさもある。水も空気もきれいだからもってこいなのかな。そういうのは関係ないのかな。

それにしても建物がきれいすぎる。

研究所なのかと思ったが建物の多くは実質「ワクチン工場」なのかもしれない。

なんだかいろんなメーカーの思惑が入り込んで建てられた「殻」という空気がある。

「具体的に働く人たち」の気配が希薄だなと思う。まあ土曜日だからなあ。

研究所という場所が365日不夜城であるべきだ、というのは、枯れた中年の固定観念なのかもしれない。土曜は閑散としていていいのかもしれない。アメリカっぽい。

あるいはここではない建物に研究員がごっそりいて働いているのかもしれない。人間、半径10メートルくらいしか見渡せないわけで、あまり無責任なことは書けない。

けれどさっきから人の気配がないんだよな。





無駄にきれいな会議室には絵が飾ってある。

この絵はこれから何年かけて、何人の目に留まるのだろう。








あと1時間すると、四国あちこち+岡山から、膵臓や胆道の画像診断に興味があるひとたちがここに集まってくる、という。

なんだかまだ実感がわかない。窓の外は明るく曇っている。時間が経過するふんいきがない。









スタバってこんなロゴだったっけ。

いつも一人でいたいと言っているわりに、見知らぬ場所でちょっと一人になると、途端に、「さっきまで自分が暮らしていた世界の法則と、今いる場所の法則が、ちょっとずれはじめているのではないか」という妙な恐怖がわいてくることがある。

ぼくはいろんなことに向いていない。物思いにふけることに。ひとりでコーヒーを飲むことに。休日に出張先で出番を待ちながらブログを更新することに。

大丈夫か? そこのドアを開けて、外に出たら、実はぼく以外のすべての有機物が消滅してはいないか?








2019年6月4日火曜日

病理の話(329) 流通量をみて悪人の存在を推定する名探偵

がんをはじめとする多くの病気を調べる際に、「造影検査」というものをやる場合がある。

ぞうえいけんさ。

濁音からはじまるコトバなので、重々しさがある。

今日はこの造影検査の話をする。



血管の中に、CTやMRIで検出できる「造影剤」というものを流す。

すると、全身の血管に造影剤がいきわたる。

血管を道路に例えてみよう。

血管という道路の中には、赤血球などの血球が、自動車よろしく走り回っている(なお基本的に一方通行だ)。

この道路に、ビッカビカに明るく輝く、油性インキを流す。

街の上空にドローンを飛ばせば、街の中に張り巡らされた道のところだけがピカリと光って、ハイライトされる。

光るのは、大きな道路だけではない。

臓器の中に細かく入り込む、京都の小路のような細かい生活道路まで、すべてにいきわたる。




なお実際の血管はドライな道路ではなく、内部に血液が充満しているウェットな水路だ。

ここにインキを流せば、血流の速度によって、ビカビカの広がり方も変わる。これも重要な情報となる。




さあ、人体をくまなく観察するために、ドローンならぬCTをとってみよう。

血管から造影剤を入れる。そんなにいっぱいはいらない。きちんと調整されているからね。

すると血流に乗って、全身の血管に、造影剤がいきわたっていく。

たとえば肝臓という大きな臓器の中にも、いきわたっていく。

肝臓に流れ込む幹線道路のような「肝動脈」が光る。

幹線道路から小路に入り込んで、肝臓全体の細かい血管が光る。

たいへん細かい血管だ。網目のように肝臓に入り込んで、肝臓全体が明るく輝く……。




ところがある日。ある人の肝臓を見ていると。

全体がじわじわ造影剤によって光っていく中で、明らかに1か所だけ、「周りよりも早く光り始める」部分がある。

ふつう、肝臓という街に入り込む道路の数は一定で、肝臓の中では右も左も均等に、だいたい同じ量の血液が流れ込んでいるから、造影剤だって、均質にいきわたる。

ところが今回、一か所だけ、造影剤がすごく早く入り込んでいる領域がある。




ここに何が起きている?




造影剤が早く入り込むということは、そこになんらかの異常があるということだ。

たとえば、「周りよりも優先して道路をひき、大量の血液を誘導して、大量の栄養をかすめとっているやつがいる」かもしれない。

正常の細胞よりも圧倒的に多くの栄養を食ってしまう、燃費の悪いヤツ。

その代表は、がんだ。

がんというのは、ろくに働かず、まわりに迷惑をかけ、無制限に増えようとするチンピラである。ヤクザである。こいつらは周りの迷惑をかえりみずに、みんなが同じ量だけ配給されて受け取っている血液を、自分だけ独占して大量に使おうとする。

だから造影剤を使うと、がんのところには造影剤が早く多く流れ込むことがある。




がんそのものをCTでみるのはけっこう難しいのだけれど、道路や輸送に目を向けて、物流をハイライトすることで、「あそこで何か無駄遣いをしているバカ野郎がいるな」と、がんを見つけることができるのだ。なかなかの名推理だと思う。




ただ気を付けなければいけないこともある。

たとえば、生まれつき、肝臓の中の「道路の配置」がちょっと乱れている人、というのがいる。

悪人が栄養をかすめとっているのではなくて、「道路の建設でちょっとミスっちゃっただけ」という人がけっこういるのだ。

これは「血管腫」という病変である。造影剤の流れ方がそこだけ変わってしまうから、造影CTをすると、そこだけ周りと比べて変化がでるけれど、がんではない。放っておいても何の問題もない。




そう、造影剤を使った診断というのは、あくまで、「輸送量をみて、そこに悪いヤツがいるのではないかと推理する検査」という側面がある。実際に悪いヤツそのものを見ている検査ではないので、解釈はなかなか難しい。それだけに、造影CT, 造影MRI, 造影超音波などの検査をきちんと解釈するには熟練の技がいる。これらに長けているのは放射線科医だ。ぼくは彼らのことを激しく尊敬している。




おまけだが「実際に悪いヤツそのもの」を見るのは基本的に病理医の仕事である。

2019年6月3日月曜日

育たなかった舌と育った舌の話

鳥貴族行ったことない。たぶん、ぼくが大学生のときには札幌になかったと思う。

安い居酒屋については、大学生時代に行った店ばかりが良く見えてしまう。「自分がオトナになってから札幌にできた居酒屋」には、それほど行く気がしない。だから鳥貴族未経験マンだ。

「もういい年だから汚い店に行きたくない」とは思わない。ただ、「どうせ行くなら昔なじみの汚い店がいい」と思う。



最近、一緒に飲む相手が、「お互いに気を遣う相手」であることが多くなってしまった。

こういうとき中年は不便だなと思う。

先日東京で飲んだときは、妙にこじゃれたイタリアンの店でビールを飲んだ。グラス1杯に含まれるビールの量が少なすぎてこっそり一人で笑ってしまった。飲みすぎることなく、乱れることなくすごすことができ、その意味ではあのグラスで正解だった。

でもぼくは汚い居酒屋が懐かしくなり、途中でなんだか悲しくなってしまった。

そんなタイミングで横にいた人が突然口笛をふいたので驚いた。あの口笛はいったいなんだったんだろう、と思うし、飲み会で口笛をふくなんて小粋だなあ、と思った。それはいい人生だろうなあ。どんな店でも関係ないんだ、口笛を吹きながら飲める人は、うらやましい。





いい年して汚い居酒屋でホッピーを飲む、みたいなことを必要以上に持ち上げて語るのはあまり好きではない。そういう、「一周回ったステータス」的なものがあることは事実だと思う。

たたき上げ、雑草魂、ハングリーさ、苛烈な青春時代、などのアイコンとして用いられることがある、ホッピー、土手煮、ウーロンハイ。

「もっと高い酒を飲めるけど俺はこれが好きなんだ。」というセリフににじむ、名状しがたいマウンティング感覚。

ぼくは学生時代にずっとウーロンハイならぬコーヒーハイ……甲類焼酎のボトルの中に砂糖とコーヒー豆を入れた安酒……を飲んでいた。

懐かしい味だ。今飲んでも絶対にうまいだろう。

でも、今、飲む機会はない。




ぼくはどちらかというと打たれ弱いし疲れやすい。

老眼・腰痛・白髪・肌荒れがではじめた今日この頃は、やっぱりきれいで落ち着いた店で飲みたい。

ぼくの中に積み上がってきた文脈とか理念みたいなものは、「そろそろいい服を着て、落ち着いたいい店で飲むべきだ」と語りかけてくる。

実際、きれいな畳の個室でゆっくり飲む日本酒は、学生時代に飲んだどの酒よりもいい味をしている。




けれどもいい味がする酒を飲むというのと、しみじみおいしく時間ごと飲むというのはおそらくイコールではないんだ。




ぼくは最近気づいた。しゃれた場所で飲んでいるときのぼくは、「しゃべりすぎる方のコミュ障」になっている。

世間すべてが敵になり、自分のテリトリーを守るために言の葉を弾幕のように張り巡らせて、相手から何かぼくの対処できない話題が出てこないようにその場を操縦しようとしている。

一緒にいた人たちが笑いすぎて体をひねりはじめてからおもむろに、「はぁ、なんの話でしたっけ」で締めるお決まりのパターン。

繰り返しだ。メンツは目新しくても会話は目新しくならない。




裏返ったステータスづくりだと思われてもいい。

「俺はこういう安い店で飲めるようなフランクな男なんだ」というアピールに見えても関係ない。

ぼくは、文脈を捨て、理念も捨て、ほんとはコーヒー焼酎を飲んでいたいんだと思う。

コーヒー焼酎や、マイヤーズ少々にコーラを注いだラムコークを、だまってひとりで、3時間でも6時間でも、ずっと無言で飲みながら、暗く小さな飲み屋でマスターと2人、しずかに水曜どうでしょうを見ていた、あのときの口数少ないぼくが、一番ぼくだった。

これから出会う人たち、一緒にはたらく人たちのことは、きっと、「昔のああいう店に連れて行っても、怒らないかなあ」という目で見てしまう。

気づいてしまったら、もう、忘れることはできない。




誰かがしゃべっているのを聞きながら、本当はそこに混ざりたいのに混ざれないというアツアツの気持ちを手の中で右、左、と跳ね回らせながら、その気持ちが室温になじむまで、いつまでもいつまでも黙ってサザンの古いアルバムを聴いていた、学生時代の飲み方を、ぼくは最近よく思い出すようになった。

ぼくはもともと、しゃべれない方のコミュ障だったんだなあと、たまたま見つけたウェブアーカイブを掘り出しながら、この文章を書いたり消したりしている。

2019年5月31日金曜日

病理の話(328) 病理医は細胞の何をみているか

今日のは熱心に病理学を勉強している医学生向けだよ。よろしくね。なお、後半ではちょっとエッチな人妻が登場するよ。



顕微鏡で病気の細胞をみるとき、ぼくら病理医はいったい何をみているのか。

よく「細胞の顔つき」などと表現される。これはいかにも主観的だ。

細胞が癌かどうかは、病理医の気分によって決められている! なんて、したり顔でつぶやく人もあらわれてしまう。

けれども実際にはもう少し客観的で、根拠がしっかりとある観察をしている。今日は、そのへんの話をしよう。あと1000文字くらい書いたら、エッチな人妻を登場させるから待っててね!





すべての細胞は、あるべきタイミングに、あるべき場所で、決まった働きをすることが望まれている。

配置。周囲との関係・量比。機能。そして活動している時間の長さ。

これらは、すべて細胞ごとにコントロールされていなければいけない。そうしないと、人体という複雑なシステムは自己を保っていられない。

逆にいえば、これらのどれかが狂っている細胞は、「がん細胞」かもしれない。正常の細胞からかけ離れた何かを示している細胞を探す。それが、病理医の仕事だ。



一例をあげよう。



細胞の「配置」は、細胞同士のくっつき方とか、細胞が作り上げる構造の形をみることで、わかる。

細胞がしっかりと手を繋ぎながら並んで、試験管のような構造を作っているならばよし。

細胞どうしの手の繋ぎ方がおかしく、細胞と細胞の距離が一定せず、試験管であるはずのものが丸底フラスコみたいになったり、三角フラスコみたいになったり、あるいは枝分かれする”しびん”のようになっていたら、異常だと判断する。

これらのうち、特に、枝分かれはやばい。

試験管を作るはずの構造が枝分かれしているときには、どこかに必ず、「本来の細胞どうしの手の繋ぎ方では達成できない、分岐」がある。

手が2つしかない人は、両隣の人としか手をつなげない。人が手を繋いで並んでいる限り、「分岐」なんて起こりようがないのだ。

それなのに、人の列が「分岐」しているとしたら、誰かが手を3本以上持っているということになる。

わかるかな? 分岐がないはずの構造が分岐する、というのは、「圧倒的な構造の異常」なのである。




手が2本あるか3本あるか、というのは、「主観的」に決めるものではなく、「客観的」に判断できる。

「なんとなく正常の構造からかけ離れている細胞集団を探せ」というと、えらく主観的な作業に感じられてしまうけれどね。

病理医は、「なんとなくかけ離れを探す」のではなく、「根拠をもって、客観的に、かけ離れを意味する像を探す」のだ。それが職能である。





ごめんね800文字ちょっとしか書かなかったわ。1000文字に達しなかったので、エッチな人妻はまた今度にします。残念ですね。

2019年5月30日木曜日

山口さんちのツトムくんこの頃少し

ソニーの、首にかけるタイプのBluetoothワイヤレスイヤホンを使っている。

特に不満はない。

仕事中、イヤホンからメールの着信音やSlackのアラートが鳴るのがべんりだ。

顕微鏡をみていても連絡にすぐ対応できる(デスクの周りにいれば)。




強いて言うならば、意外と充電がもたない点は不満かも。

午前中に充電して、午後使い始めると、夜にバッテリーが切れてしまう。

だから、有線のイヤホンも未だに使っている。ワイヤレスの充電が終わったら有線に切り替える。




有線イヤホンはゼンハイザーという会社のやつを使っている。

一番安いやつではない。

それなりに高い。

けれどもバカみたいに高いものではない。高級イヤホンとまではいえない。




ぼくはイヤホンから流す音量をかなり小さく絞っている。業務中に話しかけられることもあるし、電話だってかかってくる。

そうなると、あまり高価なイヤホンを買っても、その音質は十分には享受できない。

あまり強力にノイズキャンセルするのもまずい。

そういうあれこれがあって、選んだ。




ゼンハイザー、5年ほど使ったろうか。

今日、とうとう、左側から音声が出なくなった。断線したのだろう。

まあよくもったほうだと思う。毎日使っているのだ。

車なら2回は車検に入っている。

いちどもメンテナンスせずに5年持つ道具なんて、もう、この世の中には少なくなってきている。




イヤホンを買い換えようと思ってAmazonを開いた。われながらだいぶ横着になったなあと思う。

「本は書店で買う、アマゾンは使わない」

と、あれだけ普段からアピールしているわりに、本以外のものについてはアマゾンを便利使いしている。




さまざまなイヤホンを探して画面を右往左往する。

おすすめが表示されても、それをなぜおすすめされているのか、理由がわからない。

先日ピエール中野氏が紹介していたAVIOTのワイヤレスイヤホンを以前に買ったから(職場では使わないのだ)、AVIOTがちらちらと目の端にうつる。

でもぼくがほしいのはあくまで有線のイヤホンだ。

だって無線のはもうあるんだから。




いったん、アマゾンをはなれて、Googleで、「イヤホン 有線 おすすめ」と検索する。知らない有名人や手練れの記者達が、ぼくにイヤホンをすすめてくれる。

ぼくは結局何がいいのかよくわからず、今まで使っていたゼンハイザーの同じモノを、アマゾンで探し当て、クリックして、買った。色すらも前と同じにした。





ぼくはネットの買い物を便利で使いこなしているつもりでいる。

けれども実際、よく考えてみると、AIがどれだけ高度なおすすめをしてくれても、結局はAIのいうことを無視して、今までと何も変わらないものを買ってしまう。

AIが進歩しても、使う方の脳が保守的だから、恩恵を十分に受け取っていないのだ。




性格的な問題がある。

3杯目はビール以外の飲み物にしようかなと思っても結局ビールを飲んでしまう。

今週の土曜日はラーメンを食おうかと思っていても結局うどんを食ってしまう。

白のTシャツはGUで買ってしまう。

行動変容の加速度が限りなくゼロに近い。

慣性が強すぎる。





そういえば、ぼくはそもそも5年前に、なぜゼンハイザーのイヤホンを買ったのだったか?

たしか、おそらく、ツイッターで、少し仲の良い人が、ゼンハイザーいいですよ、とすすめてくれたのではなかったか。

ぼくの根本のところにある、一番変容しない部分というのは、「なんかプロっぽい人が、自分より詳しい人が、にこっと笑ってすすめたものは、ひとまずそのまま使ってみる」というものだ。

だからきっと5年前も、だれか、ぼくよりはるかにイヤホンに詳しい人のいうことをそのまま聞いたんだ。

そこは変わっていないと思う。

今後、AIを使いこなすためには、この、「人のよさそうな先達にたずねた結果を盲信する」という行動を変容する必要がある。




なかなかしんどいのではないかという気がする。地球上での等速度運動は摩擦に負けるから、知らず知らずのうちにそっと減速していく。ぼくはもう減速し始めているはずなので、そろそろ、変容しないといけないと、わかっているはずなのに。

2019年5月29日水曜日

病理の話(327) 医者は顕微鏡をみて何がしたいのか

サッと病院言ったらパッと病名がついて、ガッと治療方針が決まってパッと治る。

これが理想なんだけど、いろいろと障壁がある。




想像してみるといい。




たとえば同じ「かぜ」であっても、

「かぜです! よかったですね」というシチュエーションと、

「かぜです! おつらいですね」というシチュエーションがあるだろう。

ないかな? ぼくにはあるよ。




この2つは単純にとらえ方の違いだろうか?

気の持ちようでどちらかに決まる、という類いのものだろうか?




違うのだ。みなさんもよくご存じかと思う。

ひとことで「かぜ」と言ってもいろいろな「かぜ」がある。

1.ただ鼻水だけが出ているかぜ。

2.ちょっとノドが腫れたかな、くらいのかぜ。

3.なんど鼻をかんでもくしゃみがとまらず、熱があって目のまわりがむくんで、全身がだるくてヘンな音のせきが出る、かぜ。

これらをぜんぶ「かぜ」と呼ぶのは乱暴ではないか? という話だ。




まあ病気の名前はなんでもいいんだけれども、病気を相手にする上では、

・どこが具合悪いのか? 【場所】

・どれくらい具合悪いのか? 【程度】

を考えないと治療なんてしようがない。

同じ「かぜ」だって、程度が軽ければ放置して治るのを待てばいいし、鼻がグズグズしている人に胃薬を使ってもだめだろうさ。





そしてこの「場所」や「程度」を考えるとき、医者は患者を目で見たり、脈を取ったり、胸の音を聞いたり、血液検査をしたりするんだけれど、CTとかMRIまで駆使してもどうしてもわからない、確認しきれない情報というのがいくつかある。

それをみるのに、ときおり、顕微鏡が役に立つわけだ。




たとえばある臓器に棲み着いた「へんな細胞」が、すごく活動性が高くて、周りをぶちこわす力も強くて、ばんばん体のあちこちに飛び散っていきそうな悪いタイプのやつなのか、それとも、しばらく放っておいても別に増えもしないし周りを壊しもしない、良いタイプのやつなのか。

「細胞レベルで、病気の本質が良いか悪いか」を決めた方が治療方針が立てやすいとき。

ぼくらは顕微鏡で、病気の内部にひそむ細胞を見極める。




活動性が高い細胞というのは、正常の細胞に比べると、細胞の形状に違いがある。

具体的には、「いっぱい細胞分裂をして早く増えたい細胞」はおしなべてDNAの入れ物である「核」がでかい。ちょっとでかい、とかじゃなくて、あきらかにでかい。「核」のカタチもおかしい。円形でなくぎざぎざとしていたり、妙な切れ込みが入っていたりする。

「核」以外の部分にも変化が出る。細胞のエネルギーを生み出すミトコンドリアの量が異常に多くなっていたりすると、細胞質の色合いが変わってくる。細胞の本来の挙動である「となりどうし、なかよくくっついておとなしくしていること」が崩れてくると、細胞間の接着度合いがみだれて、細胞がばらばらと離れてきたりする。

細胞は基本的に組み体操をしている。細胞1個で何か仕事をするのではなく、複数の細胞がある程度決まったカタチでフォーメーションを組む。「悪い細胞」はこのフォーメーションをきちんと作らない。不良の学生は運動会で組み体操には参加しないのだ。

これらの細胞が「悪い奴だ」とわかったら、次は、そいつらの配置をきちんと読む。

臓器の表面にちょろっとだけ存在する、っていうのと、臓器の内部に深々と突き刺さっている、というのとでは対処が違うからだ。




病理医の仕事を、「黙って座ればピタリとあたる、安楽椅子型探偵」みたいなものかと想像される方がいる。灰色の脳細胞を存分に使って推測を重ねていく仕事。まあそれも一面の真実ではある。

でも、顕微鏡診断というのは、どちらかというと、「現場に残された手がかり」をきちんと探して、その場で何が起こっているのかを多面的に見極める、「現場型」の仕事に近い。

これをよく、ポワロってよりコナン君に近いよ、と説明している。ときどきキック力増強シューズを使うとなおいい。

2019年5月28日火曜日

WWWの最後のひともじはウェーブではないです

今日は何も予定がないから早く帰ろうと決めていた日に、Facebook経由でメッセージが届いた。そこには、

「今日の研究会には参加されますか? そこでちょっと見て頂きたいプレパラートがあるのですが」

とあった。

なんということだ、今日は研究会があったのだ。完全に忘れていた。できればそのまま忘れていたかった。カラッと忘れて帰宅してビールを飲んで寝て、翌日になってメールが3通くらい入って、

「昨日の研究会はご欠席だったようですのでこちらでご相談をいたしますが」

みたいなことが書いてあって、あっイッケネ、忘れてた、テヘ、みたいな感じで人生をうまいことスルーしていたかった。



もうだめだ。知ってしまったからには出なければならない。Facebookはクソである。




人類ってのはいつから「寄り合い」をやるようになったのかな。

集まって、お互いに助け合う。

自分の肩にいっぱい荷物が載っている場合には少しラクになるかもしれない。

自分が今ヒマだという場合にはかえって忙しくなるかもしれないけれど。

あっ、昔は、生存競争に忙しくて、「ヒマ」という概念自体がなかったりして。

孤立して孤独で自由であるというのは、安全が保証されている今だから言えることで、むきだしの大自然に一人で立ち向かったら、ヒマなんて全く存在しなかったのかもしれない。

みんな孤独だと両肩にいっぱい荷物が載っていたのかも。

生まれたての人類(?)は、きっと、そうだったのかも。

だから寄り合ってスクラムを組んで、お互いの荷物をきちんと減らそうとしたのかも。

多くの人が集まると、言葉だけでは会話が進められない(うるさくなって仕事にならない)から、目線とか顔色だけで考えていることがわかるように、顔認識のための脳システムが高度に進化したのかも。





ご先祖様の苦闘の末にたどり着いた今、大自然は見事にパッキングされ、ぼくらは一人で、ヒマをもてあましながら暮らしていけるようになった……。

だから群れなくてもよくなった……。

群れるのめんどくさいな……。

なーんてことを、無責任に、脳天気に、今まさに考えている。




今なんとなく思ったのだけれど、石器時代の人類も、内心、「群れるのめんどくせぇな」って思っていたんじゃなかろうか。

「あー今この瞬間に都合良くマンモスの頭の上に隕石が落ちてきて、俺の目の前にほどよくボイルされた肉がごろんとおちてこねぇかな、それを一人で、誰もこない見晴らしのいい高台で、ひなたぼっこしながらのんびり食って昼寝でもしてぇな」

って思ってたんじゃなかろうか。

いやいや群れていたんじゃなかろうか。

そのときの記憶が、進化の末に、適者生存して、ぼくの脳に残っているからこそ、「群れるのめんどくせえな」という感情が出力されてくるのではなかろうか。





ぜんぜん関係ないことをいうけど「感情の波が押し寄せる」みたいなフレーズ。あれ、「寄せては引く」から波なのだろうか。それとも、定期的に強くなったり弱くなったりを繰り返すから波なのだろうか。

ぼくは感情が強くなったり弱くなったりするのは波というよりもむしろ、バッファにかかるタイムラグなんじゃないの、と思うことがある。脳ほど高性能なコンピュータであっても、すべての感情をノータイムではじき出せるわけじゃないように感じる。リングみたいなポインタがぐるぐると回って脳がカリカリやっている間、感情が出力されない待ち時間があって、そのあと一斉に放出されて、また読み込んで……。性能の悪いWi-Fi環境下で動画をみるように、ぼくらの脳は感情をつっかえつっかえ吐き出している。それは波というよりも……。




まあネットサーフィンっていうくらいだから波でいいのか。じゃあ波でいいです。

2019年5月27日月曜日

病理の話(326) 病理の話を延々と書き続けている理由というかネタバレ

病理の話というのはつまるところ「病気のりくつ」もしくは「ヤマイのことわり」のことなので、えー、ちょっとだいそれたことを言うならば、

「生きている人はみんな興味を持つ」

と思う。



いや、ま、「みんな」って言葉を使うと反発がくるんだけどね。

「みんなってことないだろう」ってね。

「俺はそこまで興味ねぇよ」なんつってね。

確かに、今とっても元気で、若くはつらつとしていて、自分が病気になるなんて信じられない、みたいな人は、自分が具合悪くなったときのことなんて考えたくもないだろうし、リアルに想像もできないし想像するつもりもないだろう。

でも、そういう人もいずれ年を取り、病気のことが気になる日がくる。

一生のどこかでは、多かれ少なかれ「病気のおはなし」に興味が出る。

だからぼくが書いている「病理の話」という連載はずるいんだ。

基本的に病気についてどうこう書けば、それはもうまちがいなく「みんな(いつかは)興味を持つ話題」なわけだから。

ごめんねこんなにアクセス数稼いじゃって。

でもしょうがない。みんな興味があるんだもの。



ただ、ぼくが書いている「病理の話」は必ずしもビョーキそのものについてだけ書いているわけではなくて、実はもうひとつ、大きな柱がある。

こっちのほうは、必ずしも読む人みんなが興味をもつわけではない……。

というか大多数の人はほとんど興味がないんじゃないか、と言われている。

それはいったい何かというと、「病理医というレアな職業人が病院の中でなにをやっているか」ということだ。



こんなことを書くと「いやー私はそういう話興味ありますよ!」というリプライが来るのだけれど、それはあなたがこのブログに対してたまたま適性があるからであって、ぶっちゃけ同じ内容を朝日新聞の朝刊で連載しても連載は2か月ともたないだろうし、報道ステーションのワンコーナーで視聴者に向かって語りかけても「好きな人は好きな話題でした、次です」とか言われてしまうだろう。




「病理医の話」はつまるところ職人と職人芸の話だ。

だから受け取り手を選ぶと思う。

ただし、病院で働いている人々のうち、ごく一部の人だけは、この「病理医の話」をとても熱望する。

このブログの読者であるあなたがちょっとひくくらいのレベルで、病理医の話を聞きたがる人が、病院にも少数だがいるのだ。

それは誰かというと……。




内視鏡医、肝臓内科医、腎臓内科医、血液内科医、腫瘍内科医、放射線科医……。

そう、医者だ。

それも、主に「がんを扱う医者」。

あるいは、がんに限らずとも、医者に限定せずとも、「病理医と日常的に付き合っていく必要がある医療人」である。




病院には看護師がいっぱいいる。栄養士も理学療法士もソーシャルワーカーも、医療事務を担当する人も、清掃やリネンを担当する人も、食堂とか理髪店とか売店で働く人もいる。その大半が病理医のやっている仕事そのものには興味がない。

そして、医者だけをとりあげてみても、医者の7割程度は病理医のことを知ろうとは思っていない。必要に迫られていない。そこまで興味をかきたてられていない。

糖尿病や高血圧をしっかり管理していくタイプの医者は病理医のことを知る必要がない。

救急車から転がり出てくる患者の生きるか死ぬかに直面する救急医は病理医のことを知る必要がない。

大半の外科医も、病理医のことを別に知らなくても食っていける。やっていける。





けれども、限られた一部の医者は、病理医のやっていることに興味が有る。

病理医が、顕微鏡を用いて細胞を観察し、そこから何かを導き出すプロセス。

結果だけではなく、途中経過……思考の筋道そのものを、知りたがっている。





かつてある内科医が、ぼくにこう言った。

「細胞を直接みられるんだから病理医ってのはラクな仕事だよなあ。直接みられないものを推理しているぼくらからすると、犯行現場を直接みて考える探偵みたいなもんで、ずるいなあって思うよ。」

この内科医は、病理医の出す結果には興味があるのだが、「思考のプロセス」に興味がない。

病理医が何をみて、どう考えて、レポートにまとめているのかを「ラクで、ずるい」とまでしか評価していない。

この内科医だけが特に薄情なのだろうか? ぼくはそうは思わない。

大半の医者は……病院ではたらくほとんどの人は、同じ意見だと思う。

あるいはそこまでの意見すら持っていないだろう。「病理医? 別に知らんでもいいわ。知らんけど普通にしっかり働いてくれとったら、それでいいわ」。




ぼくらはみな、究極的には、他人の仕事の「結果」には興味をもつのだけれど、「それが生み出されるプロセス」に興味をもつのはずっと後回しになる。

テレビがなぜ映るのか。

飛行機がなぜ飛ぶのか。

興味はもったことがあるだろう。でも、それを最後まで追究した人が世の中にどれだけいるだろうか?

「なんか難しいことがあるんだな」だけで、まあよしとして、得られる結果だけを享受するのが、普通の人間だ。





病理診断という仕事もこれといっしょなのである。

「病理ってどうやって診断出してるんだろうなあ」と、「テレビってどうやって映ってるんだろうなあ」みたいなノリで、くびをつっこんでいろいろ調べてみても、ほとんどの人は、「うん、なんか難しそうなことやってるってのはわかったよ。」と言って、プロセスを理解することをあきらめる。

それが健全だし普通だと思う。




けれどもぼくらは、職人的な人間は、いつか誰か、ニッチでマニアな、ぼくらの仕事のプロセスにとても興味をもつ人が激レアなタイミングで出現したときに備えて、

「病理医ってのはこういうことをやってます」

と、書き記しておく必要がある。

だって少なくとも、病院の中の、3割くらいの医者は、ぼくらがやっている仕事に興味がある、さらにいえばその思考プロセスとかメカニズム自体にも興味があって、これらを直接仕事に活かそうとしているのだ。

たいした数じゃない。

少ない。

マニアだ。オタクといってもいい。

けれども、「世界の誰が読むんだろうこんなもの」という文章に、心を踊らせる人がいると知ってしまうと、ぼくらはそれを用意しておかなければという義憤に駆られる。





病理の話はかれこれ300回以上書いているのだけれど、その半分くらいは、世界の片隅でじっと病理医に興味を持ち続けているレアキャラのために書かれたものだ。

あなた方、普通の読者のみなさまが、そうと気づかずに、オタク向けの文章を、つい読んでしまっている、という構造をつくるために、ぼくはツイッターというシステムを悪用している。

あなた方、の中にひそむ本物のマニアがよろこんでくれることを目指しつつ、あなた方、ぜんぶが「悔しいけどオタクの心意気を感じちゃう」くらいに育ってくれるように、ぼくはずっと悪巧みをしている。





実をいうとぼくはお気軽な推測をしていて、それは、

「たぶんほとんどの人は丁寧にお膳立てをすると、テレビがなぜ映るのかを完全に理解してよろこぶようなマニアックな性癖を隠しもっている」

ということだ。この見通しは甘いかもしれないが、あながち外れたモノでもないんじゃないかな、という、仄暗い確信のようなものがある。

2019年5月24日金曜日

なにみてはねる

外食が難しくなってきた。あぶらモノが腹に来る。

とくにカツ丼がどすんと来る。なかなか頼めない。

かつて、椎名誠がカツ丼の話を書いていた。無尽蔵の体力の持ち主も最近はカツ丼がちょっとしんどくなってきているようだ。

そういえば嬉野さんもカツ丼の話を書いていた。山形のとある宿のとなりにある食堂のごはんがとてもおいしい、特にカツ丼が絶品だ、という話で読んでいるだけで腹が減るような名文だった。



ものを書く人はどこかのタイミングでエッセイの中にカツ丼のことを書く。

これはぼくが今までの40年間で見つけた数少ない物理学的な真理だ。

世の中には2種類のもの書きがいる。

何かにカツ丼についての話を書いたことがあるもの書きと、これからカツ丼についての話を書く予定のもの書きだ。




なおぼくはいわゆるもの書きを自称するつもりはない。だからカツ丼についての話は以上でおしまいにする。だいいち、ぼくはもともとカツ丼をそう頻繁に食べない。しょっちゅう食べるのは牛丼のほうだ。今日は牛丼の話をしようと思う。

ぼくが牛丼を食べに行く店はある程度決まっている。

5割は吉野家である。

2割がすき家

2割が松屋

そして残りの1割はなか卯だ。




なか卯、と書くと、とたんに昔のことを思い出す。




ぼくは12年前に、築地のあたりでうろうろとしていた。もう干支が一回りしてしまったんだなあ。でも未だに一部の記憶はきちんと残っている。国立がんセンター中央病院(当時)の病理に朝から晩までいりびたり、標本そっちのけで臨床医達と画像・病理対比にいそしみ、論文を読みまくっていたころのこと。

勉強していたって腹は減る。ただしあまり時間はない。築地市場も銀座も目の前だったがそういうシャレオツなザ・トーキョー的飯を食ったことはほぼない。昼は大抵コンビニで買っておいた飯を食った。これが現実である。

がんセンター時代にぼくはあくまで「お客さん」だった。任意研修生というやつである。自分の診断しなければいけないルーチンは少ない。だから1日中勉強ばかりしていたが、仕事もせずに勉強できる集中力の限界はだいたい12時間くらいだった。夕方も6時を越えると少し疲れてくる。7時過ぎにはおひらきにすることが多かった。

慣れない東京生活で疲れたぼくは、夜にあえてどこかに繰り出すようなことはしなかった。札幌においてきた家族のことが気になって、はしゃぐ気持ちにもならなかった。だから結局、毎日毎日、がんセンターのどでかいビルのそばにあったなか卯か、フレッシュネスバーガーのどちらかで晩飯を食った。それ以上遠出できなかったのである。

なか卯、フレッシュネス、なか卯、フレッシュネス。

ぼくはあそこで一生分のなか卯とフレッシュネスを食い終わった。




最近は、なか卯の看板をみても痙攣しなくなったし発疹も出ない。

けれども一時期はなか卯をみるだけで体調が悪化した。なか卯アレルギーだったのだと思う。

長い「なか卯断ち」のすえに、今では10回に1回程度、なか卯に入るようになった。とはいっても、今はそもそも牛丼自体を食べる頻度が減っている。せいぜい月に1度のペース。となるとなか卯に入るのは年に1度くらいだ。

うまいこと減感作療法が決まり、ぼくのなか卯アレルギーは2年ほど前に根治した。

でも、根治したというのはあくまで「生活に支障の出るレベルの症状が出なくなった」というだけであって、まったく症状が消えたわけではない。

カウンターに座って、濁りきったあの冷たいお茶を一口すする。

すると、今でも必ず、当時のことがものすごいスピードで思い出される。





当時ぼくはがんセンター横のなか卯で、インド人っぽい名前の店員とよく顔をあわせた。食券を置くと半分をちぎって持っていくのだが、そのちぎり方がいつも、点線を無視した雑なもぎり方だった。彼はいつもいうのだ、「ぎゅうどんおまちしました」と。お待たせしました、と、お持ちしました、のハイブリッドだ。ぼくは彼のものまねが得意である。けれども誰にも見せたことはない。ぼくはいくつかものまねができる。その大半は人前で披露したことがある。けれどもなか卯の店員のまねだけは見せたことがない。

当時ぼくはがんセンターに通うのに、東銀座という駅で降りて歩いていた。駅からがんセンターに向かう途中には早朝からやっているタリーズコーヒーがあって、ぼくはそこで毎朝、「本日のコーヒー」を一杯飲んだ。タリーズにはとてもかわいらしい店員がいたのだが、2か月くらいでいなくなった。別にその店員のために通っていたわけではなかったけれど、その店員がいなくなってからのタリーズは少しつまらなかった。でもそのことに気づいたのは札幌に帰ってきてからしばらくして、サッポロファクトリーの中に突然タリーズコーヒーができたときのこと。へえ、あのタリーズがこんなところにね、と思って中を覗いた瞬間、「その店員」がいたような気がして、ぼくは東京にいたときのつらい毎日をフルセットで思い出し、手足の毛細血管がいっせいに縮んでこごえてしまった。

当時ぼくは馬込駅そばのクソみたいなレオパレスに住んでいた。まわりには爬虫類が経営しているのではないかと思われるほどにまずいラーメン屋が1軒あった。なぜかぼくは1週間に1度、日曜の昼に、そのラーメン屋に通った。あらゆるメニューが均質にまずかった。でもぼくはそれをまずいと思うだけの味覚を失っていた。何の問題もなかった。札幌に帰ってからとある普通のラーメン屋に入ったときに、急に舌の上に味覚が戻ってきて、なんだ、あの店は激烈にまずかったんだな、と、ようやく気づいた。ぼくは東京で五感のいくつかを失っていた。



築地にいたころのぼくは後から振り返れば激しく人生を転換させていた。

大学院時代、研究に対してはとにかくあらゆることがうまくいかず、絶望に絶望が積み重なっていくだけのがっかりミルフィーユみたいな状態だった。天才だと思い込んでいたまぼろしの自分と決別し、家庭を大事にして遊びを嗜む、地に足の付いた実存としての人間になる必要があった。けれども、ぼくはまだ、自分の頭脳に未練があった。X軸Y軸Z軸それぞれに独立する価値観が配置された空間上で、ぼくはいつも非線形に飛び回りながら、ほんとうにいるべき座標を見失っていた。別のラボからの誘いを断り、大学に残る道もあきらめ、そうそうに市中病院で常勤病理医となることを決めるも、直後に築地での研修が決まったことで、ぼくは自分が「何年目の何」になるべきなのかがわからなくなってしまっていた。



ものすごいスピードで思い出すのは、わからなかったころのこと。

かつてのぼくが「わからない存在」だったことを俯瞰しながら、「わからないままだ」と感じる。





なか卯の牛丼は「和風牛丼」という。

洋風牛丼や中華風牛丼を定義せずに和風を名乗るなか卯の姿勢は卑劣だ。

玉ねぎをつかわずに普通のねぎを使う。

だしの味が「ほら、これで和風になったじゃろう」とばかりに効いている。

だから和風牛丼。安易である。

牛丼というよりも「家庭ですき焼きをやった翌日に、あまった汁とネギを肉に絡めなおしてご飯にかけた丼」だと思って食っていた。

ねぎの中から、ねぎの芯みたいなものがときどきピヨッと出てくる。こいつには味がしみていないことがある。

ねぎは玉ねぎに比べると剛性が高いのか、箸で持ち上げるとしばしば汁がはねてぼくのワイシャツの一部を小さく汚した。

ぼくは築地のなか卯で隔日ペースで、これはなかなかうまいな、と思いながら和風牛丼を食っていたけれど、馬込のラーメン屋で週に一度ラーメンを食えるくらいには舌がばかだった時期の話である、ほんとうはなか卯の牛丼はまずかったのだと思う。ぼくには時間がなかったし余裕もなかった。敗北に満ちあふれた大学院を通り過ぎ、深々と全身に刻まれた無数の傷から血を流しながら、生まれて初めて津軽海峡よりも南で暮らすことになり、燃焼した油脂と蛋白質のにおいがするような焦げた生活の中で、なか卯の牛丼を60回食った。




ぼくはなか卯の牛丼はもう一生分食った。今、1年に1度のペースで、すっかり回復した舌がなか卯の牛丼をうまいうまいと味わうことがあるが、ぼくはそのときに必ずあの頃の、味覚を失っていた頃の苦悶を思い返している。ぼくは一生分のなか卯を食ったあのころに一生を終え、今、一生のその先にある場所で当時のぼくをときおり眺める。なか卯は年に一度食えば十分だ。そういえばなか卯の「卯」とはうさぎという意味ではなかったか。

2019年5月23日木曜日

病理の話(325) 遠隔診断という概念が我々からまだ遠く隔たりがある

実際に患者のそばで行わなければいけない「医術」というものは、どんどん少なくなっている。

たとえば、放射線科の用いる画像診断は、遠隔で行うことが可能だ。直接患者のそばにいなくても、画像だけをネットで飛ばせばいいからだ。

北米では、20年くらい前からすでに、CT, MRI画像を「地球の裏側にいる放射線科医」に読影してもらう遠隔放射線診断システムが本稼働している。

遠隔で放射線画像診断をする医者が登録する会社があるのだ。病院は会社と契約して、撮った画像の評価を「外注する」。

記憶によればナイトホークという名前の会社があった。地球の裏側にいる放射線科医だから、読影はいつも(北米時間の)夜中に行われる。なかなかキマった名前だなと感じた。

むかし、スーパーファミコンという古典的なハードにF-ZEROというレースゲームがあった。その中には「ナイトオウル」という名前のコースがあった。

ぼくはナイトホークという名前を聞いたときにまずこの「ナイトオウル」が頭の中で混線してしまった。それ以来、遠隔画像診断の話をするときには、頭の中に、F-ZEROのメタリックな画面とイカしたBGMが思い浮かぶようになった。脳が軽くバグって接続がイカれたのだ。

F-ZEROというゲームはレースゲームなのだが、本編に生きている人間が出てこない。その意味では、遠隔診断のイメージとも完全に離れているわけではない。まあ、その後、スマブラでキャプテンファルコンが信じられないようなパンチを打つようになり、イメージはゆがんでしまったのだが……。




話を変えよう、ダヴィンチという手術システムをご存じだろうか。

https://www.mitsuihosp.or.jp/davinci/

知る人ぞ知る、というにはもうずいぶん普及したシステムだ。

いわゆる「マニピュレーション・システム」である。ロボット手術というと正確ではない。ロボットが自動で手術をしてくれるわけではないからだ。

このシステムには執刀医が必須である。人の役割は失われていない。

執刀医の手の動きに応じて、「千手観音の手のようなロボットっぽくみえる機械」が患者のお腹の中を切って縫ってくれる。




ただ、人の役割は失われていないが、人のいるべき場所については微妙に変化している、ということに気づく。

冷静に考えると、ダヴィンチを使って手術をするならば、執刀医が患者の側にいる意味はないのである。





こういうと絶対に怒られる。

「何かあったときにすぐ対処しなければいけないだろ! 外科手術は放射線画像の読影とは違う! 執刀医は患者の横にいないとだめに決まってる!」

けれども頭を柔らかくして考えれば、「執刀する人」と、「そばにいて対処する人」をイコールで結ぶ必要はないのだ。

そばにいて対処する人は、執刀医とは違ったシフトで、違った給料体系で、より最適化した状態で待機すればいい。経営者であればそこからいくつかの「給料を抑えるためのヒント」を見いだすだろう。

(経営視点のない医者は、めぐりめぐって医療の効果を下げる。)





ちょっと想像するとほかにもいいことがある。

ブラック・ジャックのような「神の手をもつ外科医」というのは最近聞かなくなったが、レアな手術を、すでに何例か経験したことのある外科医がもっぱら担当する、いうことは、今でもよくある。神の手までは必要ないにしても、世の中のほとんどの医者が経験していない手術を先駆的に行う人はやはり神様扱いされる。

この場合、神様を遠方から呼んでくるよりも、遠隔でダヴィンチ的にやってもらうほうが圧倒的にラクだろう。交通費かかんないし。

まあ実際にダヴィンチがそのように用いられているケースはたぶんまだほとんどないと思う(いろいろ倫理とか制度的な障壁があるし、ダヴィンチを使えるケースもまだまだ限られている)。けれど、将来的に、ダヴィンチの適応がもっと広がれば、「遠隔の外科医に介入してもらう」という話も出てきそうだな、とは思う。

何度もいうが外科医は「それはむり!」と言う。

けれども経営者が「それ魅力!」と言ったとき、外科医は反論できるのだろうか?

少なくともぼくは反論できない。






さて病理診断だ。病理診断こそは患者のそばにいる意味が無い。

だからもうどんどん遠隔化していいと思う。

こういうと「切り出し(臓器を直接目でみて、どこをプレパラートにするか決める技術)は、遠隔ではできないだろう。直接臓器を手で触れなければ!」と反論される。

一流病理医ほど、そう言う。

けれども外科医の反論といっしょだ。

「切り出しをする人と、組織診断を遠隔でする人を、分けて考えてシステム構築してみたら、何かいいことが起こらないかな?」

この柔軟な発想こそが医療現場では大切なのではないか、と思う。





今までの医療を担ってきた人たちは、自分たちが理想的な医療環境を作ったと自負しているだろう。

ぼくは今が一番いいと思う。医療は確かに、どんどんよくなっている。

よくぞここまでのシステムを作ってくれた、と、尊敬を払う。

その上でなお、人間のやれることには限界があることも十分承知だ。

都会と地方とで医者は偏在し、患者と医療者の言いたいことは微妙にすれ違い続け、8割の満足はあるけれども、決して10割の満足には達しない。





ぼくはあらゆる医療を遠隔システムを用いて再構築すべきだと思う。

「医療者は患者に寄り添わなければだめだ」という誰もが認めるヒューマニズムを残したまま、一部の「遠隔向きの医療」をどんどん遠隔システムに切り替える。

そうして、浮いた分のコスト……金銭もそうだが、特に、頭脳労働をさまたげる手間の部分を、医療に還元しないと、医療はこれ以上に上がっていかない。





誰かが患者のそばで、患者に寄り添い続けるために、誰かは患者のそばを離れて頭脳労働に特化した方がいいのではないか。

病理医は頭がいい。すぐに気づいてくれるだろう。

ぼくらは知恵の側にこそいるべきだ。

2019年5月22日水曜日

食べる前に飲むように読む前に買う

猛烈な頻度で届く本を(読まずに)眺めていた。どさっ、どさっとデスクに積み上がった。

この中に、書店で選んだものが、半分。

残りはネットで買った。

あからさまに書店で選んだ本のほうに愛着がある。

Amazonは積ん読を増やす装置なのではないか? ぼくはため息をつきながら、そうつぶやいた。




”そうつぶやいた”というフレーズを目にすると、まるでツイートしたように思えてしまなあ。




本来、”つぶやいた”という言葉は、やさしく聴覚に訴えかけるはたらきがあったように思う。

目で読んでも、耳に入り込むようなフレーズだ。

耳の中にある謎の触覚点を通じて、ノドがざわざわと刺激されるような。すこしだけ複雑な、大人の言葉だったはずだ。

けれども、今は、ツイッターのせいで。

すっかり、「目で読んで、視覚が理解するだけの言葉」になりさがってしまった。

まったく残念だ。




たとえば、読書を「視覚的な体験である」と言い切ることはできないように思う。

文字を目で追い、視覚野に記号的な入力を行うことと、その情報が導火線に次々火を付けて、ぼくの脳が同時多発的に燃え上がって、なんらかの情のシルエットがゆらめくことの間には、飛躍としかいいようのない、不思議な変換があるように思える。

読書は、目だけで楽しむ趣味ではない。

ああ、うん、朗読する声が聞こえてくることもある。けれども、聴覚だけ加えたら完成するというものでもない。

五感全てに訴えかけるもの。

かつ、五感だけではたどり着けない、脳の隘路の先にある何かに触れるもの。





ぼくがかつて持っていたあらゆる趣味は、在庫消尽とともに脳内マスタから削除された。

残ったのは本だけだ。

ネットすらツールになってしまった。

残ったのは本だけだ。





強いて言うならば、ぼくであることだけが、本に対抗しうる。

なぜならばぼくを読むことができる読者はぼくしかいないからだ。

もっとも、「ぼくが一番、ぼくのことをよくわからない」という幸福なリミテーションについて、ぼくが自説を曲げることはないのだけれど。

2019年5月21日火曜日

病理の話(324) AIを擬人化するとこうなるだろうなという話

メドメイン( https://medmain.net/ )という会社と協力することになった。

この会社はなかなか有名なのでご存じの方もいるだろう。

かんたんにいうと病理診断を支援するAIを作っている企業だ。CEOは九州大学の学生である。すでに多くのスタッフを抱えて働いている。プログラマーには優秀な外国人が並ぶ。

ぼくは彼らの一員にはならない。相変わらず、札幌の農協の病院に勤め続けて、JAから給料をもらう。顧問料とかもとらない。かわりに、「科学広報」に利用させてもらおうと思う。ふところにお金は入らないが、本気で科学のことを人々に伝えようと思ったら出て行くはずだった出費がだいぶ減る。その意味でぼくはとても大きく得をする。




病理AIは、将来的には今ある病理医の仕事を奪うだろう。しかしそうなれば病理医はまた違う仕事をすればいいだけの話だ。若い病理医は、積極的にAIのやることを手伝い、AIのために働いた方がいいと思う。これは、もしかすると、今までの病理医の働き方よりももっとおもしろいことになるかもしれない。





家事の苦手な人は、パートナーにこう怒られることがある。

「ちょっとは手伝ってよ。」

にがにがしい顔をして、こう答えよう。

「何を手伝っていいのかわかんないよ。料理も掃除も、そっちの方が得意だし、ぼくがやる前に、うれしそうに全部やっちゃうじゃないか。」

そしたらパートナーはさらに怒る。

「できることを見つけて働いてよ。」



今のたとえの、「家事の苦手な人」が、ニンゲン。

「家事全般を取り仕切るパートナー」が、AIだ。

さあ、ニンゲンが、AIと離婚せずにうまくやっていくにはどうしたらいいか?

(蛇足だけど、AIがいないところでがんばる、とか、AIなんて嫌いだからひとりで生きる、という選択肢は、たぶんもう我々には残されていない。AIと前向きな離婚はできない。離婚すれば破滅である

えっ? と思う人もいるかもしれないが、そもそもあなたはこの記事をスマホで読んでいるはずだ。パソコンかもしれない。これらはとっくにAIのカタマリだ。AIと離婚すれば文字通り路頭に迷うだろう。生きてはいける。楽しむこともできる。けれども、ふつうに、路頭で、迷うだろう。)




ニンゲンはAIよりもさまざまなことがヘタクソだ。

でも、ニンゲンはニンゲンなりに、できることを探し、はたらこうとする。

ニンゲンは、何かをして、役に立っていると思われたい。

理想的には、「そこにいるだけで」役に立っていると思われるのがいい。

「ただ、いる、だけ」で家庭の安心となれるような存在感を出せたら、最高かもしれない。そういう仕事も世の中にはいっぱいあるので、そういう仕事においては、AIはニンゲンには全くかなわない。

でも、「ただ、いる、だけ」は思ったより難しいので注意が必要である(名著「居るのはつらいよ」を参照)。

あと、AIと一緒に何かをしようと思ったら、「ただ、いる、だけ」では通用しない。

ちょっとは何かをしようじゃないか。そのほうが、AIだって悪い気はしないはずだ。




ぼくがメドメインでやることは、まさにこの、「AIと仲良くやっていくために、AIの役に立つ」ことだと思っている。

積極的にAIというグッドパートナーを手助けすることで、ぼくらニンゲンは、かえって良く生き残ることができるんじゃないか、と思っている。




手始めに、「病変の部分をマッピングしてAIに覚えさせる」という前時代の方法を改良しようと思う。

ディープラーニングによるスパーステクスチャ解析がようやく実臨床で使えそうな雰囲気がある。ぼくはこのことを感覚ではわかっていたが、観念がきちんと脳に入って、言語化できたのはついこの間のことだ。本当に優秀な人は世界のあちこちで「ディープテクスチャ」を解析している。ルイージが笑顔でこっちを見ている( https://luigi-pathology.com/ )。アーキテクチャを回転させながら、かりそめの機械学習をすすめて、ニンゲンを越えられない程度のAIを開発するのをやめさせなければいけない。日本中で行われている、「AIの足をひっぱるような家事」を、そっとたしなめていく。




AIというパートナーほど有能ではないけれど、AIと一緒にごはんを食べていたら、「やっぱりあなたがいないと、私はだめです///」と、AIがつぶやく日がくる。

ぼくはそういうニンゲンでいたい。ニンゲンはそういう存在であればいいなと願う。

これはあくまで病理の話だ。とてもまじめな、病理の話だ。

2019年5月20日月曜日

ともだちのゆくえ

嬉野さんと「友達」の話をした1日ほど前に、ぼくは自分の半分くらいの年齢の優秀な男と、友人になった。

こちらからお願いした。願いが叶って良かった。

彼はぼくに「報酬をどうすればよいでしょうか」と尋ねてきたのだ。

そこでぼくは少し考えて、

「報酬というか、そうですね、友達になってください。お仕事については、友達としていろいろアドバイスさせていただきます。それ以外の報酬は必要ないです」

と言った。

そして、すぐに、付け加えた。

「ぼくは病理学会の、社会への情報発信委員会に所属しています。
ですから、御社の技術が進歩して、優れた病理技術が生まれていく様子を、みなさんの迷惑にならない程度に発信させて頂ければ、それが公的な利益になります。
ぼくは公的な利益を追究することで役目が果たせます。
役目が果たせればそれが報酬になります」




新しい友人と別れてから、ぼくは、「報酬として友達になってくれ」と言った自分を、おもしろく感じていた。

その翌日、嬉野さんと全く違う話をしていたはずなのに、「友達」の話になって、なんだかつながっているなあ、と感じた。

なお嬉野さんのところの若い夫婦とも友達になった。

ぼくは出張している間に、複数の友達ができたのだ。





ぼくは友達を労働で買っている。

「言い方~」とつっこまれて、アハハと笑って終わりにする程度の話であるが。





藤やん・うれしーとの対談を見た犬は、「20代のヤンデルが成仏しているようだ」と言った。

「青春の蹉跌をこれほど見事に成仏させることはなかなかできない」と言った。

しかし、ぼくはそもそも、前日に成仏していたのだと思う。

あくまで、仏に成ってもゲラゲラ笑える、ということを証明したに過ぎない。

2019年5月17日金曜日

病理の話(323) 医者はマイナスをゼロに戻す仕事だと思われて久しい

体の具合が悪くなると、病院に行く。

普段はあまり行きたくない場所、それが病院。

ぼくらはたいてい、自分がいつも通りにしているときには、病院に行かない。行く必要がないし、行きたくもない。

何か、不都合が生じたときに、仕方なく病院に行く。

普段、100点満点で過ごしている、ぼくら。

あるいは、あなたの体感的には自分の体調を80点と採点するかもしれない。50点かもしれない。別に具体的な数字はどうでもいいのだ。

とりあえず今は、「平常を100点」として考えよう。

この100点が、90点とか、80点、さらにいえば40点とか30点になると、ぼくらは病院に行く。

普段よりもマイナス方向に偏ったときに、それをゼロに戻すのが、病院の仕事だからだ。





……クリエイティブな仕事をしている人は、「ゼロから何かを生み出す」などという。

だからぼくらはときどき、自重気味にいう。自嘲気味に、かな?

「ぼくらはマイナスをゼロに戻すだけの仕事だからさあ」





ただこのマイナスをゼロに持っていく仕事というのを、本気で考えていった場合に、実は思ったよりも奥が深いということに、ある程度中年になった医療者たちは気づいていく。





たとえば20点を100点に戻すのはとてもたいへんなので、できれば50点とか80点くらいのときに、早めに病院に来て欲しいな、みたいなことを言う。

これは「早期発見」というアイディアだ。





次に、100点が90点になり、80点になっても、本人が問題なく暮らしていけるやり方を探そう、みたいなアプローチもある。

これは「ケア」の一種である。介護やバリアフリーもそうだが、がんを抱えたまま生きることもそうだし、腰痛とどう付き合っていくか、みたいな話もこの視点で考えることになる。

無理に100点を目指さなくても満足度はあげられるのではないか、という考え方。






100点を120点にすることができるんじゃないか、というアイディアも、あるにはある。

人工知能の研究というのはここに含まれるような気がする。

AIというと、「人間の代わりになるか、ならないか」みたいな話ばかり取り沙汰されるけれど、局所的には人間の100点を超えていく可能性がある。これだって立派な医療なんだけれどな。






人間の行動・活動を点数に例えて、100点満点を定めておいて、そこを増減させるという考え方自体が、やや雑な例え話でしかないのかもしれない。

満点ってどういうことなんだろうな……と、意識変容を促すこともまた医療かな、と思う。

こういうことをじっくり、ゆっくり、考えていると、医療の根本には「自分のどういう状態をよしとするか」という、ほんとうの意味での

”自意識”

みたいなものがあるのではないかな、と思う。自分の体や人生を考えていく上で、何を健康ととらえ、何が起こったらどう対処するかと考えておくことは、立派な医療だ。

そこまで考えると、どうも医療というのは「マイナスをゼロに戻す仕事とは限らない」んだろうな、っていう結論が浮き上がってくる。じわりじわりと。

2019年5月16日木曜日

イングラム派なのでアルフォンスというともにょる

連休明けはちょっと集中して仕事をしすぎて、”封印が解かれた直後に猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣”みたいになってしまった。いっぱいカタが付いたので、その意味ではよかった。

……今、何に驚いたって、ぼくのATOKが「猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣」を一発で変換したことに驚いた。ふつうの成人のパソコンだったら、「げんじゅう」→「厳重」と変換するだろう。まったく、日頃、どういう入力をしているんだねキミは。

なお、今の一文にしても、「ふつうの成人」のところは「ふつうの星人」と変換された。まったく、いやになる。まあ、一貫性はある間違え方だけれど。



「肝生検」と入力しようと思ったら「管制圏」が出てきた、なんてのはよくある。

「非特異的所見」の序盤が「人喰い」と変換されるとアワワワってなる。

なーんてことを考えていて、ふと、思った。

キーボードを通じての「あるあるネタ」は、昭和の頃にはほとんど存在しなかったんだよなあ。

だってそのころ、変換ソフトがどうとかいう概念、いまほどはっきりしてなかったはずだよなあ。

じゃあ、今日の日記は、たかだか30年前には、絶対に書けなかった内容なんだろうなあ。

……書くほどの価値があるかどうかは、ともかく……。







今ぼくが当たり前のように動かしている神経や筋肉は、日常のさまざまな行動に対して、完全に最適化されてしまっている。

体のあちこちが、無意識下に連動している。

「機動警察パトレイバー」の中で、泉野明の操縦するイングラムが前方を指さすとき、腕を振り上げるのと同時に重心移動がなされているのをみて、シゲさんや遊馬が「動作が最適化されている」と感心する場所がある。

ロボットやレイバーがそれをやったら驚くわけだが、実際、人間はそういう「最適化」ばかりしている。

たとえば、ご飯を食べながら息を吸うことができるだろう。

しゃべりながらご飯を食べても舌を噛まないだろう(下品だけれど)。

誰かに呼ばれて後ろを振り向くときにどれだけ多くの筋肉がいっぺんに動いているか、ご存じか?

知らないというならば、どこでもいい、体のどこか一部分に、セロハンテープをはってみるといい。できれば、筋肉に沿って。

ただ後ろを振り向く、というだけの動作なのに、体中のどこにテープを貼っても、たいていそのテープが「つっぱったり、たるんだり」することに驚くはずだ。

人間は無数の機械の寄せ集めであり、それらは常に「連動」して、ひとつのものごとを成し遂げている。







ぼくのパソコンはぼくの入力スタイルに最適化している。

ぼくはパソコンを使って文字を打つ暮らしに最適化している。

ぼくは変換ミスをブログの記事に仕立て上げるくらいには最適化した生活を送っている。

ぼくは最適な暮らしをしている。健康であろうがなかろうが、文化的であろうがなかろうが、生きているだけで最適化している。

明石家さんまは次の娘に「いさい」と名付けるといい。ぼくらはもう最適なのだから。





最適でこれかよ。

やはり休日は、脳のリミッターを少しずらしてしまうようだ。

2019年5月15日水曜日

病理の話(322) 趣味や愛と一緒にされてもなあと怒られそうな話

自分が学生だったときもずっと考えていたし、自分が先輩になってからは後輩とその話題で盛り上がったりもした、いわゆる鉄板ネタというのがこの業界にはあって、それは何かというと、

「自分に向いているスキルは何か」

「自分が進むべき科はどこか」

「自分は何科の医者向きなのか」

というトークである。





医者といってもさまざまな仕事がある。

ぼくは医療者の仕事をおおきく3つにわけた。「診断」「治療」「維持」。医療の世界で働く人間は、このどれか、あるいは複数の性質をもつ仕事を日々行っている。

たとえば、循環器外科という場所で仕事をしている医者のもとには、「心臓の血管が詰まって明日には死んでしまうかもしれない患者」がやってくる。文字通り明日をも知れない命の人々だ。彼らに手術をほどこして、ケロリとなおすのが仕事である。

”救急車でやってきた患者が歩いて帰っていく。”

この「治療」に生きがいを見いだす人がいる。

ただ、医療者の仕事というのは必ずしも「治療」だけでは終わらない。

たとえば、ドラマ「ラジエーションハウス」に出てくる放射線技師たちのように、病気がどこに、どのような規模で存在するのかを見極めて、ほかの医療者達がこれからどう対処したらいいかの指針を打ち立てる「画像診断」という仕事。

彼らは人を治さないから医療者ではない、とは全く思わない。ただ仕事のスタイルは違う。地下鉄の運転手と路線図を書く人くらい違う。どちらがより医療っぽいか、という評価をくだすこともナンセンスだ。

さらには「維持」。これがかなり大事で、かつ、忘れられている。

たとえば開業医のもとに患者がやってきて、「いつもと同じ薬をくれ」という。血圧の薬でも、血糖を下げる薬でもいい。

このとき患者の「診断」はおおむねついている。高血圧ぎみだとか、糖尿病ぎみだとか。

「治療」方針もほとんど変わらない。前と同じ薬を出せばいいのだ。

では、「前と同じ薬を出すだけのこと」に、わざわざ医者が立ち会わなければいけないのは、なぜだろう?

日本の医療制度が、「機械から薬をもらっておしまい」にならないのは、なぜだろう?

そう考えてみる。

月に1度くらいのペースで、患者が医者のもとに通い、日々なにか変わったことはなかったか、最近気になることはないか、と会話をする。

会話にひそんだヒントを医者は探して、そこに、なんらかの「変調」を感じる。

どうも今の薬の効きが悪くなっている、みたいなこと。

あるいは、今かかっている病気とはまったく別に、違う病気が育っているかもしれない、ということ。

一病をもとにして、医者と関わりを持ち続けながら日々を過ごしていると、医者は患者の新たな変化に気づけるかもしれない。

患者が「維持」している日常生活に、それまでの暮らしを維持することが困難になるなにかが忍び寄っていないかどうかを、丹念に探っていく仕事。

この「維持管理」というのが、医療においては診断や治療と同じくらい……あるいはそれ以上に……大切だ。なお、看護師や介護士は維持管理のプロフェッショナルである(その点においては医者より詳しい)。






……さて、医療には「診断」「治療」「維持」という3つの側面があり、医学生や若い医者たちは、「このどれに自分は向いているだろうか」と考えるとよい……みたいなことを、ぼくは今まであちこちで語ってきた。

ただ、この、「向き・不向き」について、最近ちょっと思い直したことがある。

タイムラインを流れるツイートを見ていてふと思ったのだ。

学生の段階で、自分が向いている仕事、不向きなスキルなどを見極めることは本当に可能なのだろうか……と。




なんとなく、なんだけど、少なくとも医療業界における向き・不向きというのは、生まれた時に決まっている(生まれ持った)指向などではなくて、医療界で暮らしていくうちに

”育まれていく”

ものなのではないかな、という気がしてきたのだ。





卑近な話をする。ぼくは立場上、よく聞かれる質問がある。それはこうだ。

「どういう人が病理医に向いているんでしょうか?」

向き・不向きである。これに対してはぼくは近頃こう答えることにしている。

「20代のぼくは向いていなかったけど40代のぼくはめちゃくちゃ向いているんですよ。これって、病理医としてストレスなくやっていくスキルがぼくのなかで育まれたからだと思うんですよね。15年もやればね、そりゃね、誰でもきっとそうなります」

すると尋ねた側はキョトンとして、ときにはこういう。

「いや、じゃ、聞き方を変えます、15年スキルを育めるほど、病理にのめりこむことができるのはどういう人ですか?」

ぼくは少し考えてこう答える。

「正直、15年間ずっと病理に集中していたわけじゃないです。そもそも最初の数年はぼくは学者になりたかった。紆余曲折して、回り道をして、病理診断以外の方向にさんざん浮気してますけれど、それでもなんか育まれるんですよ」

すかさず尋ねた側は怒り出す。

「答えになってませんよ。それは結局、あなたが病理にたまたま向いていた、ってことでしょう」

ぼくはデンプシーロールの体勢に入る。

「向いていたか向いていなかったか、じゃなくて、時間をかけてそっちを向いたんだよ」

尋ねた側はデンプシーロールの弱点であるカウンターを放つ。

「でも時間をかけているうちに折れるかもしれないじゃないか」

ぼくは体に無理をかけるステップワークでデンプシーロールを進化させる。

「折れそうになったら逃げて戻ってきたってまだ余裕で人生は続くんだよ」

尋ねた側はフットワークでデンプシーロールを逆に追い詰める。

「人生の終盤のことなんかどうでもいいんだよ、俺は20代・30代で悔いの残らない選択をしたいっつってんだよ」

ぼくは追い詰められても結局デンプシーロールにこだわることにする。

「自分では能動的に選択していると信じて積み上げて、それがいつか『なんか気づいたらそこにいるな、俺』ってなるのが中年なんだよ。仕事の向き不向きなんて全部こうだよ」

カウンターが炸裂する。

「全部とか絶対って書いてある選択肢は間違いだって国家試験対策委員が言ってました」

ぼくはマットに横たわる。

「おっしゃるとおりです」

2019年5月14日火曜日

間と量子カ

「近頃の若者はスマホを通じて世界とつながっていると言いながら、現実世界での人間関係が希薄になっている、コミュニケーションに問題がある」

という内容のことをおっしゃった人に、

「つまりあなたは今時の若者とうまくコミュニケーションをとれない、ということですね」

とたずねてみたら、

「そう、私は今時の……」

と、そのへんで、黙ってしまった。




「近頃の若者はコミュニケーションがへただ」という人ががんばってコミュニケーション上手になれば、近頃の若者ともコミュニケーションはとれる。

明石家さんまは10代、20代の若者がゲストインしても普通に番組を回せるだろう。

むろん明石家さんまとゲストとが本当の意味で友達になっているわけではないが、少なくとも仕事として多くの人々の役に立つ文脈で、コミュニケーションをとることはできるし、それはおそらく9割がた明石家さんまの能力によるものだ。







「近頃のマンガがつまらない」という人の話はたいていあまりおもしろくない。

これは、「近頃のマンガはつまらない」という人が、近頃のマンガに対しておもしろさを見つけられるほどの感性を欠いているからである。ただ、もっといえば、




「近頃のマンガに対しておもしろさを見つけられるほどの感性を欠いている人とおもしろく話す能力」をぼくが欠いているからだ、と考えることができる。







だいたいの話が自分にかえってくる。ぼくは、「近頃の若者とうまくコミュニケーションがとれない人」とコミュニケーションするのがへたくそな人間なのではないだろうか?

2019年5月13日月曜日

病理の話(321) 攻防戦とそのみどころ

人類をおそう最大の脅威は、感染症である。

……なーんていうと怒られるかもしれない。ミサイルがこわい人も、隕石がこわい人も、環境破壊がこわい人もいるだろう。

立場によって何をこわがるかは人それぞれなのであまりトガったことは言えない。

だから言葉を換えようか。

人類をおそう最大級の脅威は、感染症である。





人体という精巧なシステムをぼくはよく「都市」に例えるのだが、ここに攻め込んでくる敵がいる。

ばいきんとか。ウイルスとか。寄生虫とか。

これらが体にとりついて、すみついて、悪さをすると、「感染症」と呼ばれる。




人体は、外からやっている微生物……エイリアンみたいなやつら……をはねかえすために、多くの防御機構を持っている。これを人呼んで「免疫」という。

ではクイズです、人体がほこる「免疫」の中で、一番優秀なものはなんでしょう?




好中球?

マクロファージ?

リンパ球?




答えは、「壁」である。免疫のうちもっとも大切なものは「免疫担当細胞」ではない。「壁」が大事なのだ。

血液の中をぐるぐる回っている、白血球と呼ばれる免疫担当細胞たちは、たしかに、外からやってきた微生物たちを認識して攻撃をしかける重要な部隊である。

しかし、そもそも、体の中に敵を侵入させないことのほうがずっと大切なのだ。




国際線に、入国管理ゲートがあるだろう。

こわそうなおっちゃんがハンコをもって待ち構えているアレだ。

あのゲートを構成している一番大事な部分はどこか?

おっちゃんの目力?

周りに立っている警備員の迫力?

答えは「壁」だ。いうまでもない。

ゲートの横がすり抜け放題だったらそもそも入国管理はできないだろう。

周りが壁で通れないから、唯一通れる場所に人は向かうしかないし、入国を厳しく制限できるのである。




このことがわかっていると、「感染症」というものをもう少し細かく語ることができるようになる。

感染症とは、「体外の微生物が、どこかの壁をやぶって、あるいは、壁のすきまから、人体に侵入してきて、悪さをする状態」と再定義できる。





壁が破れていたり穴が空いていたりすると人類は感染症にやられやすくなるということだ。





人体にはもともと穴がいくつかあいている。口、鼻、尿道、毛穴……。

だから感染症を起こしやすい場所というのもある程度決まっている。

鼻から入ってきて肺に達すれば肺炎。

口から入ってきて腸に達すれば腸炎。

尿道から逆流すれば尿道炎とか膀胱炎。

毛穴から入ればにきび。

熱が出て具合が悪そうな人をみたお医者さんは、穴という穴を調べて、感染の証拠を探し出す。これがコツである。

たとえば手術をしたとか、血管にカテーテルを入れているとか、ケガをしたなどの理由で、「壁」が破れている場合には、そこから感染症にかかる可能性がある。

穴という穴をチェックして、その先につながっている構造も確認して、それでも何も見つからないときには……。

発熱や体調不良の原因は、感染症以外にあるのかもしれないな、と、考えてみたりする。





人体とエイリアンとの攻防戦に思いを馳せながら、医療者は感染症に対峙している。……感染症専門医が読んだらひっくり返るほど雑な文章ではあるが、おおわくは間違っていない……と、思う。

2019年5月10日金曜日

アグレッシブなMだよね

話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の「脳内の負荷」をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。



ぼくの「オリジナルの思考」をなるべくそのまま、ぼくがやりたいように外に出すと、上のような文章になる。

ここにぼくのクセがけっこう含まれている。

ぼくの文章のクセは、「ぼくが見たモノ」と「考えたコト」をブレンドしたまま、文章の前方に配置する、というものだ。

ぼくが一番興味のあること、言いたいことから順番に表示される。本来のぼくの脳はこういう文章を好んでいる。

けれども時間が経つと……。

どんなことを考えていたのかを忘れて、ぼくの思考がぼくのものでなくなったタイミングでこの文章を読むと……。

皆さんと同じ条件で、他人の目線で、自分の文章を読むと……。

あっわかりにくいなー、と思う。

脳のメモリをだいぶカリカリと消費しながら必死で読まなければいけなくなる。





ぼくは、「オリジナルの思考を垂れ流しただけの文章」を書いた後に、文章の構成をいじったほうがいいな、と思った。

先ほどの文章を再掲しよう。

「話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の『脳内の負荷』をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。」

これを、書き換えよう。

「最近、気にしていることを書く。ぼくの話し方や文章の作り方は、聞き手や読み手にとって『負荷』がかかっているのではないか、これを減らしたいなというのが目下の懸念事項だ。」

なんかちょっと優しいしゃべり方をしたい。なんだかもっとわかりやすい書き方をしたい。聞き手や読み手ができるだけ負荷なく、ぼくの思考を手に入れられるような発信方法はないものか。いつも模索している。」




「文章術」みたいなものが気になった。だから、名著と呼ばれる本も多く読んだ。

ちかごろ一番おもしろかったのは、ファクトフルネスを翻訳した上杉さんのメソッドである。「いちから文章を作る人ではない、翻訳家である、上杉さん」のことが気になったのは、「原文があってそれを違う言葉に翻訳していく」という作業が、「脳内にオリジナルがあってその原義をなるべく崩さずに文章にしていく」というぼくが目指している作業に似ているように思ったからだ。




その上であえていうのだが、ぼくはもう、自分の文章の構成をいじるのはやめとこうかなーと思い始めている。

ぼくは、やっぱり、「見たことと考えたことがブレンドされて飛んでくる雑な文章」の方が好きなのだ。別にそれが合理的だからとか、純文学的だからとか、なにやらの理屈があってのことではない。おそらく指向性である。むしろ嗜好性かもしれない。

ぼくは自分の文章の構成が好きだ。ぼくは自分の読みづらい文章を何度もかみ砕いて、そのときのぼくが脳の中に何を雑多に投げ込んでいたのかを探っていく読書が実は一番性に合っている。

読者をとるか、自分をとるか。

自分も読者なのだ。だからぼくは読者である自分をとることにした。




ただし、「構成を組み換える以外の推敲」についてはもう少し真剣に考えていきたい。読みにくくてもいい、とは、まったく思っていないのである。これも志向性というよりは嗜好性の話である。




結論として、ぼくは、自分が話し相手になったとき、さらには文章を読む方に回ったときに、「脳内の負荷」がいかに増えているか、みたいなところに背徳的な充実感をおぼえるタイプのマゾなのだと思う。

2019年5月9日木曜日

病理の話(320) 深読み病理医

患者に対して直接話しかけ、触れ、胃カメラやCTなどを施す「主治医」。

その主治医は内心いろんなことを考えながら検査を行っている。



少し気弱そうな患者がやってきた。

胃カメラの画面を、主治医だけではなく、患者ものぞきこんでいる。

カメラが胃にこすれて、ちょっと血が出ているような場所がある。

患者はびっくりする。

「ほへは、ひへふは。」

カメラを口にくわえているからこういう発音になる。実際には

「これは、血ですか。」

とたずねているのだろう。

主治医は答える。「いやー今ちょっとカメラがこすれて血がにじんでいるだけですね。」

患者はハラハラしている。





ところがほかの場所にも血がにじんでいる。

この場所はカメラがこすれるような場所ではない。

患者からも赤いものが見える。

「ほへほ、ひへふは。」

主治医は答える。

「……ここはなんでしょうね、少し血が出やすくなっているのかもしれません。」

すると患者の頭の中には、

「ここはなんでしょうね」

の一部だけがリフレインされる。




(なんでしょうね、とはなんだ。この先生にもわからないのか? もしもいやな病気だったらどうしよう)




不安そうになった患者の背中を看護師が撫でる。

主治医は横目で、それに気づく。

(そこまで気にするほど重大な病気ではないんだけどなあ……胃カメラがこすれてない場所なのに、血が出ているのは、たしかにちょっと変なんだよなあ)

患者と、主治医の、思惑が交錯する。

(ちょっとでも気になるなら、きちんと確認してほしいなあ。)

(念のため、つまんで病理に出しておくか。)





胃カメラの先端からマジックハンドが投入され、血が出ていた場所が少しだけむしりとられる。

小指の爪の先よりもさらに小さいくらいの、粘膜の断片が、ホルマリンの入った小瓶に採取される。

病理検査室に届けられる。

主治医は、病理医にむけて、依頼書を書く。

「念のためです。oozing (+).」

ウージング、というのは、じわじわと出血している、という意味だ。




病理医は依頼書を読む。イラストが描いてある。あるいは、内視鏡の写真が添付されている。

文面を読む。

「念のためです」という文章から、主治医の性格を考える。この人、がんを疑うときには、毎回きちんと「がん疑い」って書いてくる人だよな。

それなのにわざわざ「念のためです」。

あんまりがんだとは思っていないんだろう。それでも、安心のために……。

おそらくは、患者と主治医、両方の安心のために、病理検体を採取したのだろうな。




そこまで読み切る。

読み切れないときは主治医に直接電話をするのだが、もう、付き合いも長い。だから、わかる。




ここで細胞をみて、レポートに、

「悪性所見なし。」

だけ書いて、おしまいにしてしまう病理医は、……まあ、うん……間違っちゃいないんだけど。

ぼくは個人的には、AIに食われてしまえばいいと思っている。




ここまでの流れを予測して、

「慢性の炎症が存在する。上皮には再生変化あり。粘膜筋板が軽度肥厚している。癌の所見はなく、再生に伴う変化のみ」

と、細かく解説文を書いておく。

すると、主治医は、「わかる」。

(ああ……患者に説明しやすいように、いっぱい書いてくれたんだなあ)

そして、主治医は、病理報告書をみながら、患者に説明をする。

「えー、胃炎があるようです。この場所には。病理が、慢性の炎症と書いてくれました。何度か炎症を繰り返しているので、上皮に再生変化というのが見られています。さらに、炎症を繰り返した結果として、粘膜筋板という構造も厚くなっている。つまりこれらはいずれも、胃炎による変化ですね。粘膜がもろくなって血が出たのも、胃炎によるものでしょう。がんはなかったですね。」






「病理医が患者に触れる瞬間」というのはこうして訪れる。

実際に触れていないじゃないかって?

うん、まあ、そうともいう。けれど、どうだろうな。

ぼくは病理医も十分患者に肉薄できる仕事だろうと思っているけれどもね。

2019年5月8日水曜日

これを持っていると出口まで行けるんだゾウくん

地方局の作成したドラマ「チャンネルはそのまま!」を見てからというもの、民放が作成するローカルニュースみたいなもののあたたかさが気になってしょうがない。

20代の頃は歯牙にもかけなかった気がするけれど。

40を越えた今。

「近隣に住んでいるかもしれない人」がテレビでほがらかにしているのを見ると、必要以上に安心してしまう。

もうあと数年もすると涙ぐんでしまうかもしれない。涙ぐむだろう。今もすでにあぶない。

まったく、ぼくの精神はいろいろと弱くなった。




いつのまにかぼくは。

人々のさみしさや孤独を蓄積して、パターンを覚えてしまっている。

「こういう表情の人が、こんなしゃべりかたをするときは、こんな大変なことがあって、こんなつらいことを乗り越えて、それでもなんか前を向いてがんばろうとしているんだよなあ」

みたいに、人がただぼうっとしていたり、何気なく語ったりしているシーンを見ても、勝手に連想がつながるようになった。




想像力、イマジネーションは、経験によって伸びる部分がある。

経験によって増強・補完される「勘」は、人を弱くする。きっと。

そろそろ、「弱くなってしまった人にしかできないこと」をやるフェーズに入っているのかもしれない。





ローカルニュースで札幌市の円山動物園に訪れている親子がインタビューされていた。

母親にだっこされた子供が、母親がインタビューされている最中ずっと、カメラを気にせずに、カメラの後方で歩いているのであろう動物を指さして、

「ゾウだ! ゾウ! ゾウだよ!」

と言い続けているのだ。ぼくはそれを見ていた。

もうほんとに号泣するかと思った。なんの連想なのかはもはやよくわからないのである。

2019年5月7日火曜日

病理の話(319) 顕微鏡だけでわからないこと

細胞をプレパラートで見るとかなりいろいろわかるんだけど、もちろんわからないこともいっぱいある。

有名なところでは、「血の巡り」がわからない。

体の中からつまんできた組織片(そしきへん)をプレパラートにする段階で、その部分の血の巡りは当たり前だけれど止まってしまう。

血管は見えるよ。小さい奴だってわかる。

けれども血流は見えない。当たり前だけれどこれはけっこうおおきな「ハンデ」なのだ。




たとえば「がん」という病気は、体の中に機能のおかしな細胞が異常に増えてしまう病気だ。つまり本質は「ヘンな細胞が異常に増えること」にある。

この、「ヘンな細胞」も、通常の細胞と同じように酸素を必要とする。あるいは栄養だってほしがる。だから、がん細胞にも、普通の細胞と同じ……いや、それ以上に、血液が巡ってくる。

がんはずる賢いやつで、正常の血管網をいじって、血管を勝手に自分の方にひっぱってきて、血液をちょろまかすようなことをする。

このことを利用して、造影検査というのをやれば、「がんのところにだけ、周りと違うかんじで血流が流れ込んでいること」がわかる。病気の発見や、広がっている範囲を決めるときに、役に立つ。

これだけ大事な血流情報を、病理のプレパラートでは見ることができない。

「異常な血管が引っ張られている像」だけはかろうじてわかることがある。

市街地の電信柱から、学校のグラウンドに向けて、大量の電線が伸びていれば、「おいおい……何をするつもりだ?」と思うだろう?

病理医も同じようなことを感じることができる。

けれども、実際に流れている血流そのものをみることができないので、ちょっともどかしい。





病理医が直接みることができないのは、血の巡りだけではない。

たとえば、腸に、「炎症」が起こっているとする。体内の警察部隊である、白血球が、大腸粘膜のあちこちに出現している状態だ。

白血球がいっぱい出ていることは、プレパラートですぐにわかる。なにせ、白血球そのものは、顕微鏡でみえるからね。

ところが、この白血球が「なぜ」そこにあるのかは、見えないことのほうが多い。

つまりは「炎症があること」はわかるのだけれど、「炎症の原因」がわからないということだ。




炎症の原因がわからない理由はいろいろである。たとえば病原菌が原因である場合。単純に、病原菌が小さすぎて、プレパラートではよくわからない。というか菌自体はみえるのだが、大腸にはもともと「大腸菌」などの常在菌がいっぱいいるので、そこに「悪い菌」が混じっているかどうかがわかりにくいのだ。

直接の「下手人」を見極められないのに、炎症の原因を探らなければいけない。

だったら、どうすればいいか。




粘膜の表面付近で炎症が強ければ、感染症かもしれない。

粘膜の深部(表面から少し離れた場所)で炎症が強いならば、外からやってくる敵(感染症)ではなく、内なる敵(自己免疫など)に問題があるのかもしれない。

炎症はそれほど強くないんだけれど、なぜか粘膜が弱っているならば、それは特殊な栄養不足(たとえば虚血)かもしれない。

犯人そのものが見えないならば。

警察官の動き方、どこを重点的に捜査しているか、あるいは犯人がすでに壊した器物の解析……。

そうやって推理を進めていくことになる。




病理は推理、という話を最近よく書く。

推理。論理。わりと審理もする。そして、実は「心理」も用いるように思う。若干こじつけだが、こう、なんというか、「病気ってこういう気分で体に害を及ぼしていそうだよな~」みたいな、心理あてクイズ的な要素もある。直接目に見えないものを探るというのはそういうことだ。

そうやって必死で真理に迫っていくのだ。

2019年4月26日金曜日

今度特別編を書くのです

顕微鏡のレンズ周りに、パラフィンと呼ばれるロウのようなものがぱらぱらと、粉状になって落ちているので、ときどき掃除をする。

カメラのレンズを手入れする時に使うブロワーで、ボヒュボヒュと吹き飛ばしてしまうのが簡単だ。床はきちんと掃除機をかける。

ブロワー。

これほど風がぶろわああっっと出てきそうな名前もあるまい、と思う。

ブロー、という言葉だろ? 元は。髪をブローするみたいな。

ぶろおおおって風が出る感じがするもんな。わかるわかる。




でもボディーブローというときの「ブロー」はあんまりブローっぽくない。どっちかというとボディーゴボォとかボディーズボォとかボディーグフゥという感じではないか。

あのブローはなんのブローなんだ。

このへんでようやく検索をすればいいと気づく。




ググるとやはりボディーブローのブローも、髪をぶろーするのとおなじ「blow」であった。

なおラップの世界で用いられるblowはsucksと似たような、クソっぽい意味合いを含んでいるようだが、ここんところを深掘りはしていない。




なんでblowが「風が吹く」と「なぐる」の意味を持つのだろう。

どうやってググればいいのだ。語源とか由来とかと重ねて調べてみればいいのか?




ケンブリッジディクショナリー




だめだ。とにかく風が吹くっぽい意味と、殴るという意味が並列されているだけだ。ぼくが知りたいのは、なぜblowという同じスペルに、あまり似通っていないふたつの意味が重なっているかということなのだが……。




ようやく、

「古英語blāwan(風が吹く)、ラテン語flāre(風が吹く)と同系」

という記載だけはみつけた。吹き飛ばす、なくしてしまう、エリミネートする、みたいなニュアンスから後に「殴り飛ばす」と交差してしまったのだろうか。とにかくblowという言葉は調べれば調べるほど多くのニュアンスが出てくる。

しかしここまでくるともはや、言語学とか歴史的なニュアンスをわかっている人でないと太刀打ちできないな、ということがわかる。





最近よく言うし、このブログにも何度か書いていることなのだけれど、グーグルを含めた検索システム、さらにはインターネットというデータベース自体が、「歴史的な積み重ね」に対してかなり無力であるということが実感される。

誰かが書いた「歴史を考慮して、考察した文章」にたどりつけばいいが、グーグルに落ちているものだけを使って歴史を考察しようと思っても、昔のデータにはなかなかたどり着けない。情報量が爆発的に増大したこの10年くらいのノイズが強すぎる。

ネットに落ちている情報は、直近の10年のインフレーションが強すぎるのだ。20年くらい前の情報を探すためには、10年前に「10年前のことを書く。」とやってくれた人がいないと、まず見つからない。




巨人の肩の上に立つとかいうけれど、巨人のひざのあたりは、インターネットだけではほとんど評価できない。ひざがあったことはわかるが、ひざを見に行くことはできないのだ。

そんなことを考えながら、昨年、「巨人の膝の皿の陰」という連載を書いた。まあ大多数の人はみることができない雑誌なのだが……。いずれ何かの折にでも公開できたらいいなあとは思っている。


2019年4月25日木曜日

病理の話(318) 再度の検査が必要ですの場合

胃カメラや大腸カメラをやって、何かがみつかって、ドクターが言う。

「ちょっとつまんで検査に出しますね。」

乳腺をエコーで見ているドクターがあなたに語りかける。

「ここに針を刺して細胞を検査します。」

虫垂炎で虫垂をとった人に。

胆石症で胆のうをとった人に。

ドクターは説明をする、「とった臓器は病理に出します。」



人間の体の中からとられたモノが大きかろうが小さかろうが、とにかくとったモノは病理に回される。

そこでぼくらは待ち構えている。



さて検査にはそれなりの時間がかかる。

有機溶剤での処理をしたり、プレパラートに特殊な薬液で色を付けたりして、病理医が細胞をみるための準備をするのに、小さい検体であっても1日、大きな手術採取材料だと数日かかってしまう。

だから患者は検査の結果を知らされないまま、いったん家に帰されたり、病棟で不安な日々を過ごしたりする。




そして、病理診断レポートが返ってくる。

(どうでもいいけど書籍出版社の校正はレポートを「リポート」と修正しがちだが、個人的には病理報告書はリポートではなくレポートである。大半の病理医はレポートと発音しているはずだ。そもそも、ポケモンのセーブはレポートだし、Official髭男dismのアルバム名だってレポート。ぼくは一生レポートと言うだろう。リポートと直されるとむずむずする。閑話休題)

「がんではない。炎症。」

「がんだ。程度はこれくらい。性質はこうだ。」

「○○という病気の一部と考えられる。」

結果はさまざまだ。

主治医も、患者も、病理医が下した「病理診断」をみて、いささか検査というには複雑な文章を読んで、一喜一憂し、今後の計画を立てる。




悩ましいのは、以下のような診断が返ってくるときだ。

「わからない。」

おまけに、こう書いてあることもある。

「もう一度細胞をとってください。」「再検してください。」




患者も主治医もうんざりする。またあのカメラを飲まなければいけないのか。また針を刺さなければいけないのか……。

なぜだ。

細胞をとって見てもわからない、それを、もう一度とったからといって、今度はわかるものなのだろうか?





というわけで今日は「病理医がわからないという理由」や、「もう一度検査をする意味」について少し考えてみる。





たとえば、がんかもしれない部分をつまんで検査に出しても、がん細胞がわかりにくいことがある。

これは、がん細胞が「どうやってそこに存在しているか」によって決まる。

ぼくがいつもやるように、がん細胞をヤクザに例えよう。

ヤクザがアジトに集結しているとする。右を見ても左を見てもヤクザ。ヤクザ集団。おしくらヤクザ。

この一部分をつまんでとってくる。こういうときはどこを「つまんでも」ヤクザであろう。ヤクザ取り放題だ。

けれども、がん細胞はいつもアジトに集結しているわけではない。

しょっちゅう使う例え話で恐縮だが、シブヤの交差点のような雑踏に、15人のヤクザを放り込んでみよう。

すぐに数百人の善良な人々にまぎれてわからなくなるだろう。

交差点の一部を「つまんで」とってくる。さあそこにヤクザは含まれているだろうか?




「含まれていないことがある」。

含まれていなければ、病理医は診断できない。



再度検査をするときに大事なのは、「多めに細胞を採取する」とか、「広めに細胞を採取する」ことだ。

あまり大きく細胞をこそげとると、血が出たりするから、ここにはさじ加減が必要。なかなかたいへんである。




ほかにも。



ヤクザがそり込みリーゼント、全身にいれずみ、両手に拳銃とドスを持っていたら、たった一人のヤクザがシブヤの交差点にいたとしても、すぐにヤクザだとわかる。

けれどもヤクザの子分がリクスーで全身を決めており、頭はゆるふわニュアンスのワックスでアシメに整えていて(ただし黒髪にはしていて)、手には青山のセールで売っているようなブリーフケースを持って、シブヤの交差点にいたらどうだろう。

曜日によっては、「なんでここに就活生が?」という違和感はあるかもしれないが……。

少なくともヤクザだとは断定できないに違いない。




このように、「見た目のかけはなれが少ないタイプの病気」は、一度の検査ではなかなか悪人と断定できないことがある。

この場合も、何度か検査をやりなおすことで情報を集めると、診断の役に立つ。ある日はただ雑踏に立っていただけの就活生風の男が、次の日には雑踏でおっさんに肩をぶつけて怒号をはいていたら、あっ、何かおかしい、とわかるだろう。挙動をみるためには複数回の観察が有用である。





「細胞をみればぴたりと当たる」というのは実は嘘なのだ。

みるにしても、いろいろな見方がある。

ぱっと見でおかしいとわかる「かけはなれ」があればいいけれど、周囲の状況を考えてよくよく注意しないと気づかない「かけはなれ」もある。

普通の交差点に自動車があってもおかしくはないだろう。

でも、週末に歩行者天国となる場所に車がいたら異常であろう。

この場合、「車自体」をいくら見ても、異常とは気づけない。

「車の存在する場所とタイミング」がおかしいからこそ、異常とわかるのである。

これといっしょで、細胞をみる検査というのは、単に細胞だけを見ていてわかるものではない。

周囲との関係、さらにはその患者が抱えている背景をきちんと判断しないと、異常には気づけない。





というわけで「病理の再検査」が指示された人へ……。

お手数をおかけしてすみません。正しい診断のために、なにとぞよろしくお願いします。なんとか、診断を決められるよう、がんばります。

2019年4月24日水曜日

群ようこって一人ですか

ぼくはどうしても、ネアンデルタール人以前に住んでいたというナントカ人の名前を覚えられない。

なんだっけ。

デニッシュだかシャラポワだか、とにかくそんな名前の人がいたという。

……だめだ、義務教育でやってない部分は何度聞いても覚えられない。



「いくやまいまいおやいかさかさ、かやおてはたかやき」。

これはごろあわせだ。

伊藤博文、黒田清隆、山県有朋……。歴代の総理大臣を頭文字で覚えていくためのものだ。意味は無いと思う。とにかく機械的に覚えてしまった。

ぼくは大学入試センター試験を日本史で受験したので、今でもこの語呂合わせだけは覚えている。ところが肝心の人名はだいぶ忘れてしまった。

いくやま、の「ま」は誰だったか。

松方正義だ。そうだそうだ。

……そうだそうだと書いたけれど思いだしたわけではなく、もちろんググった。40の頭に松方正義は残っていられない。




義務教育+高等教育というのはなんだかんだで偉大だったのだなあ、ということを考えている。だいじなことはいっぱいあそこにあったのだ。けれども今や、ほとんど何も思い出せない。ぼくは高校1年生のときに世界史だって習ったはずなのに、序盤も序盤の「アッテムト文明」みたいなところしか、もう覚えていない……。



今確認したらアッテムトじゃなくてヒッタイトだった。ッとトしか合っていないではないか。鉄とか戦車の文明はヒッタイト文明。じゃあアッテムトってのはなんだ。

ググりなおすまでもない。

アッテムトというのはドラクエIVに出てきた鉱山のある都市の名前だ。

高校よりはるか昔にやったドラクエの町の名前が混線したのだ。たぶん、「鉄」と「鉱山」あたりもフックになってしまったのだろう。





高校までの知識をこれだけ忘れておきながら、なぜ、えらそうに、「医学部を出ました」などと言えようか。

ぼくが医学部で習った知識のうち、最近使っていないものはほとんどすべて忘れてしまっているはずなのだ。

「ブドウ売る美貌の猿もカエル大」というごろあわせがある。

食中毒の原因微生物を、発症が早い順にならべたものだ。

ブドウ球菌、ウェルシュ、ビブリオ、ボツリヌス、サルモネラ、カンピロバクター、エルシニア、大腸菌……。

摂取して数時間で発症するものから、2,3日のタイムラグがあるものまで順番になっている。

これを覚えているからといって、ぼくは、あの学部時代の、感染症講義を全部覚えていると言えるだろうか?

言えるわけがない。

こんなもの、「リアカー無きK村、動力借りとう するもくれない 馬力」とか、「閣下スコッチバクローマン、てこにドアがゲアッセブルク」などと一緒だ。脳の中で、知識の本質はとっくに風化してしまい、ごろあわせの部分だけがまるで外骨格のように楼閣を形成している。




だからか、ということを、最近よく考える。

ぼくは昔よりも、人と群れるようになった。

たぶん、自分が何にも覚えていられないことを、わかってしまったからだろう。

覚えていることにしか、アイデンティティがなかったあのころ、ぼくは群れなかった。

2019年4月23日火曜日

病理の話(317) コナンくん最近バーローって言わない

病理とは病の理(やまいのことわり)と書くわけだ。

すると、「病理をやる人」と言った場合、ほんらいであれば

 「病気を解明する人」

を意味しそうである。



しそうであるということはそうではないということだ。




実際には「病理をやる人」というと、病理診断という医療行為を担当する人のことを指している場合が多い。体の中からとってきたものをプレパラートにして、顕微鏡で観察して、細胞をみて、病気の正体に名前を付ける仕事。





というわけでぼくも普段はプレパラートをみたり、臓器を直接目で見たり、直接臓器はみられないけれどCTとかエコーとか内視鏡を介して見たりしている人と会話をしたりして給料をもらっている。

ただ、やはり、ときには、「病の理」について思いを巡らせたりもするのだ。






病気というのはなぜ起こる?

昔から人々はこのことにとても興味があった。

まあきっと、人々が一番最初に思ったのは苦痛が取れればいいとか、緩和できればいいとか、昔の健康だったころに戻りたいとか、そういう素直な感情だったろう。たぶん最初は「治したい」のほうが先に来たはずだ。けれども、病気を治すためにはどうやったって、病気そのもののことを良く知らないとお話にならなかった。「治すために知りたい」が生まれ、その後、「知りたい」がめきめきと具体的になっていったのではないかな。

敵を知り己を知れば百戦危うからず。

病理を知り生理を知れば百戦危うからず。





それでだ、病気の正体とか原因というのもさまざまである。

骨折みたいに「物理でこわれる」というのも立派に病気だ。こういうのは因果がわりとわかりやすかったから、昔から解析が進んだ。

いっぽうで「がん」みたいな病気はわりとわかりづらい。

そういう「わかりづらい病気」というのが目の前に残ると、病の理を研究しようと志す人たちは、やっきになって「わかりづらい病気」を解析した。




そしてある頃から、「どうも細胞というのは、DNAというプログラムがあって、そこから生み出されるタンパク質によっていろいろ機能を果たしているらしいぞ」ってことがわかり。

そこからすぐに「タンパク質に異常があれば病気にもなるのではないか」という発想が生まれたのである。




細胞を大工さんに例えよう。

この大工さんにひたすら「木材を切る仕事」を担当してもらいたい。

すると、木材を切るためのノコギリが必要だ。だからDNAは「ノコギリ」というタンパク質を作る。

こうして大工さんはノコギリを手に持つ。木が切れる。機能を果たす。




で、ある解析の結果、ノコギリというタンパクがカナヅチになってしまう異常を見つけた。

おかげで木が切れない。なんだかベコベコ殴ったりしている。


あっ、これが病気の原因だ! とわかる。

こうして、DNAやタンパク質の研究がめちゃくちゃに進み、さまざまな病気が発見(というか再定義)された。




けれどもあるとき、別の解析で、この大工はきちんとノコギリを与えられているのに、木を切らないという現象が見つかる。

DNAとタンパク質を解析しても、ノコギリはきちんとノコギリなのだ。

なのに病気になってしまっている。

これは難しい。原因がわかるようでわからない。

こういうタイプの病気ばかりが、「原因がわからない難病」として、今に伝えられている。





そしてあるとき、研究者たちは気づくのだ。

「ノコギリができてるかできてないかの話ばっかりしてたけどさあ、そのできたノコギリを、大工が、背中に背負ったままだったり、頭のうえでバランスをとってたりしてたらさ、木は切れないよなあ。」

そう、ノコギリがあるかないか、だけではなく、ノコギリが大工の手にきちんと握られているかどうかを解析しないとだめじゃん、ということに気づいた。

今までの解析手法では、大工とノコギリをとってきたら、それらをエクストラクト(横文字イエーイ)の中でとろかして、バラバラにして、解析していた。

けれどもバラバラにして成分だけ解析していると、これらの位置関係とか使われ方はわからない。




さまざまな苦労を経て、大工とノコギリをいっしょに解析する手法ができあがった。これでまた新しい病気が次々定義できる。




ところが今度は、大工がノコギリを持っているのに木を切らないという病気が見つかって……。

「おい、手には持ってるけど、こいつ、歯の方を持ってるぜ、みたいなことがあんのかなあ……」

研究者はまた考える……。






ノコギリが体の中では丸まってしまっている異常(取り出すと一見きちんとしたカタチにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。

ノコギリに鞘がついたままの異常(取り出すと鞘がどっかに落ちて正常のノコギリにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。

ノコギリを持った大工が4人集まるとお互いにおしくらまんじゅうをはじめて仕事をさぼってしまう異常(1人1人を取り出すと口をつぐむので、今まで実験室では認識されていなかった)。





病気の原因を探る研究の根幹にあるのはいつも推理の繰り返しだ。

推理といっても、安楽椅子探偵のようにずっとイスに座ったまま考えていれば解決できるタイプのものもあれば、ホームズのように仮説形成したあとで「現場百遍」して解決するかんじのものもある。

生命科学の基礎研究はどちらかというとホームズかな。

「病理」の理は、「推理」の理でもあるからな。

なおLANねぇちゃんがないと仕事にならない点からすると、ホームズってよりコナンかもしれない。

2019年4月22日月曜日

自重

ブログの記事ストックは、最近はだいたい5日分くらい用意してある。そう、ぼくのブログは、その日に書いて公開しているわけではない。あらかじめ書きためて、日時を指定して予約投稿。

むかしは10日分くらいストックしていた。平日だけの更新だから、10日分のストックがあるとだいたい2週間先まで「もつ」。

5日のストックを持っておくと、たとえば風邪をひいたときにブログを書かなくてよい。2,3日寝込んでも安心だ。出張が連続しているようなときも、出先でブログを書かなくてよい。安全装置としてべんりである。5日分もあれば用は足りる。

けれども、ほんとのことをいうと、10日分くらいはストックしたいと思っている。

なぜかというと、5日のストックでは、公開時にぼくが新鮮味を感じられなくなるからだ。1週間くらい前に書いた内容はたいてい覚えている。これではつまらない。

一方、2週間前に書いた記事であれば、てきめんに忘れている。

これ、ほんとに俺が書いたのか? くらいの印象は醸し出される。自動投稿で公開された記事を早朝に告知ツイートする際に、世界で最初の読者となって、自分の記事を新鮮に読むことができる。

ぼくはそういうことをするのが好きだ。

昔から好きだった。



最近ぽつぽつと本を出すようになったが、本は出版までの間に何度も何度も読み返す必要がある。ゲラがどうとか校正がどうとかいうやつだ。

だから本が出るころにはすっかり飽きてしまっていて、発売に湧く関係一同にお礼をしながらも自分では全く読み返せなくなっていることが多い。

愛着が足りないとか心構えがなってないとか言われてもしょうがない。けれどもそういうものなのだ。




これだけ手をかけて丹念に読みまくった自著でも、2年もすれば忘れる。

ぼくはそろそろ、「いち病理医のリアル」を読もうかと思っている。

あれ、実はすごくいい本だったのではないか、と、今さらながら思い出す。

内容は覚えていないので新鮮だろう。さあいつ読むか。




読みたい本は山ほどあり、一度読んだ本はどんどん後回しにせざるを得ない。

こうしてぼくは自著を読む機会を少しずつ失っていくことになる。

2019年4月19日金曜日

病理の話(316) 語り部のプライド

病理医の中には、「ストーリーを勝手に語っちゃう人」というのがいる。

たとえばこうだ。

「ここに癌細胞がいるんですけれどね。

正常の粘膜にまぎれて。ほら。いるでしょう。わかります?

癌細胞は、まず他の場所で発生して、いったん粘膜の下に潜ったんです。しみこんだ。

で、粘膜の下を這っていって、この場所で、再び粘膜に顔を出した。

昔、逆噴射、って言った人がいました。まさに下から上に噴き上げてますよねえ。」




……いかにも、がんの動きを見ていたかのように語っているが……。

実際にプレパラートで観察される像は、時間を止めた「静止画」である。写真で撮影したようなもの。

細胞がぐりぐりと「潜ったり」、「這ったり」、「噴き上げたり」する動きを観察できるわけではない。



かの病理医は、見たものを解釈して、ストーリーに仕立て上げて語っている。

そもそも癌細胞のことを「ある」ではなく「いる」と擬人化している時点で、がんに何か意志のようなものを感じ取ろうとしていることがわかる。





この、「そこに黙って存在しているものをみて、ストーリーを想像する」という思考は、考古学に似ている。

貝殻がいっぱい捨ててあったから、側に集落があって、人が海から食料を得ていたことがわかる、とか。

土器の中に種籾がはいっていたから、この時代には稲作が行われていたはずだ、とか。

これらはいかにも「ありそうなストーリー」として市民権を得るが、実際には、「ほかのストーリー」もあったはずだ。

同じ貝塚をみても、「貝からカルシウムを抽出して道具にしたのかもしれない!」と予測する人がいてもいい。

複数の仮説がある場合には、それぞれの仮説のどちらが「より、ありそうっぽいか」を探ることになる。

そもそも正解は確認できないのだ。大昔のことだから。

でも、ほかの資料を発掘することで、より確からしいストーリーを絞り込んでいくことはできる。

貝塚の側に、貝をまとめて熱する道具のようなものが出てきたら、「貝から何かを抽出したかもしれない」ことがより強く立証されるだろう。

でも、そういう道具がないならば、「貝は普通に食って捨てたんじゃね?」のほうが、より、「もっともだ」。





考古学がストーリーを考え出す学問という側面を持つように、病理組織学もまた、顕微鏡というマニアックな道具で、組織像という限られた情報から、「より適切なストーリー」を紡ぎ出すことが必要とされる。

そこに存在するがんは、どこからやってきて、どこへいくのか?

止め絵から流れを予想することで、たとえば……

「どこからやってきて」をつぶせば予防に役立つアイディアが出るし、

「どこへいくのか」を先回りすれば効果的な治療ができるかもしれない。





仮説形成法(アブダクション)という論理は、帰納法や演繹法に比べると、学術としては正確性が足りない、と思われがちだ。「そんなの、お前の妄想だろう」と言われる危険をいつも抱えている。

けれども、アブダクションこそは、医学をより奥深い科学に変貌させるアイディアを秘めた、学問が本来もつクリエイティビティそのものだ。




なお、AI(人工知能)も、アブダクションを途中まで進めることはできる(できないと考えている人もいるが、ぼくは、途中までならできると思う)。

けれども高レベルの仮説形成をAIが単独で行うことは、今のところ不可能だ、

人間にしかできない仕事というのは、けっきょくのところ、アブダクション=観察した事象にストーリーを与えて、学問を拡充しようとする行動

に、あるのではないかと考えている。

2019年4月18日木曜日

だいぶ育った

安く容量が多いペットボトルを買いだめておき、職場に持っていって日中飲んでいる。

水筒にお茶をいれてもっていけばいいじゃないか、という考え方も大変よくわかるがぼくは買って飲む飲料の味が好きなのだ。

麦茶を飲みたい日ばかりではない。

緑茶にしたい日もある。

紅茶を選ぶときもある。

いちいち違う茶葉を買いそろえて、ときおり作り分けてストックするのがめんどうだ。その分、脳がカロリーを使って疲れるだろう。

だから買った方が経済的だ。ぼくはそういう言い訳を用意している。




こうやって書くといかにも毎日違うお茶を飲んでいそうなふんいきにみえる。

しかし、実を言うとだいぶ長いことジャスミン茶ばかり飲んでいる。

かつて、息子と沖縄に行って、現地で買って飲んださんぴん茶がうまかったなーと思って検索をした。

なんのことはない、ペットボトルのさんぴん茶はジャスミン茶とほぼ同じなのだ。

知らなかった。それ以来、セブンやローソンでよくジャスミン茶を買う。





ジャスミン茶は、沖縄の思い出の味がする。

うそだ。しない。

ぼくは、そこまで思い出がしっかり残るほうではない。

ジャスミン茶を飲みすぎたせいで、さんぴん茶の記憶はかえって薄れてしまった。

写真を撮ると、写真の画角で記憶されてしまい、実際に網膜に映っていたときのイメージがどうやっても思い出せないのと似ている。

五感が瞬間に捉えたニュアンスは、あとから振り返るごとにどんどんダイナミックに変化していく。




息子に聞いてみたことがある。

「覚えてる?」と。

すると彼はいう。覚えてるよ。

何を覚えてる?

それは忘れちゃった。

でも覚えてるの?

そうだね。沖縄行ったなってのは。




記憶とはそういうものだと思う。

2019年4月17日水曜日

病理の話(315) 風評に負けると負けというゲーム

今日は、病理の話ではなく放射線診断科の話です。

でもまあ病理の話でもある。





以前にRad Fan(ラドファン)という名前の、前前前世が好きそうな名前の雑誌に原稿を載せてもらった。

ラドというのはRadiologyすなわち放射線科の意味だ。

ぼくの寄稿した原稿は、画像と病理の関係について。

http://www.e-radfan.com/shop-radfan/69073/
「病理診断は画像モダリティのひとつに過ぎない ~臨床画像・病理対比~」

けっこうがんばった。本文はいろんな人にほめられた。

ところが、表紙に載ったぼくの原稿タイトルに誤植があったらしい。表紙なので校正原稿をみることもなかった。言われなければ気づかなかったし、なかなか笑える誤植だったのだが、編集部は青くなったようだ。いろんなお詫びの言葉が届いて、かえって恐縮してしまった。

その後、翌月の号が送られてきた。誤植訂正を掲載したので見て欲しい、とのこと。

律儀だなあと思いつつ、翌月号に目を通した。

こうして偶然読んだ雑誌の中に、なかなか興味深い特集が載っていた。

http://www.e-radfan.com/shop-radfan/69508/
「到来する激動のAI時代。放射線科存亡の危機?」




医療系の人間なら、誰もが少しは気にしたことがあるだろう。

AI(人工知能)によって人間の仕事が奪われるとか、逆に仕事がラクになるから歓迎だとか、まあいろいろ、のんきな未来予想図が描かれまくっている昨今。

病理医のぼくもこの話題には何度も晒されてきた。

しかし医療職の中でもっとも人工知能が気になるのは、放射線診断部門だろうと思う。

CTやMRIはコンピュータ解析との相性が抜群にいい。なにせ元からデジタルデータ。アナログ画像を取り込みする手間がないだけでも他部門よりはるかに(AIにとって)有利なのである。

RadFanというくらいだから、放射線科好きの人間達が読む雑誌だ。

そこに、「放射線科存亡の危機」というタイトルで対談を組まれたら、読まずにはおれまい。




内容自体はさほど新しくはなかった……というかぼくもさんざん勉強したので大部分のことはわかっていた。確認作業、といったかんじ。

ただし、1箇所、あーそうだよなーと納得する内容が書かれていた。




・将来、AIが医療現場に入ってきたとしても、やはり従来から言われているように、プロの放射線科医の仕事を完全に代替することはないと思われる。

・けれども、放射線科の仕事をどこまでAIにまかせるか、という問題を実際に考えて決断するのは、おそらく放射線科医ではない。

・放射線科医とAIを比べて、どちらを選ぶかと考えるのは、病院の経営側や、放射線科医たちと一緒に働いている臨床医たちだ。

・放射線科医は知っている。AIよりも放射線科医のほうが、細かく診断にニュアンスを込めることができるし、説明も非常に上手に行える。しかし、その恩恵を、臨床医たちは理解しているだろうか?

・現実に、今、中小の病院では常勤の放射線科医が不在である。そもそもプロの放射線科医を雇えない病院では、バイトの放射線科医が診断をしていたり、あるいは放射線読影という作業自体がほとんどなかったりする。

・つまり、多くの病院で働く臨床医や経営者にとって、放射線科というのは、プロの放射線科医が考えるよりも「安易」で、「雑」かもしれない。

・もともと放射線科にあまり依存していない病院において、AIが登場すると、現場の人々にとっては単純に「プラス10点」が得られる。

  放射線科医なし 0点 → AI 10点。

・これに慣れた人々は、そこからさらに、放射線科医あり 15点 という状態へのステップアップをはかるだろうか? はかってくれるだろうか?

「人件費とか、効率とかを考えたら、プラス10点で十分だわ」

と、経営側に言われてしまったりは、しないか? 臨床医だって、「まあ細かく読んでくれたらそれにこしたことはないけど、AIが基本的なところを読んでくれるなら、人間の放射線科医がいなくてもいいよ」と言い出さないだろうか……?





まあだいたいこういうことが書いてあった。完全にぼくの考えと一緒であった。

そして病理医も、きっと同じだろうな、と思った。




AI時代において、放射線科医や病理医が「今のまま働き続ける」ということはあり得ない。

ただ、これについては、現在60代以上の医師ならばとっくにご存じだったはずだ。

そもそも放射線診断学は30年前とはまるで別モノである。単純X線の使用価値が漸減し、HRCT, MRIの発展が著しく、撮影枚数が増え、造影検査も豊富になり、読影内容だってかつてとは比べるべくもない。

病理学も、電子顕微鏡の使用頻度が減り、免疫染色が隆盛となり、遺伝子診断が導入され、WHO分類などは次々とうつりかわった。

そもそも30年前の病理医の仕事なんてのは今ほとんどなくなってしまっている。

もともと、診断部門というのは、そういう分野なのだ。新しい機械が登場するごとに、仕事が新しく変わっていった。




だから今回も大丈夫、というのはちょっと話を簡単にとらえすぎている。

AIによって無くなる仕事内容というのは、今まで我々が「一番頭脳を使ってきた部分」かもしれない。

つまり、「もっとも飯の種になっていた部分」であり、「病院経営者が金を払う部分」だったのだ。

放射線科医や病理医が、いくら「自分たちは診断学に必要ですよ」と叫んでも、病院経営者の側が、「AIまでで十分だな」と判断されたら、

ぼくらの仕事はなくなっていないのに、給料はなくなってしまうのである。





てなことをこの2、3年ずっと考えてきた。

放射線科医も病理医も、「研究的な側面」を大事にすることで、今後もきちんと価値を発揮し続けていける。それは間違いない。

研究的、というのは、開拓者精神をもって新しいジャンルを切り開いていくという意味だ。ある意味、クリエイター的と言い換えてもいいかもしれない。

その上で、ぼくのように、市中病院に勤務していて、大学ほど研究を求められない立場にいる病理医、あるいは放射線科医たちは……。





うん、危ないと思う。だから今のうちに、クリエイターの視点、ケアの視点、コミュニケーターの視点、さまざまな視点を自分に付加しながら、AI時代にどうやって職業を変えずに生きていくかを、考えておかないと、もったいないんじゃないかなーと思うのだ。





これほど将来性があって野心的でチャレンジしがいがある分野もそうそうない、と、ぼくは思うのだが……。ま、とらえかたは人それぞれである。

2019年4月16日火曜日

脳だけが旅をしない

お気づきだろうが少し前に、このブログで2日に1回更新している「病理の話」シリーズの記事すべてに副題を付けた。

1日でガッとやってしまったら、調子がすべていっしょになった。なんとなくへらへらしているかんじである。

タイトルそのもののクオリティはともかく、いざインデックスを付けてみたら、まあ、やっぱ、こっちの方が見やすいかな、と思う。今まで無骨に「病理の話」だけで通してきたが、最初から副題を付けておけばよかったかもしれない。

まあいいんだけど。




副題を付ける際に記事をすべて読み返した。300本程度の記事には、ある程度のパターンがあって、ただそのパターンは思ったよりも流動的であった。書いたぼく自身はもっと同じ事ばかり何度も書いているのかと思っていたが、それほどでもなかった。

学問の話というのはネタがつきないものなのだな。

どちらかというと、病理の話以外の、合間の話のほうがネタ被りしているかもしれない。





先日「不労所得で生きていく話」になったとき、その場にいた4人のうち3人までが、

「働かずにカネだけ入ってくるような暮らし、いつまで耐えられるんだろうか」

と気にしていたのがおもしろかった。ぼくも全く同感だった。

働かずに食えるという状況から得られる安心は確かにデカいだろう。

ラクでもあろう。

でも、自分が何もしていなくても自分の生活が回っていくことに、ぼく自身が耐えられるだろうか。

何もしていない自分が生み出せる発想なんてほとんどないことに、耐えられるだろうか。

ぼくは無理ではないかと思った。

ブログがいい例である。

「病理の話」があるからこそ書けるのだ。病理がなければぼくはこんなにブログを書き続けられない。




「働かずに食うメシはうまいか?」という質問がある。

働くこととメシのうまさとを混同している。あまりいい表現ではない。

どうせ聞くならこうだろう。

「働かずに脳をはたらかせられるか?」

よいとも悪いとも言わないが、ただ想像してもらいたい、

「脳をはたらかせられない状況」

それにあなたは耐えられるか。ぼくは耐えられない。おそらく誰も耐えられないと思う。

まあそんなことは実現するわけがないので、杞憂なのだけれども……。

2019年4月15日月曜日

病理の話(314) 病理おじさん肝臓を味見する

先日、ポートメッセなごやで開催された、健康未来エキスポ2019。

日本病理学会はここにブースを出した。「まなびのまち」と称された黄緑色の……ぶっちゃけキムワイプみたいな色合いの一角に、看護師、臨床工学技士、臨床検査技師、整形外科医などといっしょに「病理医」というブースが設けられた。


ここでぼくらは子ども達に顕微鏡を見せて遊んだ。

その際に説明した内容の一部を、今日はここに記す。




”はい、これはオクラです。食べるオクラだよ。ふつうこんなものを顕微鏡で見ないよね。おじさんもオクラを顕微鏡で見たのははじめてだ。びっくりするね。

こうやってオクラの断面をみることができる。すごいだろ。オクラ、というか植物は、きちんと細胞でできているってことがわかるね。

動物も、植物も、まるでレゴブロックを積み重ねたみたいに、いろんな細胞が組み合わさって、膨大な量の細胞によって、できあがっているんだ。

ほらね、オクラの表面に生えている小さな毛にまで、細胞があるのが見えるね。




さて、今度はいよいよ、人間の細胞を見てみよう。

といっても。

ここでちょっと考えて欲しいことがある。




さっき、オクラをみるときには、ぼくらはオクラをこうやって真っ二つにしてさ。

プレパラートという、向こうが見えるくらい半透明のものを作るために、カンナみたいな道具を使って、まるでカツオブシを削るみたいに、オクラを薄く薄く切るんだ。

でもね、同じようなやり方で、人間を見ることができるだろうか?




たとえばさあ、ぼくがさあ、風邪を引いたとするよ。

ノドが痛くて、鼻水が出て、咳が出て、熱だってちょっとある。

具合悪いなーって言って病院に行ったとするじゃない。

そこでさ、お医者さんが、ではノドを調べましょうって言ってさ、

おじさんのノドをバッシーって斬ってもってっちゃったら大変じゃないかな。

ノドが痛いよって病院に行って、死んじゃうよね。ノドなんか持っていかれたらさ。




さっきオクラは真っ二つにしたけれど、人間の体をみるときには、真っ二つにするわけにはいかないじゃないか。じゃあ、どうしたらいいだろう。




ちょっと例え話をしようかな。

おじさんはね、病理医っていうんだけれど、実は料理もする。

たとえばね、とん汁を作る。おじさんは上手だ。おいしいとん汁ができるよ。

で、これをね、味見しようと思ってね。

お鍋に入っているとん汁を、全部飲み干しちゃったら、だめだよね。

味見だって言ってさ、全部飲んじゃったら、味見の意味がないわけだよ。

とん汁の汁を全部飲んじゃったらさ、それはもうとん汁じゃなくて、トンじゃん。

じゃあどうすればいい?




そう、一部をすくって、ほんのちょっとでいいんだよ、味見をすればいい。




だからたとえばおじさんがどこか具合が悪くなったとしてさあ。

そうだな、肝臓っていう臓器がここにあります。この右側のあたり。

だいたい1300グラムくらいかな。1500グラムってとこかな。

牛乳瓶1本よりちょっと重いくらいの、立派な臓器だよ。

これの調子が悪くてさ、これから調べようとね、そういうときにだ。

検査しまーすって言われて、肝臓を全部バッシーって取られちゃったらね、おじさんはもう明日には死ぬよ。そんなことしちゃいけない。

だから、このように、小さな針を刺すんです。

で、取れてきた、肝臓のほんのちょっと、一部分が、これ。

見てごらん。このプレパラートの上。

おじさんの小汚い親指の、爪の白い部分とだいたい同じくらいの大きさだ。たったこれだけでいいんだよ。

牛乳瓶1本ちょっとの肝臓を「味見」しようと思ったら、中年の爪の先くらいとってくればいい……

たったこれだけを、顕微鏡で見るだけでね、驚くほど多くのことがわかるんだよ。”





だいたいこんな感じの説明をしました。おもしろかったよ。いい子たちがいっぱい来た。

2019年4月12日金曜日

溜飲の下がった先に幽門輪

別にぼくにとっては3月が4月になったからと言って何か変わるわけでもないのだが、妙に忙しい。

ぼくは変化していなくても、ぼくの周りが変化していれば、ぼくはやはり変わっていかざるを得ない。

中動態である。悪人正機でもよい。

このあたりの考え方……自分を形作るものは自分ではなく、周りとの「かねあい」なのだということ……が、ようやく複数のことばで腑に落ちるようになってきた。

まあ腑に落ちたからといって、すべてが消化・吸収されて栄養になるわけではないのだけれど……。




さんざん人の口から聞いていた言葉をなかなか実感できず、自分で体験してはじめて納得する、ということはしょっちゅうだ。

よくある「定番の観光地」に行く度に思う。

あるいは、「誰もが感動した映画」を見たときも思う。

あまりに多くの人々がよい、よいと言う、人気の、混雑した、有象無象の感想が行き渡りすぎたコンテンツ。ぼくのようなあまのじゃくは、「すっかり有名になったそれ」を消費することに二の足を踏んできた。

でも最近は違う。

世で人気を博するものはたいていいいものなのだ。それがわかってきた。

人がいいぞと言う言葉だけでは腹オチしない。

だったらなるべく自分でも味わってみる。

体感して、実感する。




別にぼくにとっては3月が4月になったからと言って何か変わるわけでもないのだが、妙に忙しい。

そしてぼくはこの一文を見て、ああ、だから世の中の人々は、年度替わりに忙しい忙しいとこぼしていたのかあ、と、ようやく納得する。

ぼくはたったこれだけの納得を得るために40年生きなければいけなかった。

他人の考えていることがたいてい妥当なのだと気づくのに、40年もかかってしまった、ということだ。

2019年4月11日木曜日

病理の話(313) 本もDNAも大事に読みましょう

人間の体を形作っている「レゴブロック」がある。

何かというと、「細胞」のことだ。

細胞の中にはほとんどの場合、「核」がある。

核は細胞のコントロールセンターだ。核の中には、細胞の働き方を決定するプログラムが入っている。

プログラム、すなわちDNA。

このDNAを、細胞の中にあるさまざまな装置が読み取って、さまざまなタンパクを作り上げる。タンパクは武器であり防具であり、服飾雑貨でもある。DNAに書かれたタンパクをいかに作るかが、細胞の挙動を決めていく。




さてこのプログラムだが、あらゆる細胞の中に「フルセット」で入っている。

ぼくはこのプログラムをよく広辞苑に例える。

広辞苑にはさまざまな言葉が収録されているが、これを買った人がみな、広辞苑を通読するわけではない。広辞苑の一語一句をすべて読み切って活用している人はめったにいないだろう(まったくいないとは言わないが)。

おのおのの細胞がもつプログラムは「フルセット」だが、実際にそれぞれの細胞が使うプログラムは「ごく一部」に過ぎない。

自分が使うプログラム以外のページは、のり付けされている。

墨で塗りつぶされていることもある。

逆に、ある細胞が頻繁に使わなければいけないページについては、しおりが挟んであって、しょっちゅう開きやすいように工夫されている。



すべての細胞はプログラムをフルセットで持っているのだが、この、しおりの場所が異なり、のりづけの場所が異なるから、それぞれ違うプログラムだけを発動して、仕事を分担し、棲み分けることができる。

膨大な情報をもつ広辞苑のどこを開きどこを閉じるか。

ページの開き方を制御するシステムを、エピジェネティクスと呼ぶ。





生命はDNAという4進法(A,T,G,C)のプログラムで動いている、という概念は正確には正しくない。

エピジェネティクスによる制御で、プログラムのどこを読むかが別に制御されている以上、生命は4進法以上の情報を使いこなしていることになる。

エピジェネティクスについてはこちらも詳しい。一度読んでみるといい。

https://www.1101.com/gakkou_darwin_yokoku/2019-04-03.html

さすが仲野徹先生は本職であるなーと思う。

2019年4月10日水曜日

食えなかったひつまぶしと食えたひまつぶしの話

「先日の名古屋出張ではおいしいものを食べられなかった、コンビニでカレー買って食べた」

という話をしたら、

「出張のときはおいしいものを食べる、っていう前提がしみついてるタイプの人だね」

と言われた。ぐうの音も出ない。

まったくだ。別に出張したからって、おいしいものを食べる義務などはない。




最近食べて一番うまいなーと思ったものは、コープで買った見切り品の春巻きだ。つくられてからだいぶ時間が経ち、シナシナになったやつを、温め直して食ったら意外とうまかった。全く期待していなかった分「うまいなー」と声が出た。

でも、翌日に、同じように春巻きを買ってみたら、皮にアブラがしみ込みすぎている気がして、ちっともうまくなかった。

たぶん「期待してしまった」からだろうなーと思った。




出張のときにうまいものを食うぞ、と期待してしまうと、コンビニで容易に手に入り衛生的でシンプルかつおいしいご飯に文句をつけるタイプのいやな人間になってしまう。

いつもそうだ。

ぼくは実を言うと今一番おいしいと思って飲んでいる酒は金麦の75%オフのやつである。あれより濃いビールだともう味が強すぎてつらい。

それなのにぼくは、先日の名古屋出張で、名古屋駅新幹線口徒歩6分のビジネスホテル13階の自動販売機でスーパードライに浮気した。期待して飲んだそれは味が強く、ぼくはローソン特製銀座中村屋のカレーをほおばりビールの味をわからなくした。ちきしょう名古屋のうまいもの食いてえ、名古屋のうまいもの食いてえと連呼しながら、ビールとカレーを交互に食った。ベッドと壁のすきまにかろうじて張り出す程度の狭いテーブルの上を、コンビニの袋とパソコンとで占拠して、スマホで「言の葉の庭」を見ながらぼくは無心にカレーとビールを腹の中に納めていった。期待したのに、期待したのに、残念だ、残念だとつぶやきながら。





今思い返してみるとこの半年で食ったメシのうち、あのカレーはかなり上位に食い込んでいた。

「言の葉の庭」はすばらしい作品だった。

スーパードライもうまかった気がする。もう覚えていないのだけれど。

期待していない場所にあるものが、振り返ってみたときに、一番輝いている、ということは、ある。

今この瞬間のぼくが、あとから振り返ったときに、もっとも輝いている、ということは、あるだろうか。