2022年2月10日木曜日

老いを意識するというラベル

ちょっと前に「カリカリ梅」のことを書いたツイートがよく伸びたのだが、最近ぼくのデスクの周りにあるのはアメだけだ。カリカリ梅はやめた。無駄に唾液が出る。それに、塩分は控えめにしている。

病院の中にあるローソンで昼食にサラダとおにぎりを買って食べるときも、サラダのドレッシングは半分くらいしか入れない。あるいは、最初からドレッシングなしのサラダを買い、手元に別に自分用のドレッシングをボトルで買っておいて、少しずつ垂らして食べる。大学生のころからLDLコレステロールが高めなので、油分にも気をつかいたい。

そうやって絞り目、絞り目、なるべく健康的な食事を心がけていたところ、先日の人間ドックで朝に血圧を測ったら「今までよりずっと低かった」ので笑ってしまった。えっ、ぼくって低血圧になるんだ、ということを43年間生きてきてはじめて知った。塩分セーブしすぎたのか? あるいは、ドックの日に精神を凪にしすぎてアドレナリンを作るのを忘れたか? 

もっとも思い起こせばこの低血圧にも心当たりがある。最近、出勤する際にぼーっとしていることが増えた。あれは血圧が下がっていたのか。なるほど。このまま低血圧が続くと、車の運転が危ないので、ちょっと早起きをしてご飯を食べ、体を動かしてから出勤するようにしないといけない。

「典型的おじいちゃんの暮らし」が手招きをしている。

でもほんとうのところ、老いも若きも地続きである。中年太りがどうとか四十肩がどうしたとか、早寝早起きラジオ体操でおじいちゃんみたいとか、ひごろ、自分が医者の立場だったらまず使わないようなラベルを自分に対してだけは使いたくなるものだ。……因果が逆かもしれない。人間は自分にわかりやすいラベルをつけたがるので、医者がそこを先回りして「ラベルをつけなくても大丈夫ですよ」と言うようなクセをあとから身につけているだけなのかも。ともあれ、もちろんぼくは老いと地続きで暮らしている。



ちょっと思い付いたことがあるので少し話をずらす。ラベリング、あるいは型にはめる話。医者に限らず、商売の人が用いる「型どおりのセリフ」というのにはたいてい由来があるものだ。コンビニでもショップでも、形骸化してしまったあいさつ、心の込めようがない決まり文句、それぞれに、現場で最適化されるだけの理由と筋道があるだろうなと思っている。「いらっしゃいませ」と言わないより言ったほうがトラブルが少ない。「ありがとうございました」の一言が万引きを抑止する。「何かお探しですか」と声をかける習慣を客側に知らしめる、「店はそうやって声をかけてくるものだと思わせる」ことで、まれに現れる不審者にもそうと悟られずに同じ声かけをできる。実践知のようなものがだいたいそこにはある。そして、外野のぼくが想像する以上にじつは複雑な由来があることも、たぶんある。なんなら使っている方にとっても本当の意味を忘れてしまったフレーズというものすらいっぱいある。そういうもののほうが多いかもしれない。だから「形だけの挨拶なんてやめてしまえ!」というクレームは短絡的だなと思う。そこには現場の理由があるのだ。外野がとやかく言うべきことではない。まあ、外野がなぜそんなことを言わなければいけない気持ちになるのかにも、おそらく複雑な由来はあるのだが……。

医者が外来で「今日はどうしました」と聞く、この一言にもおそらく意味がある。どうしました、だけだと短い、そこに今日はと付けることで「いえ、昨日からです」のように患者に時間経過を思い出させるきっかけになるかもしれない。このように、由来や意味を考えることが可能だ。しかし、患者に話しかける医者がいつもそこまで考えているかというと、自動化されてしまった「外来しぐさ」はもはや本来含有していた意味を内包しすぎてわけがわからなくなってしまっている。しぐさから意味を取り出す……しぐさのアフォーダンス的側面に光をあてる……ことができるのは、そこまでものを考えたことがある幸運な人だけだ。「有能な」ではない、「幸運な」である。人間の優秀さなんてもはやほとんど変わらない。気づくか気づかないかなんて所詮は運頼みである。


老いを意識するというラベルにも意味はあるのかもしれない。多くの人びとが人生のかなり長い期間――それはたとえば16歳くらいからはじまって65歳くらいまで、あるいはもっと続くこともある――「あー年取ったなあ」と口に出してしまう「型」がある。そのことに疑問を持たずにこれまでやってきたけれど、「自分が老いたなあとわざわざ言葉に出して確認すること」にもなんらかの筋道、理路、セリー(音列?)のようなものがあるのかもしれない。すべては「複雑な矢印の末に矢頭があつまった場所」で立ち上がってくるものだ。「老いたなー」にはぼくらがもう忘れてしまった、言うべき理由がある。だとしたらその理由とは何なのか? おそらく、それはもう、わからないならわからなくてよいものなのだ。