ある本を読んでいた。著者が病理医。
その文体がいかにも病理医だなあーと思った。
生命や病気のことを語る際に、
「大きいほうからミクロに向かって、順番に構造を語っていく」のである。
「ロングショットからはじめてだんだんズームアップしていく」のである。
まずは全体を俯瞰して、これから見るものがどこにあるのか、位置を確認。
肝臓だったら、右上腹部に星印を付けて、視線を誘導する。
肺に病気があるなら、肺のさらにどのあたりにあるのか。
右? 左?
右肺だとしたら、上? 中? 下?
右肺の上葉ならば、さらに、体の中枢(肺門部)に近い方? 遠い方?
じわーっとカメラをズームアップしていく。
肺の中には肺胞とよばれる小部屋が無数に詰まっている。
その中に、口からつながった気道が、気管となり、気管支となり、木の枝のように分岐して、入り込んでいく。
あたかも木のようだ。
肺胞が木の葉にあたる。気管支・細気管支・末梢細気管支……は枝にあたる。
同じ肺の細胞といっても、葉っぱと幹・枝とでは機能が異なる。
そしてもちろん形も異なる。
まずは細胞がどういう形を作っているかを判断する。そろそろ顕微鏡が必要だ。
細胞が横に手をつなぎながら作っている構造が、「部屋」なのか、それとも「何かの産生工場」なのか、はたまた「パイプ」なのか……。
ミクロの組み体操には必ず意味がある。それは機能を達成するために必要な構造だからだ。
肺の中には空気が入ってこなければいけない。だからスペースをつぶしてはだめだ。「空白」が確保されなければいけない。
そのためには細胞がぎっしりと詰まってしまってはだめだ。
手を繋ぐ方向を決める。少なくとも一方にはスペースが確保できるように。
そのような細胞の「極性」とか「軸性」みたいなものがだんだん見えてくる。
拡大を上げると見えてくる。
遠目にみて「なんとなく部屋を作ろうとしているなー」と思ったら、ぐっと拡大すれば、「その部屋を作るために必要な細胞自体のカタチ」がわかる。
そして細胞がなんらかの構造を作り上げる上で、細胞は自ら、機能にあわせたタンパク質を作っている。
タンパクそのものはもう小さすぎて、顕微鏡ですらうまくみられない。レゴで作った城をズームアップして、レゴ一個一個は見えるようになるけれど、「レゴ1個を作っているプラスチックの分子」まではどうやったって見えない。
でも見えなければ可視化すればいいのだ。特定のタンパクにくっつくような物質をふりかけて、そのタンパクがあるところだけを光らせる。
免疫染色。
これを使って、「ミクロの組成」をも目の当たりにする。どんどん細胞のことがわかっていく……。
以上の一連の、「だんだんクローズアップしていく話法」こそが、病理医の真骨頂かな、と思うことがある。まあ人それぞれだけど。ときには、「超ミクロの話からスタートするタイプの病理医」もいるからね。
この話法のメリットは、サイズごとに着眼点や話題を整理しやすいということ。
デメリットは、ひとつの話題について話すだけなのに妙に長くなるということだ。
つまりぼくがいったんしゃべると止まらないのは性格ではなくて病理医としての性質なのである。あきらめてほしい。