ぜんぜん別の場所から依頼された原稿のしめきりが、ぴったり同じ2024年3月29日であった。まだ半年あるから楽勝だと言いたいところだけれど、まるかぶりしたのでさすがにどうしたものかと頭を悩ませている。
でも、まあ、悩んでいることはいるんだけど、若いころとは悩みの深さが違うからそんなに大変でもないんだよな、とも思う。
言葉にすると「どうしたもんかなあ」の9文字だ。
脳内に浮かぶフレーズ自体は、若いころも今もあまり変わらない。
ただし、若い頃の「どうしたもんかなあ」は、「けもの道すらないジャングルの中でどちらに一歩目を踏み出すか」というニュアンスだったのに対し、今の「どうしたもんかなあ」は「標高も登山道もわかっている山を目の前に、あらゆる登山グッズも身につけた状態で、そろそろ歩き始めておけばまず間違いなく山は登れるけれど、足腰に疲れが出ていてあまり動き出したくない」という意味になっている。
冷静にくらべてみると今はずいぶんと楽だ。
若い頃の不全感のほうがきつかった。道が見えないし、見えても力が足りない、アイテムが足りない、情報が足りない。
かつてのことを思うと、今のぼくが「悩んでいる」と口にするのは、なんかちょっと軽いなあと感じる。
しかしなんというか、軽重でいうと軽い悩みが、遠近でいうとより今のほうが自分の心に近いところに悩みのコアがある。
むかしは、自分の力では持ち上げられないような重さの課題を、遠巻きにして眺め、薄目でじとっと見据えたりしていた。あんなのどうやっても動かせないじゃないか。こんなの何から手をつけたらいいんだ。解法が全然わかんないよ。
一方で今は、ねとねとと自分の体にへばりつくような課題を、あーめんどくさい、うーんおっくうだ、ちくしょういろいろやることがあるなあと、片っ端からブツブツさばいていくような感じだ。
昔のほうが遠かった。今のほうが近い、というか、うっとうしい。
どっちのほうが大変だと価値に順位を付ける必要もないのだ。若いころのぼくも今のぼくも、どちらもぼくなのだからケンカしてもしょうがない。ただ、悩みやストレスには軽重だけではなくて距離の概念があるということは、なんとなく、気にしておいてもいいかもしれないなと思った。他人が何かを悩んでいるときにも、そういう目線で、重さだけでなく遠さについても見ておくとよいのかもなと思ったのだった。