2022年12月28日水曜日

病理の話(731) 100人のための空気と3人のための深度

病理学にまつわるあれこれを講演・講義する機会がある。


大前提として……どのような教え方をすれば、より多くの人のためになるだろうかということを考えて、講義の準備をする。毎年多くの聴衆が入れ替わり立ち替わりぼくの話を聞く。まずはそのような生徒たちを「ひとかたまり」としてとらえる。演台から生徒を見回したときに、より多くのうなずきが見えるように、より大きな感心のため息が聞こえるように、しゃべり方やプレゼンを作り込む。人びとのツボの最大公約数的な部分をきちんとおさえるのだ。

なるべく多くの人にわかってもらうことを目指した講義には、教室の空気が教育向きになるという大きなメリットがある。

イメージとして、M-1の会場を思い浮かべてほしい。多くの人が手を叩きながら次々と笑っているような会場の中にいると、あまりそれまで知らなかったお笑いコンビが、自分の好みとはずれたネタをしていても、つい周りといっしょに笑ってしまう。これは「お笑いを聞くのに向いている空気」ができているということである。場に流されて笑ってしまうというネガティブな言い方もできるけれど、それでも笑えるのならば、笑えないよりよっぽど楽しくてよいではないか。

教育にもそういうところがある。周りで一緒に話を聞いている人たちがめちゃくちゃうんうんとうなずいて、前のめりに話を聞いてガリガリノートをとっていると、「この空気に乗り遅れるともったいないな」という気持ちがわいてきて、眠気がとび、講師の話を多少なりとも覚えて帰ろうという気になる。


で、そのような前提のもとに、できるだけ場の多くの人に聞いてもらえるような講義をしつつ、同時に、「ごく少数の人」のためになる講義とは何かを考える。


たとえばある年に100人の生徒がいたとしたら、そのうちだいたい97人くらいは、ひとまず「おもしろい授業だったなー」と喜んでもらえれば十分だ。まあ、できれば、授業をきっかけに他の授業も楽しく聞けるようになりました、とか、あの話を皮切りにこの世界に対する苦手意識がなくなりました、みたいなスタンスで臨んでくれたらうれしいけれど、そこまで高望みしなくてもいい。世の中には病理学のほかにも楽しい学問がいっぱいあるので、いろいろと学んでいく中で、自分が本当にいいなと思うものを見つけてくれればいい。とりあえず空気に喜んで勉強した気になってくれれば事足りる。

しかし、100人中、2,3人に限っては、病理学に深々と入り込んでもらいたい。

その2,3人は、授業のあと、10年、20年、30年にもわたって、仕事も、研究も、学問も、興味関心も、「あの病理学との出会いがすべてだったな」というくらいの人生を送ることになるからだ。病理学というのはそういう性質を持つ学問なのである。


その2,3人のためにプレゼンを作り込みたい。

病理学を修めるぼくが、「人生をかけてのめり込んでしまうくらい、病理学には魅力があるのだ!」と、普通の人ならばちょっと引くくらいの熱量で語ると、その熱量を受け止められる鉄製の中華鍋を心に抱いている人が、必ず数%いるので、その人たちのために講義をしたい。その人たちはぼくの発した炎のような熱量を用いて、自分の中にあった学究の素材をガンガンに炒めて、最高においしいチャーハンを作る。

「これだと話に付いてこられない人もいるかなあ」みたいな躊躇をしてはいけない。出し惜しみをしない。最大公約数にまるめて終わり、みたいな講義をしては足りない。






ただし!





そのような、「わかる人にだけわかればよい」とか、「刺さる人に刺されば本望だ」とか、「カリキュラムよりも大事なことをぼくはマニアックに伝えていく」みたいなムーブだけで講義を作るのは、じつはすごく楽で、堕落と呼んでも差し支えないくらいのダメな教育法なのではないか、ということを、最近よく考えている。

自分の中にある好み、癖、嗜好性みたいなものをいったん保留にして、誰にとってもおもしろい内容で話を組み立てるという作業は、自分の語りたい順番に、語りたい項目だけを語ることに比べれば、面倒だし、モチベーションを保つのも大変だ。だからつい、「一番熱心な生徒のためだけに語る」ことに注力したくなる。でもそれはダメだ。

なぜダメなのか。楽だからダメだというわけではない。具体的にデメリットがある。

数%の「病理学と親和性のある人」のためだけに作った講義は、教室の空気を微妙にする

微妙な空気の教室で教わった経験は、どことなく淫靡で背徳の香りを漂わせ、「俺だけがわかる話だ、ケヒヒ」というように、矯めた自尊心を癒やすものになるが、必ず同時に「この内容は確かにおもしろいんだけど周りは微妙な反応だなあ……」という、病理学に対する無駄な陰性感情をまとわせてしまう。

そういう余計な逆風なしに、病理学って最高だなと思ってほしい。

ぼくの教室にやってきた100人のうち、2,3人の「病理学と親和性がある人たち」にとって、「教室がドッカンドッカン受ける空気の中で、ぼくは生涯の伴侶となる学問に出会えて、周りの誰よりも興奮した」という圧倒的な体験を与えたい。

それをやろうと思ったら、大事な大事な2,3人のために、「2,3人のためだけの授業」をやってしまってはダメなのだ。最初に言ったように、「前提として」、最大公約数的な部分をおろそかにしない、カリキュラムをバカにしないやり方が必要なのではないかと思う。



王道を知り尽くした上で隘路に入り込んだオタクというのを養成したいのだ。ぼくは。