2023年6月30日金曜日

Twitterのいいところ

むかしむかし、大学生だったころ、「超短編小説会」というサイトにときおり5000字未満の小説を投稿していた。当時のログはすべて消えているし、書いたものもどこにも保存していないし、ウェブアーカイブスを使っても辿れなくなっていて、もう読むことはできない。たしか、北海道が本州に反旗を翻して白兵戦ならぬ白米戦を挑む話とか、夕陽の差し込む8畳一間のアパートに暮らしていると夜に帰宅したときに部屋の中にぬくもりが残っていて幸せな気分になる……と思っていたらじつは自分が出勤している間に不審者が部屋に上がり込んで勝手にコンロを使ってカップラーメンを食べていたその残り香だったとか、ある高齢の小説家が最近ぜんぜん書けなくなって、ついに何か具合でも悪くなったのかと思って編集者が家をたずねていったら、再婚した妻が「前の奥さんほど上手に書けないの」と言うとか、そういう話をいくつか投稿していた。基本的にぼくはお題を出されてそれから連想して書くようなものばかり投稿していて、自分の中から何かが湧き上がってきて書くようなことはほとんどしていなかったはずである。


その投稿サイトには常連がいて、お互いにお互いの作品にコメントを付けたり、お題企画のときに常連が一斉に投稿して「あの人らしいな」と笑い合ったりということをオンラインでやっていた。にんじんというペンネームの人や北町公園というペンネームの人が書くものがおもしろかったし、海なんとかさん、なかまなんとかさん、ラジなんとかさんなど今でも名前を覚えている人がいる。そのほとんどとは直接顔を合わせなかったが一人だけ横浜でご飯を食べたことがある。


たしかその相手は高校生のときからそのサイトに出入りしていて、大学の2、3年くらいで参加していたぼくとはたぶん一番年が近かった。その方が大学生になってから横浜のバーかどっかでお酒を飲んだ。とくにいやらしいことはなかったのだが、なにかのラインをあと半歩くらいで踏み越えそうなあやしい雰囲気が時間軸のそこかしこに数秒ほどまばらに漂っていた記憶がある。これもだいぶ改編された記憶な気もする。


先日、TwitterのDMで、まさにその方から「結婚して今お腹に子どもがいるんです」という報告をうけた。連絡自体がひさしぶりだったので驚いたが、そうか、お互いに今もうどこにいるかわからないけれど忘れはしない、みたいな関係が誰の中にもたくさんあるもので、ふつうこういう連絡ってたぶん取りづらくなると思うのだけれど、ぼくはたまたまこのTwitterアカウントのせいで、誰かがぼくを思い出したときに検索しやすいふしぎな道しるべを一つ有しているのだな、ということを今さら思った。


今さらだ。あまりこれまで考えていなかった。Twitterを大事な人との連絡に使おうと思ってやっていない。しかし、今回、できた。


たとえば同級生が芸能人になったら。プロスポーツ選手になったら。政治家になったら。小説家になったら。昔知り合いだったからと言って、ホイホイ連絡をとれるか? ぼくはできない。目立っているから連絡しやすいというわけではないのだ。かえって疎遠になってしまう。しかし「Twitterでちょっと目立つ」というのは、その意味では「ちょうどいい」のかもしれない。何年もの時を超えて突然連絡が来ても、Twitterなら大した違和感はない。電話やメールだとハラハラするところもあるが所詮はDMだ。メッセンジャーでもLINEでもだめで、これはTwitterだからよかったのだと思う。


そうか、ぼくは、Twitterのせいで、過去をつなぎとめている部分があったのだ。ところでこないだ、小学校のときの同級生とばったり会った……らしいのだが……むこうはぼくのことを覚えていたけれどぼくはむこうを全く覚えていなくて、名前も顔も何も思い出せなくて、俺ダヨ俺と言われたけれどあるいはあれは詐欺だったのではないかとすら思うのだけれど、とにかく、過去をぶっちぎるような暮らしに余念が無いぼくは、まさかのTwitterが過去の一部を保存するのに役に立っていたということに、ふしぎな巡り合わせを感じる。有象無象からクソリプを集める装置であるところのTwitterのおかげで20年前の旧交が温まるなんてことが起こるとは思っていなかった。お幸せそうでなによりです。

2023年6月29日木曜日

病理の話(792) 毎日1コラム

病理医の「仕事相手」は、患者から採取されてきた臓器、組織のひとカケラ、そして細胞である。ぼくらは細胞と向き合う。


……と、このように書くと、いかにもストイックで純朴な(?)お仕事だなっていう印象を与えることになるだろう。事実としてはそのとおりなのだけれど、言い方を変えることもできる。たとえばこのように。


病理医の「仕事相手」は、消化管内科医、肝臓内科医、胆膵内科医、呼吸器内科医、血液内科医、外科医、耳鼻咽喉科医、婦人科医、皮膚科医などなどなど……。ぼくらは検体を出すさまざまな医師と向き合う。


……ほら、このように書けば、なんとも八方美人な(?)お仕事だなって印象に変えることができる。物は言い様だ。たくさんの相手と日替わりでお話しをするコミュつよ職業人ですぅ、みたいな顔で通すことが可能である。


しかし、冷静になってほしい、結局我々のやっていることは「細胞という窓から人体をのぞき見する」というシンプルな手法である。つまりは「毎回違う人に同じことを語る部門」ということなのだ。


そこで、突然だが、病理医の皆さんにおすすめしたいのが「1日1コラム」である。

コラム……というかまあブログの記事とかでいいんだけど……を毎日日替わりで書いてみてほしい。

たぶん、まず、「毎日違う臓器の話を書けばいいんじゃね?」という発想になる。

「これ楽勝じゃん。食道、胃、十二指腸、膵臓、胆管、胆嚢、肝臓……いくらでも書くことあるじゃん」とたかをくくる。

そして、すぐに気づく。

「でも結局毎日同じこと書いてる!」ということに。

今日は消化器内科、明日は呼吸器内科、あさっては外科医向けに書くぞ! いつまでも書けるぜ! と笑っていられるのも数日のことだ。けっこう早い段階で、「この言い回しは昨日も使ったな」とか、「ここ3日間結局同じこと書いてるな」みたいなことに思い至る。


そして、その、気づいたところから、病理診断医としての「職業専門性」が鍛えられ始める。


顕微鏡を見て、細胞を見て、核や細胞膜や細胞質を見て、免疫染色を見て……という、どこに対してもやっている「同じこと」の中に潜む、臓器ごとにアレンジしたほうがいい部分、主治医ごとに使い分けたほうがいい言葉。非常に細かな「差異」をきちんと言語化するということが、おそらく我々病理医の業務の、かなり中心のあたりに存在する。

差異をクライアント(異なる主治医や異なる臓器)ごとにきちんと抽出して比較すると、いつしか、自分が初学の段階から勘違いしていた「あること」に気づく。

あることとは。

「病理診断のコア技術がどこかにあるという勘違い」。

細胞を見るという共通点があるのだから、病理診断にはある種の統一理論みたいなものがあるのだろう、それは経験を重ねるにつれてそのうち身につくのだろう、それを早くに手に入れれば一生食っていける、みたいな感覚を、おそらくぼくらは知らず知らずのうちに、医学生くらいのときから、漠然とイメージしていた。ぼくはそうだ。あなたもそうではないか。

しかし、そういうコアというものはない。

や、ま、あるにはあるのだが、コアだけだとプロの病理医としては食っていけない。

「顕微鏡を見る技術」のような病理医としての基本スキルは、「無料配付アバター」みたいなものだ。それだけだとはっきりいってみすぼらしい。これで医師免許を役に立てていると言えるのか? みたいな気分になる。

そのアバターに、いかに適材適所の服を着せていくかだ。

人はおそらく、裸体のアバターを見て「ああプロの病理医だ」とは思わない(たぶん変質者だと思う)。

TPOにあわせた特異的な技術を装備した状態ではじめて、「病理医はいつもぼくらのような専門家と伴走してくれるなあ」と安心感を持つ。



毎日1コラムを書いてみるといい。1週間くらい続けてみて、それぞれ違う対象に向けて書かれた記事を読み比べてみるといい。それが「無料アバターの髪型だけ変えたもの」になっていないかどうかをチェックしてみてほしい。そこで物足りないと思ったら、きっとそこに、病理医としてのスキルの不足がある。経験の足りなさがある。理論だけあってもだめだ。何かを着なければいけない。ぼくはそうやって、今日まで792回、ちきしょうまだ裸だな、みたいなことを考えさせられてきた。これからも続けていくつもりだしこれはやっていてよかったなと正直納得している。

2023年6月28日水曜日

痛みについたみ

先日ポッドキャスト「いんよう!」の収録をしていて気づいたのだが、ぼくの脳の使い方は20代のころとだいぶ変わっている。

かつては音楽を聴きながら本が読めた。しかし今はそれができない。インストでも厳しい。

なぜだろうと考えると、最近のぼくは読んだ文章を頭の中で音にしているからだ。著者の顔と声を知っている場合はもちろんだが、知らない人であってもなんとなく予想で「声優」をあてる。文章を理解するのに音に頼っているから、そこに別の音があると邪魔なのだ。したがって音楽を聴きながら本を読むのが難しくなった。

認知の仕組みの一部に「音」を使っている。より細かくいうと、「音を聴いたときに発火する神経回路を二次利用して思考を回している」みたいな感じだ。伝わるだろうか。ひとつのインフラをいくつもの目的に使っているイメージ。集落の郵便局員が郵便物だけじゃなくて病院からのお薬とか村役場のビラもいっしょに配ってあげるような。

……脳をたとえるのに集落というのは小さすぎるか……。ウーバーでよかったか。


たぶん20代のときは、音よりもむしろ映像を喚起しながら本を読んでいた。映像、あるいは文字をそのまま脳に呼び出していた。するとそこにBGM的にインストが鳴っていてもちっとも認知に支障がない。高橋しんのマンガ「いいひと。」を読んでいたときにたまたまスピッツの「ロビンソン」がかかっていたので、今でもロビンソンを読むと高橋しんの作画が思い浮かぶのだけれど、こういう、脈絡のない音と映像のつながり、みたいなものが近頃は生成されないからやっぱりあれはぼくにとっては10代、20代のころの特異的な認知方法だったのだろう。今だと「いいひと。」と「ロビンソン」を同時に摂取することはむりである。内容に没入したら外から音は聞こえてこないし、歌を聴いていたら目がコマを追っていても話が入ってこない。

いつからこう変わったのだろう。

音を認知に使う仕組みが20代のころにまったく機能していなかったかというと、そんなことはないと思う。しかしそのウェイトは確実に今のほうが大きい。どこかでじわっと変化した。

脳ってずっと同じように使うわけではないのだろうな。サッカーをはじめたばかりの子どもがリフティングするときにはだいたい太ももを使うけれど、サッカー歴20年の中年がリフティングするときにはもっぱら足の甲を使う(それも交互に使う)、これらはサッカーに最適化されるにつれて自然とそのように変わっていく、もしくはそのような指導を受けて矯正される。では今のぼくのほうが「思考を回した経験が多い分、よりよい思考をしている」のかというと……。どうだろう。そういうものでもない気がする。



映像を利用しての認知・思考と、音を利用しての認知・思考では、さまざまな違いがあると思うのだが、ぼくの考える最も大きな違いは、映像は同時に複数思い浮かべることができるのだけれど音はそれができないということだ。ケーズデンキのテレビ売り場に並ぶたくさんのテレビで同時に異なる番組をやっている、みたいな思考が昔は可能だったが、音楽でそれをやると単なる不協和音であり、曲にしても声にしても基本的には一度にひとつの流れ・カタマリ・ユニットしか追うことはできない。だから昔よりも今のほうが、「気は散らなくなった」が、「話しかけられても気づかずに何かをずっと考えている」みたいなことになりがちなのである。

あと……これを書いていて、急に気づいたことなのだけれど、静かな場所で文章を書いているとき、ぼくの頭の中ではその文章が何度も何度もくり返し音に変換されていて、そして、ぼくはこうして両手でキーボードを打っているにもかかわらず、ちょっと指が暇になると頭の中で音読をしながら指を顔の近くに持っていっている。これはなんだろう。クセか? 今は人差し指の中腹あたりを強めに噛んでいた。完全に無意識だった。なぜこんなことをするのか。これをやめると認知にどのような影響があるのか。目の前にある風景が暗くなって音の世界に引きずりこまれそうになるのを防ぐために、痛み刺激でむりやり覚醒させているような感覚がある。どうも思考の流れというのは人ごとにも違うし、時期ごとにも違うし、シチュエーションごとにも違うようで、映像系とか音楽系とかきれいにわかれるものでもなさそうだが、そうか、今のぼくは、触感というか痛覚も使ってものを考えているのか。

2023年6月27日火曜日

病理の話(791) 自称エースの陥りがちな穴

どうも! おはようございます! 自称病理診断科のエースです! このたびわたしは自尊心を砕かれる「誤診未遂」を経験したのでこちらに書かせて頂きます!


医師21年目のぼくはたいていの難しい病理診断をなんとかこなせるだけの経験と知識を兼ね備えている。しかし今回、「たかだか20年選手だとやりがちな失敗」を見事になぞった。最終的には頼りになる複数の病理医の力を借り、患者や主治医に間違った診断を出す前にまちがいに気づくことができたのだが、ぶっちゃけ、あといくつか変な穴をくぐったらぼくは見事に誤診していたと思う。


どういう失敗をしたのかかんたんに説明しよう。まあ具体例は書けないので、ぼんやりと、ではあるが。



ぼくはある病気の細胞を見ていた。細胞の配列や性状などから、だいたい10種類くらいの病気を思い浮かべた。そして最終的に、次の(A)と(B)とで迷った。


(A)かなり珍しい病気Aが、やや珍しい細胞配列で出現している

(B)そこまで珍しくない病気Bが、やや珍しい細胞配列で出現している


「……?」となった人もいるだろう。もうちょっと説明しよう。

単に、病気Aと病気Bで悩んだだけではない。

この病気は、「病気AとしてもBとしても珍しいパターン」であった。

病気の細胞というのは、いつもいつも「型どおり」の像を示すわけではない。ときおり「非典型的なパターン」というのをとりうる。

ただでさえ珍しい病気Aや、そこまで珍しくはないけれどめちゃくちゃ遭遇するわけでもない病気Bは、そもそも、典型的な細胞配列であっても診断が難しい。でも今回のはおそらく、非典型的なパターンだ。となると、余計に診断が困難になる。


昆虫に例えよう(何故?)。

カブトムシは大きな角と小さな角が縦に並んでいて、クワガタは同じくらいのサイズの角がハサミのように横に並んでいる。

これがいわゆる「典型」だ。

ところが、ぼくの見た虫は、大きな角と小さな角が横に並んでいた。

カブトとしてもクワガタとしてもおかしい。いずれにしても非典型的である。たぶんどちらかの「亜種」なのだろう。

さあどっち? という話だ。


ぼくのような「20年選手」は、ここで無意識に、やらかした。


(A)かなり珍しい病気Aが、やや珍しい細胞配列で出現している

(B)そこまで珍しくない病気Bが、やや珍しい細胞配列で出現している


このどちらかと考えて、結果的に(A)の、「かなり珍しいほう」ではないかと決めつけてしまった。

ヘラクレスオオツノカブトの珍しいやつか、ミヤマクワガタの珍しいやつ、どっちか、という問題で、「ここはまず、ヘラクレスの可能性から考えるべきだよな!」……となってしまった。


「より珍しい病気Aをビシッと診断できたほうがかっこいいし、より珍しい病気Aを見逃すとプロとして悲しい」


言語化するとこうなる。……うわあ。これは恥ずかしい。けれどぼくは実際にそういう感情で診断を間違えかけたのだ。


「病気Aとしても病気Bとしても合わないけれど、免疫染色のこの結果この結果は病気Aっぽいし、免疫染色のこちらの結果は病気Bを否定するなあ。」

一見、理路整然と診断の地固めをしているように見える。でも、ほかの病理医を話をしながら冷静に顕微鏡を見直すと、じつは、下線を引いた「免疫染色の判定」の部分がすごく甘かった。

この結果が出てくれれば、病気Aと診断できる……」

のように、無意識に病気Aと診断したかったから、染色の結果(陽性とか陰性とか)を、自分の都合のよいほうに解釈していた。



免疫染色って難しいのだ。というか、検査の類いはすべて難しい。デジタルで「陽性」「陰性」と判定される類いのものではない。判定の根拠は込み入っているし、「グレーゾーン」も多々ある。そういうのをわかって、複合的に診断に近づいていくのが医師の仕事なのだが、ぼくは今回、「ヘラクレスを見逃す自分はいやだなあ」という思いに囚われていた。



経験豊富な病理医にコンサルトしたところ、「あーこれは珍しいミヤマクワガタだね」と言われたところで、自分でも気づかなかった「呪縛」みたいなものがバンとはじけて、次の瞬間から細胞の見え方が変わるのである。「確かに……これ……ミヤマの証拠けっこうあるやん……」。



どうも! 自称エースです! ぼくがエースでいられる理由ですが! 「自分はこうやって失敗しがちだ」ということを多少なりとも自覚しており! 若いときよりも少し慎重になったから! やべぇ誤診までたどり着く前にブレーキをかけられるので! エース名乗らせていただいておりやす! 辛い

2023年6月26日月曜日

自己非同一性の証明

大学時代の思い出話をぜんぜんしないでいたらほとんど忘れてしまった。部活の同期や先輩・後輩などともう少しやりとりをしておくべきだった。こんなにエグいレベルで忘れるなんて思っていなかった。かつて作っていたホームページはうっかり消しちゃってそれっきりだし、ブログの類いも残っていない。写真もない。


こんなに記憶をなくすると、大学時代のぼくと今のぼくとは不連続なのではないかという懸念さえ出てくる。自己同一性とはこんなにもあいまいなものなのか。


今この瞬間にも忘れ続けている。クレジットカードやポイントカードの「ポイント失効」みたいなかんじだ。毎月失われていく。


とりあえずぎりぎり思い出せるものだけでも思い出しておこうか。





大学1年生のとき、入学式の前日に新入生オリエンテーションというのがあり、1年生はたしか……大学の北のほうにある当時の教養棟に向かうことになっていた。北18条駅を降りて少し歩いて、教養棟が見えてくると前後左右が先輩だらけ……だったかなあ。違った気もする。この日はあるいは医学部の校舎に向かったのではなかったか。だとすると北18条ではなく北12条駅から北13条門を通って、というルートになったはずだ。ああ、もうこの第一歩目からぜんぶ忘れている。


そこで何が起こったか。「文字でしか思い出せない」のだが(つまり風景は完全に忘れているのだが)、高校の剣道部の先輩がいたはずだ。それも複数。先輩に囲まれたぼくは入学式の前日に「医学部剣道部」に入れられた。ほかの選択肢はなかった。さらに、今から書く記憶は後日の捏造かも知れないけれど、知らない大学で知っている人たちに声をかけられて、無理矢理部活に入らされるという体験を、多少なりともぼくはうれしく感じたのではなかったか。

そこにいた先輩は北大生ではあったが、みんな医学部生ではなかった。となれば医学部の入学前オリエンテーションにいるのは不自然だし、実際当時のぼくはかなり驚いたと思うのだけれど、彼らは医学部生でなくても「医学部剣道部」の部員だったのである。

なぜ医学部生でもない先輩たちがみな「医学部剣道部」に入っていたのか。

当時の北海道大学には、5限が終わったタイミングで稽古がはじまる「全学剣道部」のほかに、6限までみっちり講義がある医学部生向け&6年生まで引退せずに部活をやろうと思えばできる医学生向け&医学部オンリーの体育大会がある医学生向けにフィックスされた「医学部剣道部」が別にあったのだ。

全学剣道部は3年の春には引退しなければいけないし(就活がある)、インカレを目指すゴリゴリの体育会系で、かつ稽古のはじまる時間が早い。その点、医学部剣道部は、全学ほどの厳しさがないし(人によるが)、6年までいていいので大学院進学組なども所属しやすい。がんばって強くなれば個人戦でインカレに出ることも可能なので、あえて全学剣道部を選ばずに医学部剣道部でのんびりやる勢がけっこういて、ぼくの高校の先輩達はだから多くが医学部剣道部に入っていたのだった。

というわけで大学入学の前日にぼくはたくさんの先輩に囲まれたのだけれど……だめだ、記憶が混戦している。たとえば同級生のアキコの姉ちゃん(カズコ?)がそこにいたわけはない。それは高校に入ったときの記憶だ。3年ずれている。さらに、早世したトノムラさんがいて話しかけてきて談笑したように思うのだがこれもおかしい。ぼくはその時点で彼を知っていたわけではなかった。D先輩が先輩としてそこにいた記憶もへんだ。彼は一浪したからぼくの同級生になっていたのだ。

ああ、ああ、「高校の先輩に声をかけられてうれしかった」記憶はもう砕け散っている。

「映像」はもうまったく残っていない。かろうじて「文面」が断片化して残っている。

エジプト文明か。



そこから先、大学6年間、医学部剣道部6年間で、本当にいろんなことがあったはずなのだ。

東北六県をすべて訪れたし、札幌医大・旭川医大との三学交流戦も何度も戦ったし、飲み会だっていっぱいあった。

一年目の夏は……横浜に……遠征に行った気がする……。

二年目は……たしか夢の島だった。

三年目。だめだもうわからない。

四年目は秋田だった。

五年目。わからない。夢の島か?

六年目。もうだめだ。なぜ最後を覚えていないんだ。



この程度の記憶力なのに、ぼくは自分が自分であると認識しているのである。

アイデンティティってもろすぎるよなあ。自分なんてこの程度でなんとかなるんだ。

2023年6月23日金曜日

病理の話(790) 臨床医の誤診を病理医が指摘するときのこと

主治医が患者になんらかの診断をくだすとはどういうことか。

例をあげよう。

主治医が、患者の体内にある「影」をみつけて、それを「がん」だと見立てて、手術の計画を立てて、臓器を切り取る。

この「見立て」が診断だ。医療の方針を決める、極めて大事なプロセスであり、かなり専門的なスキルが要求される。


さて、手術が無事終わったあとに、採ってきた臓器を詳細に検索するのは病理医の役目だ。

臓器をナイフで切り、断面を見て、写真を撮り、標本を作って顕微鏡で観察する。

さまざまな手法を駆使して、病変の中にある細胞の性状を調べる。

そして、病理医はあらたに「病理診断」をくだす。


すでに主治医は患者に対して診断を付けている。しかし、細胞まで見ると新たにいろいろなことがわかるので、病理医は顕微鏡を見た結果を踏まえて、あとから診断をアップデートする。


ほとんどのケースで、病理医は、主治医の見立てとほぼ変わらない病気を見いだす。

主治医の診断=病理診断、である。


しかしまれに、主治医の診断とは似ても似つかないような病理診断が付くことがある。


一番わかりやすい、しかしぞっとする例。

「がんだと思って手術したのに、病理診断はがんではなかった」

こういうことが低確率で生じる。


そういうとき、病理医は診断書に「がんではありませんでした」と書くわけだが……。

それで終わりにしてしまっている病理医というのが、まあそこそこ多い。


誤診が生じたときに、病理医だけが「正しい診断」を指摘して、はいこれで仕事おしまい、とひょうひょうとしているというのは……。

ちょっと、いろんな人にかわいそうだと思う。

主治医は驚き、「なぜ誤診してしまったのか」と悔やみ、悩む。そして当然のことだが患者はびっくりし、悲しみ、怒る。

全ての人が、病理医の「がんではありませんでした」によって、遠回しに殴られる。


実際、誤診だったのだから、病理医がそれを正直に指摘すること自体はしょうがない。

しかし、病理医はもうすこし、医療者として、人として、彼らが今後いろいろと考えていくための資料を揃えたほうがいいのではないか……と、ぼくは考える。

主治医の診断と異なる病気を見つけたときに、病理医ができること。

それは、「なぜこの病気が、間違えて診断されたのか」という理由を、病理医の専門性を駆使して考えて伝えることだ。


胃がんだと思って採った胃にがんがなかった。膵臓がんだと思って採った膵臓にがんがなかった。ならば病理医は、「なぜ主治医チームはこれをがんだと認識したのか」を解析する。それをやらないなら、病理医をやっている甲斐がない……とまで言うと言いすぎかなあ。


病理医は、細胞を見ることで、診断を付けるだけではなく、たとえばこのようなことを言うことができる。

「がんは一般的に、CTではこのように映り、内視鏡ではこのように見える。しかし、今回の病気は、がんではないにも関わらず、細胞の構築がこのようになっていて、間質のパターンがこんなふうになっているから、あたかもがんのように映る

がんではない病気ががんに似た理由をあばく。

ここまで書いてこその病理診断だ。


主治医(たいていはチーム)はこの報告書を見て、「なるほど、だからあんなにがんっぽく見えたのか」と考えるし、結構な確率で、「そうか、だから、がんにしてはいつもと違うこういう像を呈していたのか」と、後付けで納得したりもする。

じつは、こういう誤診例のときには、主治医は、いつものような自信満々の診断ではなかったりすることも多い。

あらかじめ患者に、

「がんが疑われます。しかし、CTや内視鏡のようすがいつもと少し違うため、がんではない可能性もあります。私はこのようなデータからあなたに手術をおすすめしますが、手術のあとに病理医に詳しく調べてもらいます」

のような説明をしていたりもする。

そういうとき、病理医が、「確かにがんに似た細胞の配置をしている。ただ、がんと違うのはこの点だ。」というように、細胞の見た目を余すところなく記載しておけば……。

主治医は納得できるし、患者も(あらかじめ主治医にそういうこともあるかもと聞いているならば)、理由がわかって少しは落ち着けるかもしれない。




病理医をDoctor's doctorなどと呼ぶヤカラがいる。医者のための医者、センセイのためのセンセイってことだろう。鼻につくいやな呼び名だと思う。病理医も医者なのだから患者のための医者であるべきだ。そして、さらにいえば、医療に関係するあらゆる人のための医者であるべきではないか。People's doctorであるべきだろう。ロック様の業界最高峰の美技っぽいネーミングだが。




2023年6月22日木曜日

エビデンスがすべてじゃないという前提

先日、「LOVOT」というミニオンズみたいなロボットを作っている会社の社長(林要さん)と対談したときに思ったことを書く。

我々(林さんとぼく)は、思考回路が一本道な状態がたぶん苦手である。かつ、嫌いというほどではないが、ストーリーがひとつだと「そんなことはないだろう」と考えてしまうタイプでもある。

たとえばぼくは、生命活動がわかりやすく一本のストーリーで説明されているのを見ると、いちいち口に出してツッコミはしないけれど心の中で「それはまたずいぶん省略したなあ」とか、「解説を楽にするために単純化したんだなあ」と感じる。たとえば、


「アドレナリンが出ると人間は興奮するんですよ」


みたいなやつだ。ホルモンによる人体の調整は、一本の因果関係でまとめられる話ではない。「興奮」についてはアドレナリン以外にもいろいろな物質が関与するし、アドレナリン自体にもいわゆる興奮作用以外のさまざまな作用があって、アドレナリンが出れば(そもそも出るとはどこからどこに出るのか?)必ず興奮するわけでもないし、たぶんだけどアドレナリンは用量依存的とも言いきれない。

「アドレナリンから出た矢印をずっと追いかけていくと興奮にたどり着く」という理解はすごく厳密に言うと間違いである。上の文章は、途中を省略しているから不正確なのではない。筋道一本しか書いていないから不正確だ。


そういう「一本のストーリー」に対して違和感を持つムーブは、たぶん、林さんにもあるんじゃないかなと感じた。


そもそも林さんが最初に専門としていた流体力学自体、線形解析ひとつでどうにかなるものではない。複数のファクターのどれが結果に影響を与えるのかが毎回変わる世界ではないかと、素人ながら推測している。カオスも絡んでくるし、確率論も偶然性も関与しているだろう。


ひとつのファクターを追いかけても結論が見えてこない系の話を、ぼくはかつて本の中で「群像劇」と言い表したことがある。

このブログでは、「サッカーアルゼンチン代表が勝った理由はメッシがすごかったから、だけではないよね」みたいな説明を使ったこともある。



人体にしても流体にしても、自然現象を扱う学問、つまりは自然科学を語る上では、「何かひとつの因果関係を証明しても、それが全体の挙動にそのまま結びつかない」ということを、ぼくらは感覚的に身につけていなければいけないと思う。


「再現性のある実験結果を示すことは大事。統計的にエビデンスを示すことも大事。しかし、それらの個別のデータが活用できるのは、限定的な局面に限られるので、ひとつのストーリーをもって、事象の全体を言い表すことは難しい」


科学者とは、複雑系を語る上でエビデンスが語れる範囲の限界を知った上で、「それでも開けそうな局所は開いておく」といって、エビデンスを構築していく職業である。


アドレナリンだけで全部説明できないなんて百も承知で、アドレナリンの周囲で起こる生体現象をひとつひとつ解析していくのが科学である。




ところで、科学のことをよくわかってない人、もしくは、中途半端にわかった気になって、それでいて科学をどこか軽視している人たちというのは、「エビデンスなんて別に偉くない」みたいなことを言う。

まるで、「科学者はエビデンス至上主義」であるかのような言い草だ。科学者が証明し続けているエビデンスが役に立たないと言ってやることで、科学者が精神的にダメージを負うと思っているかのようだと感じる。

でも、科学者からすると、「何をいまさら当たり前のことを……」としか思わない。

エビデンス「だけ」で何かを言い尽くしたなんてそもそも思ってない。自然科学が複雑系だなんてこと、科学嫌いに言われるまでもなく、さんざん科学的に証明してきた。

それでも、エビデンスとして構築できるものがあるならば、やっておく。

限界があることは知っていて、でも局所の現象を丁寧に掘る。

限られたシチュエーションでのみ使える武器であっても、ちゃんと研いでおく。



「科学嫌い」は、「エビデンスがすべてじゃない!」と、鬼の首を取ったように言う。その言葉は、科学者からすると、「うん。」としか返事のしようがないものなのに。



科学は素養として持っておいたほうがいい。自然が複雑系であるというセンスを持ち合わせないままに、「エビデンスがすべてじゃない」みたいなフレーズを殺し文句だと思ってちらつかせている状態は、弊害のほうが多い。

科学はずっと、複雑系をどう記載するかを、呪いのように心の中に留めたまま成長してきた。その苦しみの一歩目にもたどりつかないで、「エビデンスなんて役に立たないよ」って言って、人を傷つけようとする、その心根にぼくは小さな違和感を持つ。

2023年6月21日水曜日

病理の話(789) 双眼鏡も顕微鏡もいっしょ

顕微鏡で細胞を見る。顕微鏡というのはクローズアップするためのものだ。クローズアップするとどうなる? 広く見渡すことができなくなる。このことをわりと真剣に考えておく必要がある。


あなたは今、野球場にいる。外野の3階席くらいにいると思って欲しい。すり鉢状の球場全体がなんとなく見通せる。そこで双眼鏡を取り出して、グラウンドにいる選手を拡大する。顔までよく見える。ちょっと笑顔を見せている。あるいはすこしストレッチなどしている。選手の様子がとてもよくわかる。うれしいなと思う。


しかしその一方で、選手をずっと拡大していると、野球の様子はあまりよくわからなくなる。たとえば外野手だけをずっと見ていると、基本、試合中に行われている動きの8割くらいはよくわからなくなる。ピッチャーが何を投げてバッターがどこに打ち返して野手がどう動いたか、みたいなことが判別できない。ときおり外野の選手は、内野の様子にあわせて連動して、あちこちポジションを変えたりするので、何かが動いていること自体は把握できるのだが、具体的に何が起こっているか、試合がどういう方向に動いているかは一切わからない。


仮にあなたがその外野選手のファンで、その人が試合でどのような動きをするのかを逐一知りたいと思って球場に来ていても、ひたすら双眼鏡で眺めていては、選手の考えていることも、どういうシチュエーションで何をしたのかも、わからないままである。なすべきことは簡単だ。双眼鏡をいったん膝に置こう。そして、球場全体をぼうっと見通すことこそが大事なのである。


平時はとにかく球場全体を見るともなしに見る。応援しているチームと敵チーム、どちらの選手もまんべんなく目に入るようなポジションで野球全体を見る。ボールの行方もちゃんと追うし、ベンチの人間達のざわめきや、ついでに言えば観客席のうねりなども含めて野球全体を見よう。ロングショットの目線で全体の流れをきちんと把握するのだ。


そして、いざ、局面が動いて、「あっここは外野選手が動くタイミングだ!」とわかったら、そこではじめて双眼鏡を用いる。拡大を上げるときには少し弱い倍率からスタートして、外野と内野の連携がわかるくらいの視野もチェックする。そして一気に、躊躇なく外野手の全身がくっきり見える倍率までぐっと拡大する。それによって、今日の選手の体調の良さ、判断のスピード、どこに目を配ってどっちに走って、どうやってボールを受け止めてどのように投げ返したのかがわかり、その選手が試合にどのように貢献したのか、あるいはエラーをおかしたならそれがどれくらいの悪影響を及ぼしたのかがわかるようになる。



細胞観察のときも全く同じ事をする。胃粘膜から採取された検体を顕微鏡で見るとき、いきなり拡大を上げることをせず、まずは検体全体を見渡す視野を確保する。その時点では細胞ひとつひとつの核は観察できないし、ピロリ菌のような小さな菌体も小さすぎて見えない。しかし、細胞同士がどこにどのように配置して、どこがスカスカでどこが密なのかという情報が手に入る。これは野球場にどれくらいお客さんが入っているかがプロ野球全体の盛り上がりやチームの順位などといったさまざまなファクターに影響されているのと同じように、その胃粘膜が今どういう状態なのか、がんになりやすいかそうでもないのかみたいなことを病理医に教えてくれる。そして、「なんとなくこのあたりにがん細胞が潜んでいそう」というポイントまでを確認してから躊躇せずにそこを拡大する。最強拡大にせずともいい。細胞の核や細胞質が見られる段階まで拡大すれば十分だ。そして、拡大する前に、診断はほとんど終わっている。外野手をクローズアップしなくても野球全体の流れはだいたいわかるのといっしょなのだ。しかし、あなたは外野手……じゃなかったがん細胞の細かい評価をしたがっている。スカウトのような目線で。今の状態がどうなのか、何を考えて何をしようとしているのかを冷徹に見極める。拡大がされたころには診断は終わっているが、拡大することで終わった診断にさらに輝きが増していく。


ロングショット→ズームアップ。極意というか……いや、そりゃそうでしょ、くらいの話だ。しかしこういうところを大事にしないと、「はじめて双眼鏡を買ってもらった子ども」のように何でもかんでもクローズアップばかりする、「遊び盛りの病理医」みたいなことになってしまうから注意が必要である。

2023年6月20日火曜日

豚こま肉100g118円

自分の話す内容が相手に伝わらないなあと思ったときに、その相手とのコミュニケーションを早々にあきらめて「次のわかってくれる相手」を探しに行くムーブ。

「次」を求める回転数がとても早くなっている。すぐにあきらめる。もうちょっと粘ってもいいのでは? くらいの感想を持つ。それはぼくがネットリ年を取ったからだろうか?


もうちょっと粘ってもいいのでは?


「はい次」「はい次」と、自分の話の通じる相手を求めて渡り歩いていくクレペリン検査ムーブ。あからさまだなあと感じるのは「専門家」だ。ぼくの経験上は「医療の専門家」が多いが、別に医療じゃなくてもいい、政治でも、スポーツでも、歴史でも、なんでもいい。

何かをしゃべりはじめて、相手のリアクションが弱いだけで、もう詳しい説明をあきらめてしまう。

医療情報なんて「いかに多くの人にべんりに使ってもらうか」が第一義だと思うのだが……「何を言ってもワカラナイ人にはそもそも語りません 代わりにケンカします イッツエンタテインメント!」みたいなことになっている。どうなのと思う。


「あれ? 伝わらない」と思ったら自分に追加インストールすべきは「コミュニケーション補助プラグイン」であり「簡易翻訳アプリ」であろう。しかしなぜかそこに「相手を効率良くくさして溜飲を下げる怒-GPT」みたいなのをインストールして、専門家である自分の言葉が通じないのは相手に原因があるとばかりにバチギレて、次の狩り場に移動する。

自分の語った内容を微妙に違ったニュアンスで聞き取った人に対して、ものすごい勢いで怒る。そんなに怒り狂ったら相手と二度と関係築けないだろうと心配になるのだが、違う、そもそも相手と二度と関係を築きたくないから破壊によって会話を打ち切るのだ。

「前提情報がない相手とは高度な話はできないよ」みたいな地味に失礼なことを平気で言う。コミュニケーションってもうちょっと幅広くて豊潤だったはずなのだが。

サブスク的だ。気に入るまでどんどんザッピングする感じ。マッチングアプリ的でもある。

そうやって自分の言葉の通じやすい相手とばかりやりとりするので、言葉がだんだん先鋭化していく。先が尖って奥まで浸透するようになる。細いからちょっと離れるともう影響を見ることもできなくなる。


そういえば……一時期もてはやされた……「ノンバーバルコミュニケーション」って、あれ、どうなった? SNSだとノンバーバルの伝達が込み入るから(※ないわけではない)、いつのまにか語られなくなったような気がする。ノンバーバルな部分で測っていた相手との距離感を、SNSでは文字や図を使って補正しなければいけないのだが、そういうところを放棄して「俺の言葉が伝わらない程度の知能で俺と会話するな」みたいなことを言い出す専門家が多い。言葉だけで伝えることはできないよ。言葉だけでがんばる専門家(例:哲学者)だってその点はあきらめている。言葉は「伝える」以外の役割があって(例:「自分で自分のことをわかる」)、言葉を極めれば伝わることのプロになるわけではないのだ。



人間の脳ってそんなに機能の差が大きいものではないと思う。地頭の良さがどうとか言っている人がいるが人間どうしの微細な差をそこまで大げさに拡張しなくてもよかろう。われわれがサルやゴリラ同士の顔の区別がつかないように、地球外生命体から見たら人どうしの地頭の差なんてたいしたものではない。となれば、ぼくが今気になるのは、「われらみな同じ脳を持つ仲間なのに、どうしてここまで伝わらずにずれるのか、ぼくが知ってること、常識だと思っていることの代わりに、その脳に何を入れて、ここまで何をして、何を見て暮らしてきたのか」の部分である。ぼくの言葉が一瞬で伝わらないとしたらそれにはいくつかの理由があって、

1.ぼくの伝え方がへた

2.ぼくの文法と相手の文法が異なっている

3.ほか知らんけど列挙するんなら2項目だけだとカッコ悪いからいちおう3を置いとく

って感じなのだけれど、「1.」は常に改善をこころみるとして、「2.」だったとしたらそこをきちんと切り開いて解析したらなんだか楽しそうではないか。



楽しそうというか……。

たとえば、同じ脳を持っているにもかかわらず、あからさまなニセ医療を商売の道具にして人をどんどん不幸に陥れながら小銭を稼ぐことを「よしとする人」はいったい脳の中で何をどのようにこねくり回しているのだろうということが真剣に気になる。そこにどう介入したら何を変えることができて、何は変わらないのか、みたいなことこそを、今のぼくは真剣に考えたくてしかたがないのに、多くの自称専門家たちは、「俺の言葉が通じない場所では話をしません。」みたいなつまんない切り落とし方をする。コープの厨房の店員でももう少し丁寧に肉を切り落とすと思うけれど、今の専門家たちはみんな、すごくもったいない切り落とし方をする。

2023年6月19日月曜日

病理の話(788) 要するにの使い所

病理医をやっていると、「要するに」を言いたい、言わなければいけないタイミングと、「要するに」で片付けてしまってはいけないタイミングの両方を経験する。



「要するに」を言うのはどんなときかというと、それは、病理医の言葉ひとつに、主治医の選択がかかっているときだ。

たとえば胃がんの診療においては、がんが「高分化」と呼ばれるタイプと、「低分化」と呼ばれるタイプで、治療が変わるケースがある。

さまざまなファクターを考慮する必要があるにせよ、最終的に病理医が、

「これは高分化だ!」

と決めることで、その後、患者にほどこされる治療が決まってくるのだ。小さい内視鏡手術でよいのか、それとも大がかりな外科手術になるか、といったふうに。けっこう大きな差である。

こういう場合、病理医は、あれこれと自分の診断の根拠を述べていくのだけれど、最終的に主治医が知りたいのは「要するに高分化なの? 低分化なの?」といった部分なので、病理医も腹をくくって、「要するに高分化です」のように、簡潔に答える。

回答席でうだうだ悩んでいるところを見せずに、二択なら二択をビシッと選んでファイナルアンサーとする。




ちなみに、病理医の仕事は最終的には「病理診断報告書(レポート)を書くこと」に集約されていくので、細胞をみながら頭の中でいろいろ考えたことも、最後には「要するにこういうことです」とやや短めに言語化するケースが多い。

ゴニョゴニョ言ってないで白黒はっきり決めなさい! 的な仕事だということだ。


要するにこれは腺癌!

要するに深達度はpT1a!

要するに断端は陰性!


ここで、「腺癌か扁平上皮癌かわかりません」では、その後の診療が決まっていかないのだから、病理医は自分の責任で「要する」べきだし、その最終的な結果をもって主治医はビシッとその後の診療を決めていくのである。




さて、なんとなくぼくの書く物をご覧いただいている皆さんにとって、このあとの展開は少し予想できちゃうのではないかと思うのだが……。




病理医は、「要するに」ばかり言っていてはだめだ。「要約する前の、雑多なだらだらとした表現」が豊潤でないと、本当の意味での「細胞の専門家」にはなれない。


主治医をとっつかまえて、病理の部屋に案内し、いっしょに細胞を見ながら、

「いやー、要するにがん、なんですけどね、がんにしてもいつもとはちょっと違うというか……高分化から低分化まで入り混じっているというか……」

みたいなニュアンスをなるべく主治医と共有する。そうすると、たまに主治医が、「あーやっぱりそうですか……私も内視鏡を見ながら、高分化だと思うけど、いまいち自信が無いなあと思っていたんですよ。やっぱり細胞もそうなんだなあ……」みたいに、かなりしっかりうなずいて納得してくれる。



仮に、病理診断がすべて「要するに系」だけで済ませてよいのなら、病理診断という仕事の大半はいずれAIによって置換されていくだろう。二択、三択を確率によってビシッと選ぶ。数字を提示する。思考の根拠なんて関係ない、ビッグデータと機械学習が有無を言わさず統計学的な答えを返すのだ。それで十分成り立つだろう。


しかし、病理医はときに、「要するにと言わずにぜんぶのニュアンスを教えて欲しい」と頼まれる仕事でもある。診断を書く過程で切り捨てていく枝葉の部分にこそ、患者の身に起こったことの中に潜んだ些細な疑問に答えるためのヒントや、研究のタネが転がっていたりするものなのだ。あんまり「要するに」ばかり言っていると、AIっぽい病理医って思われちゃうぞ。

2023年6月16日金曜日

サーキュレクラッシャー

デスクのそばにある本棚の上にはサーキュレーターが置かれており、室内を換気し続けている。これでウイルスがどれだけ去っていってくれるのかはわからない。焼肉の後に服にファブリーズするくらいの効果があるだろうか。そこまでの効果もないのではないか。でも、「じめっと湿った検査室」で勤務するくらいなら、風通しがあったほうがいいに決まっている。あって悪いものではない。音もしずかだし。


オフィスチェアに実を預けて、小玉のスイカくらいのサイズがあるサーキュレーターをじっと眺める。ゆっくりとふしぎな回転をしていて、上やら前やら横やらに風を送っている。風向は本棚を挟んで反対側にある技師側のスペースを向いていて、ぼくのデスクに風が来ることはないのだが、空気の循環がめぐりめぐってぼくのデスク周りの空気も多少はかきまわされているはずである。




生活の中に風を入れるにはどうしたらいいか。本を読んだりツイッターを眺めたりすることは、膠着した暮らしに酸素を運んでくるこころみだと思う。でも、わりと二酸化炭素ばかり運んでこられることもあるし、アンモニアや硫黄のような臭気がやってきてしまうこともある。

だまって座ったままサーキュレーターにまかせて外の空気を取り入れるばかりでは、空気の質を高く保つことはなかなか難しく、それに気づいた人から順番に旅に出かけていく。

しかし、そのような理屈はぜんぶわかっているのだがそれでもぼくはあまり旅をしない。「旅をしたら風を感じるのはあたりまえじゃないか」のような、よくわからない、ひねた感覚みたいなものがぼくの中にある。旅は好きだ。旅で得られるものは多い。しかし旅をする前にここでやっておきたいことがあれもこれもあるのだ。旅をしたがるばかりでちっとも旅に出ないぼくの書く物を部屋で黙って読んでなんらかの酸素を取り入れるタイプの人がいるかもしれないし、そんな人がどこにもいないとしてもぼくは自分の脳にあるものを指先からキーボードにジャンプさせてモニタに顕現させるまでの過程を見ないと息苦しくなってしまうのだからしょうがない。


たまにはぱーっと気分転換してどこかに遊びにいったほうがいいよ、の人よりもぼくの方がおそらくこれまでの人生で気分を転換した回数は多いはずだ、という謎の確信もある。なにかといえば「旅をしろ」と言う人間ばかりだと空気がよどむのだ。それをかきまわすための首振りがおそらくどこかにいたほうがよいのではないか、くらいの気持ちなのである。

2023年6月15日木曜日

病理の話(787) がんの診断と実際にみんなが気にすること

大腸にポリープが見つかったとする。

この場合、あなたはそのポリープについて、何が気になる?

「がんか、がんじゃないかが気になる」。

たいていのシチュエーションで、そういう言葉を耳にする。


でも、みんな本当に「がんか否か」に興味があるのだろうか?

病気の定義がどうとか、分類がどうとかではなく、もっと、「自分に近い話」が知りたい人はいないのだろうか?

たとえば、

「それを放っておくと命に危険があるのか?」

「それを治療すればまた健康に過ごせるのか?」

といった、より自分の生活に直接関わる部分こそ、知りたいという人はいないか?



「誰か専門家が名付けたもの」と、自分の病気が同じか違うかに、そこまで興味があるのかなあと疑問に思うことはある。……でも、まあ、うーん、あるかもしれないな、「がん」というのはインパクトのある言葉だから。

ただ、ぼくだったら、「がんですか? がんじゃないんですか?」で自分の興味が終わるとは思えない。

「がんです」「えっ! そんな!」「……」「……で、がんだったら、それはどういうことになるんでしょうか?」

と話が繋がっていくのではないかと思う。

「放っておくとどうなるの?」「治療すれば治るの?」

結局はこっちに興味を持つ。「がん or not」で話が終わるわけではないのだ。



「放っておくとどうなるの?」「治療すれば治るの?」は、「これはがんなの?」に比べると、より具体的な質問だ。そして、じつはエグい。

なぜエグいかというと、これらはいずれも未来予測だからだ。

未来のことは、本当は誰にもわからない。さまざまなアクシデントがあり得る。何がどう転んで結果がズレるか、だれにも予測できない。それが未来というものだ。

でも、ぼくらはそれを十分わかっているはずなのに、「見つかったポリープが自分の体に悪さをするかしないかくらい、予測できないのか?」と思いがちである。

ぼくらはわがままだ。



この先株価が上がるか下がるかわかる? と専門家にたずねてみよう。「そういうのはいろんな条件が混じり合うから難しいんですよ。だいいち、株価が上がるか下がるかがわかるなら、みんな簡単に金儲けしちゃうじゃないですか」みたいなことを言われて、まあそうだよなアハハって納得する。

その同じ人が、ポリープを見つけて、「これは将来自分の命に影響しますか? それとも、放っておいても命にかかわることはないでしょうか?」とたずねる。こちらは「わかりません」と言われても納得できない。

となると、医療者のかかえる責任というのは独特だなあと思う。

そんなの時間経ってみないとわからないよ、アハハ、で終わらせられない。

そして医療者はあの手この手で未来予測を試みる。



使うものは統計だ。たくさんの症例を集める。その症例すべてを詳細に検討する。ポリープがどんな形をしていたか。どれくらいのサイズであったか。ポリープを割ってみて、どれくらい人間の体の中にめりこんでいたか。細胞がどんな形をしていたか。データが多ければ多いほどいい……わけでもないのだが……予測の役に立つようなデータをなるべく細かく集める。そして、無数の過去のデータと照らし合わせる。統計学的処理をする。

その結果、

「このようなポリープなら、大腸カメラでチョンととってしまえば、それで絶対に根治です。100%、再発した人はいませんし、これからもいないと思います!」

まで言えれば、それは「がんではない」。

(※ここ、じつは日本の病理診断基準だと少し不正確なんだけど、今日は専門家にとっての記事ではないので、これくらいの書き方にしておきます)



逆に、「このようなタイプのポリープは、過去に、50%以上の確率で、体の内部に転移してました」となれば、それは「がんである」と判断される。ポリープの部分だけ切除しても治療は不十分だ。だってどこかに転移しているかもしれないんだから。もっと大きな範囲を切り取るなり、ほかの治療法を考えるなりしなければならない。


では、「過去にこのようなポリープは、0.1%だけ体の中にしみ込んでました。99.9%は大丈夫でした」という病気はどうする? それも「がん」と判定するか?

0.1%しか再発しないとなると、たいていの病院の医者は、「こんなポリープが再発した経験なんてない」ってなる。個人の医者が生涯に経験できる患者の人数では、とうてい足りないくらいの、ものすごく低確率で「再発」するような病気は、医者からみても「良性に見える」。

でも、たくさんの症例をしらべて統計をとった結果、「0.1%だけだけど再発した人がいる」なら、そのリスクを考えて治療をすすめたほうがいい。病名としては「がん」という名前が与えられる。


このように、「がんか、がんじゃないか」というのは、毎日患者を見ている医者からしても、個人の経験や美意識だけで判断するのが難しい部分がある。

「誰がどうみてもがん」という場合と、「統計学的にがんだけど、なかなか見極めが難しいやつ」とがある。


したがって、我々は、自分がもし病気になったときにも、「がんか、がんじゃないか」に一喜一憂することはない。

たとえ「がん」だとしても、その先の予測をもっと詳しく聞いてみたほうがいいのだ。

ぼくらが本当に知りたいのは、「がん」というインパクトの強い病名が自分につくかどうかではなく、その病気が将来自分に何をおよぼすのか、それによって自分の人生がどう変わるか、のほうではないかと思う。

……まあ、「がん」って言葉はすごくドッキリする言葉なので、ついそこに引っ張られてしまう気持ちも、わかるんだけど。

2023年6月14日水曜日

ふと

『ボールパークでつかまえて』というわりと日常系のマンガがあるのだが、その中に、特に詳しい言及もされないまま『球場三食』というマンガの構図を真似ているシーンがあり(球場に着いて客席を見回して「たまらない……!」と言うだけ)、ああこれは間違いなくリスペクトでありオマージュだ、でも気づく人がどれだけいるかなあ、いや、いるか、『球場三食』ロスに苦しんだ人がたどり着く系のマンガだもんな、でもこのことをツイッターに書いたとしても、たぶんわかってくれる人はそう多くないだろうな……と、一人で思考して決着した。「ふと考えついたこと」が、人に話すにはめんどうすぎてアウトプットできない。こういうことがたまにある。


「ふと」の重さ。


ぼくが何かを「ふと」思い付くまでに、45年の月日を通じたさまざまなものが関わっている。概念が日々すれ違っていく交差点のアスファルトに染みついた靴の踏み跡のように、折り重なって濃度を増していったたくさんのコンテキストがあって、その凹凸のどれかにたまたま引っかかった複雑な形状のものが「ふと」知覚される。となれば、ぼくの「ふと」は、他の人間が味わう「ふと」とは似て非なるモノである。

それは誰にとってもそうなのである。お互いさまなのである。ぼくだけがそうなのではない。誰もがそうなのである。

「ふと」は重い。だんだん、互いの「ふと」は混じり合わなくなる。自分の心の中だけで安定する結晶構造物。空気に触れると崩れ去っていく。


あるいは、ここで、『宙に参る』に出てくる「判断摩擦限界」のようなことを追加して考える。「ふと」思い付いたことの周囲にはたくさんの事象が付随している。それは年を経るごとにどんどん多くなっていく。「ふと」にはたくさんのアクセサリーが、あるいは、それ自体がもはや一つの国なのではないかというくらいの大きな複雑系がくっついている。装飾されている。「ふと」思い付いたことを言葉にして口に出す前に、そういった付属品、もしくはそっちが本体かもしれない、そういったものを脳内で矯めつ眇めつして、あれもこれもと思考が遊び始める。ふらふらとふらつく。それがいつまでも終わらない。思考がシケインを経て減速し、複雑なループに紛れ込んで、いつしかバターとなって溶ける。アウトプットが不可能になる。「ふと」は口から外に出なくなる。


時候の挨拶、決まり文句、ああ来たらこう返す、みたいなものばかりが口をつくようになる。

その人の半生が染みついた思考ほど言葉として出てこなくなるものだ。


祖母が亡くなる数ヶ月前に、病室で、ぼくが一度も聞いたことのない昔の話を、祖母が突然語り出したことがあった。出てくる人間の名前が一人もわからない。場所がどこなのかも、時代すらもよくわからない。それはおそらく、往時の祖母であれば、「このことを孫に言ってもわからないだろう」と思って自然と秘匿されるような内容の会話であった。しかしそのとき祖母はぼくに自分だけのエピソードを話すことを選んだ。ぼくはその内容を聞きながら、覚えていられる自信が全くなく、メモでもとるべきか、申し訳ないな、と思ったし、実際そのときに聞いた話は今はきれいさっぱり忘れてしまった。案の定、である。つまり祖母の人生を子孫が忘却したことになる。それはつまり祖母を「殺す」行為になるのではないかと、一時期はだいぶ落ち込んだ。しかし、今となっては別のことを思う。祖母は「ふと」思い付いたことをぼくに語った。孫はそのことを何度も思い出した。ああ、いろいろと歩んできた祖母は、あのタイミングでぼくに、「自分は確かに複雑な人生を歩んだのだ」ということを語ったのだ。語った内容は「複雑さと切り離せないその人自身の固有の『ふと』」であった。それをぼくがいくら丁寧に聞いたところで理解できるものではない。さらに言えば理解する必要もない。だってその人の心の外から出たら崩れるのは当たり前なのだ。ただ、「ふと」思い付いたことを話したくなる相手として、そのときのぼくが認定されたことだけを喜べばいいのかもしれない。ということを本日急激に、ふと思い付いて、ぼくはなぜか許された気分になった。このニュアンスをあなた方と共有できるとは思えないが、それでもぼくはなぜか、まあ今日はここに書いておくかなと感じたのだ。それはきっとあの日の祖母と通じる感覚なのではないかと思うのだ。

2023年6月13日火曜日

病理の話(786) 染色のキレ味とホルマリンの歴史

『病理と臨床』というマニアックな(たぶん病理医以外はほぼ読んでない)雑誌がある。2023年の6月号では、「病理検査室のマネジメント」という特集が組まれていた。マニアックにも程がある。つまりは管理職的な人が読む号であり、まあ、おそらく、若い人とかはほとんど読んでいないんじゃないかと思う。でもこれがぼくにとっては地味におもしろかった。おじさんだからね。


マネジメントとは具体的になにをやるのかというと、「正しい診断が検査室からいいスピードで出続けるように、システムを整える」ということだ。PCとネットワークを用いた報告の様式とか、主治医がレポートを読み忘れることがないようにアラートをセットするとか、そういった部分に気を配る。そして、我々は「プレパラート」に細胞をのせたものを顕微鏡で見るのだけれど、この細胞は「染色」されているということを忘れてはいけない。細胞を見やすくするために色が付けられている。その色づけの品質管理をしなければいけないのだ。昨日は細胞が見やすかったけれど今日はイマイチ、では困る。


もともと、細胞の染色は技師さんの腕次第……というところがあった。ただし現在は多くの工程が機械化・自動化されている。だったら品質管理も機械の問題だよなーと思っていた。しかし意外なところに盲点があった。

それは、染色の過程の前に行われる作業である。すなわち「ホルマリン固定」の段階だ。ぼくはこのホルマリンがけっこう大事なのだということを、今さら知った。へええと思った。


博物館とかでたまに、動物やら虫やらを「ホルマリン漬け」にした標本というのが置いてあるだろう。ホルマリンは、細胞を「固定」して、劣化を防ぐはたらきがある。昔は、20%という濃度を使っていたし、pHが酸性だった。それくらい濃さのホルマリンを使うと、細胞がかなり迅速に「固定」され、その後さまざまな工程を経て染色された細胞はきれいに発色する。

しかし、この20%酸性ホルマリンには、後に分かったことなのだが弱点があった。細胞にとって強烈な固定をもたらす一方、細胞の中にあるDNAやRNAに与えるダメージも強かったのだ。細胞のかたちだけを見て診断していたときはそれでよかったのだが、現在は、とってきた細胞の中の遺伝子を検査する手法も用いる。あまりに強力すぎるホルマリンでは検査がうまくいかなくなってしまう。

したがって、現在、多くの検査室では「10%中性緩衝ホルマリン」を使っている。昔使っていたものよりも、濃度は下げ気味、pHは中性よりにしてある。これによって、細胞の内部にあるDNAやRNAへのダメージが極力おさえられている。

病理医をたばねる日本病理学会は、「あとで遺伝子検査をやるかもしれないので、細胞を固定する際には原則、10%中性緩衝ホルマリン以外は使わないでください」というおふれすら出している。ぼくもそれに普通に従っていた。検査室の精度管理はばっちりだぜ! くらいに思っていた。

しかし……裏を返せば10%中性緩衝ホルマリンでは、「細胞の固定が甘くなる」のである。するとどうなるか?

いっぺんにホルマリンが浸透せず、じわじわとゆっくり固定されていく過程で、細胞内部の水分量にムラが出るなどの不具合が人知れず生じる。すると、「細胞の染色」の過程に影響が出て……詳しい説明はさすがにはぶくが……細胞の「コントラスト」がつきにくくなるのだ。

紙面に載っていた染色を見比べてぼくは驚いた。10%中性緩衝ホルマリンを用いた細胞の写真は、ぼくが普段見慣れている感じで、ああそうね、まあ胃粘膜なんてのはだいたいこうだよね、くらいの見た目だったのだが、昔ながらの20%ホルマリンを用いたものは、細胞の輪郭がめちゃくちゃはっきりしているし、赤紫と青紫のコントラストもくっきりしていて異様に見やすい。うわあ、こんなに違うのか、と思って、少し時間を置いて、ものすごい衝撃がやってきた。


「あああ! 20年前に勉強はじめたときの教科書、だいたいこういうきれいなコントラストになってた! それでか! ど、道理で、ぼくが撮影した細胞の写真はいまいち教科書みたいな色味にならないなあと思ってた……!!」


これは……本当に技師さんとか染色装置を開発した人に失礼だなと思うのだけれど、ぼくはじつは(誰にも言わなかったけれど内心)、最近の染色が昔にくらべてボンヤリしているのは、技師さんの伝承してきた「能力」が落ちてきているのではないかと思っていた。医学が進歩して、免疫染色のような手法がたくさん加わり、今の技師はどんどん忙しくて専門的な仕事になっているのだけれど、一方で昔の職人芸みたいなものが時間とともに失われて、染色のクオリティみたいなのが少しずつ落ちていると思っていたのだ。でも、違った。遺伝子検索という大事な部分を担保するために、「固定の良さ」を犠牲にした結果、染色は悪くならざるを得なかったのである。


いやーこういうの勉強しないとわかんないよ。ベテラン病理医は知ってたんだろうけれどぼくは全く知らなかった。めんぼくない。染色って奥が深いんだなあ。

2023年6月12日月曜日

なれるまえにある

『深く息をするたびに』(金芳堂)のどこかに、このようなことが書いてあった。何かの本の引用だ。

「私は「なる」ばかりを目指してきたが、「ある」については学んでこなかった」

うーん、もっと違った表現だったかもしれない。目についたときにすぐ付箋でも貼っておけば正しく引用できたろう。しかし、ぼくは付箋を貼りながら本を読むのはあまり好きではない。優れたフレーズを採取するために読書をするような行為にも一理あることはわかるが気が進まない。……とはいえ、今回ばかりはメモくらいしておけばよかった。本を読み終わってからもそのフレーズが頭に残り続けているからだ。

これは最近のぼくがずっと引っかかっている、「燃え尽き」を一行で表した言葉として読める。




これまで、なにかに「なる」ことばかりを考えてきた。そして、ぼくは今、何かに「なった」気がする。すべてがうまくいったとは思わないし、ここが到達点だとも感じてはいないのだけれど、それでも確かになにかに「なって」、そこでいろいろとやっていかなければいけない。

これは「なる」ではなく「ある」を考える日々だ。

「ある」ことで誰かの役に立つ。「ありつづける」ことのすばらしさ。そして、残酷さ。



とかく世の中は「なる」ことを評価する。新しいビルが建って(成って)、新しいお店ができて(成って)、新しい商品が買えて(成って)、といった部分に話題が集まり、お金がまわり、人びとの笑顔が多く見られる。その一方で、むかしながらの店はだんだん興味を持たれなくなる。もともとそこに「ある」ものへの評価はだんだん貧相になっていく。リニューアルという名の「ふたたび何かになる過程」でしか、古い店は輝けない。ほんとうはそんなことないのに。

「就職する」「専門家になる」「結果を出せる自分になる」ことを目指す過程には喜びがあった。でも、「ありつづける」ことへの喜びは、別のやりかたで見出す必要がある。

「自分になりたい」と思ってずっとやってきた。しかし、「これが自分である」と感じる時間が増えるにつれて、今までの報酬回路では自分を奮い立たせられない。



「ある」をやっていく人間にとって、「なる」で得られた喜びをすぐに手放すことは悲しいし、辛い。ではどうするか。

「だれかがなる」のを手伝う側に回る。教育である。今まさに何かになろうと思っている人たちの手伝いをすることで、その人が「なれた!」と喜ぶ姿を見て、自分の喜びに変える。人助けであるし、自分の報酬回路をふたたび回すためのテクニックでもある。

そして、「教育に身を捧げる」ことをしながら、なおも、「自分もさらに何かになる」ことを目指して勉強をするのだけれど、そのような「なる」思考の毎日に、少しずつ、「ある」ことをきちんとやるための訓練をしていく。「ありつづけるように、なる」ということだ。ああ、また、なることばかりを考えている。

2023年6月9日金曜日

病理の話(785) オタク向きの仕事

「登場するキャラの設定を細かく知り尽くしてはじめて書ける二次創作」みたいなのがあると思う。


それでいうと炎症細胞なんてのはめちゃくちゃ細かく設定がある。たとえば、「好中球」は細菌がやってきたときに基本すっ飛んでくるケンカっ早いやつだ。逆に言えば、好中球が見つかったらそこには「ケンカのタネがあった(例:細菌が存在した)」ってことがまるわかりである。

ただし、好中球がいつも細菌だけを相手にしているわけではない。一部の自己炎症性疾患では、細菌がいないにもかかわらず血管周囲にあらわれることがあって、しかもただ存在するだけじゃなくて血管の壁を殴っているからそれは何か異常だとわかる。

さらに言うと好中球は組織内での寿命が2日しかないので、顕微鏡でみたときにそこに好中球がいれば少なくともこの2日の間にやってきたやつなんだなという時間情報もゲットできる。


さて、設定というのは個人を深掘りするだけでなく、関係性を見ていくものだ。たとえば好中球とマクロファージは共闘していることがあるが、マクロファージだけがいて好中球がいないときは「もう好中球の登場時期は過ぎ去ったんだな」とわかる。そういうときのマクロファージは(好中球といっしょに登場したときに比べると)腹を膨らませていて、これはバトルの後に敵の残骸を食って体の中にため込んだからなのだ。そして、マクロファージの近くには、元は好中球だったと思われる「好中球の残骸」(核塵という)も落ちていることがある。そういうのを見ると病理医としては設定の奥に潜んだ関係性まで読みにいくべきだと思う。「ちょっと前に戦闘があったんだな」「好中球は戦い終わって天に召されたんだな」「ひとり残されたマクロファージは余韻を噛みしめているんだな」と、いろいろ複雑な情報を得てストーリーを構築することも可能だ。



肝臓を針でチョンと刺して細胞をとってくるときのことを考えよう。主治医は「肝炎」を考えているようだが、患者が一番しんどい時期に肝臓に針を刺すのをやめて、しばらくは治療をしていた。ようやく細胞を採取するころには、病気が治りつつあって、そうなると病気の証拠もだいぶ失われているということである(現行犯がいちばん逮捕しやすい。時間が経つと説得力のある証拠は減っていく)。

そういうタイミングで細胞を採って顕微鏡で見ると、観察できるのは「ケンカの痕跡」ばかりである。実際にどんな炎症細胞がどうやって戦っていたかはわからない。ただし、よくよく観察すると、何かの構造物の横で「満腹そうな顔をしているマクロファージ」がぽつんぽつんと見られる。このマクロファージたちは、今から1週間とか2週間前に起こったケンカの後始末をしたやつらなのだ。今まさにケンカをしているというわけではないが、少なくともぽつんと残されたマクロファージを見れば「ああ、この近くで過去に激しいケンカが起こったんだな」ということはわかる。これはつまり「時間と場所の情報」が得られているわけで、マクロファージの「ぽつん」だけで肝炎の原因がひらめいたりすることもあるのだ。



リンパ球にはB細胞とT細胞がいる。「はたらく細胞」で有名なように、T細胞はさらにキラーTとヘルパーTと制御性Tなどに分かれるが、B細胞もじつは細かく成長段階がある。たとえば粘膜の深部にいるB細胞はスンとした顔をしているが、粘膜の表面に移動して外敵といつ接触してもおかしくない! みたいな場所に移動するといつのまにか手に何やらいっぱい持っている。それはイムノグロブリンと呼ばれる飛び道具で、外敵に投げつけて免疫を発動させるためのものなのだ。こういう武器をたっぷり携えたB系の細胞は「形質細胞」と呼ばれる。大枠ではB細胞なのだがその中でも特に名前を付けわけている。イメージとしては「警察官」と「機動隊」の違いみたいなものだ。機動隊員だって警察官ではあるが、最前線で戦うやつらにはそれなりの名前をつけたほうがいい。で、性格と関係性を考える。B細胞とT細胞はわりといっしょに出現することが多い。しかしB細胞系列の中でも形質細胞まで「特化」してしまうと、外敵のことに頭がいっぱいなのか、徒党を組んで仕事に忙しいのか、形質細胞どうしでカタマリ合うようになって、T細胞との入り混じりはわりと少なくなっていく。

そういう「関係性」が普通なので、逆にたとえばT細胞と形質細胞が同じくらいの割合でひしめきあっていたら、それは何かおかしいことが起こっている、と考えをめぐらせることができる。おかしいことというのは外敵が突っ込んできて味方の布陣がぐちゃぐちゃに崩されているとか、あるいは外敵ならぬ内部のワルモノによって歩調が乱されているとか。



「あっ何か起こっているぞ、今はストーリーが盛り上がりつつあるところなんだな」と気づくことで、顕微鏡でどこをどう観察すべきかもわかりやすくなる。キャラの設定を把握して関係性をきちんと読み、いつも見られない関係が出現したときには「何かがおかしい」とギアを入れ替えてじっくり顕微鏡を見る。そういう種類の診断方法がある。かなりオタクと親和性の高い仕事である。

2023年6月8日木曜日

漂流検査室

「心がざわつく」というだけで、けっこうわかってくれる人が多い。ざわつくというのは便利な言葉だし、なかなか不思議な表現でもあるなと思う。ざわざわ、というオノマトペに「つく」という接尾語。

何がざわざわしているのかというと、それは脱分極して再分極するまでの間の心筋かもしれないし、気管の線毛かもしれないが、あるいは胸部を走行する交感神経のシナプス間隙なのかもしれない。

いずれも胸の中にある。だから胸に手を当てるのだろう。手当てによって興奮を落ち着かせる。そこに心がある。

「心は胸にはないんだよ、脳の中にあるんだ」という説明を受けて納得して何年経ったろうか。35年か。40年か。今になって思うのだけれど、脳というCPU+メモリだけで人格が構成されているわけがない。心は脳の中だけに収まらない。身体に張り巡らされたセンサーからの入力が常時思考に影響を与えていることは言うまでもない。心の支部が体中にあると解釈するべきだ。脳は心の大事な一要素だが、すべてではない。脳から連続した中枢神経と、何度かシナプスを乗り換えた先の末梢神経とを、ここからここまでが心ですと切り分けることに意味はない。

AIは身体を持たなければどれだけ進化しても生命にはたどり着かない、みたいな本を読んだ。生命にたどり着かれてたまるか、と思うし、身体なき脳がいくら思考したところでそれは我々が定義する思考とは別モノなのだから心配には及ばないとも思う。ただぼくらが気にしているのは基本的にAIが人間に成り代わるかどうかではなくて、人間が楽しんでやっていることをAIが横取りしたらムカつくなとかそういう程度のことである。病理診断をAIがやってくれる未来に、「本当は自分でやりたかったのに今はAIのほうが早くて正確だから自分でやらせてもらえない」となったら腹が立つだろう。しかしぼくは病理診断を自分でやりたいなんて言ったことはない。ぼくは病理医でありたいけれど病理診断だけが病理医の仕事ではない。切り分けるから間違うのだ、そこを適当にしておけば、AIに嫉妬する必要だってなくなる。

ここからここまでだよと定義するからおかしなことになる。デフォルトモードの守備範囲は想像以上にファジーだ。彼我の境界なんて簡単に引けるものではない。病変範囲を確定する仕事ばかりしていると、つい、ここからが自己だと決定したくもなるし、若い頃はそれが生きがいだったのだけれど、最近少しずつ視力が悪くなり、ときに手足の先が世界と癒着しているように見えてしまうことがあるくらいで、のったりのったりと緩い振幅でときおり局所的にエントロピーを下げ、結果としてそれが胸の中で何かをざわざわと揺らしていて、ああ生命なんてあいまいなんだなと思う。自分の心のある場所もたまにその辺にいる人の指先だったりするのだ。思った以上に漂流する。

2023年6月7日水曜日

病理の話(784) 転移かそれとも別モノか

一部の病気は、体のどこかに発生したあと、なんらかの手段でほかの場所に移動して、そこでまた増える。あたかも、雑草があちこちにタネをばらまいて増えるかのように、ひとつの場所でだけ悪さをするのではなく、いくつもの場所を侵して悪さをするのだ。

特に「がん」においては、「転移」という言葉が有名だ。おそらくあなたも聞いたことがあるだろう。


ひとつの場所に留まっている病気だったら、その部分だけを手術でとってしまえばいい。それで病気を根絶することができる。しかし、「転移」したがんを制御しようと思うときは、医療者はいろいろな工夫をしないといけない。


「転移した病気もぜんぶ取ってしまえば治るんじゃないの?」というアイディアもある。

しかし、先ほどの雑草のタネの例でもわかるように、すでにどこかに転移している病気というのは、たいてい、1箇所だけではなくてほかの場所にも転移しようとしている。庭の雑草を一本ずつ引っこ抜いても次から次へと新しい草が生えてくるように、がんの転移する先をどんどん取っていけばしまいには臓器がなくなってしまうだろう。それでは困る。

なんというか、抜本的に考え方を変える必要があるのだ。手術のようにあちこちを削り取る治療をするのではなく、薬を全身に行き渡らせて、転移している病気を同時に攻撃する、などのアイディアが要る。


したがって、「この患者の病気は転移しているなあ」と判断することはとても重要なのだ。転移していないときと、転移しているときでは、治療方針がまるで異なるのだから。


そして、ときに、患者の中にはまぎらわしい現象が起こる。


たとえば、同時にふたつの病気ができる。大腸と肺にひとつずつ、まったく別の病気がたまたま偶然できてしまったとする。

この場合、たとえば大腸の病気が「肺の病気が転移したもの」だとしたら、治療として手術を選ぶことはあまりない。

さっき書いたように、転移している病気を治療するときは考え方を変えなければいけないからだ。

しかし、もし、大腸と肺の病気が「それぞれその場所で、まったく無関係に発生したもの」だとしたら、つまりどちらもまだ転移していないとしたら?

なんと、「大腸の病気と肺の病気を、それぞれ別の手術でとってしまえば」、両方とも治る見込みが出てくるのである。


転移か? それとも、別モノか?


これをどうやって判定すればいいのか。


CTやMRIで、病気の輪郭や内部性状を観察する。一方の病変が、もうかたほうの病変の「転移」である場合には、ふたつの病気がどことなく似てくることが多い。

ただ、画像では限界もある。病気が別の臓器に移動してそこで陣地を貼るとき、元々いた場所とは違うかたちで陣地を作ることもあるのだ。日本のヤクザが海外に展開しているシノギは、現地のニーズにあわせて、国内のそれとはデザインを変えるだろう(たぶん)。それと似ている。

そこで登場するのが病理医だ。


手術をする前に、大腸と肺から、それぞれちょっとずつ細胞をとってくる。大腸は大腸カメラごしにマジックハンドを伸ばして。肺は気管支鏡というカメラを用いて。小指の爪の切りカスくらいのかけらでいい。

それらの細胞を見比べる。元が同じ細胞だったら、顔付きは似てくる。海外で暮らしているヤクザも、顔はあくまで和顔だからね。


病理診断というのはこの「圧倒的な解像度」がウリである。ただ……実際にはもう少し難しい。日本のヤクザが韓国にいるとして、顔だけで区別するのはけっこう大変だろう。そういうときは、持ち物検査(例:免疫染色)などを駆使することになる。Suica持ってりゃ日本人だろ、みたいに。でもまあ……韓国人もいまどきけっこうSuica持ってるかもしれないけどな。

2023年6月6日火曜日

味見終了のおしらせ

先日とある分厚い本を読んだ。『音楽が未来を連れてくる』という書名。600ページ近くある本書には、ラジオ→CD→iTunes、ナップスター(の失敗)→iPhone→Spotifyといったように、文字通り音楽の「百年史」が描かれている。

これはそのままメディアの歴史でもあるしIoTの歴史でもある。

人が音楽をよりよく聴くために技術が開発されていった……とまとめたくなるが、実際には、さまざまな理由で偶然開いた技術の扉を音楽がダッシュで通り過ぎていく、みたいな印象を受ける。目的のあるものづくりだけでは世の中は変わっていかないし、世の中は変えたくない部分まで勝手に変わっていってしまうものなのだなあ、としみじみ思う。

無料でコンテンツをいくらでも見られる時代、ティーンは一銭も払わずにコンテンツまでたどり着くのが当たり前だが、ではどこに金が発生するのか。どうやって業界は生き延びたらよいのか。

無料(フリー)のYouTubeよりも、より自由(フリー)な音楽生活をユーザーに提示するのがSpotifyだという。

でも、サブスクで救われなかったバンドがぼくは好きだった。

きっと、iTunesの時代に滅んだいいミュージシャンもいたのだろう。

あるいは、レコードからCDになったときに滅びたアーティストもいたのかもしれない。だからぼくの感傷は今さらなのかもしれない。



なんでも無料で聴けてしまう今、音楽業界は誰にどのようにお金を払ってもらっているのか?

コンテンツ周辺のサービス(例:べんりさ)を充実させる。推し活動の都度課金を応援する。ライブの価値を再評価する。

業界全体はさまざまな工夫を用いて、トータルでの音楽産業を復活させようとがんばっている。

しかし最初から最後まで正解ばかり選べた企業はほんとうに一つも存在しない。SonyもAppleもコケている。少しずつ滅んで入れ替わっていく。



栄枯盛衰をあはれに思いながら本を読み終わった。ぱたんと閉じてカバンにしまった瞬間に考えていたことは、

「人は30代で音楽離れする」

というフレーズのことだった。そこかよ、という感じだが、そこが一番自分ごとだったのだ。もう40代だけど。

言われてみれば、ぼくも30代中盤くらいから摂取する音楽の量ががくんと減った。離れたつもりはなかったけれど、本やマンガに比べるとあきらかに、音楽だけに向かい合う時間は減っていた。それに今さら気づいた。わりと「聴いている」つもりだったけれど……。

ラジオやポッドキャストを便利に聴いているなんてこないだもここで書いた。でも、その中に占める音楽番組の割合が年々減っていた。耳は使い続けているのだ。でも音楽に割当てていない。盲点だった。

あるいは、「最近の若者の音楽がわからない」と中年が言いたくなる理由の一端を見ているのかもしれない。趣味がずれるからわからないのではなく、単純に摂取量が激減しているからわからなくなるのだろう。

40代中盤の知り合いを見渡してみる。いまだに音楽と昔のような距離感を維持して聴きまくっている人の心当たりが、正直あまりない。なんらかのアイドルやグループ、バンドを推し続けている人はいるが、「音楽番組なら一通りチェックしている」とか、「Spotifyで延々とプレイリストを回し続けている」みたいなタイプの人がぜんぜんいない。



スペースシャワーTVばかり見ていたあの頃のエネルギーというのは何に向けられていたのだろう。


……自分が共鳴できる場所を探していた? 陣地をじわじわと広げるような侵略行為だったのかもしれない。

だから領地が固まって外交も平和的なものばかりになり、内政だけしていれば安定できる状態になった(アイデンティティがはっきりしてきた)30代以降は、他者の表現を次々と味見していくような活動に興味をなくしたのかもしれない。



それは音楽だけの話だろうか。ぼくは今、味見全般に飽きているのではないか。そうでもないか。マンガについては今もがんばって領地を広げようとしている気がする。でも、映画はもうやっていない。音楽と一緒かもしれない。ゲームもそうだろう。スポーツなんて最たるものだ。仕事は……。

仕事もか。仕事もなのかもな。

2023年6月5日月曜日

病理の話(783) ほかの病理医の診断を見る

病理医を年単位でやり続けていると、「報告書(レポート)の書き方」みたいなものがある程度固まってくる。スタイルを手に入れるというか。

逆に言うと、最初はスタイルがないので、いろいろ教わる必要がある。


「胃炎のときにはだいたいこういうことをレポートに書こう」

「大腸癌の診断ではこれくらいの項目を記載するぞ」

「リンパ節が提出されたらこの順番で所見を書いていこう」


これらを臓器ごと、病気ごとに確認していくわけだ。


勉強し始めのころは、ボスが「ひながた」のようなものを用意してくれることも多い。バラエティ番組で「めくったら答えが書いてあるフリップ」があるでしょう、ああいうかんじのものを用意しておくわけだ。若い病理医は、フリップの空欄部分に、顕微鏡で見てわかった結果を埋めていく。細胞を見た結果を書けと言われても、何を書いていいかわからないときは、こういう穴埋め形式がとても便利である。


【肉眼所見】

[  ]検体。割面にて、[  ]×[  ]×[  ] mm大の、[  ]色調を示す境界[ 明瞭 不明瞭 ]な結節性病変を認める。

【組織所見】

組織学的に、病変内には異型を有する[  ]細胞が[  ]状構造を形成して増殖している。深達度は[  ]で、~~~~~(以下略)



こうして病理の訓練をしていくうちに、レポートを書くスタイルもだんだんと固まっていくのである。

(※なお蛇足だがぼくはレポートを全部敬語で書いている。)




さて、自分のスタイルもだいぶ固まってきたかな、というある日のこと。

もともと他の病院にかかっていた患者が、過去の病理レポートをたずさえて来院した。昔、ある手術をして、今回はそれが再発したかもしれないし、別の病気が新たに出たかもしれない、ということなのだそうだ。

昔の手術は他の病院で行われているから、その病理診断も、当然自分以外の病理医が書いている。日頃なかなか見る機会のない、他の病理医が書いたレポートに、興味しんしんになる。

「あの病院では、どんな病理診断をしているのかな?」

いざ、他の病理医の書いたレポートを見ると、スタイルがいつも自分で書いているものとはだいぶ違う。すごくおもしろい(患者の病気をおもしろがっているわけではないので悪しからず)。

百人の病理医がいれば五十通りくらいのスタイルがある(さすがに百通りとまでは言わないが)。

師匠が違えば書き方も変わる。

主治医のオファーが変わるとレポートの様式も変わる。

同じ細胞を見ていてもこんなに書き方が違うのか、と驚くこともしばしばだ。

イメージとしては、同じ野球の試合を見て作られたはずの朝のテレビ番組でも、局によってVTRの流し方やフリップの出し方がまるで違う、みたいなのに近い。



野球の例えを続けよう。「誰が見ても確定的な情報」……たとえば勝ち負けとかスコアについては、多くの病理医がだいたい同じように記載している。

しかし、たとえば勝利投手にぐっとクローズアップして報告するのか、はたまた勝ち越しタイムリーを打った5番打者にフィーチャーするのか、みたいな部分が違う。ある先発投手が1安打された以外はほとんど完璧に抑えた、みたいな書き方と、若いピッチャーをリードしたキャッチャーの配球が良かった、みたいな書き方では、同じ勝ち試合のレポートといってもだいぶ差がある。


そうやって、ほかの病理医の書いたものを読んでいると、いろいろと「奥底」を考えるようになる。

あるレポートをを読んで、どうやら自分が日頃書いているレポートよりも「文字が少ないな」と感じるとき……。「この病理医は、自分で見たモノを全部は書かないタイプだな、結果だけを書いていけば主治医は喜ぶと思ってるんだな……」なんて、ちょっとネガティブな感想を持ったりする。

しかし、同じレポートを違う病理医に読ませると、「この人は慎重だね。一瞬、このプレパラートのこの部分について書きたくなるものだけど、よくよく見ると、これ、判断が難しい。余計なことを書くと主治医も迷ってしまうかもしれないから、悩んだ末に書くのをやめたのだろう」なんて、まったく違う判断を下したりする。

そういうときにハッとさせられる。

「書かないことであいまいさを回避する」みたいなやり方もあるのか。確かになあ。近頃、あまりそこには気を遣っていなかったなあ。などと。



他の病理医の書いたレポートを読むと、これまで自分のスタイルに合わせて機械的に穴埋めしてきた項目を見直してみようかな、とか、昔の病理医は書いていたのだけれど昨今は省略されるようになった細かい所見をあらためて気にしてみようかな、みたいな気持ちがわき上がる。

一度完成させた気になっていた自分の「スタイル」の改善点が見えてくる。



病理医は一人で考えて悩む時間が比較的多い職業だ。そして、自分だけで考え続けているとどうしても閉鎖的に、あるいは盲目的になる。狭い視野からの限られた情報に踊らされることで生じるミスを防ぐために必要なのは、まずは「臨床医たちとわりとしっかりめにとコミュニケーションする」ことだ。他方面の視点を取り入れて二人三脚で取り組めば、大きな間違いは起こらない。

そして、加えて、「他の病理医たち」にも目を向けるとよいと思う。病理医どうしの「スタイル」の違いを認識して、あの人はなぜこのような文章の使い方をしているのだろうと考え、自分の診断に欠けているものや、あるいはあまり意識していなかった部分、気づかないうちになんらかの効果を発揮していたフレーズなどを丁寧に見直していく。レポートを受け取って読む臨床医すら気づかないような、細かい助詞のニュアンスの違いひとつにも、病理医はなるべく心を配ったほうがいい。肯定や否定、可能性の多寡などに関わる、「言外ににじむニュアンス」が、いつのまにか主治医の意志決定に無意識的に働きかけていることもあると思う。ほかの病理医の診断を見て考えることは、そういう部分で役に立つのではないかと、今のぼくは考えている。

2023年6月2日金曜日

より大きな炎

マインドフル・プラクティスという本を読んでいて、ふと気づく。少し前からぼくは、たぶん「燃え尽き症候群的」な場所にいる。

いつがきっかけだろう。春の病理学会が終わったこと? 医学会総会が終わったこと? この春には大きな仕事がいくつかあった。そのどれかで精神的な体力が尽きたのだろうか。


灰になって無気力・無感動かというとそういうわけでもない。ひとまず今は自力で働けており、若手の指導もしていて、学術の仕事も増え続けており、病理学の勉強も今までと同じようにがんばってやり続けることができている。「仕事の意欲」とか「生きる活力」みたいなものはまだわりと余力がある。気力も感動もあるのだ。

しかし何かがなくなったと感じる。

燃え尽きたものはなんだろうか。それは「不安」ではないか、と口に出してみる。とっぴな言い方だが、どうもこれが一番しっくりと来るのだ。

燃え尽きて不安なのではない。逆である。不安が燃え尽きた。

ある種の不安が欠乏しており、不安によって支えられていた心の張りが失われているのではないか、ということだ。


とはいえ、人間の不安がまるごと燃え尽きることなんてない。人は暮らしている限り雑多な不安に付きまとわれる。生・老・病・死みな不安なのは当然のことだ。

しかし、それでも、今のぼくの感覚は、「心の中心にずっとあった、ある特定の不安がまとまって壊死して空洞化した」という感じなのである。


「ある特定の不安」とは、おそらく、「未来が見通せないことに関する不安」だ。ぼくは今、自分の未来が少しずつ見通せるようになってきている。だから不安が減っている。そして、不安が減るというのは、どう考えてもいいことに思えるけれど、じつはいいことばかりではなく、空洞もできてしまう。


未来がわかるならいいじゃないか、ぜいたくを言うな、よかったですねと反応されるかもしれない。しかしコトはそう単純ではないと思う。


毎日コツコツと働いていると、ときどき同僚や他院の医療者、あるいは出版社やメディアの人間から、一緒にあれをやりましょうと声をかけられる。わあ、貴重なお声がけ本当にありがとうございます。こんなおもしろそうな研究を一緒にやっていいんですか? こんな素敵な企画に呼んでいただけるなんてワクワクします。そうやって新しい仕事をやって、周りの人たちといっしょに苦労して、何かを小さく、ときにはちょっと大きく達成して、やった、よかった、またいつか、と言ってニコニコと解散する。


そういうことがたまに起こる今のぼくは、本当にありがたい場所にいる。


しかし、同時に、「そういうことがたまに起こる人間」として確定してしまった。


これは、「できればそういうことが起こってほしいな!」と願っていたときのエネルギーが必要なくなったということである。


ぼくはもう、「声をかけてもらえる」場所にいる。そのありがたさを噛みしめ、これからも呼ばれ続けるように研鑽を積めばいい。


でも、「いくら努力しても、大きな仕事にたどり着けないかもしれない」と思っていたときの、「なにくそ、がんばって大きな仕事までたどり着いてやる!」と思っていたときのエネルギーの行き場がなくなった。


ぼくはこれまで時間をかけて実装してきた「武器」の使い所を失ってしまったのだと思う。



自分が、医療の世界にとって、あるいは社会にとって、何ものでもなかった20代から30代には、「何かいいことが起こってほしい、起こるかはわからないけれど自分で切り開く!」と、抗不安的に努力したり克己したりする一連のプロセスが必要だった。それがだんだん要らなくなってきたことが、ぼくの今の空虚さの根底にあるのではないか。

「だったらもっとでかい仕事目指してがんばればいいじゃないか」と、思わなくもない。しかしそれはより大きな炎を残して燃え尽きていくことと何が違うのか。

気がついたらぼくは、「不安と戦い続けるため」に自分をフィックスしすぎたのかもしれない。そして、年を経て、精神が安定し、社会的な立場がある程度確定して、かつ、社会の大きな不安が変貌していく過程で、抗不安のために築城したたくさんの「城」が少しずつ要らないものになってきて、それを「燃え尽きた」と認識しているのではないかと思うのだ。



以下、似たようなことを考えた日の連ツイをコピペしておいておく。



★メタ認知って言葉を安易に使うタイプの文章がわりとクソだなって思ってて最近はなるべく避けるようにしてたんだけど、まあクソでもいいか~くらいの気持ちで使うと、近頃メタ認知するとなんとなく今のぼく、燃え尽き症候群ではないかと感じることがある。


★で、その、「自分が燃え尽きていること」について自分ではどう思っているのかと考えると、どうも、「燃え尽き症候群ってよく聞くけど、そうならないようにうまく振る舞っている人の前でそれを言うのが恥ずかしいな」みたいな気持ちが一方にある。


★他方で、「燃え尽きたけど炭になってがんばってます笑」みたいなプチバズ狙いみたいなメンタルもちょっとあって、つまりは恥じらいと自己顕示欲を瞬間的に「燃え尽きている」という状態にまとわせることで、何かもう少し大きな「がっくり感」から心を守ろうとしているのではないかと分析している。


★燃え尽きについてもう少し考える。これまでの自分は、さまざまな局面で「将来どうなるかわからない」という不安とぶち当たってきたが、その不安と戦う、あるいはやり過ごすために、心にいっぱい「築城」をしてきた。たぶんその城が今、「一時期よりも兵士を減らしてOKになった」。


★状況の変化によって、さまざまな不安に対する対処がおおむね確定してきた。しかしぼくは、おそらく思春期以降ずっと、不安に城と兵士で対処することにかなりのエネルギーを使っていた……というか「対・不安部隊」で心を満たしていたので、「兵力を減らしてよさそう」となったら心まで空虚になった。


★で、クソワードである「メタ認知」を浅く用いると、そこでぼくが「燃え尽き症候群だな~」となったときに、余った「兵士」を、「燃え尽き症候群だとしたら不安だよね!」と自分に言い聞かせながら、「燃え尽き症候群という不安への対処」に向かわせているように思う。


★つまり、「自分の中にある不安と戦う」ことが行動原理のままずっとやってきたために、今、これまでほどには不安と激しく戦わなくてもいい状態がやってきて、「雇った兵士の使い所がない」ことがかつてないほど「がっくり感」として認識され、それがぼくにとっての燃え尽きの正体なのでは?


★今後、自分がどういう行動に出るだろうかと考えると、これも予期できないほどではなくて(予測可能≒不安が少なくて、それがまた悲しく感じるのだけれど)、 ・新たな不安を探す旅に出る ・生老病死の不安みたいな絶対になくならない不安をフィーチャーする ・今不安であえいでいる人にコミットする


★と、このように予測を立てると、この3つっていわゆる「ツイッターの使い方が終わってる三銃士だよ。」「ツイッターの使い方が終わってる三銃士!?」だと思うのである。ああなるほどこうやって面倒なアカウントになっていくのだなあ、無理もないなあ、みたいなことを今は考えている。

2023年6月1日木曜日

病理の話(782) 迷っても書く

細胞が、良性なのか、悪性なのか。

悪性だとしたら、その悪い細胞は、本来いるべきでない領域までしみ込んでいるのか、いないのか。

こういったことを、顕微鏡を見る「だけで」わかるというのが、病理医の本来の「強さ」である。

しかし、前置きのテンションからしてなんとなくお察しかもしれないが、じつはそう簡単な話ではない。



日常的にみる細胞の99%くらいは、ある程度訓練した病理医であればパッと診断が付く。良悪をビシッと決められる。浸潤(異常なしみこみ)の有無をはっきり指摘できる。しかし、1%くらいは迷う。

この1%がきびしい。つらい。むずかしい。

1%ならたいしたことないじゃん、と思うだろうか?

年間に15000枚のプレパラートを見ているとして、150枚は迷っているということだ。

けっこうな量ではないかと思う。

おまけに、そのプレパラートの奥には患者がいるのだ。ガラスの上で迷っている内容は、いずれ、患者の治療法を左右する情報になる。

1%はあなどれない。1%はおそろしい。


では、迷ったらどうする?

もっと経験のある病理医にたずねよう。どんな判断基準で細胞を見ればいいのですか、と聞いてみよう。するとまずはこういう答えが来るだろう。

「この教科書に、すごくいい説明が書いてあるので、じっくり読んで勉強してください。」

「この論文が、まさにあなたの悩みにお答えする内容になっています。著者が書いている、顕微鏡診断のコツを、じっくり学んでください。」



勉強しろってことだ。先達の知恵を借りる。なるほど、そんな見方があったのか。こういう基準で細胞を見分ければいいのか。

病理医は一生勉強だ。病気の数が膨大だから、全部に詳しくあり続けるということは無理なので、診断する度にあらたに勉強するくらいの気分でいなければいけない。

そして、勉強すると、1%のうち約半分くらいは解決に向かう。

しかし……0.5%くらいは、それでもまだ、迷う。


「教科書を読んだけれど、教科書の先生も、こういうのは難しいって書いてるなあ」

「論文を読んだけれど、これは諸説ありって書かれてるなあ」

歴史考察モノによく出てきて我々を少し肩すかしな気分にさせる「諸説あり」。なんと、病理診断の世界にも存在する。ぎょっとする。がっかりする。さもありなん、とも思う。だってどう考えてもこの診断、難しいもんな。

ある細胞が、良性か悪性か、「諸説ある」なんてこと、許されるの?

ある細胞が、周りにしみこんで将来転移するかどうか予測するにあたって、「どちらともいえる」なんてこと、病理医が口にしていいの?

困って、悩んで、偉い人に聞いて回る。

すると偉い人も、このように言う。

「ぼくはこう思うけど……それは今までの経験とか勉強してきた結果を踏まえてのことなんだけど……○○大学の別の先生は、違うことを言っているんだよね。」

なんと専門家の間でも話が割れるというのだ。



諸説あって、悩む診断。

病理医は「わかりませんでした。」のひとことでレポートを書いて終わってよいだろうか? 

じつはそういう病理医もいるのだけれど……できれば、もうちょっと、「粘りたい」。


「○○学派ならこう考える。△△派はこう考えるそうだ。つまり人によって解釈が異なる。しかし私が考えるに、この患者においては、将来こういうリスクがあるから、これくらいの治療を、これくらいの頻度でやっておくと安心できるのではないか……」


プレパラートの上でどういう判断を下したら、主治医が次にどういう行動に出るかということを踏まえて、さまざまな意見を丁寧にまとめる。悩むなら悩む理由を共有する。迷うからには迷うポイントがあるのだ、そこをはっきりさせる。

迷っても、書けそうなことをきちんと書く。それが病理医のプロ意識だと思う。

大変だけどな。



ところで、ひとつ、救い……にはならないが参考にできそうなことを言う。

「A病だとはっきりわかる状態」と、

「B病だとはっきりわかる状態」があるとする。

A病だとはっきりわかるときには、A病の治療が効きやすい。当たり前である。

B病だとはっきりわかるならば、B病の治療のほうがよく効く。当たり前である。

では、「A病かB病か迷う状態」のときはどうか?

どちらの治療もそこそこ効いて、かつ、どちらの治療も効ききらない、なんてことがあるのだ(場合によります)。

おそらく、AとBの「中間の性質をもった病気」なのだろう。だから診断も難しいし、治療もなんとなく、どっちもそこそこ効くのだ。

こういうとき、病理医は、「A病とB病で迷っています」と正直に書いたほうがいい。むりに自分だけの判断で、エイヤッと、「迷いましたがA病です!」と書くと、かえって患者の治療選択のキレ味が落ちたりする。



あるいはもうひとつ、参考にできそうなことを言う。

「A病」と聞いた主治医は、ある方針をとる。患者にこういう治療を行い、次は○か月後に病院に来てねとお願いする。

「B病」と聞くと主治医はまた違う方針をとる。A病に比べるとやや強い治療を行い、次はA病よりも少し早めに病院に来てください、という。

では、病理医が「A病かB病かわからない」と言ったときはどうするか?

主治医は、「A病であってもB病であっても通用する治療」を選び、「もしB病だったときに困らないように、患者に少し早めに病院に来てもらう」というような判断をしたりする。

つまり、主治医は、「病理医がわからないと言うこともあるよね」という態度で医療をやっているのだ。だったら病理医は、AかBかで迷ったときに無理矢理エイヤッとどちらかに決めるのではなく、正直に「迷います!」と言えばいい。そんな考え方もある。



けどまあ、心の中だけでぐちゃぐちゃこねくり回していないで、ちゃんと言語化して、主治医に考えていることを共有するのだけは、忘れてはいけないと思う。迷ったならどう迷ったのかを書き、その後主治医がどうするのかを気にするべきなのだ。