2019年12月17日火曜日

ぼくは専門家になろうとしている

「難しいことを簡単に説明する」という仕事は大きなニーズがある。なぜかというと世の中には難しいことが多すぎるからだ。

そしてこれはもう近代文明ができてこのかたずーっと言われてきていることだけれども、「専門家のいうことはわかりにくい」のである。

「わかりやすくしゃべってくれる専門家」がいれば、どれだけいいだろう……と、誰もが自分の専門外の話について、望んでいる。

それは病気についての情報かもしれない。育児についての情報かもしれない。税制度についての情報かもしれない。ラグビーのルールについて。最新のヒップホップ事情について。ワインの銘柄について。AIについて。

とにかく専門家の話はハードルが高くてよくわからない。なぜもっとわかりやすくしゃべれないんだろう? と、ずっと不思議だった。

……だれもが赤ちゃんから子どもを経由して思春期に振動して、だんだん大人になるにつれて何かに詳しくなっていってるわけで、今、自分が何かに詳しいとしても、生まれてからずっと詳しかったわけではないだろう。

だったら、自分がもっとよく知らなかったときから、今に到るまでをふりかえって、どうやってその知識を身につけたのか、順に追っていけば、ふつうにわかりやすくしゃべれるものではないのだろうか……?




なんてことをずーっと考えながらここまでやってきたんだけれども、たとえば病理の話というのを二日に一回書こうと思ってやってきて、今こうして振り返ると、読者として医者や研修医や医学生を想定しているわけではないのに、なんだかしょっちゅうわかりにくいことを書いている。

ぼく自身、ちっともわかりやすく書けていない。

もちろん文章力というか編集力というか国語力の問題はあるにしてもだ。

あれだけ「専門家の書くことはわかりにくい、そんなんじゃだめだ」と言い続けてきたわりに、ぼくが何かを書くときの視点が、そもそも、一般の人を向いていないことがあるなあ、と気づいた。

いつのまにか専門家のマインドになってしまった。

なぜだろう。なぜここにたどり着いたのだろう。

ぼくは今、病理というひとつのテーマについてずーっと考えていて、その考えを更新し続けていくことに強い魅力を感じている。

そんなぼくは、「今から病理に入ってこようとする人」との距離がどんどん開いている。今まで数多くの専門家たちが、そうだった(そう見えた)ように。



自分が知っていることの、一番難しくて、一番おもしろいことをしゃべりたい、という欲求は、三大欲求なみにでかい。ああそういうことだ。「みんなに向けてわかりやすくしゃべること」が社会的意義だとか使命だとするならば、「自分が言いたいことを言うこと」は欲望につながった本能みたいなもの。

本能を抑え込まないとわかりやすくは居続けられない!

くっそ、そういうことだったのか! 



なら本能くらい制御しろよ、てめぇは大脳新皮質が完備してないタイプのサルかよ。

そう思うのでまたわかりやすく書くこともあきらめずにやっていきたいと思う。しかしこの、自分が手に入れて温めているものをそのまま書き散らしたいという欲望のでかさには辟易する。こんなにわかりづらく書きたくなるものだったんだな。知らなかった。ときどき目にする「専門家なのに一般向けのエッセイ書いてる人達」がいかにバケモノかということを再認識してあらためて驚愕している。