2022年2月28日月曜日

脳だけが旅をする

日ごろ、脳内にはいつも、複数のイメージが流れている。そのイメージは直近に起こったばかりのことを振り返ったものだったり、今日の夜をどんなふうに過ごそうかという夢想だったり、今日と似たような陽気の日に眺めた同じ場所の過去の風景であったりする。

街の大きな交差点の、ビルのカドにくっついている巨大なモニタ、見渡すかぎりのビルというビルに複数のモニタが設置してあって、ぼくがそれを見ていようがいまいが、朝から晩までイメージがパカパカ移り変わっていく感じ。脳のデフォルトモードは乱雑だ。でも、いつもとっ散らかっているわけでもない。

誰かと話をしたり、こうしてブログを書いたりするときには、雑多なものを映していた脳内ビジョンが目的に応じて同じ番組を映す。いろんなCMが流れていたあちこちのモニタから同じナレーターによる同じアナウンスが聞こえてシンクロして合唱のように響き渡る。

複数の無意識によって運用されていた脳の歩調が、意識の号令の元にぴたりと合う。磁石で砂鉄の向きを整えたときのきれいな模様のことを思う。

おそらく誰の脳であっても、表現は違えどだいたい似たようなことになっているのではないか。ハレとケの感覚。ハレのときには集まって来て大きなことをやる。ケのときにはみんな好き勝手なことをしている。人だろうがニューロンだろうが、集められたもの同士、さほど違いがあるとは思えない。

「心ここにあらず」という表現が、好んで用いられるけれど、心はいつだってここにある。ただし、心は複数の映像を、こちらの気持ちとは関わりなしに代わる代わる流していることがあり、それがこちらの意図と必ずしもフィットしないことはある。「心ここにあるが足並みは揃わず」。


ところで最近のぼくは、脳内モニタの辺り一面にうすぼんやりと雲のような何かが漂っている感じというか、端的に言うと、脳内で何が上映されているのか見づらいなーと感じる機会がちょくちょく増えてきた。

自分の脳内でさまざまな風景が上映されているのはわかるが、それらがいちいち遠くにある、もしくは、かすんでいてよく見えない。一番近くにあるモニタを注視しようとしても、遠くにあるモニタの音声がうるさくて集中できなかったりもする。

……などと書いてみるとなにやらぶっそうというか、少し病的なものを感じとる人もいるだろうがたぶんそうではない。これは単純に脳の加齢だ。加齢と言っても悪い意味しか込めない現代テレビ的ボキャブラリーではなく、ほんとうの意味で、齢が加わった結果、こうなっているのではないかとぼくは言いたい。

さまざまな経験を積むにつれて、脳内の街頭テレビジョンの数が増えた。上映される番組の種類も増えた。だから若い頃よりも脳内が忙しいのは当たり前。

精神が衰弱しているとか、統合が失われつつあるとかではなく、マンガ『宙に参る』で言うところの判断摩擦限界にゆるやかに近づいているのではないだろうか。自分の中から棄却できないコア情報の数が年月とともに増え、何をするにもいちいちおうかがいを立てないと前に進めない参照先も増えた。するとぼくの限られた脳内メモリは常に数十パーセントくらいはアクティブになり続けているわけで、何を思うにしても、「そういえばあっちはどうだったっけ」「そうだ、そうだ、あそこにも一言ことわっておかないと」とばかりに、ご機嫌うかがいやご近所づきあいばかりであたふたとする。


そうか、これか、といろいろ考える。


かつて、誰もが「達人」と呼んだしゃべり上手が、ある年を境にぐっと黙り込むようになった。これはもしや認知症的なやつなのかと気を揉んでいたところ、あるときその人が書いたブログを読んでみたら言葉の奔流が往年よりもさらに激しくなっており、膨大な情報がじゃじゃ馬のように跳ね回っていて、かつどこか一本きちんと筋が通っていたので本当に驚いた。ものすごい数の「視線」がねじれの位置に交わりまくっているのに、それらが全体として「その人でしかあり得ない雰囲気」を纏いながらあちこちにすっ飛んでいく。それらを提示された順番に読んでいくと、まるでディズニーランドのアトラクションをあちらもこちらも巡って、まるで違う風景、まるで違うキャラクタ、まるで違う遊び道具でさんざん遊んだあとの一日の終わりに「あーどこもかしこもディズニーだったなあ!」と感じるようなあの感覚になる。まるで衰えていなかった。達人のさらに上にたどり着いているじゃないか、と思った。

そしてぼくは「あの境地」にあこがれた。口から出る言葉の「一本気さ」だけではもはや抑えきれないくらいの圧倒的な情報を脳内でこねくり回して動的なモニュメントに仕立てることができる人。ああそうか、それを絵でやったり音楽でやったりすれば芸術と呼ばれるだろうなあ、というレベルの文章術を手に入れて、それ以外では脳内の風景を外部に構築できなくなってしまったためにむしろ口数の方は少なくなってしまった人。その知性の高さに追いつくことができないだろうかと夢想した。

しかし、あらためて、こうして、脳の中が騒がしくなってきた今、思った以上に高い壁だなあ、と感じざるを得ない。弾幕が多すぎて見えなくなったニコニコ動画。大量の虫の羽音がワァーンと重った閉塞的なノイズ。幻灯機が全方向に違う映画を映写しているような荒野の私設映画館の中央で、ひとり体育座りをしている。自分の脳内を歩いているだけで時間が潰せるようにはなってきた。なんならちょっと疲れて座って温かいほうじ茶などを飲みたくなってしまった。若かりしころの乱視的な思考は年を取るごとにたしかに補正されたが、思索の「索」が増えるにつれて持て余すことも増えてきて、索が重なり合って網戸越しに外を眺めるような脳内KEEP OUT状態である。それでもなお、自らを取り巻く環境から、自分を震わせるなにかをときおり彫刻のように彫り出し続けはするし、かく言う脳は「今どうしてる?」に対するアンチテーゼとばかりに、時間軸を超越した思い出の反芻を、それは過去だけではなく未来に経験するであろう思い出すらも反芻してしまうような構えを見せて、脳だけは元気にぼくにファイティングポーズを取っている。


脳が? ぼくに? ファイティングポーズを?


なるほど「脳だけが旅をする」というタイトルは、「どこかへ去っていく脳を見送るぼく」の立場で読むこともできるのだと、この年になってようやく気づいた。

2022年2月25日金曜日

病理の話(630) さじ加減の加減

医療においてはしばしば「さじ加減」が問題となる。

「さじ加減」は、いい意味で使われることもある言葉だけれど、医療を語る文脈だと悪い意味で使われることも多い。たとえば、

「細胞ががんかがんじゃないかは、病理医のさじ加減ひとつで決まるんでしょ?」

みたいな言い方だ。ここには揶揄のニュアンスが含まれている。


「さじ加減」という言葉が、なぜ問題となるのか?

それは、人びとが心の中で、あらゆる病気には「正しい診断」が存在し、「一番いい治療法」がどこかにあると信じているからだと思う。あいまい、ファジーなんて無責任だ、個人の主観で定まる方針なんて信用できない、ということなのだろう。


たしかに、医療における正しさというものは存在する。

ただし、それはピンポイントで……「点」で存在するものではない。「ゾーン」として存在するのだ。

「いい治療法」はあるのだが、「一番いい」かどうかはその都度微調整して探る。これぞという一点が毎回定まるものではなく、ある程度の幅を持って、「ここからここまでの間にある治療法はどれもいいので、相性や好みと合わせて少しずつ絞り込んでいこう」というようになっている。


(※正しさという概念自体が存在しないんだよ、という話もよく語られるのだが、そうは言ってもここからここまでは正しいじゃん、という話とぶつかって堂々巡りになるので、ここでは「正しさは点ではなくゾーンである理論」にしておく。)


たとえば、大腸や胃におけるがんの診断を考える。粘膜から出現したある細胞が、粘膜の下側に浸潤(しんじゅん:しみ込んで攻め入ること)をしはじめると、世界中すべての病理医が「がん」と命名する。なぜならそこには浸潤という決定的な悪事が見えるからだ。

がん細胞は、時間とともに少しずつ深部に潜り込んでいく(=浸潤する)。ここで時間を巻き戻せば、必ずどこかのタイミングでは「まだ浸潤していない段階のがん」があるはずである。つまりはまだ粘膜の中におさまっていて、がんの根拠である「浸潤」を来していない状態だ。

これを日本では粘膜内がんと呼ぶ。

一方で、欧米の一部の国では、まだ浸潤しはじめていない細胞はがんと呼ぶべきではないというスタンスを取り、ディスプラジア(異形成)などと呼ぶ。



がんがしみ込む直前というのは、ヤクザが悪事をまだ働いていない状態、と言えばわかりやすいだろうか。いつか周囲に悪さをする性質を持っているけれど、まだ犯罪には及んでいない状態。

「見た目がヤクザで心もヤクザだが、ヤクザ的事業を何一つしていないひと」をなんと呼ぶべきか? 日本ではこれを堂々とヤクザと呼ぶ。一方で、欧米の一部の国だと「ヤクザ候補」と呼ぶ。つまりはそういう違いなのである。


この議論は、本質的だろうか?


どっちでもいいよ、ヤクザでもヤクザ候補でもいいからさっさと逮捕しろ! という理屈が出てくるのはおわかりであろう。犯罪が起こってからでは遅い。しかし、まだ前科もついていないヤクザを逮捕するのに、いきなりアジトに家宅捜索して爆破・解体して更地にし、周囲をマスコミに取り巻かせるというのは、周囲の邸宅への被害も考えるとあまりよいことではない。そこで、ヤクザ(候補)だけを的確にしょっぴいて、周囲への影響・風評を最小限に抑えよう、というこころみがなされる。具体的には、患者の体に大きな負担がかかる外科手術を避けて、内視鏡的に(胃カメラや大腸カメラを用いて)粘膜だけ切り取ってこよう、という治療方針が選択される。


日本のように「粘膜内がん」と名付けようが、欧米の一部の国のように「ディスプラジア」と名付けようが、違うのは名前だけで、対処はいっしょだ。「がんの初期、もしくはぎりぎりまだがんじゃないもの」というゾーンに対して、部分だけを小さくくり抜いて取り除いてしまおう、という治療方法は一貫している。


こうなってくると、「がんか、がんでないか」という、点を追究する診断をする必要がないということがわかる。「粘膜内がんもしくはディスプラジア」というゾーンに収まる病気だとわかれば用が足りる。あと、診断名の部分にかんしては、病理医の(国家的な)さじ加減だということだ。


こういう背景があっての「さじ加減」が行われるのが病理診断である。「細胞はいかにも悪性度が高いが、まだそんなに悪事をはたらいていないな」みたいなことが診断にかなり影響してくる。

治療におけるさじ加減にはまた別のニュアンスがあるが、いずれにせよ、医療におけるさじ加減は「あいまい」ではなく「ゾーン」を扱っているのだということを、覚えておくとよいかもしれない。

2022年2月24日木曜日

成長の証

あれは3連休の2日目から3日目にかけてのことだった。

今週は平日のうちに診断業務をすべて終わらせておいたから、休みの間に心行くまで原稿が書けると思った。そして、実際そのようにした。朝から晩まで精魂込めて原稿を書いた。そして無事、明日にまだ1日休みを残した状態で、原稿を書き終えた。

やった、と思った。すぐに編集者に送信しようかと思ったが、気持ちを落ち着けて、明日あらためて出勤し、そこでもう一度原稿を見直してからにしようと考えた。でも事実上執筆はこれで完成だ。WorkFlowyのタスクリストのうち、直近2か月間に締切のある仕事はすべて終わった。久方ぶりの開放感。

意気揚々と帰宅する。ちょっと分厚いタイプの餃子を食べ、ビールを飲みテレビを見ていた。誰ともなく「なんか今日はあんまりおもしろい番組がないね」と言い合って、パソコンをテレビに繋いでアマプラで「鬼滅の刃 遊郭編」を家族で一気見することになった。おもいのほかおもしろく、最終話の直前までぜんぶ見てしまった(最終話はその翌日だ)。その間ぼくはずっとビールを飲んでおり最後はレモンサワーに移行した。見始めたのが早かったので、すべて終わってもまだ11時過ぎだったが、それでも日ごろに比べるとだいぶ深酒となった。歯磨きをして布団に入るとあっという間に意識は遠ざかった。

異変は翌朝だ。今日も1日休みだから、どこかで出勤するとは言え、まだのんびりしていられるな……と思って寝返りを打とうとしたら、左右の肋骨のあたりがけっこう痛い。気づけば首の後ろもばんばんに凝っている。ああ、しまったな、いつもよりアルコールを入れたせいで、睡眠中に変な格好になっていても目が覚めずに、寝違えみたいになってしまったのだろう、と思った。ぼくはもともと首が弱いので、自分の首の高さにあった枕を買って、真ん中をきちんとへこませて、頸椎のアーチを大事にして寝ないと一発で腕がしびれる。ただし今回、腕のしびれがなくて体がとにかくあちこち痛い。どういうことだろう。あちこち動かしてみてわかったのだけれど、特定の何かを傷つけたというよりは、とにかく体が広範に痛いのである。「年取るってそういうことだよね」という声が聞こえてきた。たぶんそういうことだ。特に異論はない。しかしこれは参った。のんびり朝寝をしようにも軽く体を動かすたびにけっこうな痛みがあちこちに走る。ゆっくりストレッチをするのがよいだろう。そう思って起床してからしばらく体を動かしていた。どうにも回復が遅い。

感染症がなければジムにでも行って疲れない程度に走ってシャワーを浴びればだいぶラクになったかもしれない。しかし、昨今の情勢は医療関係者からみると悲惨の一言で、医療従事者が濃厚接触者になってしまい出勤できないために病院内の各所の仕事がぜんぜん回らないという事情もイヤと言うほど知っている。こんな状況で医療機関の主任部長がジムに行くのはさすがに躊躇せざるを得ない。かと言って、札幌は豪雪のまっただ中だ。外を走ることなどできない。でこぼこの道に足を取られて路肩の雪山に全身ダイブするのが関の山だろう。運動はあきらめて、長いこと体をひっぱり続けた。

1時間以上経って多少は気にならなくなった。昨日の原稿を見直して編集者に送るために出勤。デスクに付いて座ろうとしたら、椅子の形に体が収まった瞬間に、これはもう言語化するのが難しいのだけれども、「原因はお前ら(デスク周りのあれこれ)だ」ということが肌からビシビシと伝わってきた。連日ここで没入しすぎたから今全身が痛いんだ、ということが、外付けキーボードやマウス、モニタたちによって異口同音に語られる。「お前もう帰れよ」「それはマジで帰れよ」という声が本当に聞こえそうだ(ぎりぎり聞こえなかったが時間の問題であろう)。

ふうーーーっと息を吐いて考えた。

顕微鏡を見るときもパソコンに向かうときも、この椅子の背もたれを倒すことはないが、今日は大きく背中をあずけて反り返って伸びてみた。普段使わない機能に驚いて椅子がギシギシと鳴いた。デスク横に置いてある読みかけの本を手にとってパラパラとめくって、また閉じた。帰ったほうがいい、休んだほうがいい。「でもぼくはもっと根本のところで安心したい」。なんだろうこの気持ちは、と思った。単なるワーカホリックなのか? 自律神経が失調して痛みの閾値が低くなってしまっている今、なおデスクにいようと思っているというのは認知が歪んでいる。認知を歪めたのも仕事のストレスなのか? でもぼくは「せっかくだからもう少しここでやれることをやって、もっと安心してから家に帰りたい」と思ってしまっている。堂々巡りだ。


頭を使わずにやれることを探した。そうだ、確定申告がある、と思って必要書類をとりだした。診断とも原稿書きとも違って確定申告ならば、歌詞のある曲を耳元で流していても気にならない。気に入ったラジオをかけてパーソナリティの声に耳を澄ませることもできる。失敗したからと言ってペナルティはせいぜい追徴課税だろう。なんの責任もないからゆっくりやれるなあと思った。これはプライベートだ、趣味だ、仕事ではない、だからストレスはかからないんだぞ、と自分の自律神経に言い聞かせるようにして、書類の入力を進める。いつもなら30分で終わるような内容をたっぷり2時間ほどかけて、しょっちゅう気を散らしながら、音楽に脳を持っていかれながら。めったにやらないことだが途中で病院内ローソンに行って、六花亭のバターサンドのパチモンみたいなお菓子を買って食べた。ISO認証を取得していないうちの職場のデスクでは仕事中に食事が可能だが、ふだんはおやつなど一切食べない。でも今日は別だ。ほら、これならストレスがかからないだろう? 何度も何度も脳の無意識領域に確認を取るようにした。すべて終わって帰宅して、家族でご飯を食べた後、イッテQが終わるころには布団に入ってさっさと寝た。俺にはストレスはない、俺にはストレスはないんだと唱えながら。


開けて月曜日。体の痛みはほとんど回復した。首回りも落ち着いている。肋骨も痛くない。「いい加減にしないと、そういうことだからな」と言われた気がした。朝から会議だったがなるべくテンションを抑えめにしてあまり熱中しないようにする。その後、最初のプレパラートが仕上がってくるまでの時間は比較的余裕がある。メールにいくつか返事をして、問い合わせの電話に答えて、そうこうしているうちにプレパラートが仕上がってきて、これなら1時間半後にはここまでいけそうだなと脳内ではじき出す……のをやめる。「まあ、普通にやってればいつも通りいけるはずだよ」くらいで、あとは細かな計算をしない。脳内に保存されたキャッシュを捨てる。クッキーも消去。メモリを解放して常駐タスクをいくつかシャットダウン。目の前にあるプレパラートだけに注目して淡々と診断をする。これでぼくの自律神経はまたいつものようにコントロールを再開してくれるだろうという確信がある。そうやってやりくりができるようになったのが、ぼくがこの20年で成長した証だ。次の原稿依頼は断ろう。次の論文投稿は共著者にもいろいろがんばってもらおう。まあ、断らないだろうし、自分でやるんだろうけれど、またこうやって体のアラームを鳴らすくらいなら、のらりくらりと逃げながら保つやりかたは必ずあるはずだ。だってぼくはもう、成長したのだから。

2022年2月22日火曜日

病理の話(629) チラ見妄想パワー

研修医が当科に来ているので、病理をいちから勉強してもらっている。まずは何からやったらいいかな、と考えて、大腸癌の手術検体から見てもらうのがいいだろうな、といつものように考えた。

大腸癌の診断には基礎的な事項がいっぱい詰まっている。最初から膵臓や膀胱などを見るよりも、まずは大腸から見るのがよいだろう。


手術で採ってきた大腸を、縦方向に切り開いて展開し(トイレットペーパーの芯にはさみを入れて展開するようなイメージだ)、粘膜に顔を出した癌を肉眼で観察して、どこをどのようにプレパラートにしたら一番情報が得られるかというのを考える。

目で見て考えたら、癌の一部を切り出して、プレパラートにする。

その後、顕微鏡でプレパラートを見て、癌がどれくらい広がっているか、どのような種類の癌なのか、転移や再発のリスクとなるような所見はないかを逐一チェックする。

最後に病理診断報告書に、これまで見てきた内容を箇条書き+説明書きにする。

以上が病理診断のおよその流れだ。このプロセスを研修医にも一通りやってもらう。


病理診断科で研修する人びとは、必ずしも将来病理医になりたい人ばかりではない。皮膚科医になりたいから皮膚科に必要な病理だけ教えて欲しい、とか、消化器内科医になりたいので胃と腸の病理を知りたい、という人には、それぞれの専門臓器の「勉強になるプレパラート・教科書」を見てもらっているうちに短い研修は終わる。なんだ、病理なんてつまんねーな、と思われる場合もあるし、短期間だが病理でしっかりと顕微鏡の学問(組織学)をやれてよかったと数年後に感謝されることもある。


しかし、「将来病理医になりたいと思っている人」の場合は、単なる見学ではなく実際に診断のプロセスにかかわってもらったほうがいい。責任感が加わると仕事の圧は段違いだ。ただ見て勉強するのとは違う、「自分の判断が間違っていたおかげで診療が乱れてしまう怖さ」を感じながら現場にコミットしてもらう。それが学習効率を高める。

もちろん、研修医の診断はすべて上級医がチェックするので、研修医の判断がそのまま患者を左右することにはならないが……よくできた診断書であれば、細部こそ整えたりはするけれど、本幹の部分は残す。研修医の言い回しがそのまま報告書に残っていることが大事だ。指導医の中には、一から十まで自分の口調に書き換えてしまい、原型が残らないほどにチェックするタイプもいるけれど、ぼくはああいうのはあまり好きではない。


というわけで研修医にはきっちりと手術検体の診断をしてもらう。

その一方で、われわれ病理医がやるべきことは、手術検体の診断だけではない。

たとえば胃カメラや大腸カメラをやったときに、目の前に見つかった病気から、主治医が小指の爪より小さなサイズの細胞塊をこそげ取ってくることがある。プチっと摘まんでとってくるのだ。これを「生検」と呼ぶ。この生検検体を見るのも病理医の仕事だ。

ただし、この「生検」のほうが、初心者には診断がむずかしい。しばらくの間は、研修医には手術検体ばかりを見てもらって、生検は後回しにする。

なぜ「生検」は難しいのか?

いろいろな理由が考えられるが、要は、生検の標本は小さすぎるのだ。手術検体ではある病気の全貌が見えるが(手術で採ってくるときには、病気をすべて採りきることが重要だから当たり前である)、生検というのはあくまで表面をプチっと摘まむだけなので、得られる情報も少ない。逆に言えば、その少ない検体から、大きな病気を今後どうするかの方針を決定するための情報を引き出さなければいけないということである。


ここで必要となるのは、おそらく、「一部から全部を予想する技術」なのだが、さすがのベテラン病理医も、わずかな部分から全体を正しく推測することは難しい。なので、より正確にいうと、「一部から、そこにつながるより大きな一部を推測する技術」を用いることになる。


実際の標本をお見せするつもりはあまりないので、今日はたとえ話をしよう。



一行目に、「a d u」という文字を用意した。その下にならぶ3つは、それぞれ、「a d u」を一部隠したものである。

2行目、隠された部分が多すぎるとa, d, uの区別はぜんぜん付かないだろう。

しかし、3行目になるとだいぶわかる。わかるが、1行目と2行目がないと、やっていることの意図がわからなくて、なんと答えたらよいのかわからないかもしれない。

4行目だと「a」はわかるのではないか。dとuも区別は付きそうだ、ただし、これをいきなり問題で出されたときには、一瞬「フォントの違うaかな?」と迷うかもしれない。


生検診断は、個人的なニュアンスの話でいうと、だいたい3行目をコンスタントに診断していく作業になる。

 ・全貌なんてまるで見えない

 ・それまでの流れが重要である

 ・そういう見方をするのだとわかっていないと設問が理解できない

 ・何度かやっているうちに、「この出題者はこういう問題を出すよな」とわかる≒「この検査だとここを見分けるべきなんだよな」という感触がわかる

 ・けどじつはいろいろな不確定要素を含んでいる

なんか大変そうだろう?



手術検体の診断は、言ってみれば、「a d u」を正しく診断するようなものだ。すべては見えている。ただし、a, d, uの違いをちゃんと説明できる必要がある。ついでにフォントの種類とかサイズ、文字の太さなどもきちんと調べ上げないといけない。


一方の生検診断は、限られた情報からいかに「それより多くの情報を読みとるか」を、誰もが納得するような言葉とともに合理的に語る世界だ。手術と生検、「同じモノを見ている」のは間違いない。しかし、なんというか、技術はちょっと違うよなあと感じる。このことが身にしみてわかるのはたぶん、病理医を目指してから3年ちょっと経過してからのことだ。具体的には「病理専門医」という資格を手に入れたころから、生検の難しさ、手術検体の奥深さなどにだんだん気づいていくようになる。

2022年2月21日月曜日

オルグの割合を下げる

「閾値」という言葉を見ると加藤茶が出てきてくしゃみをする。イーッキチ、である。


加藤茶のくしゃみのような「キラーギャグ」は、使い所が肝心だろうな、ということを今さらながらに思った。使いすぎれば飽きられるし、出し惜しみすると忘れられる。「8時だョ!全員集合」の番組内で、場が温まって、ここぞ! というタイミングで出すから国民に知られるギャグになったし、あらゆる場面でひっきりなしにイッキチイッキチやってたら寒かろう。イッキチの頻度を調整するのが巧かったからこそ、加藤茶はお茶の間の人気者になった。イッキチを出すか出さないかの判断がうまかった。つまりは「イッキチの発動閾値の設定が正しかった」ということ。イッキチ閾値である。



ダジャレだけで何行書けるかと思ったけれどちょっとしか書けなかった。ふくらまなかった。そういうものである。



ダジャレで思い出したのだが先日ちょっと印象的なTwitter Spaces(ラジオ的なやつ)を聴いた。相互フォローのニンパイさんという人がいて、ニンパイさんというのはたしかニンニンパイセンの略なのだがまあそれはいい。おしゃれな人だ。いいことを言う。あとずっと言葉遊びをしている。そのニンパイさんが、作業をしながらぶつぶつ独り言を言うだけのスペースで、このようなことをおっしゃっていた。


――ツイートを「ライフログ」として使っている人と、「オルグ」として使っている人と、「エスプリ」の発露の場として使っている人がいる――


これには唸った。以降、ずっとこのことを考えている。

たしかにそうだ。

TwitterというSNSはいまや、ライフログ or オルグ or エスプリのどれかに収斂しているように思う。


ライフログというのはそのまま「ツイ主が今なにをやっているか」であり、Twitter本社が掲げる「今なにしてる?」を真っ正直にやること。


オルグというのはなにやらキナ臭い言葉で、いろいろと含意もあるがここでは単に「自分の活動に入ってこいよと勧誘する」くらいの、本来の意味を指すと考えればいいだろう。


エスプリというのはなんだろうな、これが一番むずかしいと思うのだが、気の利いたことを言うというか、あそびの部分というか、ダジャレも入ってくるが、ダジャレの中にもエスプリとそうでないものとがある気はするけれど、そういうのをぜんぶひっくるめてのエスプリなのだろう。


この分類はじつにうまくできていて、たとえばぼくは、ある人のツイートがオルグばかりだとうんざりしてリストから外してしまうし、エスプリばかりでもうーん、となってしまう。三者のバランスが大事な気がする。「ツイパラメータ」としてはこの3つがあればだいたい事足りる。

ツイッターアカウントを見るとき、そこにどれくらいライフログが含まれていて、どれくらいエスプリがあるか、その上で何にオルグしようとしているのか、みたいなことを、これまでのぼくも(そういう単語では考えていなかったが)ずっと気にはしていた。

たとえば、ひたすら自分の所属するチーム・団体・あるいは信じる念(信念)の話ばかりをツイートする人は「オルグ型」であると言える。オルグ型のツイッタラーからライフログ感が一切感じられないとき、ぼくはある種のうさんくささを感じ取る。なんというか、人らしさがわからなくなるというか、こいつとにかく自分ちに引き入れようということしか考えてねえんだな、みたいな、もしくは、ツイッターを商売でやってるなあ……という意図が透けて見えてしまう感覚。

一方で、えんえんと「ライフログ型」の使い方をしている人だと、それはもはや公開日記と何も変わらないわけで、芸能人やプロスポーツ選手だとライフログだけでも多くの人が見たいと思うものであるが、ぼくらはたぶん他人のライフログを無限に集めて喜ぶようにはできていない。害はないが逐一チェックをしようとも思わない。仲良く別個にやっていこうぜ、くらいの気分になる。

そして、「エスプリ型」だけだとこれまたうっとうしいアカウントになる。名言しか言ってないアカウントはしばしばバズり倒してフォロワーを集めているけれど、どうにも好きになれない。

ライフログ・オルグ・エスプリのバランスはアカウントごとに異なるが、おそらくはその人自身が考える「社会と自分との繋ぎ方のバランス」に落ち着いていくものであろう。ライフログとエスプリとが8:1.5くらいのバランスに落ち着いて、あまった0.5のところに自分の所属している何かを紹介するオルグが紛れ込むような人のツイッターアカウントと、ライフログが2,エスプリが2,オルグが6くらいのアカウント、これらはもう、どちらかになろうと思ってなれるものではなくて、「そういう人」「そういうアカウント」だとしか言いようのない個性である。

芸能人はライフログ9、エスプリ0.5、オルグ0.5くらいで、ごくたまーに自分の出ている番組や関連グッズなどをオルグ的にツイートするが大半はライフログだ。そういうのがたぶんフォロワーに刺さる。

一方で、企業公式アカウントだとこのバランスではだめで、オルグ9、エスプリ0.5、ライフログ0.5くらいのほうがかえって誠実に感じられたりもする。

では芸能人でも企業公式でもない単なる一個人だとどうすべきか、というと、「こうすべき」はなくて、その人らしさがこれらの割合に出てくるだけなのだろうな……ということを思う。ぼくは最近、意図してライフログを増やしてオルグを減らしていた。ぼくの場合のオルグとは「いい医療情報を出す医療者をRTすること」だったりするのだけれど、ああ、これって一種のオルグなんだな、と気づいてから、うーん、ま、ほどほどにしよっかな、みたいな気持ちになっているのである。伝わるかなこの話。まあいいか。イッキチ。

2022年2月18日金曜日

病理の話(628) 病理診断報告書をどのように読んでもらうか

初期研修医が当科に研修に来ているので、病理診断のあれこれをかなり基礎から教えている。

すっかり中年のぼくが、ほとんど脊髄反射で処理しているような仕事も、習い始めにはひとつひとつ、「なぜこのように書かなければいけないのか」「なぜこのような処理をしなければいけないのか」と、確認して覚えてもらう必要がある。


大原則として、病理検査室の中では「道理が通っていないこと」をしてはいけない。さらに強く言うならば、「なぜそうするのかが説明できないこと」をしてはだめである。「理屈抜きで、体で覚えればいい」という修練は、病理診断の世界には基本的に存在しない。例外は解剖と切り出しの技術だが、これらも手で覚えること以上に、知識がしっかり付いていることが大前提である。


……もっとも、これは病理診断に特有のことかもしれない。医療技術の中には、小難しい理屈を差し置いて、「まずは体に覚え込ませる」ほうがいいものもあるからだ。たとえばキズを縫うときの糸結びは、理屈よりも指のこなれが重要だし、血液ガス採取のための動脈穿刺も、気管挿管も、ドレーン抜去も、YouTubeばかり見ていたところでうまくはならない。頭でっかちでは無理だ。筋肉が連合して一気に動いてくれるまで体に覚え込ませてはじめて「使い物になる」。


しかし、病理診断はそうではない。

手癖で診断することはできないし、やってはいけない。あらゆる行動に筋道が必要だ。「なんとなく前任者がこうやっていたので真似をしています」で診断できるほど甘くはない。もし、病理医を目指すあなたが教わるボスが理屈なしに診断を「こなしている」ように見えたら、そこは反面教師にしなければならないし、ほんとうはボスも「かつてきちんと筋道を追っていて、今ではそれがあまりに早すぎて脊髄反射みたいになってしまっている」だけのことなのである。


病理診断報告書(レポート)の書き方ひとつとってもそうだ。先ほど、ぼくが研修医に伝えたことは、「漢字の量が多い」であった。例をあげて説明する。実際の症例とは異なる。


研修医は、「免疫染色」という検査の結果を、以下のように記述していた(架空のものです、今てきとうに作ります)。


「TTF-1陽性、Napsin A陽性、p40陰性、CK5/6陰性、Ki-67陽性。したがって肺腺癌と判定します。」


ここにぼくは理屈で手を加え、さらに細かく説明をする。


「標本の見方はOKですね、結果もおおむねあっています。ただし、この報告書を読む人からすると、先生の書き方は漢字が多すぎますね。陽性と陰性は、モニタを薄目で見たときに、真っ黒さ加減がだいたいいっしょですよね。これだと、ぱっとこの行を目にした瞬間に、あっメンドクセ、いいよこういう陽性とか陰性とかいう評価は病理医のほうで勝手にやってくれれば……と、あきらめられてしまうのです。


だから私ならこのように書きます。


「TTF-1陽性(+), Napsin A陽性(+), p40陰性(-), CK5/6陰性(-)」


漢字だけでなく、カッコでプラスマイナスを付ける。あるいはもっと略式に、漢字の部分を完全に省略してもいいでしょう。さらに、もっと親切にするならば、


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6


とするべきです。改行も入れて、二文字ほど下げる。そのほうがぐっと見やすくなるでしょう。毎回この書式で書いておけば、レポートをクリックした人がぱっと画面を見るだけで、あっここは免疫染色の結果だな、とわかってくれる。こういう書き方を工夫しない病理診断報告書を書くのはおすすめしません。書いても悪くはないのかもしれないけれど、読んでもらえなくなる。


なお、Ki-67陽性、と書いてくれましたが、Ki-67は陽性細胞数の比率を書くべきなので、このように書きましょう。


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6

  Ki-67 labeling index: 30%


どうですか? だいぶ見やすくなりますよね。」



今日の記事の前半で、「理屈がないことをしてはだめ」、「なぜそうするのかが説明できないことをしてはだめ」と書いて、その続きが「文章をどうひらいていくか」だったので、ずっこけた人もいるかもしれない。しかし、病理医の仕事の中で「文章を書いて人に読んでもらう」という部分をおろそかにしてはいけない。なぜなら、病理医の仕事とは、


  病理医にしかわからない細胞のアレコレを、臨床医がわかるように翻訳して書き記す


ことだからだ。やっていることの半分くらいがそもそも言語的なのである。したがって、どういう言葉を使うかにも逐一理論がくっついていることが望ましい。


「なぜこの診断文には、二回も『~~だが』が用いられているのか? 短い診断文の中で二度も話の流れが逆転すると、読んでいるほうは振り回されたような気分になる。それでもあえて、この診断者が『~~だが』を多用した理由はなにか? 診断に自信がなく、いろいろと言い訳をしたかったからなのか? それとも、どこかを強調したかったのか?」


「こちらの診断文では、上のほうにまず主診断が書いてあって、その理由を後述させているのに、あちらの診断文では、上から順に診断の理由が述べてあって、最後に主診断を記載している。まるで裁判官が判決を読むタイミングが裁判によって異なるかのようだが、そうやって主文ならぬ主診断を先にしたり後に回したりする理由はなにか?」


「いつもならすんなりと診断が書かれている病変で、今回ばかりは病理医が参考文献をわざわざ記載しているのはなぜか? その文献がないと誰がどう困るのか?」



こう言ったことをとことん言語化してなんぼだ。それをやるための仕事。そこに手間をかけるための職種。病院の中で、とにかくあらゆることを言語化して理屈を追いかけていく職業だからこそ、当直が免除され、手技も免除され、ふつうの医者らしいことを何もしなくても、医者を名乗ることが許されているのである。

2022年2月17日木曜日

スカイツリーのおみやげを買ってない

アクセサリーが要らなくなってきた。


この記事で言うアクセサリーというのは、別にネックレス・指輪のたぐいでもなければ、カー用品でもない。「根付」や「キーホルダー」、「ミニフィギュア」、「ステッカー」、すなわち旅行のおみやげのことである。

かつてのぼくは出張をするたびに、取るに足らない観光みやげを1,2個買ってきて、デスクの一角にぶらさげておいた。しかしこれらがなんかもう、わりとマジで要らねぇなーと感じる。


多すぎてどれがどこのものかわからない。なんとなく断捨離精神みたいなものに自分がむしばまれており、この一角ぜんぶ捨ててきれいにしてぇなーという感情がある。


でも捨てない。あと20年粘って、退職間際にもういちど眺めてそのときに考える。「子どものころのぼくは妙なもの集めてたな」みたいな気持ちで、自分の20代や30代を振り返るのもオツであろう。捨てずにとっておくけれど、しかしまあ、今すでに、要らねぇナーと本気で思っている。


「要らない」=「捨てる」ではない。


今のぼくが旅行にでかけてもまた買うだろう。「要らないものは買わない」は単純すぎる。人間の脳の進化にてらしあわせて、失礼だ。「要らないけれど買う」くらいのアンビバレントな刺激を脳に与え続けていないと錆び付いてポンコツになる。「おいしくないけれど食べる」は体に悪いが、「要らないけれど買う」くらいなら財布に悪い程度で済む。さほど高額な無駄遣いをしているわけでもないし。



「無駄を楽しむ」とまとめすぎるのも雑に感じる。そのとき喜んだ自分の気持ちが残滓になったところで、新陳代謝によって体の細胞のほとんどが昔とは入れ替わってしまった自分の中に、「まだ残っていたのか/もう残っていないんだな」という部分を探すことを、単に「無駄なものを楽しめる俺カッケー」にまとめてしまうのもどうかと思う。



「要らねぇナー」の自分を眺めて、数個の単語に落とし込まずに、うん、今のぼくはなるほど、要らねぇナーという、ナーというニュアンスのことにたどり着きがちなんだな、みたいなことを、時間をかけて何度も何度も撫でている。そういうことを、出勤・退勤の車の中や、どうしてもキータッチができない食事中、あるいは眠りに落ちる直前などに、コシコシとこすり続けている。



にしてもアクセサリーってほんとに要らねぇな。けっこういい値段するし。ここにぶら下がっているアクセサリーを一切買わなかったら、帝国ホテルのディナーでも余裕で食えただろう。……帝国ホテルのディナー! 帝国ホテルって実在するの? あ、するんだ(ググった)。東京にはろくなおみやげがないから、帝国ホテルで飯を食うことで思い出のかけらを残そうとするのかもしれない。

2022年2月16日水曜日

病理の話(627) 裏に隠れたニュアンス

病理医が細胞をみて診断を書くとき、たとえばこのように「所見」を書く。


「N/C比(註:核・細胞質の比)の高い腫大した類円形核を有し、極性の乱れた腫瘍細胞が不整な分岐や癒合を呈する異常な腺管を形成して浸潤性増殖しています。」


所見とは「見たイメージの解説」なのだが、このように、ほとんどが専門用語で書かれていて一般の人にはなにがなにやらわからない。しかし、当たり前のことだが、これらの用語にはすべて意味がある。



まず、「N/C比が高い腫大した核」というのはどういうことか? 図を描いて考えてみよう。


あらゆる細胞の中には、「核(N: nucleus)」と「細胞質(C: cytoplasm)」がある。


核にはDNAが詰まっている。DNAは、細胞がさまざまなはたらきをするために必要な「道具を作るためのプログラム」だ。たとえば細胞の表面の膜であるとか、細胞内にあるさまざまな機能をもったタンパク質は、すべて核の指令によって作られる、と考えて良い。


これに対し、細胞質には「さまざまな道具」が入っている。細胞が分泌するための粘液であるとか、細胞が周囲と連携するための伝書鳩的なものだとか、ほんとうにいろいろだ。


すると、上の図は、下のようにイメージすることができる。



細胞核は「ブレイン」であり、細胞質は「現場の作業員」ということだ。


左側は、本来の細胞である。ブレインが的確に道具を作り出し、現場の作業員たちがそれを見事に使いこなす。

これに対して、右側はバランスがおかしい。ブレインばかりが主張しており、現場が圧迫されてしまっている。これでは細胞はうまく働かない。

つまり、「N/C比が高い腫大した核」というのは、細胞が「本来の仕事をせずに、とにかくDNAの入れ物部分だけが異常にでかくなっている状態」を指す。これはおそらく細胞に何かおかしなことが起こっているのだなあ、と考えることができるだろう。



このように、病理の「所見」というのはすべて意味を持っている。かつて、「まるで知らない国の言葉で風景を描写されているかのように感じる」と言った人がいた。エベレストがいかにすごい山かをネパール語で話すとき、「チョモランマという言葉は大地の女神という意味なんだよ」というのを知っているかいないかで、ネパール語に含まれたニュアンスの受け取り方は異なるだろう。それと同じように……それ以上に、病理の所見に込められたニュアンスをきちんとわかっていれば、診断書からくみ取れる意味は大きく変わる。

さきほどの、

「N/C比(註:核・細胞質の比)の高い腫大した類円形核を有し、極性の乱れた腫瘍細胞が不整な分岐や癒合を呈する異常な腺管を形成して浸潤性増殖しています。」


には、これくらいの意味が含まれている。

「細胞質よりも核が不釣り合いに大きくなるほど増殖活性が高く、本来の形状とは異なる類円形になるほどに核の内圧も上昇しており、細胞が本来の形態を保つことをジャマしている。核の分布に携わるタンパク質にもおそらく異常があるし、細胞が複数集まって構成する腺管の形がおかしいからには増殖の方向性や接着性にも異常が生じている。増殖異常があり、おそらく細胞死のコントロールもおかしく、分化の異常もある。そして周囲の構造を破壊しながら染み込むように自律性の・勝手な増殖をしている。」


このことは、相当熟練した病理医以外にはわからない。じつは臨床医ですら意味はとれない。細胞の像がもつ「本来の意味」は必ずしもわからなくてもいい、なぜなら、医者にとっても患者にとっても、


「で、それが治療となんの関係があるの?」


さえわかれば、あとはどうでもいい……とまでは言わないが、当座、利用のしようがないからだ。それでも病理医が所見を書くのにはいくつかの理由がある。根拠をもって診断するため、診断者間の差を埋めるため、そして、おそらく、「そうすることが好きだから」。最後のは割合としてはでかくないが、スパイス的には重要である気がする。スパイスがなければ成り立たない料理もある。

2022年2月15日火曜日

時間不器用

ぽんと時間が空いたのでブログを書いている。これを書いているのは釧路出張の日だ。いつもなら札幌の北にある「丘珠空港」から8時のフライト。しかし、2月はなぜか朝イチの便が欠航、というか就航自体がないので、次便の10時半を待たなければいけない。こういう「浮いた2時間半」が心をざわつかせる。どうしよう、この時間になにをしたらいいのだろう。


まずはいつも通りに出勤をしてみた。メールチェックをして返信する。4月から当院に来てくれる若い病理医の就職にかんする事務連絡が来ていて、当院の事務職員にメールを転送する。日本デジタルパソロジー研究会のホームページの改修が滞りなく進んでいることを確認し、自分のスマホでもホームページを見に行ってみる。しかし今日はメールがあまり来ていない、なぜなら出張日だから、そこに引っかからないように多くの仕事を事前に終わらせておいたからである。新規の案件しかメールは来ない。


どうしようかなと少し考えて、3月上旬に開催される胃癌学会の発表用パワポに音声を吹き込みMP4ファイルを作ることにした。ウェブで学会に参加する場合、ネットが不調でZoomがぶつぶつ切れたりすると学会の進行が滞るから、事前に発表内容を動画にして事務局のウェブサイトに登録する。学会は、集まったMP4ファイルを会場で流すことで、ネット環境を気にせずに多くの発表を滞りなく終わらせることができる。当日にぼくがやることは、


自分が発表している動画を自分で眺めて、


自分がしゃべり終わったあとに視聴者からやってくる質疑応答にZoomで応える、ここまでがお仕事。質疑応答のときにZoomの接続が切れたらどうするんだろうと思わなくもないが、ま、コアの発表の部分さえきちんとしていれば学会としてはOKなのだろう。でも本来学会というのは質疑応答の部分にもうまみがあるのだけれど。



こうして自分の発表動画を自分で眺める機会がつとに増えた。TikTokを使っている若者ならば誰もが感じていることであろうが、ぼくもYouTube LIVEや学会の事前登録などで、いやでも自分のしゃべる様子を目にする。その結果、昔の自分よりはしゃべりに抑揚がつけられるようになったし、滑舌も改善はできた、つまりはプレゼンがうまくなった。でも、プロのしゃべり手のような、根本的に人を惹き付けるようなしゃべりにはならない。

「論理をもった指導者」がついているわけではないので上達が頭打ちになるのも当然だ。こういうことはいっぱいある、と思う。

自分を振り返る機会ばかりが増えていく。しかし、往々にして、成長に必要なのは、「自分で自分を振り返ること」だけではなく、「他者から何気なく振り返られること」であったりもする。「Zoomのときみんながずっとカメラ目線で正面向いてるのキモくない?」と言われたからハッとするのだ、それがなければ、ぼくは今でもZoomでカメラや自他の顔をずっと見ながらしゃべっていただろう。まっすぐ目線を合わせ続けることが可能なZoomは非現実感が半端ない。テレビのアナウンサーとしゃべっているような気分になる。リアルで出会っていればそんなに長い間見つめ合うことはない……付き合いたてのカップルを除けば。


ぽんと空いた時間にヘッドセットを装着し、パワポのスライドを送りながら8分間の発表を吹き込んでいく。最初はうまくまとまらなかった、15分かかってしまった。現実の学会であったら時間オーバーで大目玉を食らうところだ、でもまあわかってはいた。Web用に作り込んだ資料は時間の調節が難しいから、こうしてこまめにリハーサルをして時間を絞り込んでいかなければいけない。実際にしゃべってみて、「ここでは同じことをしゃべることになるなあ」と重複が感じられた部分を思い切ってばっさりカットする。プレゼンに描き込んだ文字のうち、発表していた自分が目をやらなかった部分、読むひまがなかった部分もばさばさカット。なんなら結論の部分も一部は読まないことにした。4度目の録音で、7分58秒のパワポ動画が完成。これを数分かけてMP4ファイルに変換し、ファイル名を「演題名_名前」に変えて、学会のホームページにアップロードする。


ここまでやってもまだ1時間ほど余裕があるので困ってしまった。ひとまずこうしてブログを書いて20分消費。書き終わったけれど残り40分。いよいよスタッフたちが出勤してきて、「あれ? 今日は出張じゃなかったでしたっけ?」と質問されるので「ええ、このあとの飛行機なんですよ」と返事しているうちに職場の予鈴がなる。学校みたいだなといつも思う。予鈴がなったあとに職場を後にするのは、授業をサボっているような気持ちになるからなかなかいい気分だ。少し早いけれど丘珠空港に向かってしまおう、空き時間では三中信宏先生の新刊を読めばいい。そうだ、空いた時間には本を読めばいいのだ。こんな簡単なことになぜ今朝は気づかなかったのだろうか? 血圧が低くて脳がポンコツだったからだろうか?

2022年2月14日月曜日

病理の話(626) エピジェネティクス

病理医がわりとよく読む雑誌『病理と臨床』(文光堂)の、2022年2月号はエピジェネティクス特集だ。同様の特集は13年前に一度組まれている。えっ、エピジェネティクスって……どういうコト……!? とちいかわが疑問に思うのをいったん放置して話を先に進める。


今回の特集号は愛媛の北澤先生と帝京の宇於崎先生の編集によるものだが、13年前に同名の特集を企画した現・慶應大学の金井弥栄先生は、当時、国立がんセンター研究所のトップをなさっていた。その少し前にぼくは国立がん研究センター中央病院に研修に行っており、金井先生には泌尿器科病理診断を教えてもらった記憶がある。組織診断能力はもちろんだが、めちゃくちゃに日本語能力が高い方で、許可をもらって金井先生の書いた病理診断の「所見」部分を手入力で自らのPCにコピーして札幌に持ち帰り、毎日眺めて日本語の勉強をした。病理診断の文章から「細胞像」が浮かび上がってくるのだ、あれは一種のバケモノであった。その尊敬する金井先生は、13年前にすでにエピジェネティクス研究における国内外のトップランナーであったが、なんと今年の『病理と臨床』でもあいかわらず原稿を書いていらっしゃる。まったくスピードがぶれていない、どころか、13年の進歩を牽引している。おそれいる。


さてちいかわが激ギレする前に解説をする。エピジェネティクスとは……「DNAに貼られた付箋(ふせん)」を解析する学問、というのが狭い意味である。最近はもう少し広い意味で用いられているが、今日は話をかんたんにする。


いきものの細胞の中にはDNA(物質名)と呼ばれるものが入っている。DNAはA,T,G,Cという四つの塩基(物質名)の組合わせでできた長い長いプログラムである。このプログラムを実行すると、細胞内にある「3Dプリンタ」が稼働して、さまざまなタンパク質が合成される。ざっっっっっくりと説明するとそういうことだ。

で、3Dプリンタを稼働させるためのプログラムを前から順番に読んでいくかというと、話はそう簡単ではなくて、細胞ごとに、「プログラムのどのへんを、どれくらいの頻度で読むか」というのがコントロールされている。このとき、DNAに貼られている「付箋(ふせん)」が活躍する。


付箋がついた部分のプログラムを優先して読む、とか。

逆に、付箋がついた部分は3Dプリンタが読み込まないようにする、とか。


そういったコントロールのありようを考える学問がエピジェネティクスだ。付箋がどのように活躍しているかを研究しているのである(ざっくり)。DNAというプログラムにナニが書かれているかを検討する学問をジェネティクス(遺伝学)と呼ぶが、それにエピをつけて……つまりは「余計なもの」をくっつけたエピジェネティクスは、「周りにくっついているものを研究する学問」、そんな感じでぼくは覚えている。

もっとも、今回の特集号を読むと、エピジェネティクスという言葉はエピ+ジェネティクスではなくて、エピジェネシス(後形成、もしくは後生)という単語とジェネティクスとの造語だと言うので驚いた。あらそうだったのねという感じだ。まあそのへんは興味ある人が読んでください。


で、この、エピジェネティクス特集を読んでいると、これはある種の人が一生+他の人びとの一生も巻き込むので結果的に百生とか千生くらいをかけて取り組まないとぜんぜん歯が立たない難しい分野だなあということはわかる。象徴的なのが、ときおり出てくる「AI」の文字。解析するパラメータが多すぎるので、機械学習技術などを使って「人智を越えて」研究しないとどうにもならないレベルなのであった。えっ、これ、人体全部じゃなくて、たかだか細胞1個の話をしてるんでしょう? と思わず上品にたずねてしまうが、細胞1個どころかその中にあるタンパク質1個を作るにあたっても、かつてぼくが考えていたようなセントラルドグマ(DNAからRNAを作って、それをタンパク質にするという流れ)だけではどうやら説明が足りないのでございますですよ。いやーすごいわ、化学反応の末にある生命ってかんじ。


このようなエピジェネティクス特集を読むと、たいていの用語は「まあ知っている」のだけれど、それらが組み合わさると「知っているはずなのだがだんだんわからなくなってくる」のが難しいなと思う。素人に説明するのが難しいどころか、いちおうプロと名乗っても良いはずのぼくが理解できていない部分がまだまだある。「胃癌のエピジェネティクス」なんてぼくの研究内容にかなり肉薄しているのに、えっそこはそう考えるの? みたいな解釈のずれもあって、難しい、おもしろい。


加えて言うと、昔からこのような基礎医学というのは、基礎研究者がやればいいものであって、現場で患者さんを前にする医者たちが知っておく必要はあまりないのではないかと思われていた(いる)ふしがある。しかし、特集号を精読して思うことは、「これを知らないと抗がん剤の説明なんてできないじゃないか」と言うことである。現代の医学は患者の病気を遺伝子レベルで解析して、それに応じた治療をいかに患者にあてがうか、という、オーダーメードというか、ウーバーイーツというか、とにかく「その人にはこれしかない!」というところをピンポイントで探るようなことを平気で行っているので、検査の数も増えるし、患者に対する説明だって難しい。だから現場の医師も、「ああ、MSI検査ってのはエピジェネティクスのここにかかわることなのか」というのを知っていないと、そもそも患者にほどこす治療のことを自分で全く理解していないということが起こりうる。


「テレビが映る理由を知らなくてもテレビは見られる」という論がすこし広まりすぎてしまっているように思う。テレビならそれでいいけれど、病気、あるいは人生を考えていく際に、患者が、「わかんねぇけど治してくれりゃそれでいいよ」と言うのはまだよいとして、医者も一緒になって「わかんねぇけど治ればそれでいいよ」とはならない。なぜなら、テレビを見る分には中身は知らなくてもいいかもしれないが、テレビを直す方はそれでは困るからだ。そして、現代は、患者もまた、「どうせ見るならそのメカニズムも知りたいな」と思いがちな時代である。けっきょくは勉強していくしかない。たとえ、人智を越えたところでうごめいている、複雑系の極みのようなシステムだったとしても、AIを使わないとおよそ全貌が把握しきれないような広大な世界だったとしても、その世界とかかわるぼくらのありようによって、世界が反射する光の種類は違って見えるのだ。

2022年2月10日木曜日

老いを意識するというラベル

ちょっと前に「カリカリ梅」のことを書いたツイートがよく伸びたのだが、最近ぼくのデスクの周りにあるのはアメだけだ。カリカリ梅はやめた。無駄に唾液が出る。それに、塩分は控えめにしている。

病院の中にあるローソンで昼食にサラダとおにぎりを買って食べるときも、サラダのドレッシングは半分くらいしか入れない。あるいは、最初からドレッシングなしのサラダを買い、手元に別に自分用のドレッシングをボトルで買っておいて、少しずつ垂らして食べる。大学生のころからLDLコレステロールが高めなので、油分にも気をつかいたい。

そうやって絞り目、絞り目、なるべく健康的な食事を心がけていたところ、先日の人間ドックで朝に血圧を測ったら「今までよりずっと低かった」ので笑ってしまった。えっ、ぼくって低血圧になるんだ、ということを43年間生きてきてはじめて知った。塩分セーブしすぎたのか? あるいは、ドックの日に精神を凪にしすぎてアドレナリンを作るのを忘れたか? 

もっとも思い起こせばこの低血圧にも心当たりがある。最近、出勤する際にぼーっとしていることが増えた。あれは血圧が下がっていたのか。なるほど。このまま低血圧が続くと、車の運転が危ないので、ちょっと早起きをしてご飯を食べ、体を動かしてから出勤するようにしないといけない。

「典型的おじいちゃんの暮らし」が手招きをしている。

でもほんとうのところ、老いも若きも地続きである。中年太りがどうとか四十肩がどうしたとか、早寝早起きラジオ体操でおじいちゃんみたいとか、ひごろ、自分が医者の立場だったらまず使わないようなラベルを自分に対してだけは使いたくなるものだ。……因果が逆かもしれない。人間は自分にわかりやすいラベルをつけたがるので、医者がそこを先回りして「ラベルをつけなくても大丈夫ですよ」と言うようなクセをあとから身につけているだけなのかも。ともあれ、もちろんぼくは老いと地続きで暮らしている。



ちょっと思い付いたことがあるので少し話をずらす。ラベリング、あるいは型にはめる話。医者に限らず、商売の人が用いる「型どおりのセリフ」というのにはたいてい由来があるものだ。コンビニでもショップでも、形骸化してしまったあいさつ、心の込めようがない決まり文句、それぞれに、現場で最適化されるだけの理由と筋道があるだろうなと思っている。「いらっしゃいませ」と言わないより言ったほうがトラブルが少ない。「ありがとうございました」の一言が万引きを抑止する。「何かお探しですか」と声をかける習慣を客側に知らしめる、「店はそうやって声をかけてくるものだと思わせる」ことで、まれに現れる不審者にもそうと悟られずに同じ声かけをできる。実践知のようなものがだいたいそこにはある。そして、外野のぼくが想像する以上にじつは複雑な由来があることも、たぶんある。なんなら使っている方にとっても本当の意味を忘れてしまったフレーズというものすらいっぱいある。そういうもののほうが多いかもしれない。だから「形だけの挨拶なんてやめてしまえ!」というクレームは短絡的だなと思う。そこには現場の理由があるのだ。外野がとやかく言うべきことではない。まあ、外野がなぜそんなことを言わなければいけない気持ちになるのかにも、おそらく複雑な由来はあるのだが……。

医者が外来で「今日はどうしました」と聞く、この一言にもおそらく意味がある。どうしました、だけだと短い、そこに今日はと付けることで「いえ、昨日からです」のように患者に時間経過を思い出させるきっかけになるかもしれない。このように、由来や意味を考えることが可能だ。しかし、患者に話しかける医者がいつもそこまで考えているかというと、自動化されてしまった「外来しぐさ」はもはや本来含有していた意味を内包しすぎてわけがわからなくなってしまっている。しぐさから意味を取り出す……しぐさのアフォーダンス的側面に光をあてる……ことができるのは、そこまでものを考えたことがある幸運な人だけだ。「有能な」ではない、「幸運な」である。人間の優秀さなんてもはやほとんど変わらない。気づくか気づかないかなんて所詮は運頼みである。


老いを意識するというラベルにも意味はあるのかもしれない。多くの人びとが人生のかなり長い期間――それはたとえば16歳くらいからはじまって65歳くらいまで、あるいはもっと続くこともある――「あー年取ったなあ」と口に出してしまう「型」がある。そのことに疑問を持たずにこれまでやってきたけれど、「自分が老いたなあとわざわざ言葉に出して確認すること」にもなんらかの筋道、理路、セリー(音列?)のようなものがあるのかもしれない。すべては「複雑な矢印の末に矢頭があつまった場所」で立ち上がってくるものだ。「老いたなー」にはぼくらがもう忘れてしまった、言うべき理由がある。だとしたらその理由とは何なのか? おそらく、それはもう、わからないならわからなくてよいものなのだ。

2022年2月9日水曜日

病理の話(625) なれ合いでお金をもらっていなくてよかったという話

数年前のことである。


「ヤンデル先生、いつもツイート拝見しています。次の病理学会総会にいらっしゃるのでしたら、一度ご挨拶させていただけませんか?」


医学部の学生時代に会社を興した、ぼくより一回り以上若いベンチャー社長からメッセージをもらって、へえ、おもしろいこともあるものだと思った。ツイッターをいつも見ているというのはありがたいが、それとベンチャーの商売と何か関係するところがあるのだろうか?


いくつか自分の中で線引きする部分を決めてから、東京国際フォーラムのカフェで待ち合わせをして社長と……あと重役みたいな人と会った。


いずれもとびきり若い。エネルギーに満ちあふれていて優秀そうなオーラが伝わってくる。そして、医療系ベンチャーの人あるあるなのだが、話すテンションがまんま研究者である。それはそうだろう。医学部時代に研究したことを元に起業しているタイプのベンチャーなのだから、心の芯の部分はリサーチャー(研究者)であり、真の居場所はアカデミア(学究する場)なのである。


で……ぼくに何の用が?




彼らは言った、ぼくがそれまでにいくつかの場所で発表していた、「病理医はAIに仕事を奪われるだろうか」のアンサーに、興味を持ったのだと。だから会って話をしてみたかったのだと。


ぼくはさまざまな講演の中で、だいたい以下のようなことを言っていた。


・基本的に今ある病理診断の多くはAIによって代替可能、というか、目標をより高く設定することで、今の病理診断よりもさらに患者や医療者の役に立つことができるようになる。

・だから、病理医の今やっている仕事の多くは、ヒトがやる必要がないし、ヒトがやり続けてはいけないとすら思う(クオリティがAIよりも相対的に低いので)。

・ただし、人間の病理医が要らなくなるかというとむしろ逆である。なぜなら、AIが面倒な仕事をすべて代わってくれる分、ヒト病理医は「病院内に常駐する分子細胞生物学・組織形態臨床相関学の専門家」としてむしろその役割を強めるからだ。「細胞のことをわかる人間」がいることで、臨床の現場も研究の現場も大きな恩恵を受け取る。

・この150年間で、病理診断は、「世に登場した使えるツール」にあわせてどんどん進化した。かつてヒト病理医がやっていた仕事の多くは、現在、よりよいツールによって淘汰されている。これは別にAIに限った話ではない。たとえば、Ziehl-Neelsen染色を用いた結核菌探しよりも、抗TB抗体免疫染色のほうが精度は高いし労力は少ない。昔を知る病理医は、なんとなく新旧両方の手段を使って診断をするのだけれど、実際には新しいほうがあれば古い方は不要である。というか、古い方を使っていると、病理医の能力によって診断にばらつきが出てしまうので、長い目でみたら医療現場にとっては損である。AIによる変革もそれに近い部分がある。

・病理AIを使って鍛えるのが臨床医や研究者であるよりも、組織診断を知り尽くしたヒト病理医がAIを研究したほうがいいことがある。現場に足りていること、足りていないこと、細胞を知っている故の発想、多くの医療者と日常的に会話をしている強み。



ほかにもいろいろあるのだが、大枠ではだいたいこのようなことを言い続けていた。ベンチャーの彼らは、「意見が同じ人なので会ってみたかった」と言い、これから自分たちがどういうことをしていきたいのかという話をしてくれた。

ぼくはその話を応援しようと思った。とは言っても、別に彼らだけに限定して肩入れしようと思ったわけではない。そもそもぼくはありとあらゆる病理AI研究を応援していた。同じことを彼らに対しても約束するだけのことだ。

「応援しますよ」と言うと、「先生が私たちの活動をよく広めてくださるならこんなにありがたいことはないです」と彼らは言った。

そこでぼくはこう付け加えた。




「あなたがたの最新の研究内容をその都度教えて頂けたらとてもうれしいですが、それらを聞いて許可なしに外で話すようなことは一切しません。代わりに、あなたがたが公式に出した論文やプレスリリースをツイッターなどで取り上げて、みんなと一緒に考え、これからの病理診断の未来について思いを馳せるヒントにする、みたいなことをやらせてください。これはぼくとあなたがたの、ツイッターを通じた友人関係にもとづく行動ですので、間にお金のやりとりが発生しないように、御社でもなんかうまくかんがえておいてください。広報費とか顧問料とか、そういったものをぼくが受け取らず、かつ、ぼくが受け取らなくても皆さんがあとで監査で困ったりすることのないようなかたちを保てるようにシステムを整えて頂ければと思います。外部顧問とか外部取締役みたいなのはよくない気がします。研究の世界を一般にも広く周知することはとても大切ですし、広報にお金をかけることも必要ですが、お金をかける先がぼくのような医療者であってはいけません。そこは世間は許しません。どれだけ理路が整っていても感情が許さない、という人たちがいるのです。ぼくらはあくまで同じ業界で違うやり方で研究を進める同業者です。したがって、ぼくは自分の研究心を満たすべく、友人からいろいろなことを堂々と教えていただくだけの存在です。ぼくがそれを考える過程ではツイッターなどでつぶやくことが役に立ちますし、その結果、副産物として、多くの人びとにも知ってもらえる、というのが理想だと思います」



よどみなく言ったぼくのこれは、本当にあちこちでよく話す内容なので、何度もしゃべりすぎてほとんど自動的に出てくる内容である。

たとえば本の書評を書いてくれと言ってくる人びと。あるいは、なんらかの医療系イベントに出席して何かしゃべってくれと言う人びと。ぼくはそういうのを「ツイッターで友人関係になれているかどうか」を基準にして考えるし、金銭を軸に関係を結んで契約してどうこう、というのはやりたくないし、医療者・研究者としてそれをやるのはダメなんじゃないか、と思っている。それをやっている他の人までがダメだとは思っていない、ただ、ぼくがそれをやったらダメだということだ。

それまでに関係のなかった人からいきなりツイッターのフォロワー数だけを見て依頼されても「あなたとの間には関係ができていないから」という理由でお断りする。

心ない人があとで探偵をやとって、ぼくの周りを根掘り葉掘り調べたときに、ナアナアになっている部分を掘り返され、存在しない悪意を勝手に見つけ出して大騒ぎすることのないように、お金に関わる部分については本当に気を付ける。正味で考えてぼくが大損をするくらいでちょうどいいのだ。



ぼくは今でも、くだんのベンチャー企業だけでなく、さまざまなAI研究をしている人たちから最新の情報を教えてもらえているし、その情報のやりとりにおいて金銭は発生していない。このことを、研究業界では、Conflict of interest(COI: 利益相反)がない、と言う。

別に「COIがあっても」、その都度申告すればいいだけの話で、研究者が企業からお金をもらうこと自体はまったく間違ってはいない。これは研究者にとってあたりまえのことだ。

ただし、ぼくは、ツイッターなどでたいていの研究者に比べるとやや多数の人からじっくり眺められている立場である。「正味で考えてぼくが大損」をしていないと猛然と殴りにくる人がいる。殴りにくる人が悪い、それはまあそうなのだけれど、暴力的な指向性をもった人のそばに無駄に角材や鉄パイプを放り出しておいても武器を与えて喜ばせるだけである。

ぼくは「誰が見てもわかるような公正な(金銭)関係」において共同研究者たちと研究をしていきたいし、あのとき、東京国際フォーラムの会場で、「いい会社ですね! だったら社外営業としてお手伝いできますよ。つきましては正規の料金で月にこれだけのお金をいただければ」などと言っていたら、ぼくは今ごろこれほど清々しい気分で病理AI研究に邁進することはできていなかった。古い価値観かもしれない、そう、ぼくは少しずつ、自分が古い方の人間だということを自覚させられる場所で暮らしている。

2022年2月8日火曜日

受け身と微調整の哲学

朝からずっと雪が降っていて、窓際でそれを見ながら働いていると、帰宅後に車を家の前に停めるにあたってまず雪かきをしなければいけない、おうちについてもすぐに家には入れないんだ今日は……ということが思い起こされて、どうも気持ちが沈んでいく。


そしてなんとなく「レジリエンス」のことを思う。レジリエンスの日本語訳はググればいっぱい出てくるのだけれど、基本的には「へこんでもすぐに元に戻る回復力のこと」とされる。ただ、ぼく自身は「へこんだらもう元の自分には戻れないし、戻りたいとも思わない」と思っているので、いわゆる通俗的な意味でのレジリエンスは弱い。


へこんでから回復したとしてもそれは「へこんだ記憶を持ったまま回復している」のであって、へこむ記憶まで無くすることはできない。いったんダメージを受けたら、仮に体が回復してもそれは元の体ではないのだと思っている。もちろん、世の中には、都合の悪いことはすべて忘れてしまって時が経てばケロッと元通り、みたいなタイプの人もいる、おそらくそういう人こそが本来の意味でのレジリエンスを持っているのかもしれない。でも痛みの記憶は簡単には消せないものだ。


そしてぼくは「元に戻る力」よりも、「受けた衝撃によって自分が変形したことを受け入れて、ゆがみとともに何気なくその先を生きる力」のほうが使い勝手がよいと思っている。これ、ささっと書いたけれど、夢物語かよ、というくらいに都合のよい力だ。しかしさまざまな障壁、圧、介入、浸潤の中で暮らしていて、自分だけがずっと昨日の自分のまま、先週の自分のまま、先月の自分のまま、昨年の自分のままというのはないなーと思うし、無限の微調整によって少しずつ移り変わってきたのがほかならぬアイデンティティというものだと思う。これはネガティブ・ケイパビリティ(白黒はっきりしないものごとを、白黒はっきりしないままに受け入れる能力)とも微妙に違う。ベコンとへこんだら、へこんだなりにやれることを探してまた歩こうぜという心のありように名前はついているのだろうか。


窓の外で降る雪をポジティブに受け止めることなどできない。雪の降ったあとの道は混雑して渋滞するから帰るのがおっくうだし、家についてからも雪かきを1時間以上やらないと家に入れないのがゆううつだ。その感情を腰や背中のあたりにくっつけたままのぼくが、昨日のぼくとはすでに違うものとなって、それでも仕事をしたり本を読んだり人と話したりしている、そのことにある種のけなげさと、よくやったよと言って親が頭をなでるようなやさしさをブレンドした上で、なにか、いい名前をつけることはできないものだろうか。レジリエンスでもなく、ネガティブ・ケイパビリティでもない、手垢のついていない、衝撃によってへこみや飛び出しのできた新しい言葉を用いて。

2022年2月7日月曜日

病理の話(624) 神経が脳の言う事を聞かずに勝手になんかする

「つい反射的にポチっちゃったわ~」みたいに、反射という言葉はわりと一般によく使われる。反射的に○○する、の反対はなんだろうか? 熟慮して△△する、になるかな。


その元ネタ(?)になった「反射」は、人体の中に備わったなかなか強力なシステムだ。一番有名なのはなんだろう。膝のちょっと下にあるくぼんだところをハンマーでコンとやると足がクイッて動くアレ。アレは反射です。「膝蓋腱反射(しつがいけんはんしゃ)」という。頭で考えていないのに膝下が勝手にうごくので、わかりやすい。


膝蓋腱反射はいわゆる脊髄反射(せきずいはんしゃ)のひとつである。専門用語がいっぱい出てくるのでびっくりするが、膝蓋腱(しつがいけん)は膝の叩く部分のこと、脊髄(せきずい)はこの現象にかかわる神経が通る場所のことなので、分けて考える。

膝のくぼんだところには、それより足先のほうにある筋肉の腱(けん)がついている。これが膝蓋腱(しつがいけん)だ。この腱をハンマーで叩くと、太ももの筋肉がキュンと引っ張られる。すると、筋肉の中にある感覚神経が刺激をうけて、脳に向かって情報を届けに走り出す。感覚神経は背骨の中を通っている脊髄(せきずい)につながり、ここまで刺激が猛スピードで届くのだけれど、じつは脊髄にたどりついたところで、二手にわかれる


イメージして欲しい絵がある。膝を叩いて刺激をうけた筋肉を「事件現場」と考えよう。現場で目撃した人が、生活道路をダッシュして脊髄までたどり着くと、そこには「交番」(まわりの情報を集める)がある。交番で連絡を受けた人は、「大きな警察署」、すなわち脳に連絡を入れる。「大変です!判断よろしくお願いします」。国道(脊髄)を上に登っていって、本部(脳)まで走っていく。しかし、上層部の判断を待っている間に現場がどうなるかわからないので、ただちに「交番から現場に引き返す」人がいる。交番レベルでひとまず「ちょっとその筋肉、刺激を受けて伸びちゃってるから、いそいで縮んで!」と、脊髄のところから筋肉に向かって折り返し刺激を飛ばす。脳の指令を待たずに、である。


現場→交番→脳→交番→現場(情報をきちんと届けて指令を待ち、その通りに動く葛飾区亀有公園前派出所の大原部長)

現場→交番→現場(緊急で現場保全のためにとって返す両津勘吉)


こうして、大きな警察署(脳)に情報が届くより少し早いくらいのタイミングで、交番(脊髄)から折り返した刺激が筋肉に届いて筋肉がキュンと縮む。両津の方が足が速い。交番の判断で筋肉を動かしてしまうこの現象を交番反射……ならぬ脊髄反射と呼ぶ。脳とは関係なく筋肉が動くので、ぼくらからすると、「うわっ何も考えてないのに筋肉が動いた」となるのである。


脊髄反射はとても強力な現場監視システムで、あちこちに導入されているのだが、せっかくなのでもうひとつ、ぼくが「うわっ人体すげえ!」と思った話を加えておく。


お腹の壁に炎症が起こると、腹筋がバキバキに硬くなる現象がある。これは「筋強直」(きんきょうちょく)と呼ばれており、医者をやっていてこれに遭遇すると「うっ、まずい」と思えるような大事なサインである。たとえば、胃に激しく穴が空いて腹膜炎になった患者は、お腹の筋肉が硬くなり、ひどくなると板状硬(ばんじょうこう)と言って(患者の意志にかかわらず)腹筋が板のようになってしまい、患者は痛みと筋肉のつっぱりでぴくりとも動けない。これが、じつは「反射」によって起こっている。腹膜に炎症があると感じた両津勘吉が交番からただちに現場にとってかえして、筋肉を硬く緊張させつづけているのだ。

これには意味があると言われている。お腹の壁に一大事が起こっているときに、そのまま筋肉を自由に動かしている方があぶない。いわゆる「現場保全」ができない。少しでもダメージを減らすためには、患者の意志にかかわらず、その部分を動かさないために筋肉を緊張させつづけておいたほうがいいのだろう。


さて、ぼくが「人体すげえ!」となるのはここからだ。「交番の判断で筋肉を動かし、ときにはガチガチにして動きを止めるシステム」、すなわち脊髄反射、これが脊髄のあらゆる場所で起こるわけではない。お腹の下の方で炎症があっても、太ももや足のつけ根あたりの筋肉が硬くなることはない。そこには反射システムが届かない。両津勘吉は太ももには無理難題を言わない。不思議だろう、なぜだと思う? 「真の答え」はカミサマと筋肉と神経に聞いてみないとわからないかもしれないが、医学というのはなかなかしっかりしていて、けっこう有力な仮説がある。「腹筋をバキバキに硬くしても、足の筋肉が動ければ患者は歩いてその場を逃げ出すことができるが、足の筋肉を硬くしてしまうと、その場から逃げ出せないから」ではないかというのだ。腹部にケガをしたときにお腹をそれ以上刺激しないように反射で筋肉を硬くするのはいいとして、足まで動けなくなったらかえって危ない、二次災害に巻き込まれるかもしれない(外傷によるお腹のケガをイメージしています)。だから、太ももあたりはお腹の刺激に対しては脊髄反射が起こらないようなシステムになっている、というのである。ぼくはこのくだりを解剖学の本で読んでびっくりしてしまった。進化すげえ。

2022年2月4日金曜日

逆エコーチェンバー現象

医者が嫌われはじめているなあ、という話題を、たまに医者どうしで話す。

ぼくは、

「そのへんを歩いている人を100人連れてきて医者をどう思うかとたずねても、別になんとも思ってない人が99人で、1人くらいが『こないだお世話になりましたぁ』とか言うだけだと思うよ」

と言ったが、ほかの医者はくちぐちに、

「ネットでも医者叩きを見るようになった、今までそんな人いなかったのに」

と言う。



攻撃性のあるメッセージが以前よりも目に付きやすいのは、SNSなどのプラットフォームがそこを強調しがちだからだ。実際に医者のことを攻撃したがる人の総数は、そんなに増えてないんじゃないかな……と思う。

ただし、「攻撃したい人たち」がお互いに”仲間”をみつけて群れることができるようにはなった。SNSで自分のほかにも医者を叩いている人がいると、「これって俺だけじゃないんだ」と安心して叩きを加速させる人もいるかもしれない(しょーもないことだが)。

加えて、「攻撃される側」が「攻撃したい側」と不幸にもマッチングしてしまう状況、つまりはいじめマッチングサービスみたいなものが現実にできあがっているとは思う。攻撃の声がさほど労力もかけずに的確に相手に届いてしまう。無駄にべんりになった。


したがって、「ネットでも医者叩きを見るようになったよ」と医者が言うのはたぶん本当のことである。よりくわしく言うと、医者以外は「医者叩き」を目にする機会は少ないかもしれない、なぜならマッチングによって「医者の悪口は医者にピンポイント届く」ようになっているからだ。そういうわけで医者は「悪口を目にするようになった」のだと思う。「今までそんな人いなかったのに」は一文字手直ししよう、「今までそんな人なかったのに」とすれば満点だ。


叩かれている側は「最近敵が増えたな」と思い、叩かれていない人たちは「そんなことないよ、あなたの味方はいっぱいいます」とはげます状況。どちらも本当で、どちらも嘘である。敵も味方も視認しやすくなったということと、実際にそう思う人の数が増えたかどうかは、分けて考えなければいけない。

そして、ここまでの話をぜんぶひっくり返すようなことを言うと、ぼくらの生活にとって根本的に大切なことは、実際に自分たちを憎んでいる人の総数が増えたかどうかではなく、「目に届く範囲でいやなことを言う人の数が増えたかどうか」なのである。実際の敵の数が増えていようが減っていようが自分から見えていなければどうということはないのだ(気づかない故の不幸はあったかもしれないけれど)。



「世界の真実」とやらに興味がなくなっていく。自分と世界との関係のなかで、自分が感受できる世界のすがたが、必ずしも「ずっとそこにある確たる世界の、一部分」とは限らない。完全体の、イデア的な、「いわゆるすべての世界」がどこかにあって、その一部だけをぼくらは見ている、人間は不完全にしか認知できないのだ……みたいな話ともじつは違う。どれだけ見ても、ぼくが見るのとあなたが見るのとでは世界自体が変容している、と考えたほうが辻褄があう。ぼくの成分を加えた世界とあなたの成分を加えた世界とは別モノなのである。豚肉とにんじんとたまねぎとゴボウが煮られていても、そこに自分という名のカレールーが入ればそれはカレーだし、あなたという名のホワイトソースが入っていればそれはシチューなのだ。別である。素材に共通するところがあろうが味は違うし料理名も違うし値段も違うしシェフのこだわりも違うのだ。ところでカレーにゴボウって入れる? うちは入れる。皮付きで。えっ、皮付き!? あとときどきカタマリ肉も入れる。骨付きで。えっ、骨付き!? 



同好の士を集めるのにSNSほど役に立つツールはない。ただし、味方同士で群れることはときにエコーチェンバーだとかなれ合いなどと言われて、ネガティブなイメージで語られたりもする。このことを考え進めていくと、「医者には敵が多い」というのはSNSで敵同士がうっかり群れてしまうことによる、いわゆる「逆エコーチェンバー現象」みたいなものなのだろう。はたから見ていると、「世間にはそんなに医者の敵なんていっぱいいるわけでもないのに、あの医者はやけに敵とばかり戦っているなあ、偏っているなあ」と感じられたりもする。味方も敵も偏るのがここのありようなのだ。

極論すると「マッチングすること」自体に人間のキャパシティを超える刺激のやりとりがある。こことこことを結びましょう、回路でつなげましょう、というのは生存においては不利なのかもしれない。事実、脳はいくら解析しても「こことここがつながっている」という回路がなかなか見えてこないので研究者も困っている。脊髄視床路みたいなわかりやすい「ルート」がもっといっぱいあってもいいのに、fMRIをどれだけ撮ってもなかなか見つからないのは、もしかすると、進化の過程で、脳が「これ以上マッチングしまくるとデメリットのほうが多いなあ」と気づいて、脳が「神経エコーチェンバー」を避けるために、あえて接続を切りまくって流動的なシステムに「進化的に逆戻りさせた」のではないか、などと邪推するのである。最後のはわりと嘘まみれなのであまり信用しないでいいです。

2022年2月3日木曜日

病理の話(623) 犯人なのか野次馬なのか

たとえばあなたのどこかが腫れたとする。それは皮膚かもしれないしノドかもしれない、あるいは、自分では気づけないが胃の中かもしれない。腫れたままだと心配なので、腫れたところを鉗子(かんし)でつまんで、細胞成分をちょっとだけ採取する。「なぜ腫れた?」を調べるためにだ。


ちょっとつまんだ、というのは本当にちょっとだ。爪切りで小指の爪を切ったときのことを想像してほしいのだが、あのカケラくらいか、それよりさらに小さいサイズしか採ってこない。それでも皮膚なら痛みを感じる。胃の粘膜は痛みを感じないので、爪切りの切りカスくらいの大きさを採ることは可能だが、でも血が出るからやはり小さめに採る。皮膚の場合は麻酔をした上で、直径3 mmくらいの極小の断片をわずかに採る、くらいに留める。


それだけ小さな検体の中には、しかしけっこうな量の細胞が含まれていて、しかもただ密集しているのではなく意味のある構造を作って配列している。皮膚から採ってきたならば、表皮、真皮、真皮内の付属腺(汗腺・脂腺、毛穴など)、さらには皮下の脂肪まで採れてくることが多い。


さあ、「腫れ」を細胞レベルでいろいろと見る。たとえば真皮内の膠原線維の感覚がひろがっていれば、そこに「水分」が出ているなあということがわかる。いわゆるむくみだ。また、真皮内の小さな小さな血管の周囲に、リンパ球などの炎症細胞がパラッと出ていれば、血管の中から炎症細胞が漏れ出してきたのだな、ということもわかる。「ああ、水分といっしょに炎症細胞も動員されてきたのだなあ」。


こういうのを見ながら、「で、なんで腫れたの?」「どうしたら治るの?」を考える。「腫れたのは水がたまったからだね」みたいな、化学実験でふしぎな出来事のワケを知るような、興味本位の検討で終わってはいけない。いや、興味本位の検討は超絶怒濤に大事なのだけれども(そういう興味があるからこそこの仕事をおもしろくやり続けられるのだ)、患者にわざわざ痛い思いをさせて採取してきた組織に、不思議のタネだけ見つけて喜んでいるわけにはいかない。われわれは科学者であるだけでなく医者なのだから患者の不安や不満に対応する仕事をしなければいけない。


「原因」を探し、「対処法」までたどりつかなければいけない。ただしこの原因がすごくわかりづらい。見てわかるとは言いがたい。なぜなら……


「火事場にいる男が、犯人なのか野次馬なのかを決める」


ようなものだからだ。そこにあるものがイコール犯人だ、と決め打ちできるほど、顕微鏡診断は簡単ではない。



たとえば、腫れた皮膚のまわりのところに「菌」がついていたとする。バイキン! これが原因で、膿(う)んだんじゃん! と飛び付きたくなるところだけれど、そこでぐっと踏みとどまる。「もしこれが、ほんとうにバイキンによる腫れであったなら、バイキンに対して体が反応する様子がなければおかしい……」と考える。バイキンはいるが、まわりに好中球が出ていないならば、そのバイキンは見物客であり野次馬だ。腫れを生じた犯人として検挙するには証拠が足りない。

しかも、ごく一部のバイキンは、好中球をともなわずに腫れを生じることもあるから余計に難しい。この「ごく一部」というのを知っているかいないかで、組織が腫れた原因をどう考えるかがまるで変わる。顕微鏡でバイキンを見つけるだけではなく、その菌を培養して、具体的にどういう菌かを確定させる別の検査をしないと、「好中球なしで腫れにつながりうる菌」かどうかはわからない。でも、そういうケースでは往々にして、培養をしているヒマがなかったりもするので、そういうときは、臨床医と相談をしながら、「この菌が『もし』あのタイプだったらこの腫れはヤバいよ」みたいに、仮説をいっぱい提出して検証し、患者になるべく不利益が起こらないようにいろいろと手をうつことになる。


「仮説ゥ? なんのための検査だよ! ちゃんと確定してくれよ!」


いやまあそう言いたいのはわかるのだけれど、たとえ話を続けるならば、「身体検査をしても凶器を隠し持っていないタイプの放火犯」を逃がさないためには、火事がおこったときに現場にいる人をひとまずは家にかえしてはだめだ。逮捕状はないからいろいろ面倒なんだけど、逃がした先でまた放火とかされても困るじゃない。だったらこういうときは、寝技的に、「あらゆる可能性を考えながら、一番被害が少ない方法をさがして試行錯誤する」しかないのである。誠意も必要だよ、だって真犯人じゃないのに家にかえしてもらえない人だって出てくるわけだから。




顕微鏡をのぞいて、「何が起こっているのか」を見るところまでは、小学生や中学生にも教えられるくらいにわかりやすい。あればある、なければない、だ。しかし、「なぜそうなったのか?」という因果の話をするのはめちゃくちゃに難しい。最近の例でいうならば、ある重篤な病気にかかった人の検査をするとそこに「ウイルス」がいました、じゃあそのウイルスが全部の犯人なのかって、そいつは偶然いあわせた野次馬かもしれないし、実際に犯人だったのかもしれなくて、どっちかを決めるのは状況証拠をばんばん集めないといけないすごく難しい話なのである。いる・いないだけで診断できるなら医療はとっくに機械化されています。

2022年2月2日水曜日

右手に見えますのが今は後方に見えております

若い頃の忙しさと意味が違うなあ。時間を切り分けるタイプの忙しさだ。そうか、そういうことだったのか、と納得してはいる。


若い頃には、「あるひとつのこと」がとにかく終わらなくてずっと専心して、気づいたら何日も何週間も経っている、みたいなことがいっぱいあった。完成/達成するまでやり続けなければいけない、という持続的案件を抱えることを「忙しい」と表現していたような気がする。何かの試験に向けて勉強をするのも、何かの大会に向けて運動をするのもそうだった。もちろん、案件が3つも重なるともう「最高に忙しい」のだ。


いっぽうで、当時、ぼくより20も30も年上の大人は、くちぐちに忙しい忙しいと言いながらも、すぐ飯を食ったり、映画を観たり、キャンプに行ったり、酒を飲んだり、旅行をしたりしているのだからびっくりしてしまった。10代、20代のころは、「いいなあ、俺は忙しいからそんなことをするヒマがないよ」と思っていたし、心のどこかで、(それにしても、同じ人間なんだから大人だって忙しいはずなのに、どうして忙しそうにしていないのだろう……もしかして……ぼくが特別無能で、ほんとうならもっと余裕をもってやるべきことをいつまでも抱えているからなのか……? いや! そんなことはない! ぼくは本当に忙しいんだ!!)みたいなことをモンモンと考えこんでいたりした。


その後、年を経るごとに、さまざまな案件をなんとか解決した経験が積み重なっていく。すると、少しずつ変わる。たとえばこれまで一切やったことがない類いの仕事に出会っても、ちょっと見るだけで「だいたいこれくらいの労力でこれくらい時間をかければ終わるんだろうな」というイメージがわくようになってくる。

これは、いいことばかりではない、悪く言うこともできる。「よくも悪くも世の中に起こっているすべてのことを安易に見積もれるようになった」ということなのだ。とかく何かに一定期間没入するということが減った。思い切り集中すると、せいぜい2日でたいていのものごとの見通しが立ってしまうので、それ以上の集中をする必要がない。だから集中が長く続かない。昔ほど「一つの案件で忙しくすること」がうまくできなくなってきた。したいわけでもないのだが、そもそもできなくなってきた。


かわりに100くらいの小さな案件を同時に抱えるようになるのだ。あらゆる案件には最大限の集中をするが、数日も必要ない、数時間あれば十分である。短時間にガッと集中すれば残りは計算尽くの余勢で反射的になんとかなる。するとどうなるか。案件から案件に渡り歩いている時間の方が長くなる。「頭を切り替えている時間」のほうが長いのである。


まるで予定を詰めこみすぎた京都旅行のようなものだ。神社仏閣旧跡でおしきせの写真しか撮らずに、すぐに次に移動する、それでわりと京都に満足できてしまう。でも後日振り返ると移動時間のことしか覚えていなかったりもする。ツアーバスの移動中には窓の外の京都の街並みを見て楽しむだろうか? いや、そうでもない。音楽を聴いたり小腹を満たしたり、同行者がいればおしゃべりに興じたりする。これらはいずれも「家でできる」ことだ。旅行でわざわざやることではない。でも、「観光地と観光地を移り歩く間がヒマだから」、時間つぶしにやっている。そのくせ、やけに忙しそうな旅行になる。


それと同じ事が仕事にも起こっている。無数の案件を必見トラベルスポットとして渡り歩く感じ。要所は押さえる。見逃しは許されない。訪問場所ごとに作法がある。求めておきたいおみやげもある。ぜいたくを言うと、自分がそこを体験するだけに留めずに、これから興味をもつ多くの人のために、「よい旅行(仕事)をするにはどういう場所に目をつけてどう満喫すればよいか」みたいなことを整理して文章化しておく。そうやって、無数の案件をキョロキョロしながら矢継ぎ早にこなしていく。当然、移動時間や空き時間はいろいろと気分転換をする。家ででもできるようなことをする。これらを総括して「忙しい」と言っている。


若い頃の忙しさと意味が違うなあ。時間を切り分けるタイプの忙しさだ。そうか、そういうことだったのか、と納得してはいる。このことを若い頃のぼくに言っても伝わるわけもない。それに、若い頃のぼくだけでなく、そもそも大人に対しても、「京都はこういう周り方で十分楽しめますよ」とはなんだか気恥ずかしくて、あまり言えたものではない。しずかな寺をゆっくり見て回るタイプの人もいるだろう。そっちのほうが上品だ。


ツアコン型人生、デパ地下試食人生はせっかちでいけない。ただし、考えようによっては、この気ぜわしい「表面なぞりタイプ」のやり方のほうが、合間の無駄話に花が咲き、「家でもできるような無名の時間」を担保してくれるということも、あるにはある。そうでもしないとぼくは無駄な時間を過ごせない。そうやって適応してきたのかもしれない。

2022年2月1日火曜日

病理の話(622) 国立フィーバーJH

こないだ知った話がなんかちょっと「戦隊っぽくてカッコ良かった」ので、おぼえがきとしてブログに残しておきます。



ぜんぜん知らなかったんだけど、2020年に、


国立高度専門医療研究センター医療研究連携推進本部


ってのができていた! 長いわ! 英語にするとJapan Health Research Promotion Bureau、これを再び直訳すると日本・健康・研究・プロモーションする組織(振興会?)。

略してJH

ホームページのアドレスが、「japanhealth.jp」。カッケー! 本流ってかんじだ。

https://www.japanhealth.jp/about/greeting.html

しかも代表が社長とか会長とか理事長じゃなくて「本部長」ってのがまたいい。特務機関っぽい。あるいは戦隊ものの本部。JH, 発進!




このJHは、すでにある6つの国立施設の情報を統合するためにできたらしい。その6つの施設というのが、有名な……(いくつかは知らなかったけど)……超大物施設なのだ。

ロゴとあわせて説明しよう。


ぼくが昔ちょっとだけいた国がん!

心臓血管のメッカ、国循(こくじゅん)!

脳とこころの総本山(略称知らない)!

くつ王が前勤めてた新宿のあそこ!

Kid先生がたまにアンケートRTしてる成育!

長寿医療研究してる施設あったの!?


というわけで6つの国立機関(National center)があり、これらを

6NC

というらしい。かっこええやんけ……厨二感すらあるが……。



6NCはいずれも国立機関であり、医者の給料はちょっと安めで(昔はもっとゴリゴリにめちゃくちゃ安かったけど最近すこしだけ改善されたと聞くがそれでもまだ安い)、全国から熱意ある医療者や研究者が集まってきて、どちらかというと難病や珍しい病気について積極的に取り組んでいる。


これらは今まで別々に活動していたのだが、JHの元に集結して使える情報を集約し、より複雑化する医療に対して強い力でアプローチしようということだ。


https://www.japanhealth.jp/about/activity_R2.html


上記の「具体的な取り組み」を見ると、なんというか、NERV感があるというか、オールスターが集結していくすがたが純粋にかっこいい。夢がある。現代の医療はこうでなくちゃいけない。


……そしてふと思ったんだけど、ここが「一般人に対する医療情報発信」についても本腰入れてくれたらいいのにな……と思った。国がんはすでに「がん情報サービス」というホームページを持っているけれど、これの強化版、みたいなのできないかな。