報道についての話。
ぼくらは情報を複数のルートから手に入れる。
それはあたかも、ぼくらの体の表面に張り巡らされた無数の感覚神経たちが、視覚、聴覚、触覚、味覚など、さまざまな刺激を複合的に脳に送り込んでくるように。
スマホから。ラジオから。テレビから。友人・知人から。電車の中で隣の人がしゃべっていた話を。街頭広告のビジョンに文字列として浮かび上がっていたものを。
交差点に立ちすくむようなぼくらは、無数の経路から入力される情報を受け止めて、世界を表象として理解する。
誰よりも早く情報を伝えるタイプの「速報」がぼくらのレセプターを歓喜させる。
一報が出た後の「意見」によって、ヘッドラインの奥に潜む意図を読みとろうとする。
「専門家のコメント」。
「解説委員」。
「知人のひとこと」が事件に色を添える。
「雑踏のつぶやき」によって世界が見違えたように変わる。
複数のスタイルの報道が組み合わさって、複雑な世界がようやく総体としてみえてくる。
ぼくらはそれをもはやどう知覚したのかわからなくなる。
けれどもなんとなく全体をぼうっと知覚する。
そういうものなんだ。
だからいろんな報道の仕方があっていい。
それを、わかった上で、あえていう。
ほかは知らない。医療系の報道に関してだけ、いう。
医療関連の報道に、「速報」はいらない。
やるなら「詳報」だけにしてほしい。
「速報」はうんざりだ。
「誰よりも早く出すこと」は、誰にとっての価値なのだ?
「一番乗り」は誰のためなのだ?
報道各社の先頭争い? 記者の功名? メディアのプライド?
そんなものはぼくたちにとって関係がない。
ぼくたち、というのは、医療者、ではない。世の人々である。医療を享受する側も、医療を提供する側も、みんなだ。
新しい治療が出現したことを世界に一刻も早くつたえれば、その情報を待ち望んでいた患者が救われる……?
そんな限定的なシーンがどれだけあるというのか。
こと、医療情報に関して、「誰よりも早く伝える理由」が見つからない。「独占スクープ」は記者のためでしかないと感じる。
もちろん、医療の報道をするのもまた人だ。
伝え続けるためにはモチベーションがいるだろう。立場がいるし、地位がいるし、おそらく名誉もプライドも必要であろう。
誰よりも早く情報を出すことで、その人の報道力が世界に認められれば、それだけ、次の情報がよく伝えられる、ということもあるだろう。
そんなことはわかっている。
でもそれは本当に大事なのか? もう一度考えて欲しい。
やさしく丁寧に、詳しく綿密に伝えること以上に、価値を作りたくなることはわかる。
でも、それは、報道側の理屈ではないか?
ほんとうにそれが最善手か?
医療を伝える仕事は医療そのものだ。
「誰よりも早く伝えること」は、報道の論理では大事なのかもしれない。わかる。
けれどもそれが医療を支えているか。
人々のためになっているのか。
医療報道にたずさわる人もまた医療者だ。
医療者は自らを守らなければいけない。自らが働きやすいように、働き続けられるように、自らをメンテナンスして、評価を集める必要がある。
けれども急がないでほしい。
詳しさが整うまで。
ぼくのこの感情が伝わらない人とは、申し訳ないが、一緒に歩きたくない。これはぼくのエゴである。エゴだから正義ではない。誰も従わなくていい。好きにすればいい。
けれどもぼくは、「医療情報を早く伝えようとする人」のことを、わりと、信用できないでいる。その感情を出力することは、誰にも止められないはずだ。たとえこの感情が、世の多くの人にとって、受け入れられないものだったとしても。