2022年2月8日火曜日

受け身と微調整の哲学

朝からずっと雪が降っていて、窓際でそれを見ながら働いていると、帰宅後に車を家の前に停めるにあたってまず雪かきをしなければいけない、おうちについてもすぐに家には入れないんだ今日は……ということが思い起こされて、どうも気持ちが沈んでいく。


そしてなんとなく「レジリエンス」のことを思う。レジリエンスの日本語訳はググればいっぱい出てくるのだけれど、基本的には「へこんでもすぐに元に戻る回復力のこと」とされる。ただ、ぼく自身は「へこんだらもう元の自分には戻れないし、戻りたいとも思わない」と思っているので、いわゆる通俗的な意味でのレジリエンスは弱い。


へこんでから回復したとしてもそれは「へこんだ記憶を持ったまま回復している」のであって、へこむ記憶まで無くすることはできない。いったんダメージを受けたら、仮に体が回復してもそれは元の体ではないのだと思っている。もちろん、世の中には、都合の悪いことはすべて忘れてしまって時が経てばケロッと元通り、みたいなタイプの人もいる、おそらくそういう人こそが本来の意味でのレジリエンスを持っているのかもしれない。でも痛みの記憶は簡単には消せないものだ。


そしてぼくは「元に戻る力」よりも、「受けた衝撃によって自分が変形したことを受け入れて、ゆがみとともに何気なくその先を生きる力」のほうが使い勝手がよいと思っている。これ、ささっと書いたけれど、夢物語かよ、というくらいに都合のよい力だ。しかしさまざまな障壁、圧、介入、浸潤の中で暮らしていて、自分だけがずっと昨日の自分のまま、先週の自分のまま、先月の自分のまま、昨年の自分のままというのはないなーと思うし、無限の微調整によって少しずつ移り変わってきたのがほかならぬアイデンティティというものだと思う。これはネガティブ・ケイパビリティ(白黒はっきりしないものごとを、白黒はっきりしないままに受け入れる能力)とも微妙に違う。ベコンとへこんだら、へこんだなりにやれることを探してまた歩こうぜという心のありように名前はついているのだろうか。


窓の外で降る雪をポジティブに受け止めることなどできない。雪の降ったあとの道は混雑して渋滞するから帰るのがおっくうだし、家についてからも雪かきを1時間以上やらないと家に入れないのがゆううつだ。その感情を腰や背中のあたりにくっつけたままのぼくが、昨日のぼくとはすでに違うものとなって、それでも仕事をしたり本を読んだり人と話したりしている、そのことにある種のけなげさと、よくやったよと言って親が頭をなでるようなやさしさをブレンドした上で、なにか、いい名前をつけることはできないものだろうか。レジリエンスでもなく、ネガティブ・ケイパビリティでもない、手垢のついていない、衝撃によってへこみや飛び出しのできた新しい言葉を用いて。