2022年12月29日木曜日

いやな新海誠作品と生き延びるためのコツ

年末進行おつかれさまです、12月18日に本年最後の大きな講演(収録)が終わってから体調がめきめきと良くなっており、今ならまさにどんな仕事でもできるぞ! というタイミングできれいに正月休みに入ることになりそうだ。ここできちんと体重を増やして1月からの業務に備えたい。まあそろそろ仕事はいいだろう。できるかぎりのことはした。


これを書いているのは12月20日なので、まだいくつか業務が残ってはいるのだけれど、すでにちょっと気が抜けはじめており、今日は寝癖のまま出勤した。今のぼくのキャラだと、臭いが出ないこと、粉をふかないことの2点に気を付けて身だしなみを整えておけば、寝癖くらいはノーダメージというかむしろチャームポイントになるだろうと計算してあえて寝癖を残している。今のは嘘であるが半分本当である。「そういうの」がどんどんどうでもよくなってきた。たぶん若い頃は、どうでもよくなかった頃は、精神が今よりはるかに忙しかったなあと思う。


先日、北海道大学の大学院講義(正確には違うんだけどまあいい)で、出席していた学生からこのような質問をされた。

「そうとうお忙しいと思うのですが(社交辞令?)、SNSなどで広報活動をする時間をどのように捻出しているのですか?」

それにぼくはこう答えた。少なくともあなたの年齢のときはぼくはSNSをこんなに熱心にやるほどの時間はなかったです。15年くらいかけて自分の仕事のスピードが何倍にも速くなったから、その分、余力が生まれて、ツイッターなどもできるようになったのですよ、と。

しかし家に帰ってから思い出してみると今のぼくより10年前のぼくのほうがはるかにツイートしていた。あれは嘘だったなーと思うけれどまあよかろう。昔はツイッターをするにしても心が常にざわついて忙しかったし、今のほうが実務はともかく心の余力があるというのは本当なのだから。「寝癖なんてどうでもいい」的に、「どうでもいい」カードを適宜切っていく感じを覚えてから、精神がふさがるほどの忙しさというのは感じづらくなった。


ただし精神はともかく肉体はどうもそうはいかない。昔よりもテキメンに自律神経にくる。今年の冬は血管拡張・むくみになやまされた。冒頭で書いた、「12月18日の大きな仕事」が終わってから体調がメキメキよくなったというのもこのむくみに関するものだ。むくみ、すなわち毛細血管から周囲に水分が漏れ出ていく現象については、毛細血管やその手前にある動脈をコントロールするのが自律神経で、そこが限界を迎えると簡単に血流がいかれる。いや、そう簡単に壊れてしまっては困るのだが……今回の体感としてはまさに「簡単に壊れてしまった」というものだった。おしっこをしようとすると陰茎がむくんでいるのがわかるのだからやってられないなあと思った。19日の朝に「あっ、これ、今日から治るんだ」とわかったのでびっくりした。「今から治るよ。」ずいぶんといやな天気の子である。おしっこするときに気づくわけだから便器の子か?



ちなみに今年は喪中なので年賀状を書きません。そして喪中ハガキも書いていないのでやっべぇなーと思っている。まあいいや。「どうでもいい」カードをもう一枚切ることにした。完璧にやろうとしすぎてあちこち壊れてきたのを早め早めにメンテナンスしておこう。精神の潤滑油は「どうでもいい」にある。ぼくは今まで、この種のアブラを完全に切らしたまま暮らしてきたように思うのだ。よし、次の更新は1月4日とします。また来年。

2022年12月28日水曜日

病理の話(731) 100人のための空気と3人のための深度

病理学にまつわるあれこれを講演・講義する機会がある。


大前提として……どのような教え方をすれば、より多くの人のためになるだろうかということを考えて、講義の準備をする。毎年多くの聴衆が入れ替わり立ち替わりぼくの話を聞く。まずはそのような生徒たちを「ひとかたまり」としてとらえる。演台から生徒を見回したときに、より多くのうなずきが見えるように、より大きな感心のため息が聞こえるように、しゃべり方やプレゼンを作り込む。人びとのツボの最大公約数的な部分をきちんとおさえるのだ。

なるべく多くの人にわかってもらうことを目指した講義には、教室の空気が教育向きになるという大きなメリットがある。

イメージとして、M-1の会場を思い浮かべてほしい。多くの人が手を叩きながら次々と笑っているような会場の中にいると、あまりそれまで知らなかったお笑いコンビが、自分の好みとはずれたネタをしていても、つい周りといっしょに笑ってしまう。これは「お笑いを聞くのに向いている空気」ができているということである。場に流されて笑ってしまうというネガティブな言い方もできるけれど、それでも笑えるのならば、笑えないよりよっぽど楽しくてよいではないか。

教育にもそういうところがある。周りで一緒に話を聞いている人たちがめちゃくちゃうんうんとうなずいて、前のめりに話を聞いてガリガリノートをとっていると、「この空気に乗り遅れるともったいないな」という気持ちがわいてきて、眠気がとび、講師の話を多少なりとも覚えて帰ろうという気になる。


で、そのような前提のもとに、できるだけ場の多くの人に聞いてもらえるような講義をしつつ、同時に、「ごく少数の人」のためになる講義とは何かを考える。


たとえばある年に100人の生徒がいたとしたら、そのうちだいたい97人くらいは、ひとまず「おもしろい授業だったなー」と喜んでもらえれば十分だ。まあ、できれば、授業をきっかけに他の授業も楽しく聞けるようになりました、とか、あの話を皮切りにこの世界に対する苦手意識がなくなりました、みたいなスタンスで臨んでくれたらうれしいけれど、そこまで高望みしなくてもいい。世の中には病理学のほかにも楽しい学問がいっぱいあるので、いろいろと学んでいく中で、自分が本当にいいなと思うものを見つけてくれればいい。とりあえず空気に喜んで勉強した気になってくれれば事足りる。

しかし、100人中、2,3人に限っては、病理学に深々と入り込んでもらいたい。

その2,3人は、授業のあと、10年、20年、30年にもわたって、仕事も、研究も、学問も、興味関心も、「あの病理学との出会いがすべてだったな」というくらいの人生を送ることになるからだ。病理学というのはそういう性質を持つ学問なのである。


その2,3人のためにプレゼンを作り込みたい。

病理学を修めるぼくが、「人生をかけてのめり込んでしまうくらい、病理学には魅力があるのだ!」と、普通の人ならばちょっと引くくらいの熱量で語ると、その熱量を受け止められる鉄製の中華鍋を心に抱いている人が、必ず数%いるので、その人たちのために講義をしたい。その人たちはぼくの発した炎のような熱量を用いて、自分の中にあった学究の素材をガンガンに炒めて、最高においしいチャーハンを作る。

「これだと話に付いてこられない人もいるかなあ」みたいな躊躇をしてはいけない。出し惜しみをしない。最大公約数にまるめて終わり、みたいな講義をしては足りない。






ただし!





そのような、「わかる人にだけわかればよい」とか、「刺さる人に刺されば本望だ」とか、「カリキュラムよりも大事なことをぼくはマニアックに伝えていく」みたいなムーブだけで講義を作るのは、じつはすごく楽で、堕落と呼んでも差し支えないくらいのダメな教育法なのではないか、ということを、最近よく考えている。

自分の中にある好み、癖、嗜好性みたいなものをいったん保留にして、誰にとってもおもしろい内容で話を組み立てるという作業は、自分の語りたい順番に、語りたい項目だけを語ることに比べれば、面倒だし、モチベーションを保つのも大変だ。だからつい、「一番熱心な生徒のためだけに語る」ことに注力したくなる。でもそれはダメだ。

なぜダメなのか。楽だからダメだというわけではない。具体的にデメリットがある。

数%の「病理学と親和性のある人」のためだけに作った講義は、教室の空気を微妙にする

微妙な空気の教室で教わった経験は、どことなく淫靡で背徳の香りを漂わせ、「俺だけがわかる話だ、ケヒヒ」というように、矯めた自尊心を癒やすものになるが、必ず同時に「この内容は確かにおもしろいんだけど周りは微妙な反応だなあ……」という、病理学に対する無駄な陰性感情をまとわせてしまう。

そういう余計な逆風なしに、病理学って最高だなと思ってほしい。

ぼくの教室にやってきた100人のうち、2,3人の「病理学と親和性がある人たち」にとって、「教室がドッカンドッカン受ける空気の中で、ぼくは生涯の伴侶となる学問に出会えて、周りの誰よりも興奮した」という圧倒的な体験を与えたい。

それをやろうと思ったら、大事な大事な2,3人のために、「2,3人のためだけの授業」をやってしまってはダメなのだ。最初に言ったように、「前提として」、最大公約数的な部分をおろそかにしない、カリキュラムをバカにしないやり方が必要なのではないかと思う。



王道を知り尽くした上で隘路に入り込んだオタクというのを養成したいのだ。ぼくは。

2022年12月27日火曜日

もったいなさの裏

別府に行って紅茶を買いたい。

豆塚エリさんとトークイベントをするにあたり(この記事を書いているのはまだイベントの前だ)、豆塚さんが過去に取材された西日本新聞の記事をつらつら読んでいたら、ああそうだ、この店には行きたい、と強く思った。

(参考: https://www.nishinippon.co.jp/search/?utf8=%E2%9C%93&q%5Btitle_cont%5D=%E8%B1%86%E5%A1%9A&button= 有料会員じゃないと一部の記事はみられません)


豆塚さんという人の本を手に取ったきっかけは文学フリマ札幌であった。前にブログでも書いたかもしれないけれど、作家・浅生鴨さんがネコノス文庫として出店していたブースに顔を出したら、そこで鴨さんが唐突に「市原さんは豆塚さんに会ったらいいと思うんだよなあ。」と言ったのだ。誰ですかその豆塚さんというのは、ああそうか、今ちょうど目の前で鴨さんにサインを書いてもらっているこのおじさんがそうなのか、と納得しようとしたら、そのおじさんも「豆塚はそこにおりますからぜひ」と言うのだ。なんだこのおじさんは豆塚さんではないのか、と軽く脳をゆさぶられた。

しかし結局その日ぼくは豆塚さんには会わずじまいであった。文フリの豆塚さんブースを訪れたときには豆塚さんが席を外していて、かわりに先ほどのおじさんがいたのだ。「そこにおりますから」のタイミングですぐに顔を出していれば会えたのだが。そしてぼくはそのおじさんと話をして、豆塚さんの『しにたい気持ちが消えるまで』や詩集などを買い求め、帰宅してすぐ読んで猛烈に感動してしまったのであった。Twitterであの本はすごいぞと大騒ぎしていたら古賀史健さんも読んでnoteに感想を書いてくださっていて、「ほらな!(何が)」と思った。「ぼくだけが変な人間で変な刺さり方をしたというわけじゃないんだ!」みたいな感情である。それはまあいい。

そのおじさんというのが、くだんの西日本新聞に少しだけ触れられている喫茶店の店主、村谷さんであった。豆塚さんとのトークにそなえて西日本新聞の記事を片っ端から読んでいるときに見覚えのある顔を見つけて、そうそう、この人! と脳内で情報がピタリと一致して気持ちよかった。

たしか紅茶を出すお店だったと思う。紅茶の葉も買うことができるのではなかったか。

ああ、行ってみたいなあと思った。ぼくにしては珍しい心の動き方をしている。猛烈な旅行欲求が湧いてきたのだ。


しかしまあ、実際にぼくみたいなタイプの人間がこのきっかけで旅行をしたら、どういう結果になるかというのはなんとなく予想がつく。旅先の喫茶店。どんなに長居しようとしてもせいぜい1時間ちょっとで用が済んでしまう……と、感じてしまうのがぼくなのだ。たぶん動きやすいようにレンタカーを借りているだろうから、周りのどこかに足を伸ばしてもいいのだが、2,3観光地っぽいところを見ようといちおう考えはするのだけれど事前に下調べをするほどでもなく、あとはなんだかんだですぐに宿に入ってお風呂に入り、ああそうか、別府なんだから温泉自体が目的でいいよな、くらいの気持ちでむしろ堂々と早めにお風呂にはいりご飯を食べてさっさと寝てしまう。旅先で現地の居酒屋に行くのが楽しいんですよ、みたいな生き方をしている人がぼくのまわりにはけっこういるのだけれど、今さらぶっちゃけるとぼくは一度宿に入ってからそのあと出かけることをめちゃくちゃ面倒に感じてしまう。特に一人でいるときは。家族がそういうのを楽しみにしているならば面倒はふっとぶのだけれど、一人だったら絶対にやらない。出張先でもホテルについて荷物を置いたらまず再び出かけることはないのでチェックイン前に必ずコンビニでご飯を買っておく。翌朝も散歩するでもなく観光するでもなく、万が一空港にまにあわなかったら心配だから、という理由でさっさと空港に向かってしまうだろう、あまりに早く着きそうになって、いったん引き返して町の書店にでも行こうかな、みたいな感じでそわそわと所在なく右往左往したあげく、まあいいか、海でも見ていくかと、適当な港に車を入れて観光客向けではない海の風景をちょっと見てから体を震わせてやっぱり早めに空港に向かってしまうのだ。

かつて息子といっしょに全国縦断をしたとき、沖縄に数時間だけいたことがあった。札幌から羽田、沖縄、そしてその日のうちに福岡に移動して翌朝の早い時間の新幹線に乗ろうという計画だった。「日本縦断すること」が目的なので、沖縄の土を踏んだという事実があればほかの観光スポットみたいなところにはほぼ興味がないし行かなくても支障はないと思った。ぼくはどうもそういう「もったいない旅行」をするタイプの人間である(幸い息子もそれを悲しむような人間ではない)。しかし、修学旅行よりも新婚旅行よりも、たった数時間しかいなかった沖縄の、砂浜ですらない海に申し訳程度に訪れた時間のことばかりをずっと覚えているのだからもったいないというかむしろ本能がそっちを求めているのかもしれない。もったいなさの裏にじつはあまり人が気づかない価値が張り付いている……とまでは言えないし言わなくていいが……「もうちょっとうまくやれたはずだけどまあいいや」くらいの心持ちで旅をするのがぼくにとっての贅沢なのかもしれない。


別府に行って紅茶を買いたい。それができるくらいには世界もぼくも落ち着いてきたような気がする。

2022年12月26日月曜日

病理の話(730) アンモニアのはなし

オナラがくさいのはアンモニアなどの物質が含まれているからだ。ではなんで腸の中でアンモニアが発生するのか? それは、腸内に存在する多数の細菌が、食べ物の中に含まれているタンパク質を分解するからである。


余計なことしやがって! ばいきんのせいでタンパク質が分解されてくさいものが出てくる! プンスカ! と怒る気持ちがあるかもしれないがむしろ逆である。腸内細菌のおかげでほどよくタンパク質が分解されて、人間がそれを吸収しやすくなるという意味もあるのだ。人間は自分の口でものを噛んで砕いて、胃液で溶かせばそれで十分吸収できるぜと調子に乗っているけれど、ほんとうは腸の中にいる無数の細菌が最後の仕上げをしてくれるから効率よく栄養吸収できているに過ぎない。インフラが当たり前になってしまって感謝しない現代人の悪いところである(?)。


だったら人間はもう少し進化して、細菌に頼らずとも、体内でタンパク質をもっとゴリゴリ分解すればよいではないか! なぜ細菌に頼るような進化でよしとしているのか! 神はもう少し考えて人間をつくればよかったのではないか! と怒る気持ちがあるかもしれないがむしろ逆である。アンモニアというのはけっこうな毒性物質で、血液の中に混じると意識を失うくらいやばい物質なのだ。腸の中は空気が肛門を介して外とつながっている。だから体内にタンパク質が吸収される前の段階で細菌がタンパク質を分解して、あらかじめアンモニアを出しておけば、それを血液に混ぜることなくオナラとして排出できるのだ。めちゃくちゃうまくできているではないか。外食すると洗い物をしなくて良い、くらいの感覚で、人体はタンパク質の分解という「ゴミの出るプロセス」を細菌に外注しているのである。神もちゃんと考えているのだ。


しかし……細菌がせっかく分解してくれたタンパク質およびそのゴミであるアンモニアであるが、結局は腸の粘膜からも体内に吸収されてしまう。そのアンモニアが血流に乗って全身に回ってしまうとコトだ。そこで、腸の血液は、すぐに心臓に戻すのではなくていったん肝臓を経由させる。


ふつう、手に向かった動脈血は、毛細血管を介して指先などに酸素を受け渡したあと、静脈を通ってまっすぐ心臓に帰ってくる。顔に向かった血液も、腎臓に向かった血液も、甲状腺に向かった血液も、すべてまっすぐ心臓に帰ってくる。しかし腸の血液だけは心臓に帰る前に肝臓に寄り道をする。この寄り道ルートのことを門脈(もんみゃく)と言う。体の中で、臓器から臓器へ移動する血流というのは2箇所しかない(肝臓の門脈と、下垂体の門脈)。なぜわざわざそんなことをするのか? 腸管で受け取ったアンモニアを肝臓で解毒するためだ。


腸で、どうしても必要なタンパク質の分解を行い、それで発生したアンモニアをがんばってオナラにして外に出しつつ、それでも血液に吸収してしまうアンモニアについては肝臓で解毒する。なんなら、アンモニアに含まれている窒素成分をもうちょっと再利用しようかなということで、尿素という物質に変換して全身に行き渡らせるというリサイクルまで行う。尿素はその名の通り、尿に混ぜて捨てるための物質……ではあるのだが、皆さんは保湿クリームで「尿素配合」というのを見たことがないだろうか? じつは尿素というのは水をめちゃくちゃ引き受けるはたらきがある、すなわち保水力があるので、人体のあちこちで「保水したい場所」に尿素を置いておくことで、効果的にその場所をうるおすことができるのだ。



……みたいな話を学生時代にちゃんと習っているのだけれど、ふだん復習しないので完全にうろおぼえになっていたので、こないだ本を読んで勉強しなおした。なので今日の話はわりと思い出し立ての内容です。どっか間違ってたらごめんなさい、ま、ざっくりでいいと思うけど(医療系学生はちゃんと覚えないとだめ)。

2022年12月23日金曜日

今年の漢字は痛

馬に乗っていると痛くなる部分というか、自転車に乗っていると痛くなる部分というか、とにかく、肛門の前方、睾丸の後方の皮膚がすれて痛い。もちろん原因は座り過ぎなのだが、冷静に考えると、おしりには肉があって、この部分が直接べっとりと椅子に押しつけられている時間はそんなにないはずなので、いくら長時間座っているからといってここが痛くなるというのは本来おかしい。だからたぶん他にも理由があるのだと思う。


男性にとっては何の穴も空いていない部分が痛いことに加えて、ここのところずっと、腰回りから膝にかけて調子が悪い。なんとなく、12月の頭に凍った階段で転んで背中を打ってから、下半身のリンパ流が悪くなってむくみがきているのではないかと疑っている。浮腫でつっぱっているから皮膚が痛くなる、というわけ。なぜ背中を打ってリンパ流が悪くなったのかはわからない。ドチャクソに軽い脊髄損傷でもしたのか。そうは思えないのだが。自律神経がびっくりしているのかもしれない。背中を打ったあと、無意識にいつもよりも筋肉をこわばらせているために、なんとなくあちこち滞留してしまっているということなのかもしれない。かもしれない、かもしれない、かもしれない。


あるいは腰を打ったこととはなんの関係もなく、ただ、加齢と偶然の為せる技としてこのあたりがなんとなく痛くなっているだけということも考えられる。何かの変化が起こったときに、なんでもかんでも派手なイベントに結びつけて因果を語りたくなるのは本能みたいなものだけれど、実際にはモノゴトはそうきっちりパッキリと矢印でつながってはいない。免疫染色でスパイク蛋白があったからこの病気はコロナワクチンのせいです、みたいな理論を見ているともう少し複雑系について思いを馳せてほしいと思う。運動会のテントが風で飛ばされたときに、校庭にいる子ども達がテントを飛ばした犯人だと言っているようなものだ。


先日、テレビを見ながら妻と、どちらが先ということもなしに、「こうしてどんどん少しずつ、体のあちこちが悪くなっていくよね」という話をした。できれば家族の前だろうが他人の前だろうが、自分の体が少しずつ悪くなっていくことを話題にはしたくないという気持ちはある。本当は楽しい事だけ話していたいとは思う。でも、天気の話と体調不良の話はいずれも話半分で流して聞けば十分コミュニケーションのタネになるのだから別にいいじゃないかという気持ちもある。いいことも悪いこともおざなりに共有して忘れて次に進んでいくということだ。変化を見つけて軽く騒いで終わりにする、くらいのバランスでよいと思う。因果がはっきりしない以上、明解なソリューションはないが、のらりくらりと微調整しているうちに痛みも苦しみもなんだか忘れてしまう、くらいのやり過ごし方でよいと思う。


深夜ラジオ「夜のまたたび」が終わってしまった。好きな番組だった。クロノトリガーのBGMを少しだけ思い出す冒頭のジングルが今も脳にこびりついている。先日、マガジンハウスから『深夜、生命線をそっと足す』というタイトルの本が出て、これが「夜のまたたび」の書籍版というものなのだが、痛みを抱えたまま、カタルシスもないまま、しかし念入りに人生を抱き留めていくさまが独特の時間感覚で語られていて本当におすすめである。本といえば先日、村上信五・マツコデラックスの出演する「月曜から夜ふかし」で、「2022年の個人的な今年の漢字」として村上信五が「本」と書いた。彼はそのフリップをカメラに向けながら「いや、今さらみたいでなんや恥ずかしい気もするんやけど」みたいなことを言い、マツコは表情を見事にフィックスさせながら「いいじゃないの 一文字できちんと意味までまとまっているのもいい」と小声ではきはき、真っ直ぐ村上を見ながらコメントをした。ぼくはその数十秒がとてもいい時間だなと感じた。誰もが上手に何かをやり過ごせるようになるといいと思う。それはぼくの、全身の痛みについてもだ。

2022年12月22日木曜日

病理の話(729) とりあえず病理でいろいろ聞いといで

研修医がデスクにやってくる。


「先生、この症例の病理を見せて欲しいんですが」


おお熱心だなあと思う。どの症例ですかと尋ねると、先日診断した、かなり珍しい病気であった。手元に病理診断報告書のコピーを持っているようなのでそれを渡してもらう(ついでにそのときちらっと名札を見て研修医の名前を呼び間違えないようにする)。

病理のデータベースで症例を検索して、収納ボックスからプレパラートを出してきて、マッペ(プレパラート入れ)に並べる。


マッペ


一緒に顕微鏡を見る。この症例がどう珍しいのか、どれくらい珍しいのか。研修医はきょとんとしているので、誰に言われてここに来たかをたずねる。


「○○先生です。この症例、珍しいから学会発表したらいいと思うって。なのでとりあえず市原先生のところに行って病理を聞いてこいと言われました」


○○先生とはいつも一緒に仕事をしているからよく知っている。ぼくがここで何をしゃべるかをわかっているからとりあえず研修医にファーストコンタクトさせたのだろう。


そこでぼくはこのように告げる。


ぼく「この病気は『ただ珍しい』というだけで学会報告できます。時期的に○○学会の抄録(しょうろく)締め切りがたしか来週とか……再来週とかでしたよね?」

研修医「あっはいそうです。そうやって言ってました」

ぼく「学会自体はまだ先ですが、抄録、つまり800字とか400字と言った短い文章で発表の内容を要約したものは急いで準備する必要があります。ですからまず先生が先にやらなければいけないことを申し上げましょう。この患者が手術になる前に行った各種の画像検査と、術前の診断がどうだったかを短くまとめてください」

研修医「はい(メモする)」

ぼく「で、これは珍しい症例なので、手術をして病理を見るまでは、そういう病気だということはたぶん予測できていなかったと思うのですが……『なぜ予測できなかったのか』が、珍しいからというだけではなく、『ほかの病気に見えたから』だというのがキモなのです。ここをきちんとまとめると、ただ珍しいから発表しましたというだけではなく、珍しい病気が珍しくない病気に似た画像を呈していたということで、発表の柱が一本増えます」

研修医「はい(メモする) あ、そういえば、先生が書かれた診断書のここに、参考文献が載っているんですけれど、これ、有料だったので見ることができなくて……」

ぼく「はい、それはぼくが持ってます。○○学会の会員であれば閲覧できます。ぼくは今回、先生の共同演者ですので、ぼくの持っている論文を先生にお渡しすることは問題ありません。今、フラッシュメモリをお持ちですか?」

研修医「いえ……」

ぼく「ではイントラの共有フォルダに入れておきましょう。ひとまず文献2本」

研修医「ありがとうございます」



ぼく「で、文献の話が出たので、取り急ぎ、今この文献をすぐに活用する方法をお教えしておきましょう。これは内科医の國松先生が本に書いていたことなんですけれども、『症例報告の文献』が読めるようになると便利です。DeepL(翻訳アプリ)は使えますか?」

研修医「いつも使ってます」

ぼく「では英語は問題ないですね。症例報告の論文には、このように、イントロダクションと呼ばれる部分があります。具体的な症例の解説に入る前に、序説というか、前提を共有するパートなんですね。ここに、この珍しい病気の『とりあえずの総論』が簡単にまとまっているのです。同じ病気の症例報告論文を複数集めて、イントロの部分を見比べてみましょう」

研修医「イントロを見比べる……(メモする)」

ぼく「すると、たいてい、似たようなことが書いていて、似たような文献引用もなされていることがわかります。複数の論文で語られている前提は、あなたも学会発表のときに活用すべきです。その症例を語る上で、最初に語らなければいけない情報ということですからね」

研修医「なるほど」



ぼく「で、抄録を急いで書くわけですが、今回はとにかく『珍しい』ということと、『手術の前には違う病気を考えていた』ということで十分に発表の意義がありますので、まずはこの2つを文章でまとめておいてください。その間、私は病理診断をまとめて、抄録に書ける内容を抽出しつつ、このあと先生方と一緒に画像と病理を見比べた際に言えそうな、発表に味付けできるようなコンテンツを考えておきます」

研修医「味付けですか」

ぼく「せっかくなので、ただ珍しいというだけじゃなくて、聴衆におもしろいと思ってもらえる内容を探しましょう。たとえばこの人は,病気のまわり、『背景』の部分にも変化がある」

研修医「はあ……」

ぼく「ここ、たぶんあなたの上司の○○先生は画像を見たときに気になっているはずなんですよ。だから本チャンの発表時には、病変そのものだけじゃなくて、周りにも目を配るようにします。でもまずは抄録を書くところからはじめましょう。ボスのところに戻って相談してください。病理の市原は『珍しいから出せる』と、『画像と照らしあわせをして、術前の診断がずれた理由を考える』でいけると思うよって言ってた、と伝えてください」

研修医「わかりました! ありがとうございます」

ぼく「ところで先生は将来何科に進む予定ですか?」

研修医「○○科です」

ぼく「お、決まっているんですね。いいですね。○○科は、今回の発表とは直接関係しないのですが、画像と病理とを見比べることがかなり有効な科でもあります。なので、今回のを単なる研修医発表だと思わずに、きちんと訓練して今後に活かすための練習にしましょう」

研修医「わかりました、よろしくお願いします」



みたいなことがありました。熱心な研修医はありがたいし、ぼくんとこにとりあえず送り込めば話が早いなと思ってる臨床医のニヤニヤした顔もまあ6:4でありがたい(4はこのやろうと思う)。

2022年12月21日水曜日

文学と哲学が足りない

先日、家の前の階段で滑って腰を打ってから、腰回りは毎日異なる様相を呈した。最初は灼熱感を伴う強烈な痛み、次に寝違えたときのようないやらしい筋の痛み。それらがいずれも短期間で消えていったのは幸運だった。しかし次に顕在化してきた筋肉痛の痛みが手強く、このブログを書いている時点でまだ前屈するときなどに腰回りが痛い。左右差があり、あきらかに筋肉に力を入れたときの痛みで、骨に異常がなさそうなので様子を見ている。そして、これと関係があるのかないのかわからないのだけれど、じつはここ数日(ブログを書いているのはちょうど2週間くらい前のことなので悪しからず)、毎日下半身の違う部分に謎の痛みが出る。これが地味にしぶとい。


謎の痛みと書いたが、実際本当に謎だ。皮下に鈍痛のような、引っ張られるかのような、あるいは何か近くに炎症でも起こっているのではないかという、張り、違和感が出る。骨でも筋肉でもない。最初は膝のそばだったので、たぶん転んだときに膝の周りの筋肉も突っ張ったり無理したりしたのだろうなと思った。転んだ瞬間にバランス取って無理して踏ん張ったのかな? などと。しかし、打った腰の反対側なのでおかしいなと思ったし、打った翌日にはあまり痛みがはっきりしなかったのも解せなかった。目で見ても、発赤、腫脹などが見てとれない。指で押してもなんともない(痛みが増さない)。うーんわからんな、血でも溜まってるなら明日になればもう少し見た目が変わるかな、と思って一晩寝ると、膝の周りの痛みはなりをひそめ、次に肛門より少し前の皮膚あたりが痛いのである。痛みが移動したのだ。こんなところは一切打っていないし、転んだ際に無理するような筋肉があるわけでもない。股間なので仕事中に見るわけにもいかないし、手でさすっても変質者感があるので仕事中の違和感に対する「手当て」のしようがなくて難儀した。椅子に長く座っているのがしんどいので、椅子の上で片膝をたてたり、あぐらをかいたり、ときにウェブ会議に立ったまま参加するなどしてのらりくらりと対処していく。そしてさらに次の日になると、痛みがまた移動し、今度はなんと尿道に違和感があるのだから笑ってしまった。肛門周囲と尿道か、神経の支配領域としてはまあ近いけれど、でも一昨日の膝からは遠い、と、解剖の本を読みながら首をひねる。だまっていてもときどき引っ張られるような押されるような、そして、排尿するときには神経過敏的に、過剰に熱と圧を感じる。これはおそらく末梢神経由来の症状ではないかと思った。また寝たら移動してくれないかなと思って寝たらはたして、翌朝には左足と左のおしり(とは言わないかもしれないが)のつけ根のあたりが病むのである。正直、よかった、尿道に痛みが固定されたらどうしようかと思った。そんなルーレットはいやだ。


腰を打った際に脊髄を微妙に痛めていて、神経を圧迫するいわゆる頸椎症的な(腰椎症?)症状が出ているのだろうか? しかし短期間に痛みが移動する点がしっくりこない。微弱な末梢神経炎、あるいは炎症とまで言えないような末梢神経過敏が日によってじわじわ出ているということなのだろう。腰を打って痛みに耐えた数日で、なんとなく、「その界隈」のストレスが高くなり、普段は抑制気味にしているシナプスの感受性が高まってきているのではないか。該当する領域(下半身)に、脳から、広めの緊急事態宣言が出ており、みんなが交互にびくびくしているようなイメージ。医学的に正しいのかどうかはさっぱりわからない。神経内科医に相談すればいいのだろうが、痛みの性状がさほど強くなくて移動するせいで、自分が何に困っているかを端的に説明できないためか、つい、受診を躊躇してしまう。


となれば自己対処。「そういうものだから、その痛み、気にしなくていいよ。」と脳から全身の神経に修正パッチを送りこむのが一番いい。どうやって? それはもちろん、どうにかして。つまり現実的には無理。脳や神経はAIといっしょだ。一度プログラムが走り出したら何が起こっているかは基本的によくわからないし、我々ができるのは複雑な計算の結果として出力されてくるデータを読むことだけだ。外からパラメータに介入しようと思っても、どこをどういじればいいか、へたを打てばそれまで健康だった部分が一転して不調になってしまうリスクもある。黙って運を天に任せながら様子を見る。半夏厚朴湯のような漢方を飲んでみることも考えた。しかし、ひとまず、この痛みと「同居して慣れていく」ということができそうだなと思った。つまりはこのまま特に何もしないほうを選んだ。あるいはこのブログが公開されているころに、ああ、あのとき受診していれば……と後悔している可能性もあるにはあるのだが、ま、後悔するくらい悪くなっていたらたぶんブログ自体を公開していないだろう。さっきから公開と後悔を交互に入力するのが面倒でストレスがかかっている。リラックスして全身の負荷を減らすことがよいかもしれない。今日(12月8日)から12月28日までの間に講演が8個(国際講演2個含む)と収録が4個、でかい会議が3個あって出なきゃいけない研究会が4個ある。北大の病理学講座に呼ばれて学生さんといっしょに朝の勉強会をやってくれと言われた日があり、職場に遅刻の申請を出す必要があるなあというのを今カレンダーを見ていて思いだした。リラックスして全身の負荷を減らすことがよいかもしれない。


慢性のよくわからない痛みは他人と共有することが難しい。共有したところで場の不快感をトータルでちょっと増やすくらいの効果しかない。「病院行きなよ」と言われるつらさ、みたいなものを近年ときどき自覚する。言われた瞬間に、その程度のことなら言われなくてもわかってる、という攻撃的な気持ちがわずかに立ち上がって、「気にしてもらってありがとう」という感謝の心で不埒な反発心をたたきのめすためにカロリーを消費して疲れる、という一連のムーブが目に浮かぶようだ。では、痛みというものは、一人でため込んでうつうつとしていくのが最適解なのだろうか? インターネット開闢以来、無数に検討されてきた話題だろうということは自覚している。こうして閲覧数のさほど増えないブログにみずからの「痛み」をコンテンツとして載せていくことの功罪。エンタメにまで昇華できればいいのだが、なかなかどうして、自分の痛みを充実や笑いに変えるというのはじつに難しいことだ。こんなことだから、「医者は文学や哲学を読み足りないと思います、もっと読めば患者の気持ちだってわかるはずなのに」みたいなことを言われる。ああ、ぼくも、医者の気持ちをわかるための文学や哲学を読んでいる人にお目にかかってみたいのだが、なかなかそのような機会がない。

2022年12月20日火曜日

病理の話(728) 病理医によって言ってることが違うじゃん

今日は、それなりの頻度で相談を受ける内容について。相手は臨床医のこともあるし、病理医のこともある。


「この病理診断、あってますか?」

「あなたの病理診断もこれといっしょですか?」


がんか、がんでないか。

炎症か、腫瘍か。


判断が変われば治療も変わる。だから病理診断をきちんと決めるのは重要なのだ。


ただし、病理診断というのは最終的には人の判断である。誰がどう見てもがん、というような、議論の必要がないほどわかりやすい診断もあるが、一定の頻度で、「見る人によって判断が変わる病変」というのが存在する。


病理医ごとに診断が変わってしまえば、患者にとってはたまらない。主治医だって困る。

だから、主治医は……あるいは、病理医も、たまに、「ほかの病理医がそれをどう見るか」を気にする。


そんなわけで、相談される。細部は書けないがざっくり言うと、「がんなのか否か」、「どのようなタイプのがんなのか」が多く、「どのようなタイプの炎症なのか」というマニアックな質問のこともある。


たいていは、最初に診断した病理医とぼくの意見は一致する。しかし、まれに、ぼくの意見が最初の病理医の意見と食い違うことがある。ああ、病理診断の限界。主観的な判断のきびしさ。

ただし。(※ここで「ただし」が入るのはとても大事なことだ。)

よくよく展開を確認すると、じつは以下のようなことになっている。




臨床医「先生、これ、診断はがんですか? がんじゃないものですか?」

ぼく「難しいですが、これ、がんですね。○○タイプのがんです」

臨床医「そんな……うちの病理医はがんじゃないと言ったのに」

ぼく「具体的には、なんと言ったんでしょうか?」

臨床医「がんではなく、腺腫(せんしゅ)だと言ってました。」

ぼく「どれどれ……なるほど。この文献をお渡ししましょう。じつは、○○タイプの腺腫と、△△タイプのがんは、とるべき対応がいっしょなんですよ

臨床医「えっ?」

ぼく「どちらも、□□という手術でこの範囲を取り切る。がんであっても、腺腫であってもそれがいいとされています。」

臨床医「じゃあ、そこは診断がぶれてもいいということですか?」

ぼく「ぶれてもいい、とまでは言えませんが……。そうですね、『○○タイプの腺腫 or △△タイプのがんのどっちか』までたどり着いていれば上出来なのです」

臨床医「えー」

ぼく「例え話で恐縮ですが……今からあなたが旅行に行くとして、行き先が、ニューヨークなのかパリなのか、デリーなのかメルボルンなのか上海なのか、そこが決まってない場合は、航空券のチケットが取れませんよね。でも、ミラノかフィレンツェに行きたい、と言う場合は、とりあえずどちらに行くにしてもイタリアに行けばいいじゃないですか。ミラノとフィレンツェは違う都市ですが、どちらもイタリアの中に含まれていますからね」

臨床医「急に話が飛んだのでわからなくなったんですが、要は、○○タイプの腺腫と、△△タイプのがんは、どちらも同じ国にある都市、みたいなものだということですか?」

ぼく「はい、そうです。これがたとえば●●タイプの腺腫だったら、別の国になりますので、取るべき手段が違いますからそこは見分けるべきです。でも、○○タイプの腺腫と△△タイプのがんなら、見分けても見分けなくても、実践上はあまり差がないのです」




病理医が悩む診断、たとえば「AかBかで迷う」ケースでは、世界中のひとびとがそれらを見分けるための手法をやっきになって開発している。やっぱりそういうの、見分けたいから。でも、別の視点から丁寧にしらべてみると、たまに、「AであってもBであっても同じ治療をする」というパターンがありうる。

患者からすると、その病気が「がん」かそうでないかは重大なように思える。しかし、大事なのは名前を付けることよりも、その「モノ」に対してどう対処すべきか、のほうだろう。「A or B」を決めきらずとも、「A or B」の状態でいったん宙ぶらりんにしてしまえばいい。もし、それらの治療方針に差がないならば。




ただ、こういうことを言うと、「ミラノとフィレンツェは遠いし、使う空港も違うと思う」みたいなことを言ってくる人が絶対いる。じつは医療でもそういうことがあって、まあ大枠ではイタリアなんだけど、それぞれをきちんと見分けたほうがより細かい対処ができて便利、みたいなこともあるのだ。病理診断は奥が深く、分類するからにはそれなりの理由がきちんとある。でも、実際の臨床現場では、難しい判断を難しいままに保留して、その上で対応を考えて行くという行動を頭に入れておくべきだ。いつまでも病理医の主観のぶれに付き合っていては診療が前に進んでいかないからである。そのことを(臨床医を通して)患者に伝えていくことも医療の役割であり、病理医の職務の一環である。

2022年12月19日月曜日

特殊レジャー

ぼくは誰かが「顕微鏡を見ているふり」をしているかどうかがわかる。眠いとか、いやなことがあったとか、人はいろんな理由で「顕微鏡を見ているふり」をする。


人は……と書いたがそんな人、病理や研究の世界くらいにしかいないので、あんまり細かく書くと、いつどこにいただれの話かわかってしまう。だからちょっとぼかして書く、いつのことともどこのこととも書かない。けどじつは複数いる。ちなみにぼくが一緒に働いている同僚の話ではないです。みんなすごく勤勉だし、そんな告げ口を書くような下世話なことはしない。


顕微鏡を見ているふりをしている人たちはみな同じことをする。プレパラートを顕微鏡に乗せ、ときどきレンズを入れ替えてさまざまな拡大倍率にする。しかし、おもしろいことに、このとき、ステージ(プレパラートが乗っている台)を動かさない。本来は、左手で筒状のハンドルをクルクル回して、プレパラートを上下左右に動かしながら、右手でときおり倍率を変えて顕微鏡を見るのだが、見ているふりをしている人はこのステージをまるで動かさない。後ろから見ているとすぐにわかる。左手が動いていないのだ。同じ場所を、倍率だけ変えながら延々と見ている。


グーグルマップに例えると、ひたすらスカイツリーの場所を拡大縮小しているようなものだ。いくらスカイツリーの詳しい場所が知りたいからといって、地図を見ようとする人は、もうちょっと他の場所もうろうろするだろう。浅草駅からの距離をみるとか、飲食店のフィルターをかけて周囲の食べ物屋さんを探すとか。そういうことを一切せずに倍率だけで見たふりをしている。そこに圧倒的な違和感がにじむ。


そしてけなげなことに、ときおり、プレパラートを入れ替える作業だけはするので笑ってしまう。複数のプレパラートを順番に顕微鏡に乗せて、拡大・縮小とやって、また次のプレパラートを見る。でも左手がほとんど動かない。いや、最初だけチャラチャラっと動かして「どこかいい視野に合わせる動きだけ真似する」のだけれど、その後、時間つぶしのように拡大・縮小している間、左手がおるすになっている。



かつてこのことをさぼっていた人に伝えたことがある。その人は笑って、すみません、働く気がしなくて、と言った。ぼくも働きたくない日だったのでわかりますと言った。次の日からその人は、左手をきちんと動かしてプレパラート全体を見るようになった。ときおり拡大倍率も変えながら。これならばれないと思っているのだろう。でも、見ているふりであることはなぜかわかる。動作は完璧になったのに。

なぜだ? ぼくはそのことのほうがおもしろかった。動作をどれだけ真似ていても、きちんと顕微鏡を見ていないなあということが、雰囲気から伝わってくる。

このように、言語化できないけれど何かの差が感じ取れるというとき、たぶん、AIの画像認識では高確率で「さぼっている人」と「さぼっていない人」を見分けることができるだろうなあと思う。

人間が何かに気づくというフェーズと、それを言葉で表せるというフェーズはめちゃくちゃずれている。言葉にならないんだけれど気づいている事実というのがたぶんすごくいっぱいある。そして、ここが難しいのだけれど、「言葉にはできないけれど俺にはわかるよ」という確信もまたあてにならないものだ。パドックで勝ちそうな馬を見つけて興奮する感覚。あんなのめったに当たらない。勝って欲しいと思うからこそ勝ちそうな雰囲気を選択して目に留めてしまう。



でもまあ「顕微鏡を見るふり」は、わりとわかる。気のせいではない。なぜなら、「顕微鏡を見ているふり」をしているかどうかには、(それが病理診断科のできごとである限りは)明確な回答が用意できるからだ。

その人が、1か月にどれくらい診断したのかのデータを数字で出せばいい。

「ああ、さぼっていたら診断数が少ないってこと?」

違う、そうではない。

さぼっている人の診断数を見るのはいいが、多いか少ないかだけ見てはわからない。それが1週間、1か月で見たときに「妙に揃っている」かどうかを見る。


ふつう、病理診断というのは、難しいものもあれば簡単なものもあるし、複数のスタッフがいると担当症例の巡り合わせに運のようなものもある。したがって、1週間・1か月程度の短期視点だと、診断数はかなりバラけるのだ。ところがそれがバラけていないと「あれ? あやしいな」と感じる。普通に働いていたら、そんなわけがない。本人が、「これくらいの数を診断しておけば、さぼっているってばれないだろう」と調整でもしていないと、診断数はそんなにきれいに揃わない。



「それってさぼりじゃなくて、給料分だけ働きたいという調整であって、きちんと人並みに診断できていればいいんじゃないですか?」

はい、そうです。だからこうして、笑い話として書ける。でも、「顕微鏡を見たふり」みたいな姑息なことに時間を溶かしてまで調整に心血を注いでいる性根がおもしれえなあと思っている。正直に周りと相談して週に○件くらい働けば私はこの職場の役に立ちますよねと交渉でもしてみればいいのに……いや、それだとだめか、「顕微鏡を見ているふりをする」というレジャー自体にもおそらく意義があるのだろうな。

2022年12月16日金曜日

病理の話(727) 分類基準という便利な道具に引っ張られすぎてしまうこと

※今日はすっげえマニアックな話を書きます。具体的な単語については全くわからなくて当然ですが、以下の話に通底する「論理構造」みたいなのを読んでいただけるとうれしいです。



胃に、MALTリンパ腫という「がん」が発生することがある。これは白血球の一種であるリンパ球という細胞の性質をもった「がん」だ。


MALTというのは、粘膜に関連したリンパ組織、という意味の英語の頭文字をとっただけ。Mucosa-associated lymphoid tissueを略してMALT。したがって、麦芽(モルト)とは関係がないです。発音は一緒だけれどね。


MALTリンパ腫は、「がん」ではあるのだが、われわれがふだん「がん」と聞いて思い浮かべるものとはちょっとイメージが異なる病気です。


・大枠では「がん」なので、放っておくとさらに悪くなって患者を死に至らしめる可能性がある(から治療するべきだ)。

・ただし、リンパ腫と名前の付くほかの病気に比べると、だいぶ進行が遅くて、わりとおとなしい動きを示す「がん」である。

・おまけに、抗がん剤や放射線療法を使わなくても、ピロリ菌を除菌するだけで「がん」なのに消失することがある。

・細胞を採取してたちどころに診断がつくかというと、けっこう難しい。炎症と区別がつかないパターンがある。


以上は別に覚える必要はない。要は、特殊な「がん」であり、診断にも治療にもヒトクセあるということだけ、なんとなく頭のかたすみに置いておいてほしい。




さて、MALTリンパ腫を病理医が診断するのはそんなに簡単ではない。これまでにも、けっこう長い「病理医の苦闘の歴史」があった。

そもそも、炎症との区別がつかなかった時代がけっこう長い。

「えっ、病理医が細胞を見ても、がんか炎症かわからないってこと?」

そうなんです。

胃にはピロリ菌などによる「胃炎」が起こる。胃炎でもリンパ球がたくさん出現するので、「リンパ球がいっぱいあるからMALTリンパ腫だ!」みたいな、量的な、おおざっぱな診断が使えない。


今のをイメージでいうと……

江戸時代にクワやカマを持って農民達が徒党を組んでお城に押し寄せたら、それは「一揆」ではないかとわかる。

しかし、同じ格好をした人たちが、令和の渋谷の交差点に、それも10月末にいたらどう思う?

ハロウィンかあ、と思うでしょう?

それに似ている。「あやしいやつらがいっぱいいる」だけでは診断はできない。「周りの状況」などとかけあわせて考えないといけない。これが難しかった。


今から言うことは病理診断に限らなくて、医療全般に言えることなんですが。

「単純に何かがある・ない」で診断できるならばそれは簡単で、わりと誰にでもできる。しかし、「何かとかけあわせて考えないとだめ」となると、途端に難しくなる。

MALTリンパ腫もそうだった。かんたんじゃなかったんですね。



だから、昔からさまざまな病理医が、いろいろなことを考えてきた。MALTリンパ腫を見抜くための、何か、ヒントはないかということを。

そしてある人が見つけた。アイザックソンさんだったかな。ウォザースプーンさんだったかな。その両方だったかな。

顕微鏡でリンパ球がいっぱい見えたとき、そこに「LEL」とよばれるパターンが見えたら、それはMALTリンパ腫である確率が高い! ということを。


LELというのは……さっきの例え話でいうと、クワやカマを持った人たちが、「そのへんにあるビルの壁や窓を割っているようす」にあたります。リンパ球が、本来の胃粘膜にある「上皮」と呼ばれるものをボコボコに殴り倒している所見(しょけん)。Lymphoepithelial lesion(リンパ球と上皮……がなんかチョメチョメしてる場所、という意味)。


ただリンパ球が徒党を組んでいるだけじゃなく、周りをぶちこわしてたら、それはもう「悪い奴」じゃん、ということを見出したんですね。


そして彼らはウォザースプーンの分類基準というのを提唱した。

診断の現場でこの基準を使うと便利だよ! LELがあるかないかで、MALTリンパ腫かどうかをだいぶ見分けられるのさ!

と言ったのです。


ただ、彼らは、本当は、LEL以外にもいろいろとMALTリンパ腫のことを見て考えていた。元々はLELだけが大事な所見じゃなかった。

でも、分類基準として、世の中の病理医や内科医たちにわかりやすく使ってもらうために、少し簡略化した、アンチョコ的な、パンフレットみたいなのを作って世に広めたんだね。


そしたらこの分類基準がめちゃくちゃ一人歩きしちゃった


彼らがLELの話を提唱したのは今から30年くらい前の話なんだけど、令和の今になっても、若い病理医たちは「MALTリンパ腫と言えばLELですよね!」と、目を輝かせて彼らの基準を頭に入れていたりする。

本当はアイザックソンもウォザースプーンもLEL以外の見どころをいくつか考えていたし、今はLELのほかにもヒントになる検索方法がいっぱい見つかっているんだけど。

さっきの「一揆」の例に戻れば、農民たちが何かを壊しているかどうかだけじゃなく、持っている武器・道具が何かをしらべる免疫染色という手法が発展した。マイナンバーカードをチェックするような遺伝子検索の技術も加わっている。

でもそれらが加わっても、分類基準の存在がでかすぎて、MALTリンパ腫といえばLEL、みたいなイメージ戦略が、根強く残ってしまっているのです。



診断というものは……いや、医療というものは、大半が、「これをチェックして、陽性ならA! 陰性ならBと決めます!」みたいな、単純な二択クイズみたいなものではない。判断基準は必ず複数あるし、パターン認識で正解にたどり着くのはけっこう難しい。これは、「カマやクワを持った農民」の例でわかってくれたと思う。彼らがいつどこにいるかによって話がまるで変わってくるだろう? 「ファクター」がいっぱいあるということだ。


しかし、困難な医療の現場で、いつもいつも、複雑な思考のままに問題に立ち向かっていくというのは大変すぎる。だから、偉い先輩たちは、少しでも現場の負担をとろうと思って、複雑な病気のシステムから、「ちょっとでも話を単純化するヒント」みたいなものをがんばって探し続けてきたのである。

そのようなものの中から、分類基準、あるいは診断基準などというものが生まれてくる。時代の検証に耐えて、今に残るこれらの基準は、とても優れていて、なるほどうまく考えたなあ! と感じられるものが多い。


でもそれはあくまで「アンチョコ」であり「パンフレット」であり「簡易版」であるということを、少なくとも我々は……プロの医療者は、忘れてはいけないと思う。LELだけでMALTリンパ腫の診断をするのはちょっと難しいと思いますよ。


(参考: 病理と臨床.40(12), 1275-1283, 2022.今日の記事はここに載ってるお話しをぼくなりに考えてまとめたものです。)

2022年12月15日木曜日

リプライのないSNSにて更新告知をしてほしい

Twitterに慣れてしまった今、旧来のブログというのは孤独なツールだなと感じることがある。ブログにはソーシャルのネットワークにサービスしようという感覚が乏しい。いいねやスキとは無縁だし、コメント欄やランキング表示を閉鎖してしまえばなおのこと。


ちなみにnoteは一見ブログのような顔をしているけれどちょっと違う。つながろうという下心がやや過剰だ。ナンパ成功した人がまず食事する場所、みたいなコンセプトだと思う。

noteで人気を集めるために文章を整えようとすると、インパクト重視、共感重視の傾向が強まり、人の心の「最大公約数的な部分」を狙うのがうまくなる。事務所が推した若手モデルの番宣と、まだ売れ始めていないスイーツを今が売れ筋と紹介するダイレクトマーケティングと、サビだけ字幕で切り取って伴奏を完全に無視する音楽の紹介と、東京以外の気候を一切伝える気がない全国のお天気情報を交互に流して占いとジャンケンで間を持たせる朝の情報番組のやり方に自分をフィックスすることができる。めざましテレビになりたい人はnoteで訓練するといい。

ぼくはむしろ「最小公倍数的な文章」を読んだときのほうが喜びを感じる。でも、そういうのをnoteで探し出せることはめったにない。ごく少数の哲学者や文学者がそれをやっているのを見かけると課金してでも読むが、その金の何割かがnoteに落ちて次のめざましジャンケン的企画の糧になるかと思うと、思わず税金の使い途をもう少しいい方向に回してくれと、市民運動のひとつでも起こしたくなる。起こさないが。


いきなり悪いイメージばかり書いてしまったがもちろんnoteにもいい面はある。広告的なことをやっていい場所というイメージづくりがうまいので、お気に入りの本を紹介するのに重宝する。また、複数の人間が同じ特集に違う名前で投稿できる雑誌(マガジン)機能がすばらしく、「サークル活動」の後押しにはぴったりだ。往復書簡との相性の良さはあまり指摘されていないけれど、ぼくはnoteこそ往復書簡に最適のプラットフォームだと思う。

でもまあそれ以外の使い方は今のぼくにはできていない。つながるのが鬱陶しくて、こうしてブログに逃げてくる。


ここは逃げ場所なのだ。


もともと、インターネットというのは全体的に逃げ場所の性質を帯びていた。しかし急速にソーシャルとネットワークを繋ぎすぎた結果、そこからさらに逃げる場所を見つけなければいけなくなった。「つながり」にはいいことのほうが多いので文句を言いたいわけではないが、表と裏の手触りが違うのだということをぼくらはもう少し確認しあってもよいはずだ。

昔、のび太が0点の答案を捨てるために地下の洞窟を探す道具をドラえもんに借りたら、出てきた洞窟が広すぎて、そこに0点の答案をポイと置いて帰るのがしのびなくなり、洞窟の中にさらに手で穴を掘ってそこに0点の答案を埋め、(だったらそのへんの公園にでも穴を掘るのと変わらなかった……)という独特の表情をするシーンがあった。

あれといっしょだ。SNSの中でさらに穴を掘って埋めなければいけない。



SNSには2種類の使い方がある。「孤独を解消する」と、「孤独を引き受ける」だ。前者の代表として使えるのはTikTok、後者の代表が……かつてのTwitterであり、あるいはnoteもそうなるのかなと期待していた。もともとnoteは長文版Twitterなのかなと勘違いしていた。でもそうはならなくて、noteは単に文章版のTikTokだったし、Twitterは孤独をエコーチェンバー化するツールとなっている。

今のSNSで、孤独を孤独のままに扱い、孤高でもない状態で孤立するさみしさを引き受けるのはほぼ無理なのかもしれない。



「みんながいいと言っているものがいい」を探すことばかりに特化していくSNS。ただしここで言う「みんな」の規模は人それぞれで、国民レベルまで広げなくても、数十人、数人規模のこともあるのだけれど、それも含めて「みんながいいと言っているものがいい」と声高に宣言するために今のSNSは機能している。

医療情報に興味があるぼくは、日々、「閉鎖的な空間で増長する根拠にとぼしい歪んだ認知」を目にしている。いわゆるニセ医学とかエセ科学とか言われる類いのものだ。これらも思いっきりSNSの恩恵を受けている。おかしな情報の担い手たちは、みな、「我々」という言葉を口にする。「私だけが真実を知っている」といううたい文句は見ない。「我々だけが真実に気づけている」と言う。この差を生んでいるのがSNSだと考える。歪んで尖った意見を持っている人たちは、実際、今の世の中では孤独でもなんでもない。ちゃんと連帯している。紐帯を手に入れている。狭く深い穴の中ではあるが、たしかにそこには、発酵のにおいと温度の上昇があり、互いに糸でつながっている。



本来、人には、自分の脳内だけで考えをエコーさせる権利がある。矯めて眇めて歪めて、幾度も咀嚼したぐちゃぐちゃの思考をいったん飲み込んでからまた口腔内に反芻してなんども噛み心地を確かめる権利がある。

あるいは、絶海の孤島でときおり実を付ける椰子の木。コロンと実が落ちて、孤島の土から転がって海に流れ、たどり着いた次の孤島で芽を出す。誰からも干渉を受けない。何であっても連帯しない。ただ自分から出たものが次の自分を作っていくということ。



そういうことができなくなっているのはなぜか。

いや、そういうことは、「できる」のだ。ただし世の選択圧を乗り越えられなくて、進化の過程で滅んでいっている。あるいは、本当にそれをやっている人たちは、孤独を孤独のままに引き受けているどこかのブログで、誰にも気づかれずに孤独を育てているので、ぼくの目に入ってこないというだけなのだろう。「リプライのないSNSにて更新告知をしてほしい」、あまりに矛盾した感覚に笑ってしまう。

2022年12月14日水曜日

病理の話(726) 細胞診も勉強したほうがいいと思うよ

病理医が顕微鏡を覗いて観察するプレパラートは、「薄切」という技法を用いて作られている。検体を約4マイクロメートルという非常にうすい、向こうが透けて見えるくらいうすーい切片(せっぺん)にしてから染色液で色を付けて、向こうから光で照らしてステンドグラスみたいに観察することで、細胞の断面をめちゃくちゃ丁寧に見ることができるわけだ。

しかし、これが万能かというと……9999能くらいはあるのだけれど、ちょっとだけ弱点もある。弱点というか特性に近いかな。

たとえば、細胞を断面で見ているということは「厚み」を見ることが少しだけ苦手だということを意味する。

あと、若い病理医はもしかしたら意識すらしていないかもしれないのだけれど、じつは「薄切」という手法で観察すると細胞の「表面のざらつき」、「肌感」、「手触り」、「テクスチャ」みたいなものがちょっとだけわかりにくくなる。野球ボールとテニスボールって似てるけど表面の布感が少し違うでしょう。あれ、輪切りにすると、毛羽立ちの差として認識できるんだけど、人間の目って別に野球ボールとテニスボールをわざわざ輪切りにしなくても、それらの手触りが違うことをきちんと見抜きますよね。そのような「テクスチャを見通す人間の目と脳のすごさ」が、薄切によって細胞を観察するときにはあまり使われないのだ。


したがって、我々病理医は、ときに、細胞を薄く切るいつもの方法だけではなく、「そのままコロッとガラスの上に転がして観察する」という手法を用いることがある。これを細胞診(さいぼうしん)という。

「薄切」を使って細胞を観察するほうは「組織診(そしきしん)」だ。

似ているけれど微妙に違う。

基本的にあらゆる病理医は、組織診(そしきしん)が得意である。これに加えて、細胞診(さいぼうしん)ができるかどうかは、その人がきちんと細胞診(さいぼうしん)の資格を別に取得しているかにかかっている。

なお、ガラスの上に細胞コロコロの細胞診(さいぼうしん)は、医者だけでなく、臨床検査技師と呼ばれる資格を持つ人たちが得意としている。ぼくの職場にも細胞診(さいぼうしん)の資格を持った技師が複数勤務しているが、みんなぼくよりもコロコロ細胞を見るのは得意である。ぼくもいちおう有資格者なのだが、「薄切」したものを見るほうがやはり得意で、コロコロのほうは技師さんが得意。つまり、お互いがお互いをカヴァーしあう関係になっているということだ。



近頃の若い病理医の中には、薄切をせずにガラス上に直接細胞をころがす細胞診(さいぼうしん)の資格をとらない人もいると聞く。どうせ技師さんのほうが見られるんだから、わざわざ苦労して医者が資格を取らなくてもいいじゃない、ということか。あるいは、ゲノム医療とか基礎研究とか病理AI開発とか、ほかにもやりたいことが山ほどある昨今、技師さんでもできる細胞診にまで愛情は注げないということなのかもしれない。

でもぼくから言わせるとそれはもったいないことだ。いろいろな手段を用いて細胞をトータルで評価できるのがこの仕事の持つ大きな可能性なのにな。細胞診(さいぼうしん)のような違う技術も駆使すると、付き合う仕事相手の種類が増えるというのも見逃せない。なるべく多くの職種の人とコミュニケーションすることで、病理医としての懐の深さも変わってくる。細胞診おすすめだよ。わりとマジで。

2022年12月13日火曜日

なぜ美容室に限って

冬の出張のはなし。

先日、尾身茂先生と山本健人(けいゆう)先生との座談会収録場所が東京だったので、札幌に住むぼくは空路を確保する必要があった。飛行機は楽でいいから好きだ。ただ今回は、収録が12月2日であるということに注意しなければいけない。

なぜなら、この時期は天候トラブルによる欠航がしばしばあるからだ。

積雪による滑走路の閉鎖+除雪、あるいは吹雪による視界不良。12月から3月いっぱいくらいまでの間、これらは本当に、移動の悩みのタネなのである。


12月初旬の札幌近郊にはまだ雪は少ない。道の脇にちょろっと積もる程度の量しか降っていないことも多い。いったん降って積もっても、「クリスマスまでに全部解ける」という年もある。気温は零度前後でなまぬるい感じ。本格的な冬にはまだしばらく時間がある。

だったら空路も問題ないかというと、そうではないのだ。この時期に降る雪は、水気を含んでびしゃびしゃで、かさばる。だから量が少なくても除雪にけっこう苦労する。

空港で除雪をするというのは一大作業だ。滑走路を閉鎖してかなりの人員を注ぎ込まないといけない。積雪が多ければ大変になるのはもちろんのこと、少ないから大丈夫というものでもない。

12月は、日常生活の上では「まだ冬の序の口」なのだが、空路を確保しようと思うとあなどれない。冬の出張は危険だ。



この地に住む人間としては当然、出張の1週間くらい前から天候を気にするようにしている。しかし雪というのは手強くて、雨ほど予報がキレ味良く当たらない。夜中に「天気予報外の雪」が軽~く5センチくらい積もることがままある。たったその程度の雪なら道民は気にしない……と言いたいところだが、人が気にしなくても飛行機は気にする。朝一の便が着陸するためには除雪が必要だ。いったん滑走路を閉鎖して5センチの雪をどけてから、全国の空港に「はい飛んできてよいですよ」と通知するわけで、そうなるとその日の飛行機の発着は以後キレイに全部遅れる。「天気予報で言っていなかった雪」のせいで、空港に着いてから遅延を知る瞬間はやるせない。


飛行機のダイヤの乱れに遭遇する頻度は……プチ遅延も含めれば3割といったところだろうか。千歳・羽田はドル箱路線なので、そう簡単には欠航しない……とかつては言われていたけれども、最近はどうやらそれもあやしい。感染症禍によるダイヤの見直しなどがあるせいか、以前よりももう少し気軽に欠航しているような印象もある。


ところで、ぼくが住む札幌はいわゆる「日本海側」の気候だ。これに対して新千歳空港があるのは「太平洋側」なので、札幌で天気が悪くても新千歳は晴れている、みたいなズレがけっこうある。日本屈指の巨大空港を建てるにあたって、天候調査は十分になされたので、新千歳空港は立地的にもともと積雪が多くない。でも、降るときは降る。その動向が札幌とは違うので、朝起きて、あーいい天気だなと思って空港に向かってみたらめったにない暴風雪で飛行機が全然うごいていない、みたいなこともある。こういうときはほんとにこたえる。空港で呆然としながら出張先の各方面に次々と電話する、みたいなことになってしまう。



と、長い長い前置きの末に何が言いたかったのかというと、つまりは、夜に尾身先生との座談会がありますと言われて、羽田に夕方着くような飛行機を取るなんてありえない、ということである。12月は怖いのだ。朝から順繰りに飛行機の遅延が連鎖していく恐怖をぼくはよく知っている。都内某所に17時半に集合、それでもぼくは午前中に羽田に着いていたくて、かなり早い飛行機を目指して家を早朝に飛び出した。

結果的に、飛行機はぜんぜん遅れなかった。定刻であった。無事にお昼には羽田空港着。これだと今度は余裕ありすぎる。5時間半のインターバル、しかし「着くか着かないか気にしているこれまでの毎日」を思えば、もう着いてしまっている今なんてありがたい以外の感情はなかった。ぼくは浅草に向かって舞台を見た。じつにいい舞台で満足した。


尾身先生たちとの座談会を終え、一泊して、翌朝は都内で新聞社の取材を受けた。2時間ほどドトールで話をしたあとに空港に移動。札幌についたらその足で美容室に向かって、カットとカラーをしてもらう予定だった。トラブルなく羽田について、おみやげを買い、ゲートをくぐって搭乗。席に着く。ほかの客もみな座った。さあ離陸……の前に疲れたぼくは一眠りしてしまったのだが、寝ている最中に何か違和感を覚えてふと目を覚ますと、飛行機はまだ羽田の駐機場にとまっていた。あれ?

どうやら新千歳空港でみぞれが降って、滑走路を一時閉鎖して除雪をしはじめたらしい。乗客達が飛行機内に入り込んでから、飛行機はその場で待機命令を出されたということだった。

思わず頭を抱える。行きにあれだけ万全の準備をしておいたけれど、帰りのことは何にも考えていなかった。あっ、美容室、予約の時間は? うわあ、なんでこんなにぎりぎりの予定に入れてしまったんだろう。

しばらく経つと飛行機は離陸したが、その後も千歳の除雪は終わらなかったと見えて、着陸前に上空でずいぶんと長いこと、ぐるぐると旋回して待たされた。正味で1時間ちょっとの遅れ。尾身先生に相対する気持ちで美容室を余裕持って予約していれば楽勝だった。しかし……。

美容室に移動すると、なじみの美容師さんは言った。カットかカラーか、今日はどっちかしかできないですね。

しょうがないからカットだけしてもらった。これだから冬の飛行機はいやなんだ。この記事を書いているぼくの頭には白髪がちらほら入り混じっている。冬の飛行機には十分ご注意を。

2022年12月12日月曜日

病理の話(725) 属人的な部分で成り立っている医療体制の話

これはぼくにとってはわりと生涯のテーマなのだけれど、「属人的になんとかすること」の功罪をいつも考えている。


・ある病院では病理医が足りないのだが、めちゃくちゃよく働く病理医がひとりいて、その人が八面六臂の大活躍ですごい病理診断をバシバシ出すので、とてもいい感じで病院が回っている


とか、


・ある大学の講義を担当する病理医が超絶教え方がうまくて、そこを卒業していく医学生はみんな病理学に対する知識がすごく高くて、医者になってから診療や研究をするにあたって有利になっている


みたいな話はどこの世界にもあるだろう。これらの病理医の「個人的な資質」によって、世界が保たれている、あるいはとてもよくなっているというパターンだ。その人にしかできない仕事のためにうまくいく。その人に属する能力のために成り立っている。属人的。


で、これやっぱりよくないよねーというのが、平時のぼくの問題意識だ。すごい人がいるせいで回っている世界というのは、そのすごい人という歯車をひとつ外すとすべてが回らなくなる。今日もあちこちの病院で起こっていることである。


ある地域で30年働いていた病理医は、人格高潔、能力優秀で誰にも愛されており、定年後も本人はまだまだやる気満々で、引きつづき嘱託雇用となってさらに10年くらい働き、病に罹っても亡くなる数ヶ月前まで働き続けた。葬儀では無数の関係者たちから惜しみない賞賛の声が集まった。ところが、その病理医が亡くなったあと、後任の病理医が決まるまでの間にひとまず派遣のバイトでしのごうとしたところ、長年かけて職場にフィックスしまくって段取りも最強だった老病理医の仕事内容は、そんじょそこらの中年病理医ひとりやふたりでは、それも短期のアルバイト程度ではとてもカヴァーしきれなかった。臨床医たちも、長年の老病理医の凄さに「亡くなってから気づく」ありさまで、これまで病理検査室に出してきた要求がいきなり「そんなめんどうくさい小仕事にはお答えできません」みたいな塩対応で袖にされるようになってしまい、病理どころか病院全体の業務全般がうまく回らなくなった。病院経営者たちは大慌てで次に常勤で働いてくれるような、「かの老病理医の後を継げるような人材」を探すが、そんなすごい人、一朝一夕には見つからない……。


こういうシーン、ぼくの暮らす北海道でも、あるいは日本のどこでも毎日のように見聞きする。「離島の名開業医」とか、「神の手を持つ外科医」とかにも言えることだ。結局、その人がいなくなると回らない。というか、そういう天才がいない島は医療逼迫するし、そういう天才がいない病院の手術が下に見られたりもする。


達人・偉人たちに責任があるわけではない。誰が悪いわけでもないのだけれど、強いて言えば、達人たちに依存した体制で満足してしまった管理側、さらには達人たちのサポートをする教育を作る側が、なんとかしないといけないことではある。言うほど簡単ではない。

「ある程度の努力をするのは前提として、名医でなくても、普通の医者でもうまく働くことができるシステム」

……うーむ、理想である。追究しつづけないとなあ。




今日こうして書いてきた、「属人的な体制によって保たれている現場をよしと思ってはいけないよ」という話は、わりと言い尽くされていることで、反論する人はまずいない。

誰だって、理想を言えば「普通の医者でも医療が回るシステム」を作りたい。けれども、そのシステムを成り立たせるために必要な人びとの頭数が圧倒的にたりていない。

地方の病院にすごい医者がいて、その人のおかげでかろうじて地域が回っているとき、その病院の院長だって経営側だって、体制がいつまでも続くなんて全く思っていない。誰だって想像力は持っている。今さらぼくみたいな人間に「属人的な病理診断科はやばいですよ」なんてことを言われなくたってよくわかっている。

天才で間を持たせている間に、なんとかほかの人間の頭数を揃えて安定体制に入りたいと念じ続けている。それでも、人が集まってこない、なぜなら人がいなくて金がなくて、それ以上に夢がないからだ。


地方で働く人が少ないなら多めに給料を出せばいいだろうという議論はよくなされる。基本的にはそうするべきである。でも、じつは、金を出せばいいというものでもなくて、やはりそこで「普通の医者」として働くことに「夢」がないといけないと思う。ぼくはこの「夢の不在」こそが、属人的なひとりのがんばりによって支えられている現場のほとんどに根深く存在していると思っている。


仮に、属人的じゃないシステム、普通の医者でもいい医療ができるシステムを首尾良く作ったとする。AIの力を借りてもいい、タスクシフトで医者の仕事を看護師や臨床検査技師や放射線技師などと再配分するのでもいい、オンライン診療をどんどん使うのもいいだろう。でも、そのあとのことを考えて欲しい。そこで働く医者は「どんな人でもいい」ということになるのだが、これ、働く医者からすると、はっきり言って夢がないのだ。「普通の能力さえあれば、うちの病院はシステムがかんぺきだから、何もすごいことをしなくても、普通に働いてさえくれれば勝手に人が救われていくよ」というのは、裏をかえせば、君である必要はないんだよと言い続けられていることに等しい。

医療現場ではまさにこの、「誰でもいいから来てくれれば医療になる」というのが一番いい。しかし働くほうだとそうはいかない。それって俺じゃなくてもいいよね? に、うん! と言われて、はいそうですか、それはよかった、じゃあ俺は歯車になりますね、みたいに割り切りまくっている人って実際にはそんなに多くない。

この問題、ばかにできない。

医療体制というものをマクロで見たときには「属人的じゃだめだ!」がファイナルアンサーだと思う。でも、働く個々の人びとのきもちまで話をクローズアップすると、「自分の属人的な部分を誰かに喜んで欲しい」と思っている人はいっぱいいるはずだ。



「いやあそれって私の理想的な働き方ですよ、職場で目立ちたいとは思いませんね」みたいなことを言う人によくよくヒアリングをしてみると、たしかに職場では埋没して普通以上のことは一切したくないと公言しているけれども、じつは家に帰ってからVtuberとして大活躍していて、「仕事以外の部分で自分が自分であるための何かを求め続けるタイプ」の人であったりする。いいじゃない、そういう人にどんどん地方で働いてもらえば……って、地方がそんな、個人の趣味を全力応援するような場所だったらそもそも人はこんなに減らない。インターネットだけで地域差が解消するなんてありえない。電波で腹は膨れないし、Zoom飲み会だってあっという間に不人気になっただろう。


その人の中から浸みだしてくる、「私が私でなければいけない場所」が、職場内に、あるいは職場の近くに(それはもちろん自宅でもかまわない)に確保されている限りで、一日のある一定の時間を「あなたでなくてもできますが、あなたがいてくださると助かります」みたいな話に注ぎ込めるというのが本当の意味での理想なのだと思う。さて、このような状態を達成するのに、お金だけでなんとかなるものだろうか? ぼくはならないと思う。



くり返しというか言い直しになるけれど、医療現場が属人的なもので支えられている状態は不健全だ。しかし、その人が、その人でなければ困るよという目線は、職場の中に満ちていてほしい。この矛盾する両者を成り立たせるにあたって重要になるのは……


……


……


めちゃくちゃ理解ある上司……。かなあ……。生涯のテーマなので今日だけで結論を出す気は無いです。うちの病理診断科では歯車にも孤高にも、どっちでも、好きなようになれるよ、くらいの業務体制を、今いる中年が汗かいて構築・維持していくしかないのだろうな。

2022年12月9日金曜日

ぼくのためだけの現像

知人のベテラン医師が自費出版した本が届いた。ただし直接ぼくのデスクにやってきたわけではなく、当院の別部署に勤める男からの手渡しである。「先生は献本は受け取らないんじゃなかったでしたっけ?」と遠慮がちに男はやってきて、「渡してほしいとの伝言でしたので……」と、そこそこ分厚い本を差し出した。表紙に「写真集」とある、しかし、中をめくると写真と文章とが半分半分くらいだ。文フリに置いてそうだなと思う。


最近、Twitterでは写真のうまい人の写真ばかりを見かける。撮影したあとに「現像」(デジカメの画像をいじくって見栄えを調整すること)をしっかりやるのが大事なのだということもこないだはじめて知った。その上で、手元に届いた本の写真を見ると、いかにも「撮って出し」という感じで、全体的に画面はくすんでおりメリハリがない。「現像」がされていないのだろう。曇りの日は暗く、晴れている日であっても画面全体がこちらに主張してくるという色合いではない。つまりは普通に素人の写真である。ぼくは、「素人には素人の良さがあるよね」みたいなことを基本的に言わないタイプの人間だ。Twitterで素人がちょっとしたアドバイスで玄人はだしになっていくところを見ているので、「まだ素人のままなのか、それで出版までしてしまうのか」というところがチクリと気になってしまう。

ところが、ぱらぱらとページをめくっていくと、なんとなく心がざわついてくるので驚いた。写真は基本的に、知人(といってもぼくよりだいぶ年上の方だ)が暮らす函館近郊の風景ばかりである。雪の中を市電が進んでいくようす、見覚えのある坂道、生き物すべてを殺しそうな冬の寒い海、なんの変哲もない五稜郭の桜。とりたてて珍しい画角でもないしモチーフも平凡だ。なのに、どれを見ても、気管の奥に何かが詰まったかのような気分になる。微弱な苦しさが体内を這い回る。猛烈な勢いで自分の過去と目の前の写真が紐付けられていく。いったんページを閉じてしまう。そのまま、めったに読み返さない本を置くための本棚(職場にはそういう本棚がある)に移してしまおうかと思ったが、思いとどまって、まだデスクの手が届くところに置いてある。たぶんまた眺めることになる。


こうしてぼくは素人の写真に動揺し、ざわつかされてしまっている。


自分が作ったアルバムでもないのに。このとおりの記憶を持っているわけでもないのに。ぼくが小さいころから幾度となく目にした、母親の実家のある道南地方の「光量」、あれに近いものが、ぼくの心の中に張り巡らされた網をフックでひっかけてまるごと浮上させてくる。もし、これらの写真をプロのカメラマンが上手に「現像」して見栄えのよい写真にしていたら、きっとこの写真集はもっと一般に売れるものになったろうし、それでいてぼくの過去を次々引っ張り上げてくるような不思議な追加効果は出てこなかったのではないか。そんな気がする。東京や大阪などに住む人がこれを見たところで、ミトンで頭を押さえつけてくるような圧迫感をもたらす特有の「写真全体にかぶさった灰色み」に魅力を感じたり思い出を惹起されたりするとは思わない。しかしぼくはどうもこの写真集の魅力を受け取るレセプターを有していたようである。


同郷のよしみと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、無加工の写真が無防備にそこにある、ただそれだけのことでぼくは、田舎の家にあった黒電話とその横においてあった手製の電話帳(メモ帳に電話番号が書いてある)を思い出した。砂浜なんてどこにもない岩場の海岸で母親と弟といっしょにウニのカラを避けて歩いたことを思い出した。付き合っている女性が変わるたびにドライブでいつも同じルートを通って羊蹄山のほうへ向かいながら、こういうデートの何が楽しいんだろうと自分でよくわからず、だから相手も当然キョトンとしてしまっていた日々のことを思い出した。夏なのに冷えるかんじ、冬だからさらに冷えるかんじ、生きている動物に十全の幸せを与える気が無い北海道の厳しい暮らしを思い出した。




先日Twitterである有名な芸能人が、別の有名な作家をもちあげて、「本当にこういうの書かせたら天下一品ですね」みたいなことを言っていた。ぼくもその作家の文章がけっこう好きだったのだが、素人の写真集を読んで以来、「現像」の技術が高すぎるものになんだか少し食傷気味になってしまったようで、もちろん、多くの人の最大公約数的な感動をいっぺんに惹起するには絶対に「うまく現像」したほうがいいに決まっているのだけれど、なんというか、ぼく、たった一人ぼくのためだけに撮影したものでもないかぎり、ぼくはもう100%満足することはできないのかもしれないなと、ひどく贅沢なことを思った。

2022年12月8日木曜日

病理の話(724) ベテランドクターに話すように学生に話す

病理医をやっていると、とにかく、他科の医師と話す機会が多くなる。ふつうの医者は患者と話すが、ぼくら病理医は患者と会話をしないぶん、ドクターをはじめとする医療従事者とコミュニケーションをとる。

このコミュニケーションを、文章だけで終わらせることも可能だ。いまいち対人的なやりとりがしっくりこないタイプの人は、病理医になってしっかり文章を書けばいい。会話しなくても、文章だけでやりとりができるのが病理診断のよいところではある。患者だとそういうのはいやがるだろう。手紙だけで診断されるなんてとんでもない! でも医療従事者なら大丈夫だ。丹念に書けばいい。それがしっかりと仕事になる。すばらしいことだと思う。

……と書いておいてなんだが、ぼくはどちらかというと、話すほうの病理医だ。「ちょっとした疑問に秒で答えてほしい」という要求が、病院の中ではそこそこ発生する。別にそのようなお悩み相談室的な役割を病理医がすべて担う必要はないのだけれど、ぼくはなんとなく、よろず相談所的なものを病理検査室に掲げていたいタイプの病理医で、そういうときに手軽に電話してもらえる病理医でありたいと願っている。



ただし……日頃からいっぱい話しているというのと、話すのが上手であるということは、イコールではない。

40代も半ばになろうとしているけれど、ぼくのしゃべりはいつも飛躍が大きいし、親しい人からは「また言ってる」みたいなことを言われがちだし、友人の犬からはしゃべる方のコミュ障などと命名されて久しい。少なくともしゃべりの達人ではない。エンターテインメント的な話はあまり上手ではないけれど、でも、病理診断をめぐるお仕事トークならば、経験も手伝って、それなりのレベルに達しているはずである。

今日はそんなぼくから、医療現場で医療者としゃべるときのコツをひとつ、書いておく。




学生にタメ口で始動をするな。

研修医にタメ口で何かを指示するな。

直属の部下にタメ口で感情をぶつけるな。




ひとつと言いながら三行書いたけれどつまりは「タメ口」、これが病院の中では基本的に必要のない文化だということを言いたい。

ぼくがタメ口を使って仕事のコミュニケーションがうまくいくと思っている相手は唯一、「同級生」である。多少の年齢差はあっても同級生なみに仲が良いケースではタメ口でもかなり学術のトークを深めることができる。

でも、それ以外のケースで、相手が目上の場合はもちろん、あきらかに目下であったときも、タメ口を使った瞬間に、相手の脳から「ちょっとでもわかってやろう」という気合いが5%くらいスーッと漏れ出て消えてしまうのが見える。

タメ口は高次のコミュニケーションを阻害する(医療者同士の間では)。ぼくはそう思っている。



でも理由があまりわかっていない。なんでだろうなーこれ。相手がムカッとするからなのかな。タメ口っぽいしゃべりをした瞬間から、一回り以上も年下の人間があきらかにこちらのしゃべりに対する集中力を欠く。

でもそれだけじゃない気がする。



日頃からタメ口を使わないように気を付けていると、なんとなく、「学生相手なのに、まるでベテランドクターに話すかのように丁寧な口調」になる。これ、たぶん、ポジティブな追加効果をもたらしている気がする。口調を丁寧にしようと思うとき、脳になんらかの動力を外付けして、常に緊張のエンジンを回す感じになる。ぼくの場合は。すると、なぜだろうか、口調だけじゃなくて思考も一段丁寧になる。不思議なことに。丁寧に丁寧に話そうと思うと、それまでこうやって教えようと考えていたことが、あるとき、「さらに上手に」説明できることに気づいたりする。なんなんだ? 脳に適切な負荷をかけておいたほうが調子がよくなるってことなのかなあ。



言語化しきれないけど今日はこれくらいにしておく。ぼくはタメ口じゃないほうが技術的にいいことがあるということを言いたかったのです。

2022年12月7日水曜日

住むタイムラインが違う

ひとむかし前(20年くらい前)に比べると、あきらかに「まじめに病理医になりたい人」の数が増えている。近隣の病院に話を聞いても、ボクトツに修業を続ける優秀な病理医のタマゴたちが次々見つかる。所属先、学会、どこに行っても多数の病理医たちがよく循環し、臨床医に提供できる仕事のクオリティも平均的に高くなっていると思う。

おかげでTwitterで目にする「だめな病理医」や「うまくいっていない病理界隈」の話が、どこか他人事のように感じられる。現に、「病理界隈」と入力しようと思ってキータッチしたところ、「病理科祝い」と変換されてブラボー感が出た。

どこにいるんだろう、だめな病理医は。本当にいるのだろうか。「フィクション」ではないのか。

ツイッターはフィクションかもしれない。ほんとうはわりとしっかりとした病理医が、鬱屈を発散させるためにキャラを作り込んでいる可能性もある。




……などと、穏やかなところばかりを眺めながらのうのうと暮らしていると、ときに、「汚いところから目を背けるな」とか「自分だけ楽な場所にいて本質を見ようとしていない」などのおしかりをうけることも……

ない。

のうのうと暮らしていても、しかられることはない。まじめな人しか見なくていい。きちんとした人だけ見ていれば大丈夫だ。

なぜか? みんな優しくなったからか? いや、違うと思う。たぶん今は、それくらい分断が進んでいるということなのだ。

こちらが平和に暮らしているところにズカズカと入り込んできて怒声を浴びせる人、数年前はちらほら見かけたが、ここのところ本当に見かけなくなった。ケンカ慣れしている人たちどうしでケンカをするのに忙しくなっているのだろう。何か突っかかってこられても一切相手をしないぼくに関わっている時間が惜しいのではないか。






「ヤンキーマンガとラブコメとが同じ雑誌に載ってるのが普通の社会だよ」と言ったのは剣道部時代の先輩だったと思う。ジャンプはバトルと恋愛、マガジンはヤンキーと車、サンデーはエログロと青春、みたいな住み分けが(これもずいぶん雑なまとめかただが)あるのを知った大学時代のぼくが、「たしかにジャンプってジャンプらしさありますよね」と言ったとき、


「ジャンプばっかり読んでる人は、マガジンばかり読んでる人と同じ街に住んでて、なんなら隣のマンションに暮らしてて、同じコンビニで雑誌を買ってるのに、お互いに別世界だと思ってて、ぜんぜん生活が交わらない」


みたいなことをその先輩は言ったのだ。振り返って見るとそれは言い過ぎでは、と思わなくもないのだが、逆に令和の今にあてはめてみると、たしかにツイッターをやっている人はやっていない人と本当に交わらないなあと思うし、雑誌ごとに根付いたファン同士が交差することもあまりなくて、うん、先輩はたぶん20年後の今からタイムマシンで戻っていったんだな、と感じる。分断が進んだ世界にいやけがさして昔に戻ってジャンプとマガジンの分断を煽っていたということか? 人間が小っさ。




ツイッターで職業名で毎日検索をしていると、わけのわからないことを言って炎上を狙っている病理医あるいは病理医に興味を持つ人がちらほら見つかることがある。ぼくは彼らに突撃されたことがない。住む世界が違う……というか住むタイムラインが違う。もうこの先交わることはないのだろう。自分が今こうしておだやかな方にいられるのは単なる偶然だろうなあと、偶然すなわち幸運に感謝したりもするのだが、向こうにいる人たちは人たちで、ごく客観的に眺めているとあれはあれで幸せそうだなと思わなくもない。よかったじゃん、みんな幸せで。

2022年12月6日火曜日

病理の話(723) 病理診断が与えるものは因果関係の証明ではなく仮説形成のための素材である

患者が病気に苦しんでいるときに、細胞を顕微鏡で観察して、そこに「原因」を探し出すのが病理診断の役目のひとつだ。

ただし、その「原因」がたしかに「原因」であるとさいしょに決めるのは、じつは病理診断ではない。

何かの病気の「原因」を決めるのは、病理診断も含めた広大な医学全体である。

ロケットを組み立てるのには、ものすごくたくさんの職種の人びとが関わる必要があるだろう。素材、エンジン、軌道計算、お金を集めてくる人、どれか一種類の仕事だけでロケットが完成することは絶対にない。それと似ている。病理診断だけで、「ある物体A」が「ある病気B」の原因であると言うような、ロケットにも似た「美しい証明」を達成することは残念ながらできない。

病理診断もまた医学という統合作業のいち担当部門でしかない。画像診断、血液診断などといっしょに病理診断が素材を提供し、それらが統計学者・疫学者たちの力を借りて「因果関係」にまで組み上げられていくまでには、けっこうな時間と手間がかかっている。

ひとたび、幅広い医学のトータルパワーによって「ある物体A」が「ある病気B」の原因だと言えたなら、その先、患者からある物体Aを見つけ出すにあたって病理診断がとても役に立つ。

ちょっと小難しいことを言っていてわかりにくいかもしれないけれど、「すでに原因とわかっているものをプレパラートの中から見つけ出す」のは病理医の得意技だ。ただし、何か新しいものを見つけて「あっこれが病気の原因だ!」と言い切ることは、病理医の仕事の範疇を超える。





ピロリ菌が胃炎の原因のひとつであるとわかったのは1984年ころのことだ。ぼくが6歳のときである。それが一般の人びとに知られるようになるにはさらに時間がかかった。おそらく、ぼくが19歳(大学生)になるころにも、まだ世の中には、

「ストレスがひどいと胃炎になる」

という話が広く語られていた。

それが完全に間違っていたわけではない。たしかに、いわゆるストレスも、胃炎を悪化させる「原因のひとつ」としては見逃せない。しかし、ストレス「だけ」で胃炎になることはかなり限られたケースだ。交通事故で全身の臓器をはげしく損傷するときのような、それってストレスっていうかもはや人体のクライシスだよね、くらいの状況だと、確かにピロリ菌なしでも胃炎が起こりうる。しかし、日常生活でどれだけ「胃が痛くなるような」暮らしをしていたとしても、実際にそれで胃炎が発症しているケースはめったにない。胃炎になるにはもっと具体的な「原因」が必要なのである。

(※ちょっと複雑なはなしをすると、胃炎ではないが胃のあたりが痛むということはある。ストレスで胃腸の動きが悪くなることは、胃炎とはまた違ったメカニズムで起こりうるのだ。これが世間一般に「胃炎」と称されることはあるのでややこしい。)

1984年にオーストラリアのウォーレン(病理医)とマーシャル(その部下)によって、胃の中にピロリ菌という菌が見出されたときも、「あっ菌がいる! だったらこの菌によって胃炎が起こるはずだ!」とすぐに証明できたわけではない。

ウォーレンはなんとなくピロリ菌が胃炎の原因ではないかと「疑って」はいた。しかし、そこに菌がいるから胃炎の原因に違いないというのは、とても乱暴な考え方である。

地震が起こったときにその地域でたまたま大相撲の巡業が行われていたとして、「あっお相撲さんが四股を踏んだから地震が起きたんだ!」とニコニコ言えるのは小学生までだろう。「たまたまいただけ」の可能性を考えないなんてありえない。

あるいは、火事が起こったとして、それを見物している人が必ず放火犯だろうか。放火犯は現場に戻る、みたいな、昭和のドラマの定型文みたいな考え方だけで捜査が終わったら警察はすごく楽だ。でも実際には、火事のような「派手な事件」が起こると、かならず見物人はあらわれる。「まず火事が起こって、それが目立つから周りに人がよってくる」という可能性を考えないなんて雑だと思う。

因果関係の証明というのは、「いるかいないか」だけでは語れない。

顕微鏡でそこに「あるかないか」を見るだけで、因果関係まで解き明かすことは絶対にできない。

(※どうもこれをわからないで、あるいは意図的に無視して、病理医が見たものは病気の原因そのものだとか、病理解剖をすれば病気の原因がわかるなどと安易に言いたがる人がいるのが最近気になっている。)

大事なのは「何かを見出してから、それをどのように考えて、いかなる仮説を立てて、その仮説をどのような科学的手法で証明していくか」という一連のプロセスなのである。




ウォーレンもまた病理医であった。彼は、ピロリ菌が胃炎の原因であることを突き止めるにあたって、「病理診断」以外の方法を丹念に用いている。病理診断以外の方法とは、基礎研究の手法や統計学の手法だ。

有名な話だが、ウォーレンの部下であるマーシャル(彼はまだ病理医ではなく、今で言うところの研修医や研究医のような若手だった)は、ウォーレンから託された「ピロリ菌の培養」という基礎研究手法に失敗し続けた。ピロリ菌は培養に時間がかかる菌であり、培養条件も他の菌とはいろいろ違うということが当時知られていなかったためだ。あるときマーシャルは培養をほっぽらかしてしっかりと休暇をとった(大事なことである)。休暇中、人に培養を頼むことなくシャーレを放置しておいたら(きっとそれまで何度も失敗してだんだん面倒になっていたのだろう)、休暇明けに捨てようと思ったシャーレの中にピロリ菌がわっさり増えていて、やったマジかよ、ピロリ菌増やせたじゃん! と喜んでそこから次の実験に入ることができた。若干のサイコパスみを感じるエピソードである。

そしてマーシャルはたぶんサイコパスなだけではなくちょっとアホだったのではなかろうか。次に、そのピロリ菌を自ら飲み込んで自分に胃炎を起こした。マーシャルの胃の組織を(おそらくウォーレンが)顕微鏡で見て、ああ胃炎になってるね、そしてピロリ菌もいるねえと判断して、「ほら! だからピロリ菌が胃炎の原因なんだよ!」と証明した……という有名なエピソードがある。やはりサイコパスである。

けれど、実際の彼らはもっと複雑なことをやっている。菌を飲んで病気の原因です、なんていかにもドラマチックだけど、それで因果が証明できるほど医学はぬるくない。

マーシャルがピロリ菌を飲み込んで胃炎が出たからと言って、即座にピロリ菌が胃炎の原因であると「確定」するなんて、とんでもないことだ。お相撲さんや火事の野次馬のことを思い出してほしい。マーシャルのエピソードは超有名で、たいていの医学生も知っているのだけれど、冷静に考えて欲しい、旅行に行ってシャーレを放置したりピロリ菌を自ら飲み込んだりするサイコパスが、ピロリ菌以外にもわけのわからないものを日常的に飲み食いしたり、生活様式が通常の人と比べてあきらかに破綻していたりする可能性だってある。彼はピロリ菌を飲んだ同じ日に、もしかしたら砂鉄を飲み込んで体の外から磁石をあてて遊んでいたかもしれないし、ホワイトスネイクを飲み込んで大道芸に精を出していたかもしれない。もっと言えば、マーシャルでは胃炎が起こったけれど、ウォーレンが同じ事をしても胃炎にならない可能性だって(その時点では)あった。

「たった1例」を見て因果関係をどうこう言うなんてそもそもナンセンスなのだ。何十例、何百例という検討をくり返して、「ピロリ菌がいると、いないときに比べて、たしかに胃炎になりやすいねえ」的な比較作業をいくつも行ってはじめて、ウォーレンとマーシャルは確かにピロリ菌が胃炎の「原因」であると納得し、世界もそれを認めた。



ひとたびピロリ菌が胃炎の「原因」だと明らかになってからは、病理医の仕事はむしろ増える。原因だと確定してそれで終わりではないからだ。毎日顕微鏡を見て、さまざまな患者の胃の検体の中にピロリ菌という「病原体」がいるかいないかを、延々とチェックし続ける作業が加わったからだ。わかっているものを探し出すことこそ病理医の得意分野である。「ウォーリーを探せ!」にも似ている。「ウォーリー」がわかっているからこそ探せるのだ。あの絵本を読んで「ある人を探してください、名前はウォーリーですが姿形はまだわかっていません。誰がウォーリーかも自分で考えてください」と言われたら子ども達はみんな発狂しただろう。ある意味、ウォーレンはまだしもマーシャルはとっくに発狂していたのかもしれない。そして発狂するくらいのことをやってはじめて医療における因果関係が明らかになってくる。ひとりひとりの患者から採取した細胞を顕微鏡で見ただけで「あっ因果関係が見えた!」などと言い出す病理医は基本的にヤブ医者である。そういうことじゃないのだ。そういうものではないのだ。

2022年12月5日月曜日

スン化論

ちかごろは、リアルタイムで何万人もが視聴するYouTubeライブを見て、それを楽しかったとツイートしたところで、同じ番組を見ていた人が至近距離に誰ひとりいないのがあたりまえになった。仲間はいつだってコメント欄にしかいない。

スマホゲーム、アイドル、Nintendo。どれもかなり強いコンテンツなのに、職場の誰かがこれらについて話しているのを聞いたことがない。

だからせめて、「ああその話題はツイッターで見たよ」と言う話でなんとか相手のことをわかろうとする。深くは語れないけれど、あなたのその趣味、ぼくもまったく知らないわけではないから、話くらいは聞けるかもしれないよ、ということだ。

ところが、実際に「ツイッターで見たよ」をぼくが現実世界で言うことは非常に少ない。

なぜなら、


(出た出た、ツイッター。この人こういうのほんと好きだよね)


という目で見られがちだからだ。


いつまでこの「抵抗」を感じ続けなければいけないのか。なぜこうまでも大衆にうさんくさい目で見られ続けているのだろうか。ツイッターというものは。



若い人は我々ほどツイッターに対する抵抗感がないとも言う。でも、若い人なんて周りにぜんぜんいないから、ぼくにとってそこは関係ない。ツイッターよりインスタとかTikTokだと言われてもそこは別にどうでもいい。摩擦が生じるのはとにかく中年との関係だ。令和にもなっていまだに「ツイッター!?」みたいな態度を続ける中年たち。本当に、何を考えているのか? そこはもうスッと、Suicaで改札を通るとかPayPayでペットボトルを買うとか、そういった感覚の延長として、インフラのひとつとして、ツイッターを受け入れていただけないのはなぜか? いつまで「PCオタクキモい」みたいな平成初期の観念を延長させてツイッターとぼくをじろじろ見下すのか?



ワールドカップで世間がドカドカもりあがっている。「昨日見た?」「見た見た!」「めちゃくちゃ良かったよね!」「良かったー」「試合後のインタビューまで見ちゃった」「見た見た! ぜんぶ見た」「長友うけたよね」「うけたうけた」「ブラァボー!」「ブラアァボオゥ!」「ツイッターでもあの部分の動画だけ回ってきたよ」(スンッ ……は? ツイッター?)←なんでここでいきなりスンってなるの? 



医学的な相談を受けることもある。「ねぇねぇワクチンってさあ」「うん」「あれ何回打ったらいいの?」「そうねえ、何回っていうか、だんだん効果がとぼしくなってくるから、おすすめって言われるたびに打っといたほうがいいよ」「あーそれネットでも見たわ」「そうでしょう」「副反応がどうとか……」「まあじっくり調べるなら厚生労働省だよ」「そうなんだろうねえ、めんどくさいけど」「わかるわかる」「でも打ったほうがいいんだね」「そうだね、おすすめだよ」「わかったありがとう」「ツイッターで忽那先生とかをフォローするのもいいかもね」(スンッ ……え? ツイッター?)←なんでここまで普通に聞いてたのに最後だけスンってなるの?




かつて「病理医ヤンデル」というアカウント名でツイッターをはじめたときに、(ここはとにかく世間一般にはスンッってされる場所なんだよな、それに気をつけなきゃな)と、自分に対して言い聞かせるようなことを何度もやっていた。自分の心に対して、くりかえし、ここはスンッってされるんだからな、気を付けないとだめなんだぞ、という注意喚起を行った。でもきっとそのうち当たり前のインフラになるだろうと思い続けて10年以上。なってねぇし。どういうことなんだよ。もうずっとこうなのかよ。それにしても人が話した話題が自分に合わないときにすぐに「スンッ」を選ぶ人って、人口の半分くらいいると思うんだけど、そういう半分とはもう一生話が合わない気がする。なんでそうなんだよ。それが進化の結果なのかよ。

2022年12月2日金曜日

病理の話(722) メテオを使わないキングベヒーモスを診断できるか

病名を決め、病気の進行の度合いをおしはかる行為が「診断」だ。FFシリーズに「ライブラ」という魔法があり、モンスターにかけると名前や属性、HPなどの各種ステータス、弱点をあきらかにすることができる。あれがつまり「診断」であると考えてよいだろう。


診断はスキルを要する。診断の初心者は、「こう見えたらこう診断する」のようなパターン認識と呼ばれる作業で行うことが多い。知識と経験を積むごとに、なかなかそう一筋縄ではいかないということがわかってくるが、レベル上げの序盤から中盤、再びFFでたとえるとサンダラを覚えるくらいまでは、世にあるさまざまな病気のパターンを身につけるだけで毎日が飛ぶように過ぎ去っていく。


パターン認識による診断をFFでたとえるならば、たとえばこんなかんじだ。


「次元の狭間でエンカウントし、巨大なウシのような体つきをしており、頭には長くて太いツノが2本生えていて、戦闘中にメテオを放ってくるので、こいつはキングベヒーモスであり、HPは18000くらいあって、水属性に弱い。」


モンスターがどのような場面で登場するのかを考え、体つきが「人間に似ているのか、なんらかの動物や植物に似ているのか」を判断し、目に留まりやすい特徴であるツノなどをチェックして、その行動様式(例:どんな魔法を使うか)を考えることで、モンスターの名前をひとつに決めて、その体力や属性をさらに細かく判断していく。どんなパターンだからどれ、と考えていくのである。


病理診断もだいたいこのように行う。どの臓器に出てくる病気で、見た目がどのような細胞に似ているかを考え、細胞自体に何かわかりやすい特徴がないかを探し、周囲の環境にどのように影響しているかを考えれば、だいたいの病名は付くし、その性質などもわかってくる。


では、どういう診断が「難しい」とされるか?


まずはエンカウントする確率が異常に少ないモンスター……病気の診断が難しい。いわゆるレアなキャラということだ。あまり遭遇したことがなければそれだけ診断者の経験も低いので見極めが遅れる。あるいは知らないと見極められない。


ただ、「レアではあっても有名」ということはけっこうある。FFでたとえると、「しんりゅう」や「オメガ」はごく限られたシーンでしかエンカウントしないが、両者の存在を知らないFFVプレイヤーはおそらくいないだろう。出現する場面も有名だし、初見だとまず全滅するという凶悪さもあいまって、おそらく多くのプレイヤーの脳裏に焼き付いているはずである。二度目に遭遇するときにはまず忘れていないし、なんなら、「ここの宝箱を開けるとしんりゅうが出てくるから開けちゃだめ!」くらいの知識は何十年経っても残っているものである。


それよりも一段難しいのは、むしろ、「よく出るモンスターなんだけど、微妙にいつものやつと違う」場合だ。パターン認識で診断をしていると、パターンを外れるタイプ、例外、にだまされてしまう。


次元の狭間ではない場所、たとえば大森林あたりで、キングベヒーモスにそっくりなやつがいきなり出てきたらプレイヤーはとまどう。

メテオも使ってこないからてっきりキングベヒーモスとは違うんだろうな、あれ、これ普通のベヒーモスかな? と思って戦い始めると、殴っても殴っても倒すことができない。おかしいぞ、やけに体力がある、普通のベヒーモスならそろそろ倒せるはずなのに……と、最初出し惜しみした火力をそろそろ全開にしないとだめかなと思った次の瞬間に遅すぎるメテオが来て全滅。

「なんで大森林にキングベヒーモスが出るんだよ! ゲームバランス崩壊じゃないか」



FFだったらそういうことはない。モンスターの出る場所はきちんとプログラムされているからだ。しかし、現実に遭遇する病気はゲームとは違う。キングベヒーモスが大森林どころか風の神殿に出ることもあるし、アルテマウェポンの隣にゴブリンが立っていることもあるのだ。そういうことは「めったにない」のだが、「まったくないわけではない」ので油断ができない。


「レアな病気」というのにもさまざまな出方がありえる。パターン認識だけではいつか必ず痛い目に遭う。現実にもライブラがあれば……と思わないことはない。しかし、現実の病理診断は、ライブラ以上に評価する項目が多いので、あの程度じゃ役に立たないかもなあ、と思わなくもない。

2022年12月1日木曜日

会津地方の相づち法

どんどん延長し続ける会議を見ている。Zoomに自分の顔が映っている。今日はうっかり、カメラをオンにした状態で参加してしまった。まあ、発言の機会があるので、顔を出すことになるのはしょうがないのだけれど、自分の発言が終わったあとにカメラオフにしそびれた。そういうこともある。おかげで視線をそらしづらい。ウェブ会議のおかげで、キータッチをしながら参加できるのはよいが、いつ名前が呼ばれるかわからないので結局あまり別の仕事はできない。

参加者はみな猛烈に忙しそうな人ばかりだ。したがっていろいろと麻痺しているのだろう。だいぶ時間が経っているのだけれどみんな最初のエネルギーをまだ保っている。それだけタフな人たちだからこそ、余計に忙しくなる。ぼくはもうへとへとだ。うんざりしている。職場で書かされる、メンタルヘルスチェックの用紙に「へとへとだ。」みたいな項目があるのを思い出す。こういうタイミングであの紙を渡されると躊躇なくチェックするだろうなと感じる。そして産業医に呼び出されてちょっと休みましょうと言われる。以上はあくまで想像である。さておき、忙しい忙しいという人はつまり体力があるのだ。HPが多いからその分働かされている。ぼくは彼らほど忙しくなれないだろうなという予感がある。会議にここまで真剣に出続けられない。能力が足りていないのだろう。

それにしても。会議の設定が2時間という時点で、誰か止めるべきなのではないか。それがさらに延長するのだからなお驚く。2時間で決着が付かない会議というのは、基本的に議題自体がまとまっていない。下準備があって、みんながあとはもう頷くだけでよいような資料が用意されていれば、1時間でなんとか会議は終わるはずだ。

でも、そうしないのは、みんな忙しくて準備がままならないからという理由と、あと、そもそも最初から紛糾することを前提として議題が設定されているから、だろう。

会議に参加する人の中に考え方がベースレベルで異なる人が含まれているとわかっているから、むしろ会議という場で定期的にちゃんと衝突しておこうと考えているのだろう。紛糾してしまった、のではなくて、紛糾するために会議をやっている。ならば2時間かかるのは当然だし、2時間以上かかっても納得できる。


納得できても腹オチするわけではない。




先日聞いたサッポロ黒ラベルのキャンペーンサイトのラジオ、「黒ラヂオ」の燃え殻×竹中直人回(第13回)がめちゃくちゃよかった。

https://c-kurolabel.jp/kuroradio/

話の内容自体もよいのだが、近年稀にみる良さとしては、竹中直人の相づちが百万点なのだ。こうやって人の話を聞くラジオ、まず耳にしたことがない。プロのアナウンサーでもこういう相づちはうたない。あの有名番組も、あの人気DJもここまで上手な聞き方はしていなかった。なんてラジオ向きなトークなのだろう。

なによりすごいなと思ったこと、相づちを打っているあいだは、そこに主張は含まれないはずではないか。こんなに聞き上手な竹中直人は、しかし、25分間で、濃厚なエピソードをいくつも出してくるのである。燃え殻さんという稀有の聞き手・書き手の引きだし方というか竹中さんとの相性がまた絶品なのだろうが、「あんなにふんふん聞いている人のトークをこんなに聞けるなんて!」という、どういうトリックなのかといぶかしむくらいの満足感があるのだ。25分しか放送していないなんて思えない。


25分だぞ。


3時間会議やった内容を何一つ覚えていないというのに。


竹中直人さぁの相づちは、こでらんにぃなあ。