2023年6月21日水曜日

病理の話(789) 双眼鏡も顕微鏡もいっしょ

顕微鏡で細胞を見る。顕微鏡というのはクローズアップするためのものだ。クローズアップするとどうなる? 広く見渡すことができなくなる。このことをわりと真剣に考えておく必要がある。


あなたは今、野球場にいる。外野の3階席くらいにいると思って欲しい。すり鉢状の球場全体がなんとなく見通せる。そこで双眼鏡を取り出して、グラウンドにいる選手を拡大する。顔までよく見える。ちょっと笑顔を見せている。あるいはすこしストレッチなどしている。選手の様子がとてもよくわかる。うれしいなと思う。


しかしその一方で、選手をずっと拡大していると、野球の様子はあまりよくわからなくなる。たとえば外野手だけをずっと見ていると、基本、試合中に行われている動きの8割くらいはよくわからなくなる。ピッチャーが何を投げてバッターがどこに打ち返して野手がどう動いたか、みたいなことが判別できない。ときおり外野の選手は、内野の様子にあわせて連動して、あちこちポジションを変えたりするので、何かが動いていること自体は把握できるのだが、具体的に何が起こっているか、試合がどういう方向に動いているかは一切わからない。


仮にあなたがその外野選手のファンで、その人が試合でどのような動きをするのかを逐一知りたいと思って球場に来ていても、ひたすら双眼鏡で眺めていては、選手の考えていることも、どういうシチュエーションで何をしたのかも、わからないままである。なすべきことは簡単だ。双眼鏡をいったん膝に置こう。そして、球場全体をぼうっと見通すことこそが大事なのである。


平時はとにかく球場全体を見るともなしに見る。応援しているチームと敵チーム、どちらの選手もまんべんなく目に入るようなポジションで野球全体を見る。ボールの行方もちゃんと追うし、ベンチの人間達のざわめきや、ついでに言えば観客席のうねりなども含めて野球全体を見よう。ロングショットの目線で全体の流れをきちんと把握するのだ。


そして、いざ、局面が動いて、「あっここは外野選手が動くタイミングだ!」とわかったら、そこではじめて双眼鏡を用いる。拡大を上げるときには少し弱い倍率からスタートして、外野と内野の連携がわかるくらいの視野もチェックする。そして一気に、躊躇なく外野手の全身がくっきり見える倍率までぐっと拡大する。それによって、今日の選手の体調の良さ、判断のスピード、どこに目を配ってどっちに走って、どうやってボールを受け止めてどのように投げ返したのかがわかり、その選手が試合にどのように貢献したのか、あるいはエラーをおかしたならそれがどれくらいの悪影響を及ぼしたのかがわかるようになる。



細胞観察のときも全く同じ事をする。胃粘膜から採取された検体を顕微鏡で見るとき、いきなり拡大を上げることをせず、まずは検体全体を見渡す視野を確保する。その時点では細胞ひとつひとつの核は観察できないし、ピロリ菌のような小さな菌体も小さすぎて見えない。しかし、細胞同士がどこにどのように配置して、どこがスカスカでどこが密なのかという情報が手に入る。これは野球場にどれくらいお客さんが入っているかがプロ野球全体の盛り上がりやチームの順位などといったさまざまなファクターに影響されているのと同じように、その胃粘膜が今どういう状態なのか、がんになりやすいかそうでもないのかみたいなことを病理医に教えてくれる。そして、「なんとなくこのあたりにがん細胞が潜んでいそう」というポイントまでを確認してから躊躇せずにそこを拡大する。最強拡大にせずともいい。細胞の核や細胞質が見られる段階まで拡大すれば十分だ。そして、拡大する前に、診断はほとんど終わっている。外野手をクローズアップしなくても野球全体の流れはだいたいわかるのといっしょなのだ。しかし、あなたは外野手……じゃなかったがん細胞の細かい評価をしたがっている。スカウトのような目線で。今の状態がどうなのか、何を考えて何をしようとしているのかを冷徹に見極める。拡大がされたころには診断は終わっているが、拡大することで終わった診断にさらに輝きが増していく。


ロングショット→ズームアップ。極意というか……いや、そりゃそうでしょ、くらいの話だ。しかしこういうところを大事にしないと、「はじめて双眼鏡を買ってもらった子ども」のように何でもかんでもクローズアップばかりする、「遊び盛りの病理医」みたいなことになってしまうから注意が必要である。