2022年12月9日金曜日

ぼくのためだけの現像

知人のベテラン医師が自費出版した本が届いた。ただし直接ぼくのデスクにやってきたわけではなく、当院の別部署に勤める男からの手渡しである。「先生は献本は受け取らないんじゃなかったでしたっけ?」と遠慮がちに男はやってきて、「渡してほしいとの伝言でしたので……」と、そこそこ分厚い本を差し出した。表紙に「写真集」とある、しかし、中をめくると写真と文章とが半分半分くらいだ。文フリに置いてそうだなと思う。


最近、Twitterでは写真のうまい人の写真ばかりを見かける。撮影したあとに「現像」(デジカメの画像をいじくって見栄えを調整すること)をしっかりやるのが大事なのだということもこないだはじめて知った。その上で、手元に届いた本の写真を見ると、いかにも「撮って出し」という感じで、全体的に画面はくすんでおりメリハリがない。「現像」がされていないのだろう。曇りの日は暗く、晴れている日であっても画面全体がこちらに主張してくるという色合いではない。つまりは普通に素人の写真である。ぼくは、「素人には素人の良さがあるよね」みたいなことを基本的に言わないタイプの人間だ。Twitterで素人がちょっとしたアドバイスで玄人はだしになっていくところを見ているので、「まだ素人のままなのか、それで出版までしてしまうのか」というところがチクリと気になってしまう。

ところが、ぱらぱらとページをめくっていくと、なんとなく心がざわついてくるので驚いた。写真は基本的に、知人(といってもぼくよりだいぶ年上の方だ)が暮らす函館近郊の風景ばかりである。雪の中を市電が進んでいくようす、見覚えのある坂道、生き物すべてを殺しそうな冬の寒い海、なんの変哲もない五稜郭の桜。とりたてて珍しい画角でもないしモチーフも平凡だ。なのに、どれを見ても、気管の奥に何かが詰まったかのような気分になる。微弱な苦しさが体内を這い回る。猛烈な勢いで自分の過去と目の前の写真が紐付けられていく。いったんページを閉じてしまう。そのまま、めったに読み返さない本を置くための本棚(職場にはそういう本棚がある)に移してしまおうかと思ったが、思いとどまって、まだデスクの手が届くところに置いてある。たぶんまた眺めることになる。


こうしてぼくは素人の写真に動揺し、ざわつかされてしまっている。


自分が作ったアルバムでもないのに。このとおりの記憶を持っているわけでもないのに。ぼくが小さいころから幾度となく目にした、母親の実家のある道南地方の「光量」、あれに近いものが、ぼくの心の中に張り巡らされた網をフックでひっかけてまるごと浮上させてくる。もし、これらの写真をプロのカメラマンが上手に「現像」して見栄えのよい写真にしていたら、きっとこの写真集はもっと一般に売れるものになったろうし、それでいてぼくの過去を次々引っ張り上げてくるような不思議な追加効果は出てこなかったのではないか。そんな気がする。東京や大阪などに住む人がこれを見たところで、ミトンで頭を押さえつけてくるような圧迫感をもたらす特有の「写真全体にかぶさった灰色み」に魅力を感じたり思い出を惹起されたりするとは思わない。しかしぼくはどうもこの写真集の魅力を受け取るレセプターを有していたようである。


同郷のよしみと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、無加工の写真が無防備にそこにある、ただそれだけのことでぼくは、田舎の家にあった黒電話とその横においてあった手製の電話帳(メモ帳に電話番号が書いてある)を思い出した。砂浜なんてどこにもない岩場の海岸で母親と弟といっしょにウニのカラを避けて歩いたことを思い出した。付き合っている女性が変わるたびにドライブでいつも同じルートを通って羊蹄山のほうへ向かいながら、こういうデートの何が楽しいんだろうと自分でよくわからず、だから相手も当然キョトンとしてしまっていた日々のことを思い出した。夏なのに冷えるかんじ、冬だからさらに冷えるかんじ、生きている動物に十全の幸せを与える気が無い北海道の厳しい暮らしを思い出した。




先日Twitterである有名な芸能人が、別の有名な作家をもちあげて、「本当にこういうの書かせたら天下一品ですね」みたいなことを言っていた。ぼくもその作家の文章がけっこう好きだったのだが、素人の写真集を読んで以来、「現像」の技術が高すぎるものになんだか少し食傷気味になってしまったようで、もちろん、多くの人の最大公約数的な感動をいっぺんに惹起するには絶対に「うまく現像」したほうがいいに決まっているのだけれど、なんというか、ぼく、たった一人ぼくのためだけに撮影したものでもないかぎり、ぼくはもう100%満足することはできないのかもしれないなと、ひどく贅沢なことを思った。