2022年12月7日水曜日

住むタイムラインが違う

ひとむかし前(20年くらい前)に比べると、あきらかに「まじめに病理医になりたい人」の数が増えている。近隣の病院に話を聞いても、ボクトツに修業を続ける優秀な病理医のタマゴたちが次々見つかる。所属先、学会、どこに行っても多数の病理医たちがよく循環し、臨床医に提供できる仕事のクオリティも平均的に高くなっていると思う。

おかげでTwitterで目にする「だめな病理医」や「うまくいっていない病理界隈」の話が、どこか他人事のように感じられる。現に、「病理界隈」と入力しようと思ってキータッチしたところ、「病理科祝い」と変換されてブラボー感が出た。

どこにいるんだろう、だめな病理医は。本当にいるのだろうか。「フィクション」ではないのか。

ツイッターはフィクションかもしれない。ほんとうはわりとしっかりとした病理医が、鬱屈を発散させるためにキャラを作り込んでいる可能性もある。




……などと、穏やかなところばかりを眺めながらのうのうと暮らしていると、ときに、「汚いところから目を背けるな」とか「自分だけ楽な場所にいて本質を見ようとしていない」などのおしかりをうけることも……

ない。

のうのうと暮らしていても、しかられることはない。まじめな人しか見なくていい。きちんとした人だけ見ていれば大丈夫だ。

なぜか? みんな優しくなったからか? いや、違うと思う。たぶん今は、それくらい分断が進んでいるということなのだ。

こちらが平和に暮らしているところにズカズカと入り込んできて怒声を浴びせる人、数年前はちらほら見かけたが、ここのところ本当に見かけなくなった。ケンカ慣れしている人たちどうしでケンカをするのに忙しくなっているのだろう。何か突っかかってこられても一切相手をしないぼくに関わっている時間が惜しいのではないか。






「ヤンキーマンガとラブコメとが同じ雑誌に載ってるのが普通の社会だよ」と言ったのは剣道部時代の先輩だったと思う。ジャンプはバトルと恋愛、マガジンはヤンキーと車、サンデーはエログロと青春、みたいな住み分けが(これもずいぶん雑なまとめかただが)あるのを知った大学時代のぼくが、「たしかにジャンプってジャンプらしさありますよね」と言ったとき、


「ジャンプばっかり読んでる人は、マガジンばかり読んでる人と同じ街に住んでて、なんなら隣のマンションに暮らしてて、同じコンビニで雑誌を買ってるのに、お互いに別世界だと思ってて、ぜんぜん生活が交わらない」


みたいなことをその先輩は言ったのだ。振り返って見るとそれは言い過ぎでは、と思わなくもないのだが、逆に令和の今にあてはめてみると、たしかにツイッターをやっている人はやっていない人と本当に交わらないなあと思うし、雑誌ごとに根付いたファン同士が交差することもあまりなくて、うん、先輩はたぶん20年後の今からタイムマシンで戻っていったんだな、と感じる。分断が進んだ世界にいやけがさして昔に戻ってジャンプとマガジンの分断を煽っていたということか? 人間が小っさ。




ツイッターで職業名で毎日検索をしていると、わけのわからないことを言って炎上を狙っている病理医あるいは病理医に興味を持つ人がちらほら見つかることがある。ぼくは彼らに突撃されたことがない。住む世界が違う……というか住むタイムラインが違う。もうこの先交わることはないのだろう。自分が今こうしておだやかな方にいられるのは単なる偶然だろうなあと、偶然すなわち幸運に感謝したりもするのだが、向こうにいる人たちは人たちで、ごく客観的に眺めているとあれはあれで幸せそうだなと思わなくもない。よかったじゃん、みんな幸せで。