病理医の「仕事相手」は、患者から採取されてきた臓器、組織のひとカケラ、そして細胞である。ぼくらは細胞と向き合う。
……と、このように書くと、いかにもストイックで純朴な(?)お仕事だなっていう印象を与えることになるだろう。事実としてはそのとおりなのだけれど、言い方を変えることもできる。たとえばこのように。
病理医の「仕事相手」は、消化管内科医、肝臓内科医、胆膵内科医、呼吸器内科医、血液内科医、外科医、耳鼻咽喉科医、婦人科医、皮膚科医などなどなど……。ぼくらは検体を出すさまざまな医師と向き合う。
……ほら、このように書けば、なんとも八方美人な(?)お仕事だなって印象に変えることができる。物は言い様だ。たくさんの相手と日替わりでお話しをするコミュつよ職業人ですぅ、みたいな顔で通すことが可能である。
しかし、冷静になってほしい、結局我々のやっていることは「細胞という窓から人体をのぞき見する」というシンプルな手法である。つまりは「毎回違う人に同じことを語る部門」ということなのだ。
そこで、突然だが、病理医の皆さんにおすすめしたいのが「1日1コラム」である。
コラム……というかまあブログの記事とかでいいんだけど……を毎日日替わりで書いてみてほしい。
たぶん、まず、「毎日違う臓器の話を書けばいいんじゃね?」という発想になる。
「これ楽勝じゃん。食道、胃、十二指腸、膵臓、胆管、胆嚢、肝臓……いくらでも書くことあるじゃん」とたかをくくる。
そして、すぐに気づく。
「でも結局毎日同じこと書いてる!」ということに。
今日は消化器内科、明日は呼吸器内科、あさっては外科医向けに書くぞ! いつまでも書けるぜ! と笑っていられるのも数日のことだ。けっこう早い段階で、「この言い回しは昨日も使ったな」とか、「ここ3日間結局同じこと書いてるな」みたいなことに思い至る。
そして、その、気づいたところから、病理診断医としての「職業専門性」が鍛えられ始める。
顕微鏡を見て、細胞を見て、核や細胞膜や細胞質を見て、免疫染色を見て……という、どこに対してもやっている「同じこと」の中に潜む、臓器ごとにアレンジしたほうがいい部分、主治医ごとに使い分けたほうがいい言葉。非常に細かな「差異」をきちんと言語化するということが、おそらく我々病理医の業務の、かなり中心のあたりに存在する。
差異をクライアント(異なる主治医や異なる臓器)ごとにきちんと抽出して比較すると、いつしか、自分が初学の段階から勘違いしていた「あること」に気づく。
あることとは。
「病理診断のコア技術がどこかにあるという勘違い」。
細胞を見るという共通点があるのだから、病理診断にはある種の統一理論みたいなものがあるのだろう、それは経験を重ねるにつれてそのうち身につくのだろう、それを早くに手に入れれば一生食っていける、みたいな感覚を、おそらくぼくらは知らず知らずのうちに、医学生くらいのときから、漠然とイメージしていた。ぼくはそうだ。あなたもそうではないか。
しかし、そういうコアというものはない。
や、ま、あるにはあるのだが、コアだけだとプロの病理医としては食っていけない。
「顕微鏡を見る技術」のような病理医としての基本スキルは、「無料配付アバター」みたいなものだ。それだけだとはっきりいってみすぼらしい。これで医師免許を役に立てていると言えるのか? みたいな気分になる。
そのアバターに、いかに適材適所の服を着せていくかだ。
人はおそらく、裸体のアバターを見て「ああプロの病理医だ」とは思わない(たぶん変質者だと思う)。
TPOにあわせた特異的な技術を装備した状態ではじめて、「病理医はいつもぼくらのような専門家と伴走してくれるなあ」と安心感を持つ。
毎日1コラムを書いてみるといい。1週間くらい続けてみて、それぞれ違う対象に向けて書かれた記事を読み比べてみるといい。それが「無料アバターの髪型だけ変えたもの」になっていないかどうかをチェックしてみてほしい。そこで物足りないと思ったら、きっとそこに、病理医としてのスキルの不足がある。経験の足りなさがある。理論だけあってもだめだ。何かを着なければいけない。ぼくはそうやって、今日まで792回、ちきしょうまだ裸だな、みたいなことを考えさせられてきた。これからも続けていくつもりだしこれはやっていてよかったなと正直納得している。