2023年9月29日金曜日

重さと遠さ

ぜんぜん別の場所から依頼された原稿のしめきりが、ぴったり同じ2024年3月29日であった。まだ半年あるから楽勝だと言いたいところだけれど、まるかぶりしたのでさすがにどうしたものかと頭を悩ませている。

でも、まあ、悩んでいることはいるんだけど、若いころとは悩みの深さが違うからそんなに大変でもないんだよな、とも思う。

言葉にすると「どうしたもんかなあ」の9文字だ。

脳内に浮かぶフレーズ自体は、若いころも今もあまり変わらない。

ただし、若い頃の「どうしたもんかなあ」は、「けもの道すらないジャングルの中でどちらに一歩目を踏み出すか」というニュアンスだったのに対し、今の「どうしたもんかなあ」は「標高も登山道もわかっている山を目の前に、あらゆる登山グッズも身につけた状態で、そろそろ歩き始めておけばまず間違いなく山は登れるけれど、足腰に疲れが出ていてあまり動き出したくない」という意味になっている。

冷静にくらべてみると今はずいぶんと楽だ。

若い頃の不全感のほうがきつかった。道が見えないし、見えても力が足りない、アイテムが足りない、情報が足りない。

かつてのことを思うと、今のぼくが「悩んでいる」と口にするのは、なんかちょっと軽いなあと感じる。


しかしなんというか、軽重でいうと軽い悩みが、遠近でいうとより今のほうが自分の心に近いところに悩みのコアがある。

むかしは、自分の力では持ち上げられないような重さの課題を、遠巻きにして眺め、薄目でじとっと見据えたりしていた。あんなのどうやっても動かせないじゃないか。こんなの何から手をつけたらいいんだ。解法が全然わかんないよ。

一方で今は、ねとねとと自分の体にへばりつくような課題を、あーめんどくさい、うーんおっくうだ、ちくしょういろいろやることがあるなあと、片っ端からブツブツさばいていくような感じだ。

昔のほうが遠かった。今のほうが近い、というか、うっとうしい。


どっちのほうが大変だと価値に順位を付ける必要もないのだ。若いころのぼくも今のぼくも、どちらもぼくなのだからケンカしてもしょうがない。ただ、悩みやストレスには軽重だけではなくて距離の概念があるということは、なんとなく、気にしておいてもいいかもしれないなと思った。他人が何かを悩んでいるときにも、そういう目線で、重さだけでなく遠さについても見ておくとよいのかもなと思ったのだった。

2023年9月28日木曜日

病理の話(821) がんの根拠

細胞を見て、がんか、がんじゃないのかと判断するにはなんらかの基準が必要だ。その基準が「一種類」ならいいのだけれど、なかなかそうもうまくいかない。


病理医になるための訓練をはじめてしばらくの間は、診断の基準、あるいは根拠を、きちんと報告書に書くように指導されることが多い。

「がんです。」

とだけ書いてもだめで、「ナニナニがコレコレしているから、がんです。」と、自分がなぜそれをがんと判断したのかの筋道を示すのである。

ここでよく使われるのはたとえば次のようなフレーズだ。


「核の腫大」。細胞の核が普通のものにくらべて大きく腫れ上がっているということ。

「クロマチンの増加」。核の内部にある染色体がいつもよりも濃く染まっているということ。

これらの所見があると、ある細胞を「がん」であると認定しやすい。


ただし実際には言うほど簡単ではない。核が大きくなるとか、クロマチンが濃くなるといった現象は、がん以外の細胞にも見られるからだ。

「がんっぽい見た目になっているけれど、じつは良性」という細胞があり、始末が悪い。がんだと判断して手術をして、臓器を採ってきてよく見たらがんではなかったというとき、「なーんだがんじゃなかった! よかったねえ」で済ませられるかどうか。がんじゃないのに大事な臓器を切り取ってしまったことがダメージとしてのしかかってくる。


そこで病理医は、ある細胞が「がんである根拠」を、より深く考える。

「核の腫大」だけで終わらせない。より細かく読み解く。たとえば、もともと卵形をしている核がパンと球形に張り詰めるようにふくらむのと、だらしなくビロビロに伸びた靴下のようにふにゃふにゃと大きくなるとではだいぶニュアンスが違うだろう。

「クロマチンの増加」だけで終わらせない。核の中の、核膜と呼ばれる部分の色がどれくらい濃くなっているのか。核の内部とくらべてどうなのか。中身が増えて色が濃くなっているとき、その部分の模様は、大小のツブツブが入り混じるごま塩状なのか、均質で微細なテンテンが多くみられる塩状(ごまがない)なのか、それとも、スマッジと呼ばれるべったりとした油絵風なのか。

これらの所見をひとつの細胞で判断するのではなく、隣同士の細胞と見比べてどうなのかを考える。近所の細胞がぜんぶ同じような見た目になっているのであれば、それらは「同一の起源から発生した兄弟」であると判断することができるし、逆に周りにいる細胞どうしが似ても似つかないほど異なった核性状をしているなら、「増殖の異常がつよすぎて、足並みが揃っていない状態」ではないかと推察することも可能だ。

核どうしの距離はどうか? 核の向きは揃っているか? マスゲームのようにあらゆる細胞が同じ方向をむいていたらそれは何かおかしなことが起こっている。逆に本来は秩序をもって並んでいてほしい場所で細胞の向きが好き勝手バラバラだったらそれはそれで異常だ。

近所に「正常の細胞」があるとわかっているならそれと見比べるのもよい。まわりにたくさんの細胞がある中でこの一角だけ妙に色が濃い、となればそれはきっと意味のある所見だ。

そしてこれらを、どんどん組み合わせていく。



「内腔の細胞と基底側の細胞のおりなす『二相構造』は消失しているからがんかもしれない。しかし、核異型はさほど強くないから、核だけでがんと即断できるわけではない。ただ、周りの細胞とくらべてこの一角だけは隣近所の細胞が似通っているように見える。核のクロマチンは軽度増加し、ときおり核小体が顕在化していて、核膜はさほど不整ではないのだが核のサイズが軽度増加して、それもパンと張っている感じがする。免疫染色を行うとbasal phenotypeマーカーが一切内部に混じってこないのは良性としては少し気になるところだ。管腔内に壊死がある場所がある。これらを総合すると、この一角はがんだろう。」

これくらい、こねくり回した内容を、すべて報告書に書いてもだめだ。病理医以外は何を書いているかよくわからない。主治医すら振り落とされてしまう。だから、以下のようにまとめる。

「異型を有する細胞が均質に増殖しておりがんと判断します。」

異型、というのは「正常からのかけはなれ」という意味だ。異型を有する、すなわち、「ふつうじゃない」くらいの意味である。今の一文には実際ほとんど意味がない。がんだからがんです、と言っているのと近い。でも、病理医は、こう書く。「異型」というのが具体的に何を意味するのかをしっかり吟味した上で、主治医や患者を振り落とさないために表現を簡単にまとめて、「異型を有する」と書く。ほんとうは裏でいろいろ考えている。

2023年9月27日水曜日

病みと光

大分市で書店イベントをやった。豆塚エリさんとご一緒した。会場からの質問コーナーで、最前列に座っていた方から「違和感の表明」があり、ぐっと来た。


その方の違和感とはなにか。


「豆塚さんが1年前に出された書籍『しにたい気持ちが消えるまで』を途中まで読み、いかにもつらく苦しい記憶が書かれている。だから今日もそういうイベントなのだと思っていたが、今日は豆塚さんもヤンデルも語り口が割と明るく、ニコニコしていて、そこが解せない」
というのである。


その男性とはトークイベントの最中何度も目があった。会場がわっと盛り上がっているときも深く沈み込んだような目をしていて、ニコリともしないでいる。なんとなく、うっすらと、「自らの辛さと書籍にある辛さとを寄り添わせながら、痛みや苦しみの記憶をゆっくりと殺している最中」なのではないかと感じていた。

なので、会場からの質問でその方が真っ先に手をあげたときに、内心、(来た!)と思った。

「お二人が楽しそうにお話しされていることに違和感がある」。だろうな、と思ったぼくは、トークイベントの間にぼんやりと用意していた「矢」を放つことにした。


しかし、矢を弓につがえたところで、少し考えて、いったん弦を緩め、まずはほかの聴衆の方々にもライトにわかっていただきたいこととして、以下のようなことを言った。


「ありがとうございます。まず、『しにたい気持ちが消えるまで』については、これ、読み終わった方の多くが似たようなことをおっしゃるんですけれども、内容は非常に重く真剣な本ですが、なぜか読み終わると読後感としては明るさが待っているんですね(ここで会場の幾人かがうなずかれる)。全編にわたって鬱鬱としずみこむだけの本ではない。ご質問をくださった方は、現在読み途中、とのことですが、できれば最後までゆっくりと読み通してみてください。そうしてから、今日の我々のテンションを思い出してみていただければと思います。最後まで読み終えると、なぜ我々が本日基本的にポジティブな精神状態でお話ししているのか、なんとなくわかるのではないかと思います。」


会場の多くはそれで納得をしたように見えた。その空気が凪ぐのを待って、あらためて矢をつがえる。

最初の答えはわかりやすい。「じつは明るさを内包した本なのだ」と述べることは売り上げにもつながるから書店イベントとしても適切だろう。

しかし、ぼくが本当に言いたかったのは、次に控えめに語ったほうのことだった。



「我々が日々こうしてポジティブに暮らしていることと、心の中につらさを抱えたままでいることとは矛盾しないと思うんですよね。」



ぼくは生きづらさを抱えたまま、まさに名の通り、病理医ヤンデルとして人前でニコニコと話をしている。そのことを、少し口調を変えて、軽く付け加えた。

微妙に話がずれたことに気づいた人は何人いただろうか。

質問者は軽く目を見開いた。



「ヤンデレ」「ヤンデル」といった語感を利用したアカウント名は、「医者なのに病んでいるの?」「ネットにどっぷりとはまっているから病んでるってこと?」と、見る人の心に波風を立てるための装置であり、「ヤンデルって名乗ってるのにわりと真面目なことを言うんだね」も、「あれだけの連ツイをするなんてアカウント名通り病んでるなあ」も、およそ思惑通りのリアクションである。

しかし、12年前、実際にその名を名乗り言霊を引き受けるにあたって、今だから言えることだが、ぼくは本当に病んではいないのか、あるいはそのまま真っ直ぐ病んでいるのかという疑問を、自らに対してだいぶ長いこと問いかけた。世のあちこちにいる真に病んだ人をあざわらうような展開にはならないか。シャレで病んでいるフリをすることの失礼さはいかばかりか。ミイラ取りがミイラになる感覚で自分の精神が実際に壊れていくことはないか。ぼくは本当に病んでいるということはないのか。

結論として、ぼくは本当にヤンデルのかもな、というまとめのもと、ぼくは病理医ヤンデルをはじめ、いつしかそれを内面化した。



「病み」は、どこかに固定された状態を指すわけではなく、ゆらぎ、振動する概念である。座標が指定できるようなものでもなく、ある体積のどこかに確率として存在する電子雲のようなものだ。笑わない人の目をみながらぼくはずっと考えていた。「自殺未遂をしたのに、病んでいるのに、なぜ今そうして笑っていられるのか」という質問が出る根底には、みずからの居る場所が淵の底、部屋の片隅、暗闇の一点にしかないという思考があるのではないか。しかし本当はそうではないのだ。ぼくと同じように、人は病んでいながら笑っていいし、病みながら同時にすこやかであることもあり得る。逆に笑っていながら病みを抱えているのも自然なことなのだ。ぼくはそういうことを言いたかった。12年以上ずっと言いたかった。それがぼくの矢であった。質問者はいつまでも考えていた。

2023年9月26日火曜日

病理の話(820) 採算と診断と自腹

病院にも経営という概念がある。たくさんの専門家を雇うための人件費が必要だし、医薬品や医療器具を買ったりメンテナンスしたりするのにもお金がかかる。

そのお金はどこから出てくるのかというと、当然患者が払うわけだが、自分にかかったお金を全部払おうと思うととんでもない額になる。お腹を壊して病院にかかってちょっと点滴打ってもらっただけでも、仮に全額払おうとすると何万円とかかる。びっくりするかもしれないが、それだけの試薬とシステムを使っているのが現代の医療だ。

それでは大変なので、日本では、病気になった個人がその場で全額を支払わなくてもいいような仕組みがある。国民が支払っている健康保険料をプールして、本来患者が支払うべき額の7割~9割をまかなう財源とする。

社会が個人を支えている。

マンモスに跳ね飛ばされた狩人が自分の体力だけで生きるか死ぬかとやっていた時代とはわけが違う。

ひとりがくるしんでいたら世間で支える。ひとりひとりが社会の一員として未来の誰かを助けている。



したがって病院の収入もざっくりと7割くらいは国民全体に支えてもらっていることになる。(※ほかにも税制の優遇とか行政からの支援金とかもあるけど、ここでは雰囲気で話しているので正確性については大目に見て欲しい)

となれば、医療従事者はちゃんと節約すべきだ。社会に助けられて医療を担わせてもらっている以上、社会のために無駄遣いは削っていかなければいけない。

そのためには個々の医療従事者がちゃんと経営感覚をもって日々診療にあたる必要がある。人助けならいくらお金を使ってもいいというのは発想が貧困だ。あるひとりに湯水のようにお金を使ったせいで翌日やってきたべつのひとりを助けられないかもしれない、というジレンマに敏感であったほうがいい。


たとえば、やってもやらなくても診療方針が変わらない検査をポンポンオーダーしてはいけない。患者のためになるならばまだしも、「その検査値を医療従事者が見てみたいから」というだけで検査を出してはだめだ。

とはいえ、病理診断学をやっていると「経営的にはだめなんだけどこの検査はやっておきたいなあ」という場面がたまにある。

この検査の結果が白と出るか黒と出るかで、患者の治療が大きく変わるわけではないし、患者がこの先どうなるかという未来予測にもさほど役に立たないのだけれど、病気の正体に半歩くらい近づける、医学の進歩に貢献できる、みたいなシーンが難しい。100%進歩するというならいいが、2%くらいの低確率で2 mmくらい前に進むかも……くらいの話に患者や社会から預かったお金を注ぎ込むのはバランスとしてちょっとなーという感じである。

例としては「腫瘍細胞を切片から切り抜いてきて、病気の中だけに存在する異常なタンパク質や遺伝子の変化を特殊な方法で調べる」みたいなものだ。

1回調べるのに数万~数十万円かかる。患者の治療に直結するわけではないので、医療保険で国が負担をカバーしてくれるわけもなく、患者にもお金を請求することができない。

ではそのお金はどこから出るのか?

ひとつの回答が「研究費」だ。

研究費の出所はいろいろあって、科研費のように国が別の予算を立てて「このお金は科学の進歩のために使おうね」とあちこちの了解を得たお金であったり、病院が経営判断の中で「これくらいのお金は医療スタッフの研究にあてよう」とあらかじめよけておいてくれたお金であったりする。いずれも診療で動く金額に比べるとスズメの涙であるが、まれに、大型の研究予算なんてのもあって、もちろん競争率が激しいし優秀な研究者のもとにしか届かない(大須賀覚あたりはそういう予算をときどき引っ張っているから偉い)。

米国では民間から病院への寄付が膨大な金額になっていて、寄付金を用いて潤沢な研究を行っている場合も多い。しかし日本ではそういう関係性は少ない。

あわてて現場の研究者たちがクラファンをはじめたりしている。ただしクラファンはピンキリなので応援しやすいものとしにくいものがあるけれど。


ぼくも、たまに研究費を使って、病気の解析を少し深く行ったり、似たような症例をいくつか集めて解析をやり直したりということをやる。

ただ、研究費だけでやりたいことができるわけではない。

日常に潜む細かな検査、ひとつひとつは数千円くらいだったりする、そういったものを毎回研究費でなんとかできるかというと、少額なためにかえって面倒になったりもする。

あるいは、診療を続けていくための勉強にかかるお金。本とか出張とか。それもぜんぶ研究費でなんとかする……というのは実際むりである。

そこで「自腹」となる。教科書を買い、研究会や学会に通い、まれに簡易な遺伝子検査にかかる数万円を自分で支払って結果を確認する、みたいなやりかた。

これは下策だ。よくないと思う。医療従事者や研究者の仕事は社会と互助関係にあったほうがよく、個人の気持ちでなんとかしてしまうとシステムが腐っていく。

なので若い人には同じことをやらせたくない。なるべく研究費を取っておいて、若い人がやりたいこと、勉強したいことを病院の予算で応援できるようにあちこち奔走する。結果、自分のために使える予算がなくなるので、また自腹を切るのだが、若い人が上にあがってきたときに困るので、根本的に研究費を増額できるように別の手段を考えて少しずつ調整を進めていく。

こういうことをずっとやっている。



「自腹構造」のような歪みを見つけて、「よくないよ! なんとかお金をもってこないとだめだよ!」とやいのやいの言う人がときにあらわれる。

そういう人たちが、実際に現場に何か役に立つ提言をしてくれたり、財源を付けてくれたりすることはない。善意からの発言だろうけれど、申し訳ないが言いたいだけなのだろうなと感じる。

ぼくだってそんなことはとっくにわかっているのだ。だから、歪んだ構造を少しずつ少しずつ直しながら、「修理が追いつくスピードよりもすばやく研究したがっている自分の心」を癒やすために自腹を切ることもまだ続いている。

あとに続く人には同じことをさせたくない。しかし、ぼく自身がそうすることを、外野から止められても困るのだ。ぼくが何かを追究したい心だけがストップしてしまうことに、外野の人間が責任を取れるわけではない。ぼくが最後の自腹世代だと言われることが目標である。

2023年9月25日月曜日

軽自動車館の全国的知名度が気になる

毎日むさぼるように他人の人生を読んでいる。自分と同じ考え方をする人は少ないんだな、とか、誰もが違う考え方のまま摺り合わせているんだな、とか、自分と同じ考え方をする人も意外とあちこちにいるもんだな、とか、日によってさまざまな感想を持つ。どれかひとつの本を読んですごく良かったとか良くなかったとかいう気持ちになることもあるが、「この時期にこれだけの本を読んで全体として浮き上がってきた感想」みたいなものをぼんやり抱えたりもする。



話は変わるがそろそろ車を買い換えたい。中古で購入した、ワゴンともセダンとも付かない微妙なサイズの車をさんざん重宝して乗り潰してきた。走行距離が16万キロに達そうとしており、次の車検では膨大な金額がかかる。タイヤを買い換える時期も迫っていて、さすがにそろそろ手放す。ライフスタイルも変化していて、大きな車にテントを積み込んでみんなでキャンプみたいなことも今後は少ない。次の車は小さくする。

しかし小さすぎるのも辛い。札幌市はそれなりの積雪がある町だ。冬の轍(わだち)にタイヤをもっていかれるのがしんどい。四駆のほうが安全だ。タイヤが小さいと制動性が悪くなるからタイヤはそこそこのサイズがいい。車高が低いといわゆる「亀の子」状態になるリスクをはらむから少し高めのほうがいい。いずれも凝り性や心配性で言っているのではなく、札幌に住む人が多かれ少なかれ気にしていることだ。ジムニーがすぐ売り切れる理由でもある。

若い頃は、道に車がハマっても自分たちでなんとかするだけの体力と鷹揚さがあった。友だち同士で車の後ろをエッサエッサと押してスリップから抜け出しながら、二駆の軽自動車で何冬も過ごしたものである。しかし今は車なんて押せない。手首から肩までの全ての骨が粉微塵になる。吹雪の夜に車の外に出るだけで失望して失神するだろう。車ハマるイコール死ねるである(脚韻4連)。

「職場と家の往復だけなら最悪大きな道を通ればなんとかなる、山中ならともかく札幌の市街地なら軽自動車でも行ける」というのは昔の人の考え方だ。幹線道路のような2車線以上の道だけ通行して生活できるならばまだしも、除雪の予算が削減された今、ちょっとでも郊外に出ると、あるいは小路に入ると、除雪が追いついておらず、悪路っぷりは昔の比ではない。車線は基本的に片側につき夏マイナス1がデフォ(片側1車線ならば道はなくなる)。雪を最後まで持っていかずにちょっとだけ路上に残すエコなシステムも導入されており以前よりも深い轍。路肩に雪を積んだまま運ばないので全体的に視界が悪い。軽自動車の恐怖は令和になって増悪している。

小さい車を買う気がしなくなる理由がもうひとつある。値段だ。いまどきの軽自動車は別にそこまで安くはない。あえて小さい車に乗りたい人がきちんとお金を払って乗るものであって、「軽イコール安い」という図式がそもそも成り立たない。



と、自分の考えを延々と書いてきたが、車選びについては人によって価値観がまるで違うので、一見筋道を追って書いているように見える上記の文章も、他人が読むと「そんなことないよ」「俺とは違うな」「そんな考え方もあるのか」くらいにしか思われない。車そのもの、あるいは車のある暮らしに対する人それぞれの考え方の違いがありながらも、道はすべての運転者を受け止め、町はあらゆる消費者を支える。それでそんなにケンカもせずにやっていくのだから、社会というのは本当に包容力がある。ぼくは軽自動車に乗りたくないのだけれど軽自動車は今日も町にたくさん走っている。

2023年9月22日金曜日

病理の話(819) 疾患の重心

萩野昇先生がThreadsで連続投稿されていた文章を読んでいたら、こんな文章が出てきた。

”関節リウマチ、クローン病など、多くのサイトカインが関与する疾患が、たったひとつの「TNF-α」というサイトカインを抑制するだけで劇的に改善してしまった。例えて言えば、台風の中で二酸化炭素の濃度を下げるだけで台風が消えてしまったかのような印象を受けた”

そうだよなあ。なるほどなあ。


***


医学を学んでいると、健康も病気も、すべて「複雑系」だと感じる。ひとつのファクターで何かが決まることがなく、あたかも将棋の局面のようだ。こっちに香車が利いており、あっちは銀が抑えていて、かたや角が潜み、互いの飛車が遠くからにらみあう。「全体としてやや後手が優勢」、みたいなかんじ。たくさんの登場人物たちのバランスによって、局面が形作られる。「犯人」がひとりに決まるようなことがない。

医療もこれに似ていると思う。

たとえば「がん」。「親ががんだったから子どももがんになった」とか、「毎日酒を飲んでいたからがんになった」みたいに、因果をひとつの矢印で言い表せることはまずない。細胞がおかしくなるに至った遺伝子異常も、1つのDNAがおかしいとか、2つのタンパク質が狂っているという話ではなく、数十、数百の遺伝子が異常を来していることがほとんどだ。それらがいっぱい積み重なって、がんという病気を形成している。サイコロを振るような「運」の側面もかなりある。


そんな中で、抗ヒトTNF-αモノクローナル抗体製剤であるインフリキシマブ(商品名:レミケード Remicade)が、関節リウマチやクローン病という病気を構成する登場人物たちのひとりでしかない「TNF-α」を抑え込むだけで、病気をまるごと良くしてしまうことに、ぎょっとするのだ。

はあ、そんなことがありえるのか、と驚いてしまう。

将棋でいうと、「そこに歩を一個置いただけで、相手が打てる手がすべてなくなってしまい詰む」みたいな感覚だろうか。

秘孔を突く、みたいなかんじにも近い。指先一つで大男がダウンする。

「そこに伏兵を置いたら全部ひっくりかえるじゃないか!」と敵将が愕然とする諸葛孔明の采配。



病理診断にもときに「重心」のようなものが存在する。

ある病気を診断する上で、細胞の形態がゆがみ、核の体積が増し、核小体が明瞭化して、細胞同士の結合性が低下し、細胞が織りなす構築が乱れ……。ふだんはこういう、複数のパラメータを同時にチェックしながら、総体として病気を診断していくわけだけれど。

ときに、「とある免疫染色ひとつで診断を確定させてしまう」ということが起こる。

たった一種類のタンパク質が異常に増えているからといって、ある病気だと言い当てることは、本当は難しいはずなのだが。

たまーに、「重心のところをそっと指で持ち上げるだけで全体がふわっと浮かぶ」みたいなふうに、診断できることがある。


「重心を針で突く」ように診断。めったに決まらないのだが、複雑系の気脈の要を抑えたかのような、不思議な達成感を味わうことになる。……とはいえ患者にとっては診断がついてからが大事なので、あまり喜んでもいられないのだが。

2023年9月21日木曜日

しぶとく生きる

去年かおととしかにGUで買った職場用のパンツがよれてきたので新しいのを買おうと思った。自分が今履いてるものと同じものをオンラインで買えばいいと気づいて、はじめて店舗ではなくオンラインショップを使うことにした。これが今の若者の服の買い方かあ、とホクホクした。しかし15分くらいであきらめた。ぜんぜんわからない。まず今履いているパンツがどれなのかがわからない。タグについている番号などで検索してもうまく出てこない。どれも似たような形なのでひとつひとつ、サンプル画像の中にならぶ動画でチェックするのだが、形状もそうだがなにより生地のキメの細かさというか肌触りがよくわからない。今履いている、乾きやすいやつがいいのだ、ただそれだけなのだ。特殊な新商品を探したいわけではないのだ。でもわからない。これか? こっちか? 画像がいっぱいついているが、黒を指定するとぜんぶ似たような素材に見える。モデルはいちいちニヤニヤすんな。ああ、Mサイズの在庫がない。サイズの在庫で絞り込みたいのだがそういう機能がないようだ。あるのかもしれないが2秒でたどり着けなかった時点であきらめてしまう。「入荷したら知らせる」というボタンがあるけれど、いつ入荷するのかの目安が書いていないからこのボタンひとつに賭ける気にはならない。これなら明日にでも実店舗を訪れたほうが早い。なんのためのオンラインショップなのだ。メルカリやZOZOタウンも使ったことがないが、いっそそっちのほうがいいのか? GUのパンツを2年で履きつぶして更新するのだから新品のほうがいい気がするのだが……。


……みたいなブログをずっと書いている。


書き殴りだ。いやキーボードだから打ち殴りか。

19歳のころから、媒体を移り変わりながらなんだかんだで26年書いている。おかげでキーボードを前にすればとりあえず1500字とか2000字くらいの文章はすぐに出力できるようになった。けれども、もう少しよく考えてものを書きたい気持ちもある。それができたらどんなに良かったろう。いや、よけいにつらかったかもしれない。



ちかごろは、「ちょっと生きづらい人」が書くエッセイをざぶんざぶん読んでいる。又吉直樹、僕のマリ(これで人名)、道草晴子。なぜこんなにも生きづらい人の話ばかり手元にあるのかと不思議に思うが、ちゃんと理由があって、先日青山ブックセンターで平積みになっている本を手当たり次第に購入するイベントというのに出て、本当に手当たり次第に放り込んだらこうなっていた。そういう品揃えにぼくの目と手が反応したということだ。ひとまずエッセイばかり読んで小説を後回しにしている。小説もやはり、生きづらさを語ったものになっているだろうか。

創作というのはたいがいそうなのだろうか。

そうだろうか。




ここ1年くらいで読んで気に入った本でいうと、そういえば、田所敦嗣『スローシャッター』から感じ取ったものは「生きづらさ」ではなかった。「しぶとく生きること」というか。両者は同じかもしれないがちょっと違う。離人して俯瞰して書くか、縁辺視を強化して書くかの違い。田所さんの書くものは、ここしばらくぼくが読んでいるものとはちょっと違った。彫刻刀で少しずつ何度も削り取るような本で、ああいう文章が書けたらいいだろうなと思った。

2023年9月20日水曜日

病理の話(818) 核間距離の意味

細胞の配列や様相を表現するには、ある程度のボキャブラリーが要る。病理医を続けるにあたっては国語の勉強をしたほうがいいかもしれない。


核の形状を、「類球形」「葉巻状」「多菱形」「分葉状」などと言い表すとき、ものすごく快感……というほどではないにしろちょっとフフンと喜んでいる自分がいる。UFOの形を表すのに「円盤形」とか「アダムスキー型」といった言葉が使われているのと似た、「じんわりとしたワクワク感」がある。

ドンピシャの言葉を使えばきっと読者の脳内にちょっとした刻印をできるのでは? くらいのことを考えている。

とはいえ、専門用語まみれにするのも考えものだ。ニュアンスをきちんと伝えるだけじゃなくて読みやすさも考えておいたほうがいい。「太索状の増殖を示す腫瘍細胞が、毛細血管性の間質を伴いながら充実性に増殖しており、周囲のほぼ全周を比較的均質な膠原線維性の被膜に囲繞されています」。……いや、さすがに固いかなあ、囲繞はやめて、覆われていますくらいにしたほうがいいかなあ、みたいな微調整をする。


「所見」をどう書くか問題。


たとえば、「細胞がある範囲にどれだけ密集しているか」をいかに表現するか?

「細胞密度が高い/低い」という言葉があるが、これだけで伝わるだろうか?



細胞には、まるでタマゴの黄身のような「核」と、白身のような「細胞質」がある。ゆで卵を箱の中にいっぱいならべるのと、半熟卵をしきつめるのとではニュアンスが違う。どちらもきっちり限界まで入れれば「タマゴの密度が高い」と言えるけれど、ゆで卵における密度と、半熟卵の密度ではちょっと事情が変わってくる。

半熟さが強ければ、白身の部分が互いに押し合いへし合いして、ときに黄身が端っこに寄ったり、となりあった半熟卵の黄身どうしがくっつくくらい近接したりする。でも、固ゆで卵だとそうはならない。しっかりと白身の部分に弾力があるから、黄身どうしがくっつくほど近づくことはない。

細胞の密度を考えるとき、「核どうしの距離」を見ることでいろいろ情報が増える。核の距離が近いときには、ああ、この細胞は細胞質を保持する力が弱いのだろう、だから密度高く増殖するとお互いに押し合いっこになり、核どうしが近くなるのだろう、と想像することができる。

逆に、細胞はパンパンに詰まっているのだけれど、核の距離があまり近くない場合には、きっと細胞質がしっかりしているのだ。ゆで卵のように。


「細胞密度が上昇し、核が重積しています」のように、細胞が詰まっているだけでなく、「どのような形状で詰まっているのか」「細胞がどういう性状で、それらがどれくらい集まっているのか」を表現するのがいいと思う。



……いいと思う、って言われましても、ここにそんなに病理医は見にこないんだけど、なんかそういう仕事もしてるんですよ、という記録。

2023年9月19日火曜日

ゼルダは伝説

遺伝子検索の結果がなかなか返ってこない。胸の奥にずっと古釘のように刺さっている。結果が返ってきたらいろいろな話が前に進むんだけどな。ままならないな。

……こういうとき、なんで「胸の奥」って言うんだろう。正面から胸を開けるとたどり着くまでに時間がかかりそう。手術にあたっては側胸からアプローチすると良いだろう。解剖ならば、背中から開ける方法もある。若い病理医は知らないかもしれない。ぼくもやり方をしっているというだけで、実際に背中を開いての解剖をしたことはない。教わりはしたがついぞやる機会がなかった。だいぶ昔の技術である。

「胸の奥」のようなJ-POP的語彙。気づけば便利使い。

「きっちり送りバント」みたいなフレーズといっしょだ。

使い古されるには理由がある。今の世に残る慣用句のほとんどは、朗読したときに耳あたりがよい。「取らぬ狸の皮算用」。「秋の日はつるべ落とし」。口を開いて実際に発音してみると、母音のほどよい散らばり方、舌の動き、有声音と無声音のバランス、いずれも絶妙である。

「病理医ヤンデル」という名前を決めるときに気になったことがある。発音してみると、どこかもったりとしていて、有声音が多くて足腰が重い感じがして、「カ」とか「ツ」とか「サ」のようなキレよく消えていく音が一切使われていない。自分を先生と呼ばせる「ヤンデル先生」というフレーズのほうが発声的には収まりがいい気がして、「先生と呼ばないでくださいムーブ」にいまいち乗り切れなかった。

音は重要だと思う。古い言葉ばかりではなく新しい言葉にも言えることだ。「プリ機歩いてる」「かわちぃ」なども音のバランスがよいからつい口に出したくなる。「スレッズ」はぜんぜんだめだ。「エックセズ」だってもう誰も言ってない。書いて読むだけの文字情報も、結局のところ、声に出してみて気持ちいいかどうかによって、定着するかどうかが決まってくる気がする。ツイッターは軽薄。ツイッタランドは冗長。リプは軽快。リツイートは高慢。スパブロは中二。クオートはわかり合えない感じ。リポストは安売り感。フォロワーは敵。胸の奥の古釘が、遠くの音叉にわずかに共振して、鼻腔に響くタイプの有声音的な何かをずっとブーンと発している。インスタは刹那なのに足が重い。フェイスブックは台形状で下がぬかるんでいそう。ミクシィはあざとい。タイッツーはださい。ブログは粘稠度が高い。現実は非情。ネットサーフィンはいつもニヤニヤして本気を出そうとしない。

2023年9月15日金曜日

病理の話(817) 空飛ぶパラフィンブロック

患者はときに引っ越しをし、病院を移ることがある。

おそらく読者の中にも、たとえば、「進学や就職を機に、新しい歯医者に行った」という経験をなさった方がいるだろう。

そういうとき、前の歯医者からレントゲン写真とか詰め物の型などの資料を取り寄せて、新しい歯医者に届けたかというと……大多数の人は、そこまでしていなかったと思われる。私もそんなめんどうなことはしていない。

次の歯医者でまた写真を撮ってもらえばいいや、くらいの感覚。

口腔外科でちょっとおおがかりな手術をしたというならともかく、歯石の除去くらいなら、過去のカルテがなくてもなんとかしてくれる(あったほうがいいんだろうけどね)。



一方で、いわゆる「普通の病院」の場合はそうもいかない。

長期間にわたってお付き合いする病気があり、検査の履歴もたくさん、カルテもどんどん分厚く……違った、カルテの電子用量も増加している場合は、もし病院を変えるならば、カルテを次の病院に引き継いだほうがいい。

そのほうが単純に「有利」である。



病気の診断というものは、なにかひとつの血液検査の数値を見て、高いとか低いとか判断して、マルかバツかでくだされるものではない。

症状の経過や、血液データの推移、CTなどの画像がどのように移り変わっていったかといったように、時間の経過によって「累積」する情報をまとめて判断する。

どんな薬を投与したか、どういう手術を受けたかなどの情報を、すべて持っている主治医がいちばん強い。



というわけで、内科や外科など一般的な科では、患者が引っ越しした場合にはカルテの情報を手紙などでやりとりする。「紹介状」と呼ばれるものがそれだ。患者が前にかかっていた病院から、次の病院に向けて、手紙の形式で送られ、患者がそれまでにどういう経緯をたどってきたのかを説明する。

医師はある程度ベテランになると、紹介状などの「手紙書き」に、かなりの時間を費やす。この作業を早くAI化してくれ! と涙ぐんでいる臨床医も多いとか多くないとか……。AIがカルテをさっとまとめてくれたら確かに楽だろうなあ。

ほかにも、CTやMRI、内視鏡などの画像データを、DVD-Rなどに焼いて次の病院に送ることもある。

新しい主治医は、前の医者がオーダーした画像を、自分の病院のPCで見る。便利な時代だ。もっと未来には、マイナンバーカードなどに個人のデータがすべて紐付けられていればすごく便利になると思うのだが……本邦の市民感情的には、まだ夢物語かもしれない。



さて、病院を引っ越しした際にやりとりされるのは、今見てきたような患者の電子情報だけではない。

「患者から採ってきた検体そのもの」を引っ越しすることもある。

患者が手術を受けると、取り出した臓器はすべてホルマリン固定されて、病理検査室に送られる。その後、刺激の強いホルマリンを抜き、かわりに組織の中にパラフィン(ろうそくのロウ)を染み渡らせて、長期保存の利く「ケミカルな煮こごり」状態にする。

この煮こごりをパラフィンブロックと言う。

パラフィンブロックの一部を薄く切って、ガラスプレパラートに乗せ、色を付ける。このプレパラートを見るのが病理医の仕事だ。

病理医が診断を終えたあと、ガラスプレパラートはしばらく保管されるが、細胞についた色味は10年も経つと色あせてしまう。保管に場所をとるということもあって、ガラスプレパラートは10年くらいで廃棄されることが多い。

しかし、さっきの煮こごり……「パラフィンブロック」のほうはずっと保管しておける。患者から採ってきた大事な検体だから決して廃棄しない。その証拠に、パラフィンブロックにはじつに仰々しい「永久標本」という別名すら付いている。

ちなみにパラフィンブロックの中には細胞が元の形のまま保存されているし、病気の細胞が持つDNAやRNAも残っている。

こうやって書くと、『ジュラシックパーク』を思い出す人もいるだろう。パラフィンブロックは時を超えて患者の情報を今に伝えてくれるのだ。RNAは壊れやすいから、永久というわけにはいかないのだが、3年くらいならなんとかなる。DNAなら10年はいける。

何年も前のパラフィンブロックからDNAやRNAを抽出し、検査して、病気に効く治療方法を探す、なんていうダイナミックな検査もある。



話を患者の引っ越しに戻そう。

患者が、ある種のがんにかかる。治療をする。治療中に引っ越しすることになり、病院を移る。電子カルテやCTなどの情報がすべて新しい主治医の元に送られる。

そして新しい病院で治療を検討している途中で、「遺伝子を検査して治療を考えよう」ということになったら……。

「前の病院で採取した臓器の、パラフィンブロックを取り寄せる」

のである。地域連携室を通じて病理に電話がかかってくる。○年前の○○さんのパラフィンブロックを○○病院に貸し出してください。

OK。がんばっていってこい。パラフィンブロックをガーゼにつつみ、プレパラートの入っていた小さな紙性の小箱におさめ、周囲をプチプチで包んで、送付履歴の残る宅配サービスで発送する。

そういうことをしょっちゅうやっています。今日の話はぜんぜん医学じゃないな。でもめちゃくちゃ医療の話ではある。

2023年9月14日木曜日

プリパレーション

今年の春より、複数の大学医局からバイトをお招きするようになり、みんなとても優秀なので、うちの病理診断科は活気づいている。

バイトの方がくる前日に、「診てもらう症例」を選ぶ。

ここまで診てくれたらとっても助かるなあ、こんな難しい診断を代わりにしてもらってもいいのかなあ、ウフフ。

病理診断の振り分け。

ただ、ウフフばかりでもない。まだ慣れない部分もある。

「これ診てもらおうかなー、こっちにしようかな」とプレパラートを選んでいるうちに、(ここまで見たんだったら、あとはもう自分で診断書いたほうが早い)と感じることがある。気づいた時にはもう診断を書いてしまっている。すると翌日バイトが診てくれるはずの症例がひとつ減る。

他人にまかせることは難しい。

バイトはそのぶん楽になるから、喜ぶだろうか。

でも、熱心な若い病理医たちだ。大学とはひと味違う市中病院の症例を経験できないことをうらむかもしれない。……そこまでではないか。

では、バイトの方にあわせて、症例を積み残しておけばいいじゃないかというと……バイトにやらせるためだけに仕事を滞らせるというのは、ぼくにはちょっと抵抗がある。患者も主治医も、報告書を待っているのだから。

もっとも、たいていの病理診断は、システム的にはそこまで急がなくてもいい。退院までの2週間のあいだに病理診断をしてくれればいい、とか、主治医が患者に説明するのが木曜日だから水曜日までにレポートをあげてくれ、みたいに、時間の余裕がある。

患者が外来や病棟で待っているのとは違う、病理診断だけの時間の流れ方。そこにバイトというシステムをうまく沿わせる。


なんとなくそういう調整をいっぱいやるようになった。すると、副産物として、いろいろ思うところも出てくる。


たとえば、人間ごとに考え方がずいぶん違うんだよなということを、毎日意識する。20代のころも、30代のころも、考えてはいたつもりだったけれど、あのころのぼくは「当然違うよね」と口で言ってはいたものの、その実、違いの多彩さがまだよくわかっていなかった。

今はもう少し大人だ。今のぼくも所詮は何も見えていないのだということが、わかる。わからないことがわかる。「お互い違うよね~」などと、わかったふりでしゃべることは、今のぼくにはもうできない。

ぼくらは互いを見渡すことができない。

心の底までわかりあうなんてぜんぜん無理だ。

それでも人びとは、蛇行と屈折をしまくった胸の穴の奥底にある心のふちから、何かを取り出して、屈折と蛇行の末に胸の外に何かのカケラを持ち出し、広場に置いて、誰かに見せびらかしたり、誰かに手に取ってもらったりして、最低限度の共有をする。

カケラは心そのものとは形が違う。

温度もおそらく変わっている。多少冷えていたりする。

手触りもそれによって変わる。

しかしキメの細かさ、凹凸のぐあいなどは、心にあったときと、あまり変わらない。

全く別モノというわけでもない。そのカケラはやはり、間違いなく、奥底の心で採取されたものなのだ。

だからそれなりに心を反映している。

パーフェクトにイコールではないけれど。

一部分で全体を推しはかることも、多少はできる。全部は無理だが。


そうやってお互いに、部分から全体を推しはかり、無理と悟り、でもまあほかにすることもないから、全体をぼんやりと、とらまえようとする。


なんだかこれって病理診断と似ているかもなあ、なんてことを思った。誰かバイトの人に解析してもらいたい。そのためにはぼくが、広場にあるカケラを、先にこっそり眺めておいて、振り分ける必要があるのかもしれない。

2023年9月13日水曜日

病理の話(816) おせわしちゃうぞ

先日ある臨床医から電話がかかってきた。某研究会の「世話人」になってくれないかという内容。

世話人というと、なんだかPTAとか町内会を仕切っているフィクサーみたいな語感だけれど、実際には、下働きだ。小間使いである。


研究会。

全国の医療従事者たちが、パワーポイントのプレゼン形式で貴重な症例をもちよって、みんなで議論する会のこと。


研究会を長年続けていこうと思うと、「ある程度業界のことをわかっていて、そこそこ人を動かせるけれど、それ以上に自ら汗をかいて動き回れる中年」の支えが必要である。それが世話人だ。

世話人は、勉強中・修行中の若い医師にはまかせられない。なぜなら、手間がかかり、勉強の時間を削がれてしまうからだ。

そもそも世話人の仕事内容には、それなりの実務経験が求められる。若い人には荷が重いかもしれない。

たとえば、セッションごとに座長(司会役)を勤めるのは世話人の大事な役目のひとつだ。

毎回の定例会ごとに企画を考えたりもするので、これまでさまざまな研究会に出た経験があったほうが考えやすいだろう。

研究会の会場を借りたり、スポンサーが必要な場合には声をかけて回ったり、各方面に告知のためのパンフレットを配ったりといったことも行っていく。

これもう医学と関係ないじゃん! みたいな仕事を不満ひとつ言わずにやれるのはおそらく中年以降である。若いうちはもう少しきちんと医学に近いところでがんばったほうがいい。


ぼくは今45なので、中年ど真ん中であり、いくつかの会の世話人をやらされ、くるくる働いている。ところで、医師の中にはたまに、「いくつかの研究会の世話人をやっている」ことをあたかも業績であるかのように吹聴するものがあるが、まあ、やっていますよと言いふらすのはよいけれど、それは別に偉いことを示すわけではなく、「私は便利屋です」と言って回っていることにすぎない。

そう、ぼくは便利屋だ。



話を戻そう。先日、ある研究会の世話人になってくれという依頼が来た。よしやってやろうという気になる。ただし、ここにはけっこうめんどくさい力学が働いている。

「わかりました! やります!」ではだめだ。

このように答える必要がある。

「大変光栄です、世話人会にご推薦いただきありがとうございます。もし承認されたら精一杯尽力いたします。」


そう、推薦してくれた人に感謝をしつつ、「だめかもしれないということはわかっていますよ、私はまだまだ若輩浅学ですので」という姿勢をあきらかにしておく。なんだか武士の流儀のようである。


さっきも書いたが、世の中には、「研究会で世話人を務めること」を業績だとかんちがいしている医者がいる。世話人とは偉い人がやるものだと思い込んでいるわけだ。バカd……いや価値観はいろいろだと思う。得てしてそういうヤカラに限って、いざ世話人になると名刺に研究会の名前を書いてふんぞり返るくせに実務からは逃げ回り、かつ、新しく入ってきた目下の世話人につらくあたる。


ぼくからすると、世話人とは実務部隊であるべきなので、動きのおそくなった60代なんぞはさっさと引退させてどんどん40代に回していったほうがいいと思っている。でもなかなか、「世話人がお偉方で占められている研究会」はなくならない。今回声をかけられた会もそういう会だ。

そういう会でぼくがやることはまず、低姿勢の極みで近づいていき、どうせ滞っているであろうさまざまな実務仕事を代わりにひとつひとつこなし、上と下との信頼を得るために数年以上だまって尽力することである。

そして、研究会にいる時間が長くなり、発言権が大きくなったところで、古い体制をぶちこわして世話人の若返りを図り、その際に自分も引退する。

実際にそうやって会の若返りをはかったことが2度ほどある。いずれも若くなったあとの研究会はおもしろみが増した。ただし、老獪な人間たちがいなくなることで、対外的な折衝における切り札がひとつ減ってしまうので、研究会の存続においては「表で華々しくやれる部分をなるべく若い人にまかせ、面倒な裏方の仕事の一部はぼくが自分で引き受ける」くらいのバランスがよいだろうと思っている。



とにかく医師の世界には裏方精神が足りない。業績がなければ大学で偉くなれず、大学じゃないところに所属していてもなんだかんだで対外的な実績がものをいう感覚があるためか、誰かが活躍することを後ろで手伝うタイプの人が基本的に不足している。

世話人とは本来そういう「裏」を担当すべき人間のはずだ。医療業界以外に置き換えて考えてみればすぐわかるはずなのだけれど……医師ばかりはなぜか、世話人のことを「アベンジャーズ」っぽく受け止めているふしがある。なんなんだろうな。主人公になりたいのかな。

2023年9月12日火曜日

解散願い

ブログの更新告知をXからThreadsに切り替えた。しかし、閲覧数がほとんど変わらなかった。

ここ数年は、だいたいどの記事も安定して900~1000くらいのUU(ユニークユーザー)に閲覧されており、たまにフォロワー数の多いアカウントが話題にすると瞬間的にその3倍くらいの人が見に来るけれど、次の記事からはまた元に戻る、といった感じだった。

さすがにXでの告知を辞めれば、見に来る人は減るだろうと思っていた。でも変わらなかった。

おどろいた。

フォロワー数は20倍くらい違うのに、閲覧数が変わらないなんてことあるだろうか?

そして、考え込んだ。あるんだろうな。


この1000人は、だいたいいつもぼくの書いたものを読んだり買ったりしてくれている人たちなのだろう。

そういう人たちの多くが、Threadsのアカウントを作ってくれたから、告知先を変えてもブログの閲覧数は減らなかった。

あるいは、Xとは無関係に、RSSなどを用いてブログ更新を確認してくれていた人もいたのかもしれない。

とてもありがたいことだ。

ぼくは長年、「Twitterのフォロワーは味方ではなく敵」という言い方をしてきた。動物園の猿を見に来る群衆、という表現でもいい。アカウントは見世物、それを見に集まってくる人が味方なわけはない。

しかし、今のところ、Threadsのフォロワーは味方なのかもしれない、という気持ちがじりじり湧いてくる。歴史が浅くまだ微妙に使いづらいThreadsを使ってまでぼくの出す情報を読みに来てくれるというのだから。



そのことがわりと「気持ち悪い」と、直感的に思ってしまった。



申し訳ないがそれはぼくのやり方がファン商売になりつつあるということだからだ。

商売、すればいいじゃない、と人はいう。しかしぼくはいやだ。

もっと殺伐とした関係のほうがいい。

SNSで味方ばかりに囲まれるというのはエコーチェンバーの温床である。

noteの有料マガジンでファンだけを囲い込んだり、Faniconで課金額を変えてメンバーごとに優劣を付けて秘蔵の動画を開陳したりするのは、客商売、芸能商売の人ならばどんどんやったらいい。生活のためにがんばればいい。エコーチェンバーもどんどん利用していけばいい。そのほうが確実にもうかるのだ。

でもぼくは、そういうのはいやなのだ。

これは理屈ではなく単なる好き嫌いなので、かなり詳しく説明できるけれど、すべて説明できるわけではないから、あまり説明しない。

企業にも個人事業主にも、どんどん「ファンベース」で儲けて欲しいけれど、ぼくは、そういうのはいやなのだ。



社会のために何かメッセージ(たとえば医療情報)を発信しようと思っても、SNSを用いると、たいていの場合は特定のクラスタの中でだけ反響をくり返す。賛同は強化され、反論は先鋭化する。

そこをたまに突き抜けることがあって、それがいわゆる「バズ」ということなのだが、バズフィードジャパンがほぼバズらず特定のファンにしか受け入れられていないように、バズは狙って仕掛けられるものではない。

世の中でバズらせることを教えて商売をしている人たちもいるけれど、あれは、その実、クラスタ外にメッセージを届けることをやっているのではなく、「潜在的に囲い込まれたい人たちを自分のクラスタ内に取り込んでいくコツ」を教えている。

みんなそれぞれ自分の儲けの計算に必要なサイズのサロンを作ろうとしている。

そういうのを突き抜けて、サロン化させず、熱心なファンも作らず、もうけも得ず、「なんだかかき回すばかり」というアカウントになりたくて長年やってきた。それが「真のバズへの道」なのではないか? と考えていた。

真のバズというのは、本人にいいことはさほどおこらない。普段届かないクラスタにメッセージが届けば、クソリプもストーカーも殺害予告もやってくる。

でも、それで、普段あまり医療情報に興味がない人のもとにも、やさしい情報が届くかもしれない。

そこをきちんと狙いたいと、2019年の冬以降(SNS医療のカタチのメンツを手伝うようになって以降)はずっと考えていた。



そんな中、周りの人たちがどんどん「ファンを増やして安定した購読料を手に入れる方針」に変わってきて、ぼくはXの居心地が悪くなって、こうしてThreadsに逃げ込んで、もう少し違うやり方でいいことをできないかと模索している。

ところが、ブログ閲覧数を見て思った。Threadsにはファンが集まっている。

ぼくが逃げ回ってきた「ファンベース」の世界に、気がついたらはまりこんでいる。

ああ……皮肉だなと思った。「気持ち悪い」という感情の出所はここだ。誰もがファンベースで小遣い稼ぎを狙うようなSNSがイヤで逃げてきた先で、ぼくは、自分のファンを「濃縮」してしまったのだ。



ぼくはもう、人前でチヤホヤされそうな場所に出ないほうがいい。理屈ではない。感情的にやめたほうがいい。

一部のマニアにしっぽりと理解されるようなほうがいい。そもそも病理医というのはそういうモチベーションで仕事をする人種だ。

Xは大衆に広がった時点でぼくがやりたいものではなくなっていた。昔のように、オタクの居所のままであったなら、ぼくはまだあそこにいることができたはずだ。

SNS全体がファンベースになりつつある気もする。となれば、ぼくの根っこを癒やすためには、SNSからももっとはっきり撤退したほうがいいだろう。

ネットワークの深部で、硬い情報を供給する側に回ろう。

ぼく以外の、ファンを集めてサロンを作ってお金をもらいたい人たちが、ぼくがこれから整備する「公的情報」を用いて「最高の医療情報を見つけてきたよ! さあ、ぼくのファンたち、この情報を見て安心して医療のことを考えてくれ!」と、バズってお金稼ぎをすればいい。



ぼくのファンはただちに解散してもらいたい。Threadsにはヒリヒリするような好敵手だけが残って欲しい。そうじゃないと、つまらなくて、やるせなくて、今までやってきたことが全部なくなってしまったような気になって、週末の深夜にがっくりと落ち込んで、スマホを閉じてビールをゆっくり飲む暮らしに適応してしまう。

2023年9月11日月曜日

病理の話(815) 免疫染色のむずかしさ

病理診断においては、「免疫染色」という技法を用いる。正確には免疫組織化学というのだがここでは免疫染色と呼ぼう。

細胞の中にある「興味のあるタンパク質」やそのかけらを認識する「抗体」というものを、プレパラートの上にふりかける。この抗体にさらに発色する試薬をくっつけておく。

すると、自分が興味のあるタンパク質の存在する場所だけが特定の色に染まってみえる。

たとえば下記をみてほしい。胃粘膜にできたある良性のかたまりに対する染色である。

左:病理医がいつも用いる、H&E染色というピンクと青紫の重染色を行ったもの。
真ん中:MUC5ACというタンパクに対する免疫染色。
右:Pepsinogen Iというタンパクに対する免疫染色。

免疫染色では、茶色くなっているところを「陽性」と考える。


すべて同じ画角であることに着目してほしい。プレパラートをつくるときに、組織にカンナをかけるように「薄切」を行うのだが、このときに同じ部分をいっぺんに何枚も切っておいて、それぞれ違う染色をすれば、同じ画角を異なる染色で見比べることができる。

上の画像でいうと、MUC5ACは表面付近に陽性像が集中している。Pepsinogen Iはもう少し深い部分に陽性像がみられる。肉まんの生地の部分と肉の部分のような関係になっているだろう。

これは、同じ病変の中でも、部位によって細胞がもつタンパク質が異なるということを意味する。分業ができているのだ。





こうして免疫染色を写真で出すと、勘違いする人も出てくる。「茶色ければ陽性!」と即断してしまうのだ。でも、じつは、免疫染色の評価はもう少し難しい。

顕微鏡の拡大を上げると、たとえば、細胞全体に色がつくというわけではなく、細胞の中でも核だけが染まるとか、細胞膜に沿って染まるとか、核の横にあるゴルジ体に一致してドット状に染まるとか、細胞質内の神経内分泌顆粒の分布にあわせてごま塩をふったように染まる、といったように、タンパク質の居場所や配列にあわせて染まり方が異なることに気づく。

たとえば、核内タンパクを染めるための免疫染色で、細胞質が染まってしまったら、それはなんらかの「ミス」があるということだ。

染色を失敗したのかもしれない(染め物だから、染めすぎみたいなことがたまに起こる)。

あるいは、細胞が異常を来していて、本来であれば核の中にあるはずのタンパクが外に漏れ出しているのかもしれない。


染まりのパターンを見て、細胞生物学的な知識と照らし合わせて、「この場所にこうして染まっているからには、こういう意味があるはずだ」と考察するところまで含めての免疫染色だ。

けっこう難しいんですよ。



ちなみに最近みた例でいうと……新型コロナワクチンのスパイクタンパクに対する免疫染色、というのがあって、これでワクチンの有害性を証明しようとした論文がある。へえ、そんなのがあるのか、なるほどなーと思って写真を見たら、細胞があまり存在しないような血管壁の内部に染色性が集中していて、ああこれはアーチファクト(染色のエラー)だなとすぐにわかった。

おまけに、スパイクタンパクの沈着像とされる部分のカウンターステイン(詳細は避けるが、細胞の輪郭をぼんやり染めるための別の染色)を見ると、その周囲になんの病的変化も認められないのである。少なくとも、スパイクタンパクのせいで病気になった、という主張ができるような写真ではない。

これでは二重にミスなのだ。染色はうまくいってないし、染色の解釈も失敗している。しかし、論文として発行されている。なぜそんなことが起こるのだろうと思って論文の掲載された雑誌を見ると、いささか、査読に問題がありそうな、へんな雑誌だった。

たとえるならば、エログロゴシップ誌に政治史を投稿するようなものだ。ポリシーに合っていないとしか言いようがない。

病理医もしくは臨床検査技師でない限り、免疫染色のミスは判断が難しい。あの免疫染色像をもって意味のあることを言おうとした人は、ちょっと気の毒だ。まともな病理医が近くにいれば、人前で説明するより先に、「この写真はおかしいから染色をやり直そう」などのアドバイスができたはずだし、「一見陽性に見えるけれど、その周囲に血管炎を示唆する所見がないのだから、これでは意味がないよ」とコメントできたはずなのだ。ああ、まともな病理医さえ近くにいたらよかったのになあ。かわいそうに。

2023年9月8日金曜日

朝昼夜行灯

冗長性という言葉を最初に目にしたのはおそらくTwitterで、プログラマーがこの言葉を使っていた。てっきりネガティブな意味だろうと思っていたらわりといい意味で、うーん日本語は難しいなと思った記憶がある。

いちおう余っているとか余分なものがあるという意味なのだが、IT業界では「無駄に余っている」のではなくて、「余力がある」というニュアンスで使う。あるシステムを念のために二重に作り込んでおいて、片方がつぶされてももう片方が生きているから安心、つまり予備があるから安全だよ、冗長性があっていいね! ということになる。ふーんなるほどね。

もとはredundancyという英語で、リダンダンシーと発音するのだがなんか珍しい語感の言葉である。リダンシーじゃなくてリダンダンシー。離断男子。ちょっと男子~、離断してないでちゃんと掃除してよ~。

語源を遡っていくと、re-もしくはred-というのは再び、みたいな意味合いで、昔のマンガにあったreborn(リボーン)なんかのreも同じだろう。次に続く-undo-が、あふれるとか波打つという意味らしい。あわせてredundoであふれ出るという意味合いになるのだそうだ。何度も波打つとあふれてくるのだ。語源の部分にも、くり返しあふれてくる潤沢な感じというのが含まれている。

それに語尾としてansという現在分詞を付けることでredundans, redunduntという言葉ができ、名詞形にしてredundancyである。冗長な説明になったことをゆるしてほしい。



余剰など考えられないような暮らしをみんながしている。スタッフの人数はいつもぎりぎり。一人が病欠するととたんに回らなくなる仕事。めいっぱい努力して資格をとらないと運用できない社会。

だからみんなもっとのんびり、余裕をもって暮らそうよ、と書くのが普通のブログなのだろうが、ぶっちゃけて言うとぼくは「余剰」が怖い。余裕のある暮らしとはまだ努力の伸びしろがあるということなのだから余裕がなくなるくらい働いてみようぜ、という気持ちでずっとやってきた。45年もの間……いや、42年くらいだろうか。さすがにこの3年間息切れしたかなと思う。

のんびりしたくてのんびりしているわけではない。力尽きて失神している時間が長くなっただけだ。

ジャンプカットすればするほど視聴者数が増えていくYouTubeの動画がおもしろくて見やすいなあと思ってしまう。たまにQuizKnockを見たりヘアピンまみれを見たりしてスキマの15分を潰す。余った時間が怖いからコンテンツを叩き込む。積み本というのが苦手だ。たくさん本を買うとそれが読み終わるまでほかのことが手につかない。

冗長な暮らしなんてあり得ない。



冗長性はシステムのリスク管理として大事な概念だという。ぼくが抜けると回らなくなる職場がいくつもあったから、ぼくは冗長性をうまく用意できていないということで、システム上の脆弱性を指摘されることになる。従ってこの3年、黙って失神していたわけではなく、ぼくの代わりがいくらでもいるということを各方面に周知して回り、多少は職場が冗長な感じになってきた。これからは自信を持って医学生や研修医に「うちは冗長な職場ですよぉ」と昼行灯の典型みたいなしゃべり方をすることができる。夜中ずっとついている行灯を昼にもともしつつゆっくりと寝る。

2023年9月7日木曜日

病理の話(814) やばさのふんいき

ごく少量……それこそ小指の爪の切りカスよりもさらに小さいくらいの、そうだなあ、小指のささくれをプチっと摘まんでとったときの切れ端のさらに半分くらいの検体を、人体から採取してきて、さあここにがん細胞がありますか? ありませんか? っていうのを顕微鏡で決めてくれって言われるのが病理診断なんですけどね。


それでも顕微鏡ってのはすごいもので、200倍とか400倍とか600倍まで拡大するとそこそこ見えてくるものなんですよ。さっきのささくれでいうと、ささくれをまるごと標本作製したらたぶんそこにも数千個以上の細胞が存在するんですよね。ただし数千個全部みられるわけではなくて、検体を薄く切って見るから、断面で数百個の細胞だけを観察することになる。


で、そこにもしがん細胞がいたとして(※ささくれの皮の中にいることはないです。大きさのたとえばなしです)、がん細胞がどれくらい存在したら病理医がそれに気づけるかというと、究極的には細胞1個あればもう気づきます。少なくとも違和感は抱く。


それくらい、がん細胞の「際だったおかしさ」というのは目につくわけだ。


しかしその1個の「おかしさ」だけで確定診断を出すかというと話は別で、本当にいくら見回しても1個しかおかしな細胞がない場合には、その1個だけでがんと診断することはまずない。「気になる所見ですので再検(もういちど検査)してください」みたいな報告を書くことになる。


英語でもworrisome feature(気になる所見)という言葉はある。病理レポートの中にとつぜん「気になる」みたいな主観バリバリの単語が入ってくると主治医は面食らうけど、むしろ我々は、面食らってほしい、ちょっとそこで立ち止まってほしい、いつものルーティンワークよりももう少し慎重に話をすすめたほうがいいですよ、って注意喚起をしているわけなんです。


この注意喚起の仕方一つで、主治医にも「やばさのふんいき」みたいなのが伝わることがある。だから文章の調整をすべきだとぼくは考えている。


<例>

診断:○○疑い

所見:異型細胞があり、○○を疑います。確定は困難です。


こんな病理レポートを書いている病理医は、まあ最低限の仕事はしていることになるんだけど、はっきり言っていつAIに置換されても仕方ないと思う。それって人間が人間相手にやる仕事じゃないから。


<例の書き直し>

診断:○○疑い(本文も読んでください)

所見:検体のほとんどは正常ですが、一部に非常に気になる所見があり「○○疑い」と診断します。詳細は下記をご覧ください。再検をご検討ください。

【所見の詳細】

正常の□□に混じて、ごく一部ながらN/C比の増大した細胞が5,6個程度認められます。Deeper serial section施行しても同部には極小の病変が存在しており、○○を疑います。ただしあまりに病変量が少なく確定診断が躊躇されます。再検による確定が望ましい病変です。



これくらいゴリゴリ書く。ただし、いつも長文を書いている病理医がこれをやるのではだめ。毎回長い文章を書いていると主治医もそれに慣れてしまって、いつも長く書いてんなーヒマなのかなーこいつ、くらいにしか考えなくなる。だから、普段はこんな感じにシンプルにまとめる。


診断:○○がん

所見:○○がんです。


ホントにこれくらいでいい。がんだって決まったらあとは流れが生まれて診療が進むんだからここでゴタゴタぬかさなくていい。いざというときの文章に説得力を出すために普段のレポートの文章量を調整する、くらいのことをやらない病理医はサボってます。いやまあでも施設ごとにいろいろポリシーもあるんだけどね。若い病理医の教育のために、あえてすべての所見をフルに記載するというパターンもあるし。


書こうと思えば書ける人が短く書くからインパクトがある。推しの魅力を24時間語れる人がここぞというときには一言「いい……」だけ言うから伝わるのだ。病理診断もそれに似た部分がある。いざというときの、やばさのふんいきを伝えるため、日頃からの仕込みを怠らない。それくらいする。それくらいしろ。

2023年9月6日水曜日

あきらめるまでのこと

たったひとつの営利企業が自社の利益を第一に考えて運用しているプラットフォームに、公共への寄与を期待しすぎた我々が悪い。

「広告主がお金を払った規模に応じてインプレッションを高くする」ことをまっすぐ目指して、アルゴリズムを調整するのは当たり前のことだ。プロが金をかけてコミットしたコンテンツの投稿表示数がきちんと高くなれば、広告代理店はより熱心に投稿を作成する。

金で買ったハッシュタグが一番見られる必要がある。

キャンペーンのアンケートが一番拡散されなければ意味がない。

一個人のおもしろつぶやきや、一絵師が気楽に投稿した日常四コマばかりが大バズりする状況では困る。

社会のためを思って善人が身を削って誠意と真心で練り上げた投稿を優遇しても、企業にとっていいことは何一つない。

Xは何も間違ったことはしていない。極めてあたりまえの改革をすすめている。

これこそが真の「カイゼン」である。誰だこの改善をカタカナにしたバカ野郎は。気持ち悪い。センスなさすぎるだろう。




そもそも我々は昭和の頃にはそういう世の中に暮らしていた。たくさんお金を回すメディアの論理が社会や世論を作っており、お金を稼げる一部の人が、自分たちのがんばった成果が世に広まることを喜んでいた、そういう世の中だった。社会の片隅であまりお金にかかわらずに暮らしている人たちの声が世に届くことは、良くも悪くもありえなかった。

しかしSNSが登場して状況がぬるぬる泥のように動いた。プラットフォーム側はまず、タイムラインに出入りするユーザーの総量を増やすことを重視し、弱小のいち個人でも、無料でも、アイディアが稚拙でも、情感さえ乗っていれば何かを世に訴えられるという側面をかなり前面に押し出した。本来、それは広告モデルを潤沢にまわすための仕掛けであったはずなのだが、結果的に誰もが、「これからは個人が世の中にメッセージを発する時代だ」「国民皆メディアである」などと名前を付けて尚早に喜んで盛り上がった。しまいには「広告は要らない」、「公的情報をもっと流せ」などと居直り強盗のような要求をするに至った。

「Twitterはもはや公共インフラだからさ」とかいう人、昔から、正直おめでたいなあと思っていた。いや普通に営利企業だよ。なぜそこまで甘えられるの。

いつかSNS運営側が公共性から企業利益重視に方針転換したとき、「公共のためにならない!」と怒り狂う人びとが出てくるだろうけど、それはちょっと面の皮が厚すぎるよなあ、などと考えていた。後出しジャンケンではない。ぼくはずっとそうだった。



ぼくは基本的にSNSでは善人になりきらないことを選んだ。だらしなく下品であることを継続したかった。フォロワーが増えるにつれてマニアックでエグい下ネタから当たり障りのない絵文字ダジャレ、いらすとやギャグへと移行したけれど、これらは結局「あいつ何やってんだバカだな」と、苦笑を糧にして運用する姿勢を崩したくなかった。

「病理医ヤンデル」という名前を選んだとき、SNS運用論について今よりずっと幼弱なものしか持ち合わせていなかった当時、「アングラで、マイノリティな場所だということを忘れてはいけない」という直感があった。のちに複数の人から、

「ここまで有名になると、最初にヤンデルなんて名前を付けたことを後悔するでしょう笑」

などと言われたのだが、完全に真逆の意見で、今名付け直すとしても「病理医ヤンデル」と「病理少女まくろ★ミクロ」で悩むことになる。



SNSで躍動する人なんて原則的にうっすら気持ち悪がられているくらいでちょうどいい。

医者がトータルとしてはうっすら嫌われている生き物なのといっしょだ。



何を感動しているのか。何に感謝しているのか。

「認証」をもらってキャッキャしている人たちを見て、なんか、それは違うんじゃないのかな、という気持ちがかなりあった。

コミュニティノートには唖然とした。そもそもあれを書いているアカウントはX社から選ばれているわけで、詳しい経緯は知らないが(選ばれていないので)、これまでのデータから「正義と統計でニセモノを殴ってインプレッションを高くしてきたケンカ上手」が巧みに選ばれていることは間違いない。あのノートがつくことで、力道山の空手チョップと同じ構図で世間が湧き、インプレッションが増えるのだ。その証拠に、コミュニティノートの文面はどれも皮肉めいて、義憤さえあれば青竜圓月刀で唐竹割りにしても問題ないだろうといった関羽雲長的暴力性にあふれている。そのくせコミュニティノートをもって「公共にも寄与していますよ」とエクスキューズを唱えているのだから始末が悪い。


それでもXは悪くないのだ。くり返すが悪いのは、一企業の営利目的のサービスに過剰な公共性を勝手に期待し続けた我々のほうである。今後、あの場所で公的な情報を扱おうと思ったら、営利企業が納得するような相応の金を払うしかない。年1万円程度のサブスクライブ料金の話をしているわけではない。「公共情報を流してくれれば御社に莫大な利益が入りますよ」という仕組みを作り上げないと意味が無いのだ。医療従事者のよい投稿をみるとなんらかのかたちでどこかにもうけが生まれるということ。「こんなにやさしい情報が流れているならこれからも我々はXで情報を収集し続けるし、なんなら商品やサービスの情報にも目を向けて、X社の広告主にも莫大な利益を与える準備があるよ」と、国民みんなに納得してもらえるくらいのすばらしい情報源になるということ。

目がくらむほど遠い道のりだ。少なくともノブの口まねをしたり無料のジブリ画像で大喜利をしたりニセ医学アカウントと引用RTで殴り合ったり医療ネタがバズらないと見るや政治経済の可燃性の高い話題に矛先を変えたりする青いマークの自称医療者アカウントがこれだけ湧いている間は達成できる気がしない。しかし粘るのだ。しかし考えるのだ。あきらめてしまってはだめなのだ。ぼくは病理医ヤンデルの存続をあきらめたが、医療者としての矜持まであきらめたつもりはない。

2023年9月5日火曜日

病理の話(813) 2次元からの卒業

病気とはつまり人体の不具合であるが、その不具合には「かたち」のある場合とない場合がある。

たとえば、体のどこかに「できもの」ができた場合、その異常は目に見える。しかし、血中の中に溶け込んでいる糖分の量とか、神経をつたわる電気刺激の量などがふつうよりも多い、といった病気は、異常を直接目で見ることは難しい。

そこで、病院の人間たちは、さまざまな手法をあみだしてきた。血液を生化学的ツールを用いて調べる「血液検査」であるとか、神経の伝導を測定する「神経生理検査」であるとか、ほかにも呼吸機能とか心機能検査とかをゴリゴリ開発してきたのである。

検査のやりかたは、医学の長年の歴史の中でそうとう試行錯誤されている。昔使われていたけれど今はもうやってない検査が山ほどある。同じ検査であっても試薬が変更になっていたり、機器の精度が高まっていたりと、とにかくずーっと進化している。


さて、がんなどの「かたちのある病気」を検査するにあたっては、病気のかたちを正確にとらえるためにCTやMRI、超音波や内視鏡などいろいろな「画像検査」が存在する。

で、これらの上に君臨する、最強のツールが病理診断だ。

異常なカタマリができたら、そこを切り出して、プレパラートに載せて色を付けて顕微鏡で見る。これほど解像度高く「病気そのもの」を見る手段はほかにない。だから病理診断というのは150年の歴史のあいだ、ずっと最強なのである。

病理診断の手法は、ほかの検査に比べるとあまり変化していない。「色を付ける」のくだりで多少の改良が進められているにせよ、病気の根っこの部分にある細胞を直接見るという部分はずっと不変である。

ミクロの診断はこれからもなくなりそうにはない。



……と、思っていたのだが、やはりここも時代の流れにさらされつつある。世界中でいろんなラボが取り組んでいる新しい病理診断のやりかたは、従来のそれとはだいぶ違う。

今までの病理診断だと、顕微鏡で細胞をみるにあたっては、体からとってきた組織をうすーく切ってペラペラにして、光が透ける状態にしてから色をつけて、下から光をあてて上からみる。厚みある物体もぜんぶ2次元のペラペラにしてしまう。したがって顕微鏡像は2Dだ。細胞はすべて断面で観察する。

しかしこの2Dを3Dにしようという動きがあるのである。どうするかというと、まず、特殊な薬品を使って組織全体を透明にしてしまう。そんなことが可能なのか? と思いたくもなるが、実験レベルだと、マウスくらいの大きさなら骨もふくめてまるごと透明にすることができる。

薄く切らずに透明にした検体に、さらに特殊な薬品を使って中まで色を付けていく。でもこのとき色を付けすぎると透明にした意味がないので、細胞核のような「ここぞ」という部分にだけ着色することで、「透明でありつつ、中の細胞の構造もよくわかる」といった、……そうだなあ……ゼリーの中にうかぶフルーツが見える、みたいな状態にしてしまう。とんでもないアイディア、すさまじい技術だ。

できあがったゼリーもしくは煮こごり状の検体を、「3次元用の特殊な顕微鏡」でスキャンする。人間が上から覗き込むというよりも、CTスキャンのように、3次元情報を断層でばりばり取得してPC上で再構築する。

これをやると、細胞が本来からだのなかでどのように配置しているのかが、「3次元の状態で」見えるようになる。何度か見たことがあるが、ほんとうにぎょっとするすばらしい絵がみられる。

※興味があるひとはこの動画をどうぞ。さほど長くないけど2分くらいのところが視覚的にわかりやすい。

膵管周囲に配置するランゲルハンス島の分布、腫瘍を取り巻く血管構築……。



いざ、3次元で細胞の配列を見始めると、便利なことと不便なこと両方が生じる。

まず不便なほうとしては、これまで2次元で観察してきたノウハウの一部が使えなくなるというのがそこそこでかい。従来の顕微鏡ならこう見えた、という感覚がフッ飛ぶので、経験の長い病理医ほど3次元画像にはあわててしまう。

でもそれでいいのかな、とすら思う。3次元画像にはやはり情報が多く、2次元のときよりもさらに診断の精度があがってくるのではないかという予感がビンビンする。炎症に伴う大腸陰窩の変形とか、腫瘍における血管の異常走行パターンなどは、あきらかに3次元のほうが見やすい。これまで「病理ではわかりません」と言っていた検索が3次元病理だとできる。



将来AIが発展して病理医が用済みになるのでは? みたいな意見、最近はさすがに聞かなくなってきた。AIというものがどういうかんじで仕事をするのかがみんなよくわかってきたからだろう。その一方で、「将来3次元病理が発展したら」どうなるのかを考えることもまた楽しい。2次元診断病理医が用済みになるだろうか? いや、まだ、組織透明化は完全ではないし、標本処理の過程でRNAが死ぬから一部の検査ができなくなるなど制限もある。でも、それでも、3次元病理、とてもおもしろいし、こんな手間のかかる技術を習得できるのは、処置も手技も病棟管理も一切担当しない病理医みたいなへんくつな職業人以外いないだろう。我々の仕事は増えるばかりだ(うれしそうに書く)。

2023年9月4日月曜日

勝って会場をふっと去る

北海道にエスポラーダ北海道というフットサルチームがあり、Fリーグというのに加盟していて、全国で試合をしている。今季は最下位なのだが、地元北海道出身の選手がたくさん所属しており、ひそかに応援している。

先日、札幌市豊平公園のきたえーる(数年前にはやったダサいネーミングの体育会場)に、試合を見に行った。この日はけっこう集客がうまくいったと見えて会場は2階席がほぼ満席、3階席にもかなり人が入っていてぜんぶで3500人くらいいたらしい。会場MCの人がなんか感動しているのがよかった。試合は6-1で勝利、今季これで2勝1分9敗である。

えっ、バカ勝ちしてんじゃん、というかんじだが、フットサルの場合、じつはこのような点差の試合はしばしば起こりうる。たとえば後半に3点ほど点差が開くと、負けているほうのキーパーが攻撃参加し、「いちかばちか」の総攻撃をしかけるというやりかたがあるのだ。キーパーが前に出れば1人多くなって有利になるが、ボールをとられたが最後ポーンとゴールに蹴られると防ぎようがない。この日は3-0から相手チームがキーパー攻撃参加を決め、それがことごとく失敗して無人のゴールに3回も追加点が入って6-0になったので、会場はおまつりさわぎであった。ただしその後、1点はキーパーが決めたので、これ、3-0の段階でいきなりキーパーがゴール決めて3-1になってたらまだわからなかったな、と思わなくもない。

ボールを止めて蹴るだけでスポーツになるわけはない。さまざまなルールでプレイヤーたちを縛り、その制限の中から戦略が生まれて、「あっ、そういうふうに進むのか!」というストーリーがフィールドに生まれていく。


行きに地下鉄東豊線豊平公園駅に飾られていたエスポラーダの選手のパネルを見てもなんとも思わない、ああ、20代の肌つやのいい男たちが無駄にヒゲをはやしたり首元にジャラジャラ何かをつけたりしてユニフォーム以外のところで差別化を果たしているな、くらいの感想なのだが、たかだか2時間弱の試合観戦のあとには選手の背番号がかけがえのないものに思えて、名前と顔も一致しはじめる。観戦中は顔までは見えないので、帰り道にはポスターをまじまじ眺めて、「お前……今日……かっこよかったな!」と、行きとはまるで違う感動を得る。通路の反対側には、同じく「きたえーる」で試合をすることがあるバスケットボールチームのレバンガ北海道の選手写真も飾っているので、バスケを見に来ればこちらの写真もまた華やいだかっこよさをぼくの心に届けてくれるのだろう。今はまだ、茶髪と首元のジャラジャラでユニフォーム以外のところで差別化を果たしている20代の肌つやのいい男たちにしか見えないのだが……。


ちなみにバスケのレバンガは想像のとおりがんばれを逆さにしただけの残念ネーミングである。コンサドーレが道産子を逆にしてオーレを付けましたと公式発表したときの道民のずっこけを思い出す。人が集うドームだからつどーむ、北で鍛えてエールを送れのきたえーるも全員同罪だ。これに比べるとエスポラーダはすごい。


”エスポラーダ(espolada)は、ポルトガル語で"北極星(estrela polar)"と"戦士(soldado)"を合わせた造語。 北の空に輝く北極星の様に、強く輝く戦士という意味が込められている”


エストレラ・ポラーはわかるがソルダードがどこに入ったのかよくわからない。ひねればいいというものでもないのだ。でもまあかっこいいからいいか。(元)病理医ヤンデルはエスポラーダ北海道を応援しています。

2023年9月1日金曜日

病理の話(812) みんなでやんな

ぼくはこれまで20年病理診断の現場に携わっているのだが、この間、「自分だけ」で診断をした記憶はかなり少ない。夏休みでスタッフがいないとか、出張先で自分以外に病理医がいないといったケースをのぞけばほぼ必ず、別の病理医に自分が書いたものをチェックしてもらっている。あるいは逆に、ほかの病理医が書いた診断をぼくがチェックすることもある。

医師免許をもち、人体に介入する許可を得て、病気を見極めて「診断」をする資格と責任を手に入れているのだから、自分ひとりで診断をやりきっても誰にも怒られない。法的にも、かならずふたり以上でなんとかしなさいみたいなことは言われていない。

しかし、とにかく、誰かといっしょに診断を出す。



若い病理医とコンビを組む場合には、経験が足りなくて何かを見逃すとか、わかりにくい表現を報告書に残してしまうなどのトラブルを防ぐ、「指導」の意味合いがある。また、まんがいち患者が訴訟を起こした際に、被告としての責任を分散させるという目的も確実にある。

しかしそういう理由は現場にいるとけっこう後景に下がる。

そんなことよりもなによりも、とにかく、「人は間違いをおかす」ということが骨の髄までしみていて、ひとりでどうにかしようなんて気が起こらない。



「肝生検」が「管制圏」とか「菅政権」と記載されたまま病理診断報告書が紹介元の病院にまで送られてしまえば、関係者全員が顔を真っ赤になって恥じる。

「右肺切除検体」と書くはずのところをうっかり間違って「左肺切除検体」と書いたら現場は蜂の巣をつつくようなおおさわぎだ。「えっ! まちがって反対の肺を切っちゃったんですか!!?!?」「いや……その……(小さい声で)書き間違えただけです……」「は? 公的な文書でそんな大事なとこを間違っちゃうの?」「あの……すみません……」



いや、ほんと、間違うんですよ。校正をご職業になさっている方のエッセイなどを読むと身にしみる。単なる誤字脱字だけじゃない。とってきた臓器の部位が違うとか、必要な箇条書き項目の3行がまるまる抜けているとか(一部が未記載なら気づけるのだが、行ごとふっとぶとかえってわからなくなる)、そういうミスは大事な文書だろうが公的な文書だろうが一定の頻度で落とし穴のようにひそんでいる。

これらは「診断を間違える」のとはぜんぜん違う話だ。しかし、診断を間違えるのと同じかそれ以上に痛いミスになる。

頭の中では正しい診断にたどりついていたのに、レポートの記載で誤解を与えてしまった、あるいは記載ミスで間違えて伝わってしまったというとき、若い病理医ほど、「あーしまった、考え方は合っていたのになー」的な反省(+わずかなプライド)を口にする。でも、そんなのは患者にとっても主治医にとっても関係がない。出てきたレポートを見て判断するしかない人たちにとって、病理医が真実にたどり着いていたかどうかなんてどうでもいい。自分のもとに届けられた文書がすべてである。極論すれば、真に病理医が見たかどうかすら関係ない。診断を書いたのがじつは臨床検査技師だったりAIだったりしても、多くの主治医や患者はそれに気づけない。それが病理診断というものだ。


だからこそ、病理医は「ひとりで診断を出し切る」ことに躊躇を覚える。どれだけ経験を積んで、人より診断が早く正確になっても、てにをはの凡ミスを防ぐために万全の注意を払わないと、枕を高くして眠れない。医師1年目の病理医のタマゴにクソ長い診断文を読んでもらうこともある。細かく専門的な技術のよしあしはわからないかもしれないが、

「先生、ここ、『ありません』が『有馬園』になってますよ」

みたいな部分はむしろ若い医師のほうがめざとく見つけてくる。




じゃあ、病理医以外の医者も診断したり処方したりするときに他人のチェック受けたほうがいいんじゃない? と考えたくなるだろう。

実際、現代の医師は、手術などの患者に大きな負担をかける治療方針を決定するにあたってはカンファレンスを開いてチームで判断するし、「処方」については薬剤師がダブルチェックをして疑義紹介というかたちで医師に再考をうながす。病理医以外もがんばって複数の目を取り入れてはいる。

ただ、病理医はほかの医者と比べてもいっそう「他人の目」を通したほうがいい。

病理医の仕事は基本的に孤独であり、自分と顕微鏡、もしくは自分と電子カルテとの間で多くの仕事が完結する。ほかの臨床医のように、患者との二人三脚、患者のリアクションを見ながら診療をすすめていく感覚、看護師をはじめとする多くの医療スタッフとの連携が少ないから、どうしてもひとりよがりになりがちだ。

マジで他人の目はだいじ。患者を守るためにも、仲間を守るためにも、自分を守るためにも。