先日、家の前の階段で滑って腰を打ってから、腰回りは毎日異なる様相を呈した。最初は灼熱感を伴う強烈な痛み、次に寝違えたときのようないやらしい筋の痛み。それらがいずれも短期間で消えていったのは幸運だった。しかし次に顕在化してきた筋肉痛の痛みが手強く、このブログを書いている時点でまだ前屈するときなどに腰回りが痛い。左右差があり、あきらかに筋肉に力を入れたときの痛みで、骨に異常がなさそうなので様子を見ている。そして、これと関係があるのかないのかわからないのだけれど、じつはここ数日(ブログを書いているのはちょうど2週間くらい前のことなので悪しからず)、毎日下半身の違う部分に謎の痛みが出る。これが地味にしぶとい。
謎の痛みと書いたが、実際本当に謎だ。皮下に鈍痛のような、引っ張られるかのような、あるいは何か近くに炎症でも起こっているのではないかという、張り、違和感が出る。骨でも筋肉でもない。最初は膝のそばだったので、たぶん転んだときに膝の周りの筋肉も突っ張ったり無理したりしたのだろうなと思った。転んだ瞬間にバランス取って無理して踏ん張ったのかな? などと。しかし、打った腰の反対側なのでおかしいなと思ったし、打った翌日にはあまり痛みがはっきりしなかったのも解せなかった。目で見ても、発赤、腫脹などが見てとれない。指で押してもなんともない(痛みが増さない)。うーんわからんな、血でも溜まってるなら明日になればもう少し見た目が変わるかな、と思って一晩寝ると、膝の周りの痛みはなりをひそめ、次に肛門より少し前の皮膚あたりが痛いのである。痛みが移動したのだ。こんなところは一切打っていないし、転んだ際に無理するような筋肉があるわけでもない。股間なので仕事中に見るわけにもいかないし、手でさすっても変質者感があるので仕事中の違和感に対する「手当て」のしようがなくて難儀した。椅子に長く座っているのがしんどいので、椅子の上で片膝をたてたり、あぐらをかいたり、ときにウェブ会議に立ったまま参加するなどしてのらりくらりと対処していく。そしてさらに次の日になると、痛みがまた移動し、今度はなんと尿道に違和感があるのだから笑ってしまった。肛門周囲と尿道か、神経の支配領域としてはまあ近いけれど、でも一昨日の膝からは遠い、と、解剖の本を読みながら首をひねる。だまっていてもときどき引っ張られるような押されるような、そして、排尿するときには神経過敏的に、過剰に熱と圧を感じる。これはおそらく末梢神経由来の症状ではないかと思った。また寝たら移動してくれないかなと思って寝たらはたして、翌朝には左足と左のおしり(とは言わないかもしれないが)のつけ根のあたりが病むのである。正直、よかった、尿道に痛みが固定されたらどうしようかと思った。そんなルーレットはいやだ。
腰を打った際に脊髄を微妙に痛めていて、神経を圧迫するいわゆる頸椎症的な(腰椎症?)症状が出ているのだろうか? しかし短期間に痛みが移動する点がしっくりこない。微弱な末梢神経炎、あるいは炎症とまで言えないような末梢神経過敏が日によってじわじわ出ているということなのだろう。腰を打って痛みに耐えた数日で、なんとなく、「その界隈」のストレスが高くなり、普段は抑制気味にしているシナプスの感受性が高まってきているのではないか。該当する領域(下半身)に、脳から、広めの緊急事態宣言が出ており、みんなが交互にびくびくしているようなイメージ。医学的に正しいのかどうかはさっぱりわからない。神経内科医に相談すればいいのだろうが、痛みの性状がさほど強くなくて移動するせいで、自分が何に困っているかを端的に説明できないためか、つい、受診を躊躇してしまう。
となれば自己対処。「そういうものだから、その痛み、気にしなくていいよ。」と脳から全身の神経に修正パッチを送りこむのが一番いい。どうやって? それはもちろん、どうにかして。つまり現実的には無理。脳や神経はAIといっしょだ。一度プログラムが走り出したら何が起こっているかは基本的によくわからないし、我々ができるのは複雑な計算の結果として出力されてくるデータを読むことだけだ。外からパラメータに介入しようと思っても、どこをどういじればいいか、へたを打てばそれまで健康だった部分が一転して不調になってしまうリスクもある。黙って運を天に任せながら様子を見る。半夏厚朴湯のような漢方を飲んでみることも考えた。しかし、ひとまず、この痛みと「同居して慣れていく」ということができそうだなと思った。つまりはこのまま特に何もしないほうを選んだ。あるいはこのブログが公開されているころに、ああ、あのとき受診していれば……と後悔している可能性もあるにはあるのだが、ま、後悔するくらい悪くなっていたらたぶんブログ自体を公開していないだろう。さっきから公開と後悔を交互に入力するのが面倒でストレスがかかっている。リラックスして全身の負荷を減らすことがよいかもしれない。今日(12月8日)から12月28日までの間に講演が8個(国際講演2個含む)と収録が4個、でかい会議が3個あって出なきゃいけない研究会が4個ある。北大の病理学講座に呼ばれて学生さんといっしょに朝の勉強会をやってくれと言われた日があり、職場に遅刻の申請を出す必要があるなあというのを今カレンダーを見ていて思いだした。リラックスして全身の負荷を減らすことがよいかもしれない。
慢性のよくわからない痛みは他人と共有することが難しい。共有したところで場の不快感をトータルでちょっと増やすくらいの効果しかない。「病院行きなよ」と言われるつらさ、みたいなものを近年ときどき自覚する。言われた瞬間に、その程度のことなら言われなくてもわかってる、という攻撃的な気持ちがわずかに立ち上がって、「気にしてもらってありがとう」という感謝の心で不埒な反発心をたたきのめすためにカロリーを消費して疲れる、という一連のムーブが目に浮かぶようだ。では、痛みというものは、一人でため込んでうつうつとしていくのが最適解なのだろうか? インターネット開闢以来、無数に検討されてきた話題だろうということは自覚している。こうして閲覧数のさほど増えないブログにみずからの「痛み」をコンテンツとして載せていくことの功罪。エンタメにまで昇華できればいいのだが、なかなかどうして、自分の痛みを充実や笑いに変えるというのはじつに難しいことだ。こんなことだから、「医者は文学や哲学を読み足りないと思います、もっと読めば患者の気持ちだってわかるはずなのに」みたいなことを言われる。ああ、ぼくも、医者の気持ちをわかるための文学や哲学を読んでいる人にお目にかかってみたいのだが、なかなかそのような機会がない。