Twitterに慣れてしまった今、旧来のブログというのは孤独なツールだなと感じることがある。ブログにはソーシャルのネットワークにサービスしようという感覚が乏しい。いいねやスキとは無縁だし、コメント欄やランキング表示を閉鎖してしまえばなおのこと。
ちなみにnoteは一見ブログのような顔をしているけれどちょっと違う。つながろうという下心がやや過剰だ。ナンパ成功した人がまず食事する場所、みたいなコンセプトだと思う。
noteで人気を集めるために文章を整えようとすると、インパクト重視、共感重視の傾向が強まり、人の心の「最大公約数的な部分」を狙うのがうまくなる。事務所が推した若手モデルの番宣と、まだ売れ始めていないスイーツを今が売れ筋と紹介するダイレクトマーケティングと、サビだけ字幕で切り取って伴奏を完全に無視する音楽の紹介と、東京以外の気候を一切伝える気がない全国のお天気情報を交互に流して占いとジャンケンで間を持たせる朝の情報番組のやり方に自分をフィックスすることができる。めざましテレビになりたい人はnoteで訓練するといい。
ぼくはむしろ「最小公倍数的な文章」を読んだときのほうが喜びを感じる。でも、そういうのをnoteで探し出せることはめったにない。ごく少数の哲学者や文学者がそれをやっているのを見かけると課金してでも読むが、その金の何割かがnoteに落ちて次のめざましジャンケン的企画の糧になるかと思うと、思わず税金の使い途をもう少しいい方向に回してくれと、市民運動のひとつでも起こしたくなる。起こさないが。
いきなり悪いイメージばかり書いてしまったがもちろんnoteにもいい面はある。広告的なことをやっていい場所というイメージづくりがうまいので、お気に入りの本を紹介するのに重宝する。また、複数の人間が同じ特集に違う名前で投稿できる雑誌(マガジン)機能がすばらしく、「サークル活動」の後押しにはぴったりだ。往復書簡との相性の良さはあまり指摘されていないけれど、ぼくはnoteこそ往復書簡に最適のプラットフォームだと思う。
でもまあそれ以外の使い方は今のぼくにはできていない。つながるのが鬱陶しくて、こうしてブログに逃げてくる。
ここは逃げ場所なのだ。
もともと、インターネットというのは全体的に逃げ場所の性質を帯びていた。しかし急速にソーシャルとネットワークを繋ぎすぎた結果、そこからさらに逃げる場所を見つけなければいけなくなった。「つながり」にはいいことのほうが多いので文句を言いたいわけではないが、表と裏の手触りが違うのだということをぼくらはもう少し確認しあってもよいはずだ。
昔、のび太が0点の答案を捨てるために地下の洞窟を探す道具をドラえもんに借りたら、出てきた洞窟が広すぎて、そこに0点の答案をポイと置いて帰るのがしのびなくなり、洞窟の中にさらに手で穴を掘ってそこに0点の答案を埋め、(だったらそのへんの公園にでも穴を掘るのと変わらなかった……)という独特の表情をするシーンがあった。
あれといっしょだ。SNSの中でさらに穴を掘って埋めなければいけない。
SNSには2種類の使い方がある。「孤独を解消する」と、「孤独を引き受ける」だ。前者の代表として使えるのはTikTok、後者の代表が……かつてのTwitterであり、あるいはnoteもそうなるのかなと期待していた。もともとnoteは長文版Twitterなのかなと勘違いしていた。でもそうはならなくて、noteは単に文章版のTikTokだったし、Twitterは孤独をエコーチェンバー化するツールとなっている。
今のSNSで、孤独を孤独のままに扱い、孤高でもない状態で孤立するさみしさを引き受けるのはほぼ無理なのかもしれない。
「みんながいいと言っているものがいい」を探すことばかりに特化していくSNS。ただしここで言う「みんな」の規模は人それぞれで、国民レベルまで広げなくても、数十人、数人規模のこともあるのだけれど、それも含めて「みんながいいと言っているものがいい」と声高に宣言するために今のSNSは機能している。
医療情報に興味があるぼくは、日々、「閉鎖的な空間で増長する根拠にとぼしい歪んだ認知」を目にしている。いわゆるニセ医学とかエセ科学とか言われる類いのものだ。これらも思いっきりSNSの恩恵を受けている。おかしな情報の担い手たちは、みな、「我々」という言葉を口にする。「私だけが真実を知っている」といううたい文句は見ない。「我々だけが真実に気づけている」と言う。この差を生んでいるのがSNSだと考える。歪んで尖った意見を持っている人たちは、実際、今の世の中では孤独でもなんでもない。ちゃんと連帯している。紐帯を手に入れている。狭く深い穴の中ではあるが、たしかにそこには、発酵のにおいと温度の上昇があり、互いに糸でつながっている。
本来、人には、自分の脳内だけで考えをエコーさせる権利がある。矯めて眇めて歪めて、幾度も咀嚼したぐちゃぐちゃの思考をいったん飲み込んでからまた口腔内に反芻してなんども噛み心地を確かめる権利がある。
あるいは、絶海の孤島でときおり実を付ける椰子の木。コロンと実が落ちて、孤島の土から転がって海に流れ、たどり着いた次の孤島で芽を出す。誰からも干渉を受けない。何であっても連帯しない。ただ自分から出たものが次の自分を作っていくということ。
そういうことができなくなっているのはなぜか。
いや、そういうことは、「できる」のだ。ただし世の選択圧を乗り越えられなくて、進化の過程で滅んでいっている。あるいは、本当にそれをやっている人たちは、孤独を孤独のままに引き受けているどこかのブログで、誰にも気づかれずに孤独を育てているので、ぼくの目に入ってこないというだけなのだろう。「リプライのないSNSにて更新告知をしてほしい」、あまりに矛盾した感覚に笑ってしまう。