2022年2月18日金曜日

病理の話(628) 病理診断報告書をどのように読んでもらうか

初期研修医が当科に研修に来ているので、病理診断のあれこれをかなり基礎から教えている。

すっかり中年のぼくが、ほとんど脊髄反射で処理しているような仕事も、習い始めにはひとつひとつ、「なぜこのように書かなければいけないのか」「なぜこのような処理をしなければいけないのか」と、確認して覚えてもらう必要がある。


大原則として、病理検査室の中では「道理が通っていないこと」をしてはいけない。さらに強く言うならば、「なぜそうするのかが説明できないこと」をしてはだめである。「理屈抜きで、体で覚えればいい」という修練は、病理診断の世界には基本的に存在しない。例外は解剖と切り出しの技術だが、これらも手で覚えること以上に、知識がしっかり付いていることが大前提である。


……もっとも、これは病理診断に特有のことかもしれない。医療技術の中には、小難しい理屈を差し置いて、「まずは体に覚え込ませる」ほうがいいものもあるからだ。たとえばキズを縫うときの糸結びは、理屈よりも指のこなれが重要だし、血液ガス採取のための動脈穿刺も、気管挿管も、ドレーン抜去も、YouTubeばかり見ていたところでうまくはならない。頭でっかちでは無理だ。筋肉が連合して一気に動いてくれるまで体に覚え込ませてはじめて「使い物になる」。


しかし、病理診断はそうではない。

手癖で診断することはできないし、やってはいけない。あらゆる行動に筋道が必要だ。「なんとなく前任者がこうやっていたので真似をしています」で診断できるほど甘くはない。もし、病理医を目指すあなたが教わるボスが理屈なしに診断を「こなしている」ように見えたら、そこは反面教師にしなければならないし、ほんとうはボスも「かつてきちんと筋道を追っていて、今ではそれがあまりに早すぎて脊髄反射みたいになってしまっている」だけのことなのである。


病理診断報告書(レポート)の書き方ひとつとってもそうだ。先ほど、ぼくが研修医に伝えたことは、「漢字の量が多い」であった。例をあげて説明する。実際の症例とは異なる。


研修医は、「免疫染色」という検査の結果を、以下のように記述していた(架空のものです、今てきとうに作ります)。


「TTF-1陽性、Napsin A陽性、p40陰性、CK5/6陰性、Ki-67陽性。したがって肺腺癌と判定します。」


ここにぼくは理屈で手を加え、さらに細かく説明をする。


「標本の見方はOKですね、結果もおおむねあっています。ただし、この報告書を読む人からすると、先生の書き方は漢字が多すぎますね。陽性と陰性は、モニタを薄目で見たときに、真っ黒さ加減がだいたいいっしょですよね。これだと、ぱっとこの行を目にした瞬間に、あっメンドクセ、いいよこういう陽性とか陰性とかいう評価は病理医のほうで勝手にやってくれれば……と、あきらめられてしまうのです。


だから私ならこのように書きます。


「TTF-1陽性(+), Napsin A陽性(+), p40陰性(-), CK5/6陰性(-)」


漢字だけでなく、カッコでプラスマイナスを付ける。あるいはもっと略式に、漢字の部分を完全に省略してもいいでしょう。さらに、もっと親切にするならば、


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6


とするべきです。改行も入れて、二文字ほど下げる。そのほうがぐっと見やすくなるでしょう。毎回この書式で書いておけば、レポートをクリックした人がぱっと画面を見るだけで、あっここは免疫染色の結果だな、とわかってくれる。こういう書き方を工夫しない病理診断報告書を書くのはおすすめしません。書いても悪くはないのかもしれないけれど、読んでもらえなくなる。


なお、Ki-67陽性、と書いてくれましたが、Ki-67は陽性細胞数の比率を書くべきなので、このように書きましょう。


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6

  Ki-67 labeling index: 30%


どうですか? だいぶ見やすくなりますよね。」



今日の記事の前半で、「理屈がないことをしてはだめ」、「なぜそうするのかが説明できないことをしてはだめ」と書いて、その続きが「文章をどうひらいていくか」だったので、ずっこけた人もいるかもしれない。しかし、病理医の仕事の中で「文章を書いて人に読んでもらう」という部分をおろそかにしてはいけない。なぜなら、病理医の仕事とは、


  病理医にしかわからない細胞のアレコレを、臨床医がわかるように翻訳して書き記す


ことだからだ。やっていることの半分くらいがそもそも言語的なのである。したがって、どういう言葉を使うかにも逐一理論がくっついていることが望ましい。


「なぜこの診断文には、二回も『~~だが』が用いられているのか? 短い診断文の中で二度も話の流れが逆転すると、読んでいるほうは振り回されたような気分になる。それでもあえて、この診断者が『~~だが』を多用した理由はなにか? 診断に自信がなく、いろいろと言い訳をしたかったからなのか? それとも、どこかを強調したかったのか?」


「こちらの診断文では、上のほうにまず主診断が書いてあって、その理由を後述させているのに、あちらの診断文では、上から順に診断の理由が述べてあって、最後に主診断を記載している。まるで裁判官が判決を読むタイミングが裁判によって異なるかのようだが、そうやって主文ならぬ主診断を先にしたり後に回したりする理由はなにか?」


「いつもならすんなりと診断が書かれている病変で、今回ばかりは病理医が参考文献をわざわざ記載しているのはなぜか? その文献がないと誰がどう困るのか?」



こう言ったことをとことん言語化してなんぼだ。それをやるための仕事。そこに手間をかけるための職種。病院の中で、とにかくあらゆることを言語化して理屈を追いかけていく職業だからこそ、当直が免除され、手技も免除され、ふつうの医者らしいことを何もしなくても、医者を名乗ることが許されているのである。