2023年9月7日木曜日

病理の話(814) やばさのふんいき

ごく少量……それこそ小指の爪の切りカスよりもさらに小さいくらいの、そうだなあ、小指のささくれをプチっと摘まんでとったときの切れ端のさらに半分くらいの検体を、人体から採取してきて、さあここにがん細胞がありますか? ありませんか? っていうのを顕微鏡で決めてくれって言われるのが病理診断なんですけどね。


それでも顕微鏡ってのはすごいもので、200倍とか400倍とか600倍まで拡大するとそこそこ見えてくるものなんですよ。さっきのささくれでいうと、ささくれをまるごと標本作製したらたぶんそこにも数千個以上の細胞が存在するんですよね。ただし数千個全部みられるわけではなくて、検体を薄く切って見るから、断面で数百個の細胞だけを観察することになる。


で、そこにもしがん細胞がいたとして(※ささくれの皮の中にいることはないです。大きさのたとえばなしです)、がん細胞がどれくらい存在したら病理医がそれに気づけるかというと、究極的には細胞1個あればもう気づきます。少なくとも違和感は抱く。


それくらい、がん細胞の「際だったおかしさ」というのは目につくわけだ。


しかしその1個の「おかしさ」だけで確定診断を出すかというと話は別で、本当にいくら見回しても1個しかおかしな細胞がない場合には、その1個だけでがんと診断することはまずない。「気になる所見ですので再検(もういちど検査)してください」みたいな報告を書くことになる。


英語でもworrisome feature(気になる所見)という言葉はある。病理レポートの中にとつぜん「気になる」みたいな主観バリバリの単語が入ってくると主治医は面食らうけど、むしろ我々は、面食らってほしい、ちょっとそこで立ち止まってほしい、いつものルーティンワークよりももう少し慎重に話をすすめたほうがいいですよ、って注意喚起をしているわけなんです。


この注意喚起の仕方一つで、主治医にも「やばさのふんいき」みたいなのが伝わることがある。だから文章の調整をすべきだとぼくは考えている。


<例>

診断:○○疑い

所見:異型細胞があり、○○を疑います。確定は困難です。


こんな病理レポートを書いている病理医は、まあ最低限の仕事はしていることになるんだけど、はっきり言っていつAIに置換されても仕方ないと思う。それって人間が人間相手にやる仕事じゃないから。


<例の書き直し>

診断:○○疑い(本文も読んでください)

所見:検体のほとんどは正常ですが、一部に非常に気になる所見があり「○○疑い」と診断します。詳細は下記をご覧ください。再検をご検討ください。

【所見の詳細】

正常の□□に混じて、ごく一部ながらN/C比の増大した細胞が5,6個程度認められます。Deeper serial section施行しても同部には極小の病変が存在しており、○○を疑います。ただしあまりに病変量が少なく確定診断が躊躇されます。再検による確定が望ましい病変です。



これくらいゴリゴリ書く。ただし、いつも長文を書いている病理医がこれをやるのではだめ。毎回長い文章を書いていると主治医もそれに慣れてしまって、いつも長く書いてんなーヒマなのかなーこいつ、くらいにしか考えなくなる。だから、普段はこんな感じにシンプルにまとめる。


診断:○○がん

所見:○○がんです。


ホントにこれくらいでいい。がんだって決まったらあとは流れが生まれて診療が進むんだからここでゴタゴタぬかさなくていい。いざというときの文章に説得力を出すために普段のレポートの文章量を調整する、くらいのことをやらない病理医はサボってます。いやまあでも施設ごとにいろいろポリシーもあるんだけどね。若い病理医の教育のために、あえてすべての所見をフルに記載するというパターンもあるし。


書こうと思えば書ける人が短く書くからインパクトがある。推しの魅力を24時間語れる人がここぞというときには一言「いい……」だけ言うから伝わるのだ。病理診断もそれに似た部分がある。いざというときの、やばさのふんいきを伝えるため、日頃からの仕込みを怠らない。それくらいする。それくらいしろ。