たったひとつの営利企業が自社の利益を第一に考えて運用しているプラットフォームに、公共への寄与を期待しすぎた我々が悪い。
「広告主がお金を払った規模に応じてインプレッションを高くする」ことをまっすぐ目指して、アルゴリズムを調整するのは当たり前のことだ。プロが金をかけてコミットしたコンテンツの投稿表示数がきちんと高くなれば、広告代理店はより熱心に投稿を作成する。
金で買ったハッシュタグが一番見られる必要がある。
キャンペーンのアンケートが一番拡散されなければ意味がない。
一個人のおもしろつぶやきや、一絵師が気楽に投稿した日常四コマばかりが大バズりする状況では困る。
社会のためを思って善人が身を削って誠意と真心で練り上げた投稿を優遇しても、企業にとっていいことは何一つない。
Xは何も間違ったことはしていない。極めてあたりまえの改革をすすめている。
これこそが真の「カイゼン」である。誰だこの改善をカタカナにしたバカ野郎は。気持ち悪い。センスなさすぎるだろう。
そもそも我々は昭和の頃にはそういう世の中に暮らしていた。たくさんお金を回すメディアの論理が社会や世論を作っており、お金を稼げる一部の人が、自分たちのがんばった成果が世に広まることを喜んでいた、そういう世の中だった。社会の片隅であまりお金にかかわらずに暮らしている人たちの声が世に届くことは、良くも悪くもありえなかった。
しかしSNSが登場して状況がぬるぬる泥のように動いた。プラットフォーム側はまず、タイムラインに出入りするユーザーの総量を増やすことを重視し、弱小のいち個人でも、無料でも、アイディアが稚拙でも、情感さえ乗っていれば何かを世に訴えられるという側面をかなり前面に押し出した。本来、それは広告モデルを潤沢にまわすための仕掛けであったはずなのだが、結果的に誰もが、「これからは個人が世の中にメッセージを発する時代だ」「国民皆メディアである」などと名前を付けて尚早に喜んで盛り上がった。しまいには「広告は要らない」、「公的情報をもっと流せ」などと居直り強盗のような要求をするに至った。
「Twitterはもはや公共インフラだからさ」とかいう人、昔から、正直おめでたいなあと思っていた。いや普通に営利企業だよ。なぜそこまで甘えられるの。
いつかSNS運営側が公共性から企業利益重視に方針転換したとき、「公共のためにならない!」と怒り狂う人びとが出てくるだろうけど、それはちょっと面の皮が厚すぎるよなあ、などと考えていた。後出しジャンケンではない。ぼくはずっとそうだった。
ぼくは基本的にSNSでは善人になりきらないことを選んだ。だらしなく下品であることを継続したかった。フォロワーが増えるにつれてマニアックでエグい下ネタから当たり障りのない絵文字ダジャレ、いらすとやギャグへと移行したけれど、これらは結局「あいつ何やってんだバカだな」と、苦笑を糧にして運用する姿勢を崩したくなかった。
「病理医ヤンデル」という名前を選んだとき、SNS運用論について今よりずっと幼弱なものしか持ち合わせていなかった当時、「アングラで、マイノリティな場所だということを忘れてはいけない」という直感があった。のちに複数の人から、
「ここまで有名になると、最初にヤンデルなんて名前を付けたことを後悔するでしょう笑」
などと言われたのだが、完全に真逆の意見で、今名付け直すとしても「病理医ヤンデル」と「病理少女まくろ★ミクロ」で悩むことになる。
SNSで躍動する人なんて原則的にうっすら気持ち悪がられているくらいでちょうどいい。
医者がトータルとしてはうっすら嫌われている生き物なのといっしょだ。
何を感動しているのか。何に感謝しているのか。
「認証」をもらってキャッキャしている人たちを見て、なんか、それは違うんじゃないのかな、という気持ちがかなりあった。
コミュニティノートには唖然とした。そもそもあれを書いているアカウントはX社から選ばれているわけで、詳しい経緯は知らないが(選ばれていないので)、これまでのデータから「正義と統計でニセモノを殴ってインプレッションを高くしてきたケンカ上手」が巧みに選ばれていることは間違いない。あのノートがつくことで、力道山の空手チョップと同じ構図で世間が湧き、インプレッションが増えるのだ。その証拠に、コミュニティノートの文面はどれも皮肉めいて、義憤さえあれば青竜圓月刀で唐竹割りにしても問題ないだろうといった関羽雲長的暴力性にあふれている。そのくせコミュニティノートをもって「公共にも寄与していますよ」とエクスキューズを唱えているのだから始末が悪い。
それでもXは悪くないのだ。くり返すが悪いのは、一企業の営利目的のサービスに過剰な公共性を勝手に期待し続けた我々のほうである。今後、あの場所で公的な情報を扱おうと思ったら、営利企業が納得するような相応の金を払うしかない。年1万円程度のサブスクライブ料金の話をしているわけではない。「公共情報を流してくれれば御社に莫大な利益が入りますよ」という仕組みを作り上げないと意味が無いのだ。医療従事者のよい投稿をみるとなんらかのかたちでどこかにもうけが生まれるということ。「こんなにやさしい情報が流れているならこれからも我々はXで情報を収集し続けるし、なんなら商品やサービスの情報にも目を向けて、X社の広告主にも莫大な利益を与える準備があるよ」と、国民みんなに納得してもらえるくらいのすばらしい情報源になるということ。
目がくらむほど遠い道のりだ。少なくともノブの口まねをしたり無料のジブリ画像で大喜利をしたりニセ医学アカウントと引用RTで殴り合ったり医療ネタがバズらないと見るや政治経済の可燃性の高い話題に矛先を変えたりする青いマークの自称医療者アカウントがこれだけ湧いている間は達成できる気がしない。しかし粘るのだ。しかし考えるのだ。あきらめてしまってはだめなのだ。ぼくは病理医ヤンデルの存続をあきらめたが、医療者としての矜持まであきらめたつもりはない。