2019年12月11日水曜日

速報より詳報を

報道についての話。




ぼくらは情報を複数のルートから手に入れる。

それはあたかも、ぼくらの体の表面に張り巡らされた無数の感覚神経たちが、視覚、聴覚、触覚、味覚など、さまざまな刺激を複合的に脳に送り込んでくるように。

スマホから。ラジオから。テレビから。友人・知人から。電車の中で隣の人がしゃべっていた話を。街頭広告のビジョンに文字列として浮かび上がっていたものを。

交差点に立ちすくむようなぼくらは、無数の経路から入力される情報を受け止めて、世界を表象として理解する。





誰よりも早く情報を伝えるタイプの「速報」がぼくらのレセプターを歓喜させる。

一報が出た後の「意見」によって、ヘッドラインの奥に潜む意図を読みとろうとする。

「専門家のコメント」。

「解説委員」。

「知人のひとこと」が事件に色を添える。

「雑踏のつぶやき」によって世界が見違えたように変わる。

複数のスタイルの報道が組み合わさって、複雑な世界がようやく総体としてみえてくる。

ぼくらはそれをもはやどう知覚したのかわからなくなる。

けれどもなんとなく全体をぼうっと知覚する。




そういうものなんだ。

だからいろんな報道の仕方があっていい。

それを、わかった上で、あえていう。

ほかは知らない。医療系の報道に関してだけ、いう。





医療関連の報道に、「速報」はいらない。

やるなら「詳報」だけにしてほしい。

「速報」はうんざりだ。





「誰よりも早く出すこと」は、誰にとっての価値なのだ?

「一番乗り」は誰のためなのだ?

報道各社の先頭争い? 記者の功名? メディアのプライド?

そんなものはぼくたちにとって関係がない。

ぼくたち、というのは、医療者、ではない。世の人々である。医療を享受する側も、医療を提供する側も、みんなだ。

新しい治療が出現したことを世界に一刻も早くつたえれば、その情報を待ち望んでいた患者が救われる……?

そんな限定的なシーンがどれだけあるというのか。

こと、医療情報に関して、「誰よりも早く伝える理由」が見つからない。「独占スクープ」は記者のためでしかないと感じる。





もちろん、医療の報道をするのもまた人だ。

伝え続けるためにはモチベーションがいるだろう。立場がいるし、地位がいるし、おそらく名誉もプライドも必要であろう。

誰よりも早く情報を出すことで、その人の報道力が世界に認められれば、それだけ、次の情報がよく伝えられる、ということもあるだろう。

そんなことはわかっている。

でもそれは本当に大事なのか? もう一度考えて欲しい。





やさしく丁寧に、詳しく綿密に伝えること以上に、価値を作りたくなることはわかる。

でも、それは、報道側の理屈ではないか?

ほんとうにそれが最善手か?

医療を伝える仕事は医療そのものだ。

「誰よりも早く伝えること」は、報道の論理では大事なのかもしれない。わかる。

けれどもそれが医療を支えているか。

人々のためになっているのか。





医療報道にたずさわる人もまた医療者だ。

医療者は自らを守らなければいけない。自らが働きやすいように、働き続けられるように、自らをメンテナンスして、評価を集める必要がある。

けれども急がないでほしい。

詳しさが整うまで。





ぼくのこの感情が伝わらない人とは、申し訳ないが、一緒に歩きたくない。これはぼくのエゴである。エゴだから正義ではない。誰も従わなくていい。好きにすればいい。

けれどもぼくは、「医療情報を早く伝えようとする人」のことを、わりと、信用できないでいる。その感情を出力することは、誰にも止められないはずだ。たとえこの感情が、世の多くの人にとって、受け入れられないものだったとしても。