医師免許をもち、人体に介入する許可を得て、病気を見極めて「診断」をする資格と責任を手に入れているのだから、自分ひとりで診断をやりきっても誰にも怒られない。法的にも、かならずふたり以上でなんとかしなさいみたいなことは言われていない。
しかし、とにかく、誰かといっしょに診断を出す。
若い病理医とコンビを組む場合には、経験が足りなくて何かを見逃すとか、わかりにくい表現を報告書に残してしまうなどのトラブルを防ぐ、「指導」の意味合いがある。また、まんがいち患者が訴訟を起こした際に、被告としての責任を分散させるという目的も確実にある。
しかしそういう理由は現場にいるとけっこう後景に下がる。
そんなことよりもなによりも、とにかく、「人は間違いをおかす」ということが骨の髄までしみていて、ひとりでどうにかしようなんて気が起こらない。
「肝生検」が「管制圏」とか「菅政権」と記載されたまま病理診断報告書が紹介元の病院にまで送られてしまえば、関係者全員が顔を真っ赤になって恥じる。
「右肺切除検体」と書くはずのところをうっかり間違って「左肺切除検体」と書いたら現場は蜂の巣をつつくようなおおさわぎだ。「えっ! まちがって反対の肺を切っちゃったんですか!!?!?」「いや……その……(小さい声で)書き間違えただけです……」「は? 公的な文書でそんな大事なとこを間違っちゃうの?」「あの……すみません……」
いや、ほんと、間違うんですよ。校正をご職業になさっている方のエッセイなどを読むと身にしみる。単なる誤字脱字だけじゃない。とってきた臓器の部位が違うとか、必要な箇条書き項目の3行がまるまる抜けているとか(一部が未記載なら気づけるのだが、行ごとふっとぶとかえってわからなくなる)、そういうミスは大事な文書だろうが公的な文書だろうが一定の頻度で落とし穴のようにひそんでいる。
これらは「診断を間違える」のとはぜんぜん違う話だ。しかし、診断を間違えるのと同じかそれ以上に痛いミスになる。
頭の中では正しい診断にたどりついていたのに、レポートの記載で誤解を与えてしまった、あるいは記載ミスで間違えて伝わってしまったというとき、若い病理医ほど、「あーしまった、考え方は合っていたのになー」的な反省(+わずかなプライド)を口にする。でも、そんなのは患者にとっても主治医にとっても関係がない。出てきたレポートを見て判断するしかない人たちにとって、病理医が真実にたどり着いていたかどうかなんてどうでもいい。自分のもとに届けられた文書がすべてである。極論すれば、真に病理医が見たかどうかすら関係ない。診断を書いたのがじつは臨床検査技師だったりAIだったりしても、多くの主治医や患者はそれに気づけない。それが病理診断というものだ。
だからこそ、病理医は「ひとりで診断を出し切る」ことに躊躇を覚える。どれだけ経験を積んで、人より診断が早く正確になっても、てにをはの凡ミスを防ぐために万全の注意を払わないと、枕を高くして眠れない。医師1年目の病理医のタマゴにクソ長い診断文を読んでもらうこともある。細かく専門的な技術のよしあしはわからないかもしれないが、
「先生、ここ、『ありません』が『有馬園』になってますよ」
みたいな部分はむしろ若い医師のほうがめざとく見つけてくる。
じゃあ、病理医以外の医者も診断したり処方したりするときに他人のチェック受けたほうがいいんじゃない? と考えたくなるだろう。
実際、現代の医師は、手術などの患者に大きな負担をかける治療方針を決定するにあたってはカンファレンスを開いてチームで判断するし、「処方」については薬剤師がダブルチェックをして疑義紹介というかたちで医師に再考をうながす。病理医以外もがんばって複数の目を取り入れてはいる。
ただ、病理医はほかの医者と比べてもいっそう「他人の目」を通したほうがいい。
病理医の仕事は基本的に孤独であり、自分と顕微鏡、もしくは自分と電子カルテとの間で多くの仕事が完結する。ほかの臨床医のように、患者との二人三脚、患者のリアクションを見ながら診療をすすめていく感覚、看護師をはじめとする多くの医療スタッフとの連携が少ないから、どうしてもひとりよがりになりがちだ。
マジで他人の目はだいじ。患者を守るためにも、仲間を守るためにも、自分を守るためにも。