今年の春より、複数の大学医局からバイトをお招きするようになり、みんなとても優秀なので、うちの病理診断科は活気づいている。
バイトの方がくる前日に、「診てもらう症例」を選ぶ。
ここまで診てくれたらとっても助かるなあ、こんな難しい診断を代わりにしてもらってもいいのかなあ、ウフフ。
病理診断の振り分け。
ただ、ウフフばかりでもない。まだ慣れない部分もある。
「これ診てもらおうかなー、こっちにしようかな」とプレパラートを選んでいるうちに、(ここまで見たんだったら、あとはもう自分で診断書いたほうが早い)と感じることがある。気づいた時にはもう診断を書いてしまっている。すると翌日バイトが診てくれるはずの症例がひとつ減る。
他人にまかせることは難しい。
バイトはそのぶん楽になるから、喜ぶだろうか。
でも、熱心な若い病理医たちだ。大学とはひと味違う市中病院の症例を経験できないことをうらむかもしれない。……そこまでではないか。
では、バイトの方にあわせて、症例を積み残しておけばいいじゃないかというと……バイトにやらせるためだけに仕事を滞らせるというのは、ぼくにはちょっと抵抗がある。患者も主治医も、報告書を待っているのだから。
もっとも、たいていの病理診断は、システム的にはそこまで急がなくてもいい。退院までの2週間のあいだに病理診断をしてくれればいい、とか、主治医が患者に説明するのが木曜日だから水曜日までにレポートをあげてくれ、みたいに、時間の余裕がある。
患者が外来や病棟で待っているのとは違う、病理診断だけの時間の流れ方。そこにバイトというシステムをうまく沿わせる。
なんとなくそういう調整をいっぱいやるようになった。すると、副産物として、いろいろ思うところも出てくる。
たとえば、人間ごとに考え方がずいぶん違うんだよなということを、毎日意識する。20代のころも、30代のころも、考えてはいたつもりだったけれど、あのころのぼくは「当然違うよね」と口で言ってはいたものの、その実、違いの多彩さがまだよくわかっていなかった。
今はもう少し大人だ。今のぼくも所詮は何も見えていないのだということが、わかる。わからないことがわかる。「お互い違うよね~」などと、わかったふりでしゃべることは、今のぼくにはもうできない。
ぼくらは互いを見渡すことができない。
心の底までわかりあうなんてぜんぜん無理だ。
それでも人びとは、蛇行と屈折をしまくった胸の穴の奥底にある心のふちから、何かを取り出して、屈折と蛇行の末に胸の外に何かのカケラを持ち出し、広場に置いて、誰かに見せびらかしたり、誰かに手に取ってもらったりして、最低限度の共有をする。
カケラは心そのものとは形が違う。
温度もおそらく変わっている。多少冷えていたりする。
手触りもそれによって変わる。
しかしキメの細かさ、凹凸のぐあいなどは、心にあったときと、あまり変わらない。
全く別モノというわけでもない。そのカケラはやはり、間違いなく、奥底の心で採取されたものなのだ。
だからそれなりに心を反映している。
パーフェクトにイコールではないけれど。
一部分で全体を推しはかることも、多少はできる。全部は無理だが。
そうやってお互いに、部分から全体を推しはかり、無理と悟り、でもまあほかにすることもないから、全体をぼんやりと、とらまえようとする。
なんだかこれって病理診断と似ているかもなあ、なんてことを思った。誰かバイトの人に解析してもらいたい。そのためにはぼくが、広場にあるカケラを、先にこっそり眺めておいて、振り分ける必要があるのかもしれない。