2023年9月13日水曜日

病理の話(816) おせわしちゃうぞ

先日ある臨床医から電話がかかってきた。某研究会の「世話人」になってくれないかという内容。

世話人というと、なんだかPTAとか町内会を仕切っているフィクサーみたいな語感だけれど、実際には、下働きだ。小間使いである。


研究会。

全国の医療従事者たちが、パワーポイントのプレゼン形式で貴重な症例をもちよって、みんなで議論する会のこと。


研究会を長年続けていこうと思うと、「ある程度業界のことをわかっていて、そこそこ人を動かせるけれど、それ以上に自ら汗をかいて動き回れる中年」の支えが必要である。それが世話人だ。

世話人は、勉強中・修行中の若い医師にはまかせられない。なぜなら、手間がかかり、勉強の時間を削がれてしまうからだ。

そもそも世話人の仕事内容には、それなりの実務経験が求められる。若い人には荷が重いかもしれない。

たとえば、セッションごとに座長(司会役)を勤めるのは世話人の大事な役目のひとつだ。

毎回の定例会ごとに企画を考えたりもするので、これまでさまざまな研究会に出た経験があったほうが考えやすいだろう。

研究会の会場を借りたり、スポンサーが必要な場合には声をかけて回ったり、各方面に告知のためのパンフレットを配ったりといったことも行っていく。

これもう医学と関係ないじゃん! みたいな仕事を不満ひとつ言わずにやれるのはおそらく中年以降である。若いうちはもう少しきちんと医学に近いところでがんばったほうがいい。


ぼくは今45なので、中年ど真ん中であり、いくつかの会の世話人をやらされ、くるくる働いている。ところで、医師の中にはたまに、「いくつかの研究会の世話人をやっている」ことをあたかも業績であるかのように吹聴するものがあるが、まあ、やっていますよと言いふらすのはよいけれど、それは別に偉いことを示すわけではなく、「私は便利屋です」と言って回っていることにすぎない。

そう、ぼくは便利屋だ。



話を戻そう。先日、ある研究会の世話人になってくれという依頼が来た。よしやってやろうという気になる。ただし、ここにはけっこうめんどくさい力学が働いている。

「わかりました! やります!」ではだめだ。

このように答える必要がある。

「大変光栄です、世話人会にご推薦いただきありがとうございます。もし承認されたら精一杯尽力いたします。」


そう、推薦してくれた人に感謝をしつつ、「だめかもしれないということはわかっていますよ、私はまだまだ若輩浅学ですので」という姿勢をあきらかにしておく。なんだか武士の流儀のようである。


さっきも書いたが、世の中には、「研究会で世話人を務めること」を業績だとかんちがいしている医者がいる。世話人とは偉い人がやるものだと思い込んでいるわけだ。バカd……いや価値観はいろいろだと思う。得てしてそういうヤカラに限って、いざ世話人になると名刺に研究会の名前を書いてふんぞり返るくせに実務からは逃げ回り、かつ、新しく入ってきた目下の世話人につらくあたる。


ぼくからすると、世話人とは実務部隊であるべきなので、動きのおそくなった60代なんぞはさっさと引退させてどんどん40代に回していったほうがいいと思っている。でもなかなか、「世話人がお偉方で占められている研究会」はなくならない。今回声をかけられた会もそういう会だ。

そういう会でぼくがやることはまず、低姿勢の極みで近づいていき、どうせ滞っているであろうさまざまな実務仕事を代わりにひとつひとつこなし、上と下との信頼を得るために数年以上だまって尽力することである。

そして、研究会にいる時間が長くなり、発言権が大きくなったところで、古い体制をぶちこわして世話人の若返りを図り、その際に自分も引退する。

実際にそうやって会の若返りをはかったことが2度ほどある。いずれも若くなったあとの研究会はおもしろみが増した。ただし、老獪な人間たちがいなくなることで、対外的な折衝における切り札がひとつ減ってしまうので、研究会の存続においては「表で華々しくやれる部分をなるべく若い人にまかせ、面倒な裏方の仕事の一部はぼくが自分で引き受ける」くらいのバランスがよいだろうと思っている。



とにかく医師の世界には裏方精神が足りない。業績がなければ大学で偉くなれず、大学じゃないところに所属していてもなんだかんだで対外的な実績がものをいう感覚があるためか、誰かが活躍することを後ろで手伝うタイプの人が基本的に不足している。

世話人とは本来そういう「裏」を担当すべき人間のはずだ。医療業界以外に置き換えて考えてみればすぐわかるはずなのだけれど……医師ばかりはなぜか、世話人のことを「アベンジャーズ」っぽく受け止めているふしがある。なんなんだろうな。主人公になりたいのかな。