2023年9月27日水曜日

病みと光

大分市で書店イベントをやった。豆塚エリさんとご一緒した。会場からの質問コーナーで、最前列に座っていた方から「違和感の表明」があり、ぐっと来た。


その方の違和感とはなにか。


「豆塚さんが1年前に出された書籍『しにたい気持ちが消えるまで』を途中まで読み、いかにもつらく苦しい記憶が書かれている。だから今日もそういうイベントなのだと思っていたが、今日は豆塚さんもヤンデルも語り口が割と明るく、ニコニコしていて、そこが解せない」
というのである。


その男性とはトークイベントの最中何度も目があった。会場がわっと盛り上がっているときも深く沈み込んだような目をしていて、ニコリともしないでいる。なんとなく、うっすらと、「自らの辛さと書籍にある辛さとを寄り添わせながら、痛みや苦しみの記憶をゆっくりと殺している最中」なのではないかと感じていた。

なので、会場からの質問でその方が真っ先に手をあげたときに、内心、(来た!)と思った。

「お二人が楽しそうにお話しされていることに違和感がある」。だろうな、と思ったぼくは、トークイベントの間にぼんやりと用意していた「矢」を放つことにした。


しかし、矢を弓につがえたところで、少し考えて、いったん弦を緩め、まずはほかの聴衆の方々にもライトにわかっていただきたいこととして、以下のようなことを言った。


「ありがとうございます。まず、『しにたい気持ちが消えるまで』については、これ、読み終わった方の多くが似たようなことをおっしゃるんですけれども、内容は非常に重く真剣な本ですが、なぜか読み終わると読後感としては明るさが待っているんですね(ここで会場の幾人かがうなずかれる)。全編にわたって鬱鬱としずみこむだけの本ではない。ご質問をくださった方は、現在読み途中、とのことですが、できれば最後までゆっくりと読み通してみてください。そうしてから、今日の我々のテンションを思い出してみていただければと思います。最後まで読み終えると、なぜ我々が本日基本的にポジティブな精神状態でお話ししているのか、なんとなくわかるのではないかと思います。」


会場の多くはそれで納得をしたように見えた。その空気が凪ぐのを待って、あらためて矢をつがえる。

最初の答えはわかりやすい。「じつは明るさを内包した本なのだ」と述べることは売り上げにもつながるから書店イベントとしても適切だろう。

しかし、ぼくが本当に言いたかったのは、次に控えめに語ったほうのことだった。



「我々が日々こうしてポジティブに暮らしていることと、心の中につらさを抱えたままでいることとは矛盾しないと思うんですよね。」



ぼくは生きづらさを抱えたまま、まさに名の通り、病理医ヤンデルとして人前でニコニコと話をしている。そのことを、少し口調を変えて、軽く付け加えた。

微妙に話がずれたことに気づいた人は何人いただろうか。

質問者は軽く目を見開いた。



「ヤンデレ」「ヤンデル」といった語感を利用したアカウント名は、「医者なのに病んでいるの?」「ネットにどっぷりとはまっているから病んでるってこと?」と、見る人の心に波風を立てるための装置であり、「ヤンデルって名乗ってるのにわりと真面目なことを言うんだね」も、「あれだけの連ツイをするなんてアカウント名通り病んでるなあ」も、およそ思惑通りのリアクションである。

しかし、12年前、実際にその名を名乗り言霊を引き受けるにあたって、今だから言えることだが、ぼくは本当に病んではいないのか、あるいはそのまま真っ直ぐ病んでいるのかという疑問を、自らに対してだいぶ長いこと問いかけた。世のあちこちにいる真に病んだ人をあざわらうような展開にはならないか。シャレで病んでいるフリをすることの失礼さはいかばかりか。ミイラ取りがミイラになる感覚で自分の精神が実際に壊れていくことはないか。ぼくは本当に病んでいるということはないのか。

結論として、ぼくは本当にヤンデルのかもな、というまとめのもと、ぼくは病理医ヤンデルをはじめ、いつしかそれを内面化した。



「病み」は、どこかに固定された状態を指すわけではなく、ゆらぎ、振動する概念である。座標が指定できるようなものでもなく、ある体積のどこかに確率として存在する電子雲のようなものだ。笑わない人の目をみながらぼくはずっと考えていた。「自殺未遂をしたのに、病んでいるのに、なぜ今そうして笑っていられるのか」という質問が出る根底には、みずからの居る場所が淵の底、部屋の片隅、暗闇の一点にしかないという思考があるのではないか。しかし本当はそうではないのだ。ぼくと同じように、人は病んでいながら笑っていいし、病みながら同時にすこやかであることもあり得る。逆に笑っていながら病みを抱えているのも自然なことなのだ。ぼくはそういうことを言いたかった。12年以上ずっと言いたかった。それがぼくの矢であった。質問者はいつまでも考えていた。