2022年2月28日月曜日

脳だけが旅をする

日ごろ、脳内にはいつも、複数のイメージが流れている。そのイメージは直近に起こったばかりのことを振り返ったものだったり、今日の夜をどんなふうに過ごそうかという夢想だったり、今日と似たような陽気の日に眺めた同じ場所の過去の風景であったりする。

街の大きな交差点の、ビルのカドにくっついている巨大なモニタ、見渡すかぎりのビルというビルに複数のモニタが設置してあって、ぼくがそれを見ていようがいまいが、朝から晩までイメージがパカパカ移り変わっていく感じ。脳のデフォルトモードは乱雑だ。でも、いつもとっ散らかっているわけでもない。

誰かと話をしたり、こうしてブログを書いたりするときには、雑多なものを映していた脳内ビジョンが目的に応じて同じ番組を映す。いろんなCMが流れていたあちこちのモニタから同じナレーターによる同じアナウンスが聞こえてシンクロして合唱のように響き渡る。

複数の無意識によって運用されていた脳の歩調が、意識の号令の元にぴたりと合う。磁石で砂鉄の向きを整えたときのきれいな模様のことを思う。

おそらく誰の脳であっても、表現は違えどだいたい似たようなことになっているのではないか。ハレとケの感覚。ハレのときには集まって来て大きなことをやる。ケのときにはみんな好き勝手なことをしている。人だろうがニューロンだろうが、集められたもの同士、さほど違いがあるとは思えない。

「心ここにあらず」という表現が、好んで用いられるけれど、心はいつだってここにある。ただし、心は複数の映像を、こちらの気持ちとは関わりなしに代わる代わる流していることがあり、それがこちらの意図と必ずしもフィットしないことはある。「心ここにあるが足並みは揃わず」。


ところで最近のぼくは、脳内モニタの辺り一面にうすぼんやりと雲のような何かが漂っている感じというか、端的に言うと、脳内で何が上映されているのか見づらいなーと感じる機会がちょくちょく増えてきた。

自分の脳内でさまざまな風景が上映されているのはわかるが、それらがいちいち遠くにある、もしくは、かすんでいてよく見えない。一番近くにあるモニタを注視しようとしても、遠くにあるモニタの音声がうるさくて集中できなかったりもする。

……などと書いてみるとなにやらぶっそうというか、少し病的なものを感じとる人もいるだろうがたぶんそうではない。これは単純に脳の加齢だ。加齢と言っても悪い意味しか込めない現代テレビ的ボキャブラリーではなく、ほんとうの意味で、齢が加わった結果、こうなっているのではないかとぼくは言いたい。

さまざまな経験を積むにつれて、脳内の街頭テレビジョンの数が増えた。上映される番組の種類も増えた。だから若い頃よりも脳内が忙しいのは当たり前。

精神が衰弱しているとか、統合が失われつつあるとかではなく、マンガ『宙に参る』で言うところの判断摩擦限界にゆるやかに近づいているのではないだろうか。自分の中から棄却できないコア情報の数が年月とともに増え、何をするにもいちいちおうかがいを立てないと前に進めない参照先も増えた。するとぼくの限られた脳内メモリは常に数十パーセントくらいはアクティブになり続けているわけで、何を思うにしても、「そういえばあっちはどうだったっけ」「そうだ、そうだ、あそこにも一言ことわっておかないと」とばかりに、ご機嫌うかがいやご近所づきあいばかりであたふたとする。


そうか、これか、といろいろ考える。


かつて、誰もが「達人」と呼んだしゃべり上手が、ある年を境にぐっと黙り込むようになった。これはもしや認知症的なやつなのかと気を揉んでいたところ、あるときその人が書いたブログを読んでみたら言葉の奔流が往年よりもさらに激しくなっており、膨大な情報がじゃじゃ馬のように跳ね回っていて、かつどこか一本きちんと筋が通っていたので本当に驚いた。ものすごい数の「視線」がねじれの位置に交わりまくっているのに、それらが全体として「その人でしかあり得ない雰囲気」を纏いながらあちこちにすっ飛んでいく。それらを提示された順番に読んでいくと、まるでディズニーランドのアトラクションをあちらもこちらも巡って、まるで違う風景、まるで違うキャラクタ、まるで違う遊び道具でさんざん遊んだあとの一日の終わりに「あーどこもかしこもディズニーだったなあ!」と感じるようなあの感覚になる。まるで衰えていなかった。達人のさらに上にたどり着いているじゃないか、と思った。

そしてぼくは「あの境地」にあこがれた。口から出る言葉の「一本気さ」だけではもはや抑えきれないくらいの圧倒的な情報を脳内でこねくり回して動的なモニュメントに仕立てることができる人。ああそうか、それを絵でやったり音楽でやったりすれば芸術と呼ばれるだろうなあ、というレベルの文章術を手に入れて、それ以外では脳内の風景を外部に構築できなくなってしまったためにむしろ口数の方は少なくなってしまった人。その知性の高さに追いつくことができないだろうかと夢想した。

しかし、あらためて、こうして、脳の中が騒がしくなってきた今、思った以上に高い壁だなあ、と感じざるを得ない。弾幕が多すぎて見えなくなったニコニコ動画。大量の虫の羽音がワァーンと重った閉塞的なノイズ。幻灯機が全方向に違う映画を映写しているような荒野の私設映画館の中央で、ひとり体育座りをしている。自分の脳内を歩いているだけで時間が潰せるようにはなってきた。なんならちょっと疲れて座って温かいほうじ茶などを飲みたくなってしまった。若かりしころの乱視的な思考は年を取るごとにたしかに補正されたが、思索の「索」が増えるにつれて持て余すことも増えてきて、索が重なり合って網戸越しに外を眺めるような脳内KEEP OUT状態である。それでもなお、自らを取り巻く環境から、自分を震わせるなにかをときおり彫刻のように彫り出し続けはするし、かく言う脳は「今どうしてる?」に対するアンチテーゼとばかりに、時間軸を超越した思い出の反芻を、それは過去だけではなく未来に経験するであろう思い出すらも反芻してしまうような構えを見せて、脳だけは元気にぼくにファイティングポーズを取っている。


脳が? ぼくに? ファイティングポーズを?


なるほど「脳だけが旅をする」というタイトルは、「どこかへ去っていく脳を見送るぼく」の立場で読むこともできるのだと、この年になってようやく気づいた。