先日、「LOVOT」というミニオンズみたいなロボットを作っている会社の社長(林要さん)と対談したときに思ったことを書く。
我々(林さんとぼく)は、思考回路が一本道な状態がたぶん苦手である。かつ、嫌いというほどではないが、ストーリーがひとつだと「そんなことはないだろう」と考えてしまうタイプでもある。
たとえばぼくは、生命活動がわかりやすく一本のストーリーで説明されているのを見ると、いちいち口に出してツッコミはしないけれど心の中で「それはまたずいぶん省略したなあ」とか、「解説を楽にするために単純化したんだなあ」と感じる。たとえば、
「アドレナリンが出ると人間は興奮するんですよ」
みたいなやつだ。ホルモンによる人体の調整は、一本の因果関係でまとめられる話ではない。「興奮」についてはアドレナリン以外にもいろいろな物質が関与するし、アドレナリン自体にもいわゆる興奮作用以外のさまざまな作用があって、アドレナリンが出れば(そもそも出るとはどこからどこに出るのか?)必ず興奮するわけでもないし、たぶんだけどアドレナリンは用量依存的とも言いきれない。
「アドレナリンから出た矢印をずっと追いかけていくと興奮にたどり着く」という理解はすごく厳密に言うと間違いである。上の文章は、途中を省略しているから不正確なのではない。筋道一本しか書いていないから不正確だ。
そういう「一本のストーリー」に対して違和感を持つムーブは、たぶん、林さんにもあるんじゃないかなと感じた。
そもそも林さんが最初に専門としていた流体力学自体、線形解析ひとつでどうにかなるものではない。複数のファクターのどれが結果に影響を与えるのかが毎回変わる世界ではないかと、素人ながら推測している。カオスも絡んでくるし、確率論も偶然性も関与しているだろう。
ひとつのファクターを追いかけても結論が見えてこない系の話を、ぼくはかつて本の中で「群像劇」と言い表したことがある。
このブログでは、「サッカーアルゼンチン代表が勝った理由はメッシがすごかったから、だけではないよね」みたいな説明を使ったこともある。
人体にしても流体にしても、自然現象を扱う学問、つまりは自然科学を語る上では、「何かひとつの因果関係を証明しても、それが全体の挙動にそのまま結びつかない」ということを、ぼくらは感覚的に身につけていなければいけないと思う。
「再現性のある実験結果を示すことは大事。統計的にエビデンスを示すことも大事。しかし、それらの個別のデータが活用できるのは、限定的な局面に限られるので、ひとつのストーリーをもって、事象の全体を言い表すことは難しい」
科学者とは、複雑系を語る上でエビデンスが語れる範囲の限界を知った上で、「それでも開けそうな局所は開いておく」といって、エビデンスを構築していく職業である。
アドレナリンだけで全部説明できないなんて百も承知で、アドレナリンの周囲で起こる生体現象をひとつひとつ解析していくのが科学である。
ところで、科学のことをよくわかってない人、もしくは、中途半端にわかった気になって、それでいて科学をどこか軽視している人たちというのは、「エビデンスなんて別に偉くない」みたいなことを言う。
まるで、「科学者はエビデンス至上主義」であるかのような言い草だ。科学者が証明し続けているエビデンスが役に立たないと言ってやることで、科学者が精神的にダメージを負うと思っているかのようだと感じる。
でも、科学者からすると、「何をいまさら当たり前のことを……」としか思わない。
エビデンス「だけ」で何かを言い尽くしたなんてそもそも思ってない。自然科学が複雑系だなんてこと、科学嫌いに言われるまでもなく、さんざん科学的に証明してきた。
それでも、エビデンスとして構築できるものがあるならば、やっておく。
限界があることは知っていて、でも局所の現象を丁寧に掘る。
限られたシチュエーションでのみ使える武器であっても、ちゃんと研いでおく。
「科学嫌い」は、「エビデンスがすべてじゃない!」と、鬼の首を取ったように言う。その言葉は、科学者からすると、「うん。」としか返事のしようがないものなのに。
科学は素養として持っておいたほうがいい。自然が複雑系であるというセンスを持ち合わせないままに、「エビデンスがすべてじゃない」みたいなフレーズを殺し文句だと思ってちらつかせている状態は、弊害のほうが多い。
科学はずっと、複雑系をどう記載するかを、呪いのように心の中に留めたまま成長してきた。その苦しみの一歩目にもたどりつかないで、「エビデンスなんて役に立たないよ」って言って、人を傷つけようとする、その心根にぼくは小さな違和感を持つ。