2022年2月17日木曜日

スカイツリーのおみやげを買ってない

アクセサリーが要らなくなってきた。


この記事で言うアクセサリーというのは、別にネックレス・指輪のたぐいでもなければ、カー用品でもない。「根付」や「キーホルダー」、「ミニフィギュア」、「ステッカー」、すなわち旅行のおみやげのことである。

かつてのぼくは出張をするたびに、取るに足らない観光みやげを1,2個買ってきて、デスクの一角にぶらさげておいた。しかしこれらがなんかもう、わりとマジで要らねぇなーと感じる。


多すぎてどれがどこのものかわからない。なんとなく断捨離精神みたいなものに自分がむしばまれており、この一角ぜんぶ捨ててきれいにしてぇなーという感情がある。


でも捨てない。あと20年粘って、退職間際にもういちど眺めてそのときに考える。「子どものころのぼくは妙なもの集めてたな」みたいな気持ちで、自分の20代や30代を振り返るのもオツであろう。捨てずにとっておくけれど、しかしまあ、今すでに、要らねぇナーと本気で思っている。


「要らない」=「捨てる」ではない。


今のぼくが旅行にでかけてもまた買うだろう。「要らないものは買わない」は単純すぎる。人間の脳の進化にてらしあわせて、失礼だ。「要らないけれど買う」くらいのアンビバレントな刺激を脳に与え続けていないと錆び付いてポンコツになる。「おいしくないけれど食べる」は体に悪いが、「要らないけれど買う」くらいなら財布に悪い程度で済む。さほど高額な無駄遣いをしているわけでもないし。



「無駄を楽しむ」とまとめすぎるのも雑に感じる。そのとき喜んだ自分の気持ちが残滓になったところで、新陳代謝によって体の細胞のほとんどが昔とは入れ替わってしまった自分の中に、「まだ残っていたのか/もう残っていないんだな」という部分を探すことを、単に「無駄なものを楽しめる俺カッケー」にまとめてしまうのもどうかと思う。



「要らねぇナー」の自分を眺めて、数個の単語に落とし込まずに、うん、今のぼくはなるほど、要らねぇナーという、ナーというニュアンスのことにたどり着きがちなんだな、みたいなことを、時間をかけて何度も何度も撫でている。そういうことを、出勤・退勤の車の中や、どうしてもキータッチができない食事中、あるいは眠りに落ちる直前などに、コシコシとこすり続けている。



にしてもアクセサリーってほんとに要らねぇな。けっこういい値段するし。ここにぶら下がっているアクセサリーを一切買わなかったら、帝国ホテルのディナーでも余裕で食えただろう。……帝国ホテルのディナー! 帝国ホテルって実在するの? あ、するんだ(ググった)。東京にはろくなおみやげがないから、帝国ホテルで飯を食うことで思い出のかけらを残そうとするのかもしれない。