2019年7月31日水曜日

病理の話(349) なんかあたりまえすぎて言わなくなった英語の話

医学用語は英語ばかりだ。

そして、病理診断書も、主診断の部分は英語で書かれることが多い。

このことに対し、いろいろな人から、「かっこつけてないで日本語にすればよいのでは」「日本の医者が読むレポートなんだから、日本語で書いた方が親切ではないか」などの意見が出る……。

ツイッターでも何度か、主に医学生から、「なぜ英語で書くのですか? 日本人相手に仕事しているのだから日本語でよいのでは。」と質問を受けたことがある。



ただこれは本当に、まじめに、正直に言いたいのだけれど、そこ、ぶっちゃけ、なんとも思っていない。

今でも年に1度くらい、「病理診断書の診断名は日本語でいいじゃないですか」という話をみる。

けれどもこちらとしては、「えっ、いまさら、ていうかそこ!?」と、おどろいてしまう。

もう英語でいいじゃねぇか。日本語じゃなくてもさ。

学生にそう伝えると、すごく冷たい目でみられる。「そうやって……自分が使えるからってマウントとって……」。




でもこれってマウントがどうとかいう話じゃないのだ。

たとえば自動車免許をとるときに、交通標識の意味がわからなければ免許はとれないではないか。

交通標識の下にぜんぶ日本語で注釈を入れないほうが不親切だ、と怒っても、だれもとりあってくれないだろう。

病気の用語が英語であるというのは、交通標識と同じくらいのニュアンスなのである。

そこを読めないならば免許を使ってドライブすることは許されない。






ぼくらが日々、病気とか治療について読むものは、英語ばかりだ。

なぜかというと、世界中の人々が、医学論文を英語で書いているからである。

もちろん、ぼくは英語よりも日本語のほうがはるかに得意だから、まったく同じ内容であれば日本語で書いてもらったほうが読みやすい……。

けれども、あまりに英語の文献が多いので、もはや、日本語のほうが便利だとか読みやすいとか、そういうことはどうでもよくなってくる。




たとえばがんの診療に対する最新知識を得ようと思うとき、本当に日本語の出番はない。

がんの診断も、評価も、治療する薬剤の名前も、それを臨床試験した論文も、ありとあらゆる資料が英語で書かれている。いかにぼくが日本語大好きであっても、情報を集めようと思ったら、そもそも日本語で書かれている資料がほとんどない以上、泣きながら英語を読みまくるしかない。

そして、泣きながら英語を読みまくっているうちに、英語で集めた情報のほうが日本語で集めた情報よりも多くなる瞬間がくる。ひっくりかえる。

するともう日本語を使う意味がなくなってしまう。





……日本語の文献には日本語のよさがあって、狭い日本という国に特有の事情を加味した文章が、それこそ文学的に、あるいは微に入り細を穿つ表現で記載されていたりする。日本人にとっては、やはり読んで安心するし、同じ日本人が丁寧に説明してくれる文章を学ぶことに喜びを感じることもある。

けれども日本語の資料は結局、英語のエビデンスから何か月か、へたをすると何年か遅れていることも多い。だからやっぱり、英語の資料にきちんと当たっていかないと、世の中の最前線でもまれているデータを参照することができなくなってしまうのである。




というわけでぼくもまた、ほかの病理医と同じように、病理診断書の主診断文は英語で書く。

ただし、主診断文よりもはるかに長い、「所見文」と呼ばれる解説の文章を、わかりやすい日本語で書く。これで今まで読みづらいと怒られたことは、幸い(?)、一度もない。

2019年7月30日火曜日

カネサビルには行かなかった

剣道部時代の先輩たちと飲んだ、うち数人は20年以上会っていなかったのでとても懐かしく、うれしかった。

ぼくらが所属していた医学部剣道部は、全学剣道部(本来の北海道大学剣道部)よりも少し遅い時間から練習がはじまる。医学部は授業が多く、実習もあるので、ほかの学部と同じ時間で練習をはじめようと思ってもできない。さらに医学部生には独自の大会も存在する。だから別枠だったのだ。

医学部剣道部とはいっても、所属している人たちは医学部とは限らなかった。ゼミが遅くなりがちな他学部の学生や、近隣の別の大学から修行にくる学生などは、遅い時間に練習しているぼくらの部活を好んだ。

逆に、医学部生であっても、なんとか授業をサボ……うまく調整して、全学剣道部の練習に参加しようとする人間もいた。全学剣道部のほうが部員の体力が少し高く、練習メニューも違うので、両方に顔を出して強くなろうとする医学部生も少数だがいた。

必ずしも医学部生のほうが剣道が弱いわけではないというのがまたおもしろいところだった。



こないだ会った先輩たちはみな「医学部剣道部」の人たちだったのだが、実はこの部活は、ぼくが大学を卒業した後、数年してなくなってしまった。全学剣道部と統合してしまったのだ。事情はよく知らないのだが、ある年を境に急に剣道部が吸収合併されてしまったため、ぼくらはOB会などを結成する間もなくちりぢりになってしまった。

今回先輩と会えたのは、ほそぼそと連絡をとりあっていた少数のメンバーたちが、Facebookなどを使って再結集したからだ。ひとむかし前だったらそのまま離散して、再び会うことは極めて難しかったろう。SNS時代に感謝するほかない。



あらためて先輩たちと会って酒を飲んで思ったのだが、どうやらぼくのしゃべり方の大部分は、18歳、19歳のころに大学で出会った先輩たちにかなり影響を受けているということだった。とても意外だった。

目の前にぼくがいるのだ。それも、一部分ずつ。

先輩たちはみな、完全にぼくとは違うしゃべり方、ぼくとは違う性格、ぼくとは違うポジション、ぼくとは違う人生。会話は尽きず、ぼくはゲラゲラ笑いながら、ときおり、「今の瞬間をぼくはマネしていたのか」「今のしぐさをぼくはパクっていたのか」と、ひそかに驚いていた。




ぼくは飲み会の最中、基本的にはリアクションだけをしながら、無口であった。ぼくが無口なのに飲み会はぼくがいつも経験しているような、ぼくがよくしゃべるときの雰囲気をまとっていた。

ああ、そうか、ぼくは、これをやりたかったんだ。ひとりで。

そう思えた。帰りの地下鉄に乗りながらぼくは20年前のあれこれをゆっくりと思い出し、気づいたら降りるはずだった駅とはまったく違う駅で降りていた。心ここにあらずだな、と思った。心はあのころにあった。そういえば学生時代、強くもない酒を飲んだ翌朝、始発で自宅に帰ろうと思って、地下鉄の中で眠ってしまい、終点で目が覚めて反対方向に乗り、またそこで眠ってしまい反対側の終着駅にいる、というのを4度ほど繰り返したことがあった。もうあんなに寝過ごすことはないな。「寝過ごせるくらいに幸せだったときのこと」をほろほろと思い出していた。それはとても幸せな時間だった。

2019年7月29日月曜日

病理の話(348) AIの役に立とう

守秘義務があるので詳しい話はしないけど、どうせいつも詳しい話なんてしてないから、いつもどおりに書けば大丈夫だろう。

ぼくは今AI開発のおてつだいをしている。

「病理AI」だ。

人間のかわりに、コンピュータがプレパラートをみて、診断をするシステム。

この開発に病理医が参入する必要なんてあんのかなーと、最初はけっこう懐疑的だった。

でも、手伝い始めてみると、意外と人間ワザが役に立つんだなってこともわかった。




病理医が開発に参加することで、AIに何をさせたいのかが明確になる。

とりあえず、患者や主治医が望んでいない検査にならないようにすべきだ。病理医が介入しない状態で病理AIを作ると、この、「誰も望んでいない形式で、圧倒的に正しいデータだけをはじきだすAI」というのが完成する。

たとえばある病理AIに、細胞を読ませると、こういう答えが返ってくる。


「このプレパラートのなかの15%くらいの面積に、80%の確率でがん、20%の確率でがんではない細胞があり、そのすぐ周りに、面積としては55%くらいの領域に、40%の確率でがん、60%の確率でがんではない細胞があります。ピコピコ。」

最後はAIっぽいかなと思って付けた。



ぶっちゃけこれだと、主治医や患者は困惑してしまう。

えっなにこれ、どういうこと、何いってるかわからないよ。

結局何パーセントの確率でがんなの。

どこががんを疑う部分で、どこが大丈夫な部分なの?





細かいことはいちいち書かないけれど、人の役に立つAIというのは一にも二にもインターフェース。ユーザーインターフェース。ぱっと使いやすい見た目、出てきた結果が応用しやすい様式になっていること。誤解をおそれずに言い切ってしまうと、「結果がどれだけ正しいかよりも、結果がどれだけ使いやすいかのほうをきっちり詰めないと、使い物にならない」。

今すでにあるAIシステムの大半はユーザーフレンドリーさが足りない。

これについては、病理医の目が役に立つかもなーということをよく考える。

ぼくらが臨床医に対して何かを説明したときに、「わからんわからん。」という目をされたときのことを詳細に思い出すのだ。

ぼくの役目は、「しくじり先生」なのである。

AIがテレビの前にすわって、ぼくの悲しい失敗談の数々を、目を輝かせてみているのだ。少しでも人の役にたつAIになろうと、大きな夢を抱きながら……。

2019年7月26日金曜日

きっと宇宙だったのだと思う

はじめて誰かに会うと喜び勇んでいっぱいしゃべってしまう。

このクセはいい加減直さないといけないなと思った。

せっかくはじめて出会う人なのだから、いっぱい話を聞きたいのに、自分ばかりしゃべって終わってしまう。もったいなさすぎる。

気付くと弾幕のように言葉を周りに張り巡らせて、未知の状況に対して防御を張り、新たな関係がそれ以上進んでいかないように、前のめりで場を塗りつぶしている。身の上話をすることで現在の自分を覆い隠すという戦術。ミノウエスキー粒子。今、また余計なことを言いました。




普段、じっと黙って働いているのがよくないのだろうか? だからいざというときに堰を切ったようにしゃべってしまうのか?

たとえばツイッターでガス抜きをすれば、少しはましになるかな。

でも、ツイッターはガス抜きとしての作用は持っていなかった。仮に、人間には”しゃべりたい欲求”というのがあるとして、ツイートをいっぱいしたところでその欲求が十全に満たされるわけではなかったのである。

雑な言い方をすると、「それはそれ、これはこれ」というやつだ。

ツイートしても、しゃべりは減らなかった。

なお悪いことに、ツイッターは、はじめて会った人もはじめてな気がしない、という、人によってはメリットなのかもしれないがぼくにとっては副作用に近い効果を有していた。つまりツイッターであらかじめ距離感を縮めることで、「初対面だけどネットでは見たことがある」という相手に対し、最初から遠慮なくしゃべることができるようになってしまい、ぼくの弾幕癖はかえって悪化してしまったのである。たとえばカツセマサヒコとは初対面のファーストコンタクトからすでにののしりあったが、それが非常に楽だったし、社会人の出会い方ではないなとしみじみ反省した。




「しゃべる方のコミュ障」については、もう、治すのは無理かなと、半ばあきらめかけていた。でも、実は最近、ついに、ようやく、対策を見つけた。

それは、なんと、noteだった。

noteで複数のマガジンをはじめて、複数の人と同時に文通をしはじめたところ、ぼくはリアルにおける言葉数がぐっと減ったのである。

はじめは、noteなんて所詮ちょっとおしゃれなブログやんけ、くらいにしか思っていなかったが、noteで文通をはじめると、ぼくはてきめんにカタルシスを得るようになった。ツイッターのリプライではあまりうまく満たされなかったぼくの心のペットボトルに、ほどよく液体が注ぎ込まれるようになったのだ。しかも、半分、定期的に。

おかげで最近は、あまり人に話しかけなくても平気です、みたいなムードが自らの皮膚の直上129.3 μmくらいに浮遊しているのが、自分でわかる。カモクスキー粒子と命名しよう。





ぼくは最近、あまり人に会いたいと思わない。人と人とが出会って楽しそうに飲み食いしながら何かをしゃべって盛り上がっている場を、遠巻きに眺めながら、もろきゅうかなにかをかじっていたい。

あるいはどこか地の果てにある無人駅のホームにあたたかい恰好をして座って、通過していく電車の中にいる人々が談笑している様子を一瞬だけ眺めて二度と思い出せないでいたい。たまに電車が去っていくところを、スマホで写真にとってインスタにあげておしまいにしたい。




これって剣道部のときのぼくだな。20年ほど遠回りをして、ようやくかえってきたということか。

当時のぼくもまた、人に話しかけないで自分のペットボトルを満たすことができていた。

あのころも、今と似ていた。誰にも求められていないのに、ホームページビルダーで、せこせこといくつも企画を作り上げた。本の紹介。日記。海外に越していった女の子に頼んで文章を送ってもらったこともあった。

ぼくは戻ってきたのだ。自分がもっとも快適であった、あのころに。

となると、今後ぼくが何をやりたがるかも、だいたい予想はできる。

いいことと悪いこと。





ああーと声がでた。あのころ失った自分の立場と、失ったことをきっかけに手に入れた大きな関係、そしてそれをどこか他人事のように眺めて、間違いなく自分の居場所であるにも関わらず、最後まで自分はここにいてはいけないのではないかと遠慮がちだった、20代のころの自分の脳を、思い出した。

あのころ、粒子も何もなく、ただ、しーんと音のする静寂だけが広がっていた。

2019年7月25日木曜日

病理の話(347) 名前なんて些細な問題だと言い切れるだろうか

今日は別におもしろくもなんともない話をしますので、はなくそでもほじりながらつまんなそうに読んでください。なお、つまんなさすぎる話なので、一行書くごとに、しりとりをします




日本ではがんと診断され、アメリカではがんと診断されない病気、というのがある。 しりとり

たとえば大腸のポリープの中に、そういう病気がたまに混じっている。 りんご

日本とアメリカでは、がんの診断基準が違うから起こることだ。 ゴリラ




日本では、細胞の「異型(正常にみられる細胞からどれだけかけ離れているか)」が強ければ、その細胞が周りにしみこんでいようが、しみこんでいなかろうが、がんと診断する。 ラッパ

ところが、アメリカでは、細胞がどれだけ悪性っぽかろうとも、その細胞が実際に周りにしみこんでいなければ、「まだがんとは呼べない」という判断をする。 パンツ

これを例えていうならば、日本では拳銃を持っていれば犯罪者と認定する。ツンデレ

でも、アメリカでは、拳銃を持っただけでは逮捕されず、その拳銃を発砲してはじめて逮捕となる。レモン あっ




日本とアメリカ、どっちが正しいかな? ンジャメナ

実はこの話には、正解がない。 なめろう

これは立場の問題だからだ。 宇都宮




拳銃を持っているだけで、人を殺める能力があり、危ないやつだと認定して、早めに犯罪者扱いするのが日本。 ヤンバルクイナ

拳銃を打つまでは犯罪者ではない、と判断して、拳銃を持っている段階ではまだ犯罪者と呼ばないのがアメリカ。 夏休み

このような判断の違いがあれば、当然、対処法も変わってきそうである。 ミルク

……ところが、同じ病変をがんと呼ぶか、がんと呼ばないかの違いはあれど、実は対処法が変わらないのである。 九十九里浜

なんと日本でもアメリカでも、ある一定以上のサイズになった大腸ポリープは、原則的に大腸カメラによってぷちっととってしまおう、というのが、2019年時点でほぼほぼ認められている、共通の治療方針なのである。 町おこし

??? しおから

じゃ、なんで、名前をちゃんと統一しないの? ラグビーボール





洋の東西を問わず、病気にどのような名前を付けるかということは本質的ではない。 ルール

日本では大腸粘膜内がん、アメリカではディスプラジアと呼ばれている病変、これらは実際には同じものだと、日本人も、アメリカ人も知っているのだから、治療方針だってやっぱり同じになってくる。 またルかよ、ルーレット

だから、名前なんてぶっちゃけどうでもいいのだ。 とうきび

大事なのは、病気の本質を医者がきちんと学術的に理解していること。 美術室

そして、名前はどうあれ、対処法について、世界中の科学者たちが取り組んだ結果をもとに、きちんと信頼できる方針を定めていること。 ツンデレ あっ





はーつまんね。一人でしりとりするのつまんないよ。おまけに2回も負けちゃった。自分に。




今日のブログで大事なことは、文末の一単語ではなく、文章本体のほうだ。きちんと連ねて、丁寧に、言いたいことを書いたつもりである。たとえ話まで使って。

けれども人間ふしぎなもので、どれだけきちんとした文章を話していても、ときに、「単語のほうにばかり」気を取られてしまうものなのである。

「がん」という言葉はそれくらい力が強い。名前は本質的ではない、と書いたけれど、実際にはぼくらのほとんどが、「名前」に振り回されて毎日を過ごしているということを、ぼくら病理医は、もう少し真剣に考えた方がいいのかもしれない。

2019年7月24日水曜日

Suicaくらいは持っておけ

どことは言わないが旅行に来た。

久々に仕事ではない理由で空港に来た。必要以上にゆるんでいる。目の前で搭乗がはじまっているのに気づかず本を読み進めていた。はっと顔をあげたらもうほとんどの人がゲートをとおりすぎ、地上係員がちらちらとお互いを見ながらなにやら確認しているところが目に映った。

読んでいた本はあまりおもしろくなかったのでタイトルは書かない。殺人事件の犯人を元剣道部という設定で無敵にするのは陳腐だよな、と思った(たとえばなし)。

飛行機の中では別の新書を読んだ。つまらない。半分くらい読んであきらめた。スマホに入っているKindleでも読もうかと思ったが、電源を落としてそのまま目を閉じた。

昔はよく、機内オーディオで落語を聞いたっけな。シートポケットにイヤホンを探したけれど入っていなかった。そういえば今は、イヤホンは客室乗務員から受け取らなければいけないのだった。

このままのペースだと昼飯を食いそびれるな。

機内でもらったスープがどうやら昼食になってしまうようだ。今日はいろいろと、ずれている。



解剖当番にあたっていない休日を見つけて、直前になって航空券を確保した。かなり高かった。株主になればもう少し安く、変更可能なチケットがとれるのだという。株なんて買ったことがない。

まだ書くべき原稿は残っている。読むべき本もある。行かなければいけないところ、会わなければならない人、聞かなければいけない音、食べるべき味、語るべきエピソードがある。

そういうのを、いったん脇に置く。

ただそれだけで、口内炎が治る。



出掛けたさきは暑くも寒くもなかった。

来てきた服はユニクロだ。

靴だけは二足もってきた!

雨が降っても、思う存分歩いて濡らせるように。

明日、帰りの飛行機に、かわいた靴下で乗るために。

飛行機の時刻も持ってくるべき本も間違えるけれど、靴だけは間違わない。

履くべきものを履いていればなんとかなる。

替えの靴だけは忘れるな、あとはとりあえず、忘れていい。





2019年7月23日火曜日

病理の話(346) 理想の検査と医者のしごと

何度か書いた話だけどぼくが好きな話だからまた書きます。




99パーセントの確率で、病気かそうじゃないかを判定してくれる検査ってのがあるんです、すごいでしょう。

えっ、そんなすごい検査があるんですか!  でもお高いんでしょう?

いえ、安いですね。健康保険入ってれば数百円かな。

まじで?

おまけに、血液検査のときに、ついでにやっといてくれます。

えっ、それってすごいですね! だったら、健康診断で採血するときに、その検査も必ずやってくれればいいのに!

いやー、だめなんですよ。だって、その検査が陽性でも、ほんとに病気である確率、めちゃくちゃ低いんで……。

は?  99パーセントの確率なんじゃないの??





こういうことが医療の世界では実際にある。おおげさではない。よくある。

99パーセントの確率で当たる検査、という言葉にはマジで気を付けなければならない。

これは実際の数字を使って説明するとすぐわかるのだが、なんだかきつねにつままれたような気分になると思う。

だからゆっくり読んでみて。





まず、日本にだいたい一億人の人がいます。

100000000人。

で、ちょっとだけ珍しい病気があります。一億人のうち、そうだな一万人くらいはその病気「A」にかかってます。

10000人。

一億人の中の一万人。いちおく分のいちまんイコール、一万人にひとりが「A」にかかるってことです。

罹病率0.01パーセント。

今、日本には、

99990000人の「Aじゃないひと」と、

10000人の「Aにかかったひと」がいます。




ある検査の正解率は99パーセント。つまり、1パーセントは間違った結果が出ます。

これを、国民一億人全員に実施しましょう。

10000人の「A」のうち、9900人が検査で「Aだよ!」と出ます(99パーセント正解)。

99990000人の「Aじゃない」のうち、999900人が「Aだよ!」と出ます(1パーセント不正解)。



ここ、大丈夫?

わかる?

99パーセント正解、つまり1パーセントは間違うのね。



すると、国民一億人に検査して、「Aだよ!」って結果が返ってきた人のうちわけは?

ほんとにAという病気の人9900人と、実はAじゃないけどAだよって間違えられちゃった999900人。



……ということはこの検査で「Aだよ!」って結果が出たひとの大半は、「Aじゃない」んですよ。





えー?

なにそれ?





あのね、もともとかかってる人が少ない病気の検査を、全員にやってしまうと、たとえ「1パーセントの誤診」であっても無視できなくなるんだよね。

というか、無視できないというか、おもいっきりミスが増えちゃう。

だからなんでもかんでも検査すればいいってわけじゃないんです。





そしたらどうすればいいと思う?

たとえば、検査を国民全員にやるんじゃなくて、最初から「Aである可能性が高い集団」にだけやるといいんです。




たとえば東京都台東区駒形バンダイの玩具第三部に勤めている職員が2000人いるとします。

この職員2000人のうち、1000人は、「ファミコン版聖闘士星矢をみると気絶する病気A」にかかっています。

さいしょっから、Aである確率がめっちゃ高い。二人に一人は気絶する。

ここでさっきの検査をやろう!

「Aである」1000人中、990人は検査陽性(正解率99パーセント)。

「Aでない」1000人中、10人が検査陽性(誤診率1パーセント)。

ほら、今度は、「検査陽性」という結果がかなり信用できる。




医者は検査するまえに、その病気である確率が高いかどうかを、あらかじめしぼりこんでおくべきなんですよ。




とうきょうとたいとうくこまがたばんだいのがんぐだいさんぶのほし、知ってる人、減ってきたな。


2019年7月22日月曜日

てめどこ中だよ

こないだ歯医者に行ったら怒られた。

虫歯はないけど歯茎がだいぶやられてる、このままだと歯周病から歯槽膿漏になって歯が抜けるよ。

そりゃ脅しじゃないか。

同じ医療者として言わせてもらうけれど、患者に対してその脅し方はないだろう!

とぼくは口の中で言った。けれども口の中では声はできない。声帯は完全に沈黙していた。ぱくぱくとあごだけが無音で鳴った。

ぼくはマスク越しの歯科衛生士さんにひたすらへりくだって、はい、すみません、ごめんなさい、歯磨きします、と低頭した。白状するがぼくは基本的に脅しがとてもよく効く。

お会計のときには歯間ブラシを買わされた。言われるがままに歯間ブラシを2本もって帰った。




こうして歯間ブラシを併用した念入りな歯磨きの日々がはじまった。とりあえず最初に買った太・細2本の歯間ブラシは3日でよれよれになって壊れてしまった。慣れていないのでうまく使えなかった。翌週、歯石のメンテナンスに行った際に新たに買い直した。

歯間ブラシにもだいぶ慣れてきたと思ったら、少しブラシの使い方が雑になったのだろうか。先日、奥歯と奥歯の隙間に入れた瞬間に、歯間ブラシの根元の金属部分がパキンと折れてしまった。

歯の隙間にブラシがそのままはさまっている。奥歯だからなかなかとれない。

しょうがないな、と思って、もう1本の太い方の歯間ブラシをその場に突っ込んで、はまったブラシを押し出して取ろうと画策した。そしたら2秒もしないうちに、もう1本の歯間ブラシも折れてしまった。

ぼくの歯には2本のブラシが突き刺さった状態になった。その後なんとか指でとりだした。

小さい頃から、虫歯予防のためだ、と言われて念入りに歯を磨いて過ごしてきた。けれども気づいたら歯茎が弱ってるという。歯はきれいでも歯茎がだめだという。歯間ブラシを使わないなんて成人として間違っているなどという。後付けでいろいろとダメ出しをされ、おまけに歯の隙間にブラシを置き去りにして、ぼくはなんだかがっくりしてしまった。

でも、こうして以前より意識して念入りに歯を磨くうち、少しずつ歯茎のコンディションはよくなっていった。やればできるもんだ。





医療者ってのは後付けでいろんなことを言うことに定評がある。

「昔はそこまで言わなかった」みたいな話があとから出てくるのは、もちろん、科学というのが常に昨日よりも今日、今日よりも明日のほうが進歩しているからだ。でもそれ以上に、科学コミュニケーションというか、医療者が患者に対して注意を込める内容自体もフクザツになっているんじゃないかなあ、と、ぼくは肌で(というか歯茎で)感じた。





先日、昼休みに職場で歯を磨いていたら、MRさんがぼくのところをたずねてきた。ぼくは一度お会いした人には、それ以降はアポなしでいつでもデスクに直接来てください、と伝えてしまうので、こうして昼休みに突撃してこられることはよくあるし、それで一向にかまわない。けれども、先方はだいぶ恐縮したようだった。「あっ!」とつぶやいて2歩ほど下がり、ぼくが歯を磨き終わるのを待っていた。

デスク横の洗面スペースで口をゆすいだあと、失礼しました、と伝えると、MRさんはぼくに、こうわびた。

「お歯磨き中のところ申し訳ございません」

お歯磨き中?

おはみがきちゅう?

はじめて聞きましたその言葉、と言ったら、MRさんは汗をかきながら、「私もはじめて言いました」と言って笑った。なにわろてんねん、と思った。

2019年7月19日金曜日

病理の話(345) 比べてわかる細胞のアレ

人体から取ってきた細胞の、良し悪し。正常か異常か。がんか、そうでないのか。

これらを決定するのがぼくら病理医の仕事である。

白黒はっきりさせるという言葉がある。良性ならシロ。がんならクロ。

この例えをすると、100人中90人くらいが気にする内容がある。

「グレーにみえるときってないの?」

あるね。

めちゃくちゃある。

これはもう圧倒的にあるね。



病理医はときに、グレーに見えるものを、シロかクロに決めなければいけない。

グレーはグレーと言えたらラクだろうけれど……。

病理診断、とくにがんの病理診断においては、グレーはタブーなのである。

なぜかというと、がん診療の世界においては、「治療が必要ない」(シロ)と、「治療が必要だ」(クロ)の中間というのが原則的に存在しないからだ。

(実際には、グレーな診療というのはケアのニュアンスや維持のニュアンスで十分ありうるのだが、その話は本項とは別に書くべきだし、今日は触れない。)

薬を半分だけ飲め(グレー)、とか、手術を半分だけしろ(グレー)、ということは、がんを診療するときにやってはいけない。病理は治療方針を決める最後のカギなので、病理診断がグレーだと、その後の診療がまるで進まなくなってしまう。

シロクロはっきりさせないといけない場面というのが、あるということだ。






コンサドーレ札幌に、ジェイという選手がいて、身長が190センチある。

近くで見たことがある。

「わあ、背が高いなあー!」と思った。

たぶんたいていの人はそう言うだろう。

彼くらい身長が大きいと、スタジアムで見ても、街中でみても、「でかい!」と思える。

比較対象がなくても絶対的に大きい人というのはいる。



しかし、それ以外のサッカー選手の背が高いのか、低いのかというのは、意外とわかりにくい。

たとえば「カズ」の愛称で有名な三浦知良選手。

彼はフィールドの中にいると、大きくも小さくもないように思える。

しかしファン感謝デーなどで普通の人に取り囲まれているときは、でかく感じる。

実際には177センチあるそうだ。

ガタイもいい。プロスポーツ選手ってやっぱ大きいんだな、と納得する。

比較対象が一般人だと、大きい。

サッカー選手の中で比べると、そう大きくも見えない。






顕微鏡で細胞をみるときも、これと似たようなことが起こる。

たとえば、病理医の目からみて、圧倒的に細胞の核がでかい! ということがある。

核というのは細胞の司令室にあたる部分で、ここが異常にでかいときは、細胞の挙動が相当あやしいことになっているぞ、と判断する。「がんではないか?」という目でいろいろ検査する必要が出てくるのだ。

核がでかいかどうかというのは大事な判断基準になる。

そして、我々は、顕微鏡をみた瞬間、文字通り瞬時に、「核がでかい!」とわかることが、よくある。実際にレポートに書く。

「核が明らかに腫大している」と。

これを「主観的」という人がいる。「感覚的」とか。「病理医は、胸先三寸で細胞の良悪を決めている!」などと、悪し様に罵る人も、まれにいる。

けれども、でかいものはでかい。これはもう、実際にみてもらえばすぐわかる。

ジェイをみて「そんなにでかくない人だね」とは思えないのといっしょだ。

核がある程度でかくなった細胞は、「でかい!」と誰もが言える。




じゃあどれくらい核がでかければ、比較しなくても「でかい!」と言えるのか?

ぶっちゃけ、ジェイくらいでかいとみんなわかるんだけど、カズくらいだとあんまりわかんない、というのと同じことが、細胞診断学の世界でも起こっている。

だからぼくらは、よく、細胞の核の大きさを、プレパラート内にある別の細胞と比べる、ということをする。

たとえばリンパ球や赤血球。

これらは、基本的にサイズのバリエーションがあまりない。いつどこにあってもたいてい似たようなサイズである。

だから、比べるのにもってこいなのだ。

「正常リンパ球と比べて3倍くらい大きな核」といえば、病理医であればだれもが「それはちょっと大きめだな」と言うことができる。

あるいは、胃がんの細胞をみるならば、がんになっていない正常の胃粘膜上皮細胞と比べるのもいい。

「正常の主細胞とくらべて2倍くらい大きな核」であれば、たいていの病理医は「けっこうでかくなっているなあ」と言うことができる。





ところで今日のたとえ、なぜコンサのジェイを使ったのだろう、と我ながら不思議に思った。

どうせ例え話をするなら、ジャイアント馬場のように、知名度があり、思い浮かべやすい人を例にとればいいのだ。

けれどもぼくがこないだコンサドーレ札幌の試合をみたばかりだったので、つい、記憶にあたらしいジェイを例えに使ってしまった。

自分の話を一般論に拡充しなくてもいいんだけれど、ほかの病理医もたまにこういうことをする。

腎細胞癌取扱い規約内に、「正常尿細管上皮と比べて」というフレーズが出てくるのだが、腎臓病理になれていない人は、「とつぜん正常尿細管って言われても!」と少しおどろく。普段そこまで見慣れていないからね。

でも、なんだろうな、郷に入っては郷に従えというか、その領域で診断をするためにはその比較対象が一番いいよね、みたいなものが、病理診断の世界にもあるんだ。

だからジェイの例えをあんまり責めないでほしい。必然性はないんだけどさ。

2019年7月18日木曜日

ジャングルをさまよったおじさんの話につなげる神展開

「あやしうこそものぐるほしけれ」

というフレーズを目にすると、なぜかわからないけれど、盛夏の候に、いなかの一軒家で、かやをつった畳の部屋にふとんをしいて、うちわを手に持ったまままどろんだり寝返りをうったり、寝苦しい夜を過ごしている、サツキとメイ(トトロ)、という絵面を思い浮かべる。

ものぐるほし → 寝苦しい が混線してしまっているのだ。脳の不具合である。

修正する必要もないので放っておいているけれど……。

だいたいなぜサツキとメイなのだろう。

たぶんぼくが思いもよらないような、シナプスの混線があるんだろうなあ。

あやし あたりかなあ。

うーん、わかんねぇな。




脳の混線については、今のように、理由がわかる混線と、理由がわからない混線がある。

イッテQとかをみていてクジラが出てくると、老人が舟にのったシーンが出てくるのは、これはもう間違いなく、『老人と海』からの連想だろう。でも老人と海で老人が戦うのはクジラではなくカジキだったはずだ。つまり、『白鯨(モービーディック)』とも混線しているのである。もっともぼくは白鯨を読んだことがないのだけれど。なんか単行本の表紙かなにかで混線しているんじゃないかなあ。




何度か書いたことがあるのだが、サカナクションの『Klee』を聴いているとヘルシングの少佐が出てくる、というのは単純にこの曲を最初に聴いたときにヘルシングを読んでいたからだ……。

いやまってくれ、ぼくはよく考えたらヘルシングを読んでいないんだった。

かつて2ちゃんねるで一時代を気づいた「AA系の二次創作」で、少佐のアスキーアートがしょっちゅう出てきたからだ。ぼくはたぶんはじめて『Klee』を聴いたときには2ちゃんねるを見ていたんだと思う。

あぶない。記憶が混線どころか捏造されているではないか。





先日、中島京子『夢見る帝国図書館』を読んでいたら、その中に、本筋とはあまり関係ないのだが、『かわいそうなぞう』の話が出てきた。ぼくは象の花子は生き延びるのだと思っていたので、花子が最後に死んでしまうという意味の描写(くりかえすが中島京子の本編とはなんの関係もないので安心してほしい)を読んだときに、軽くめまいがするほどの衝撃をおぼえた。

あれ……花子って死ぬんだっけ……。

記憶をいそいで掘り返すとそこには、ポカンと口をあけて、涙をながしながら、ひざまずいて、少年と猫型ロボットに手をふる飼育員の記憶が眠っていた。

そうか、そうか、ドラえもんのあの話だ。

あれは「改変」だったんだなあ。

これまで、まったく気づいていなかった。





脳がときおり混線するのは迷惑だ。

しかし、おもしろいことに、ぼくはその混線によってしょっちゅうしみじみとしている。

文学を読むことは混線の機会を増やす。

ぼくの脳は加齢によって溶けていくだろう。そのとき残ったストーリーは、あるいは世の中の人からは「ボケているな」としか思われないかもしれない。

安心して欲しい、記憶が混線して再構築されていくのは、老人の専売特許ではない。

ぼくは、今、たぶん脳が全盛期だと思うけれど(知らんけど)、すでに、バグっているぞ!

2019年7月17日水曜日

病理の話(344) 再現モデルって本能なのかな

ちょっとぶっそうな話で申し訳ないんだけれど、わかりやすいので例え話からはじめます。

大きな交通事故とか、傷害事件とかがあったときに、テレビでよくある「再現CG」ってあるじゃない。

コナン君に出てくる黒ずくめのファンキー色違いみたいなキャラクタが、いかにもCGっていう遠近感抜群の格子の中で、ぎこちなく動いたりするでしょう。

で、どういう事故・事件だったかをこちらは瞬時に理解するわけだよ。

別に、人間はね、仮に文章だけであっても、事故や事件の内容を想像して理解することはできるんです。ほんとはね。

でも再現CGって必ずといっていいほど、やるでしょ。もう当たり前になっちゃったよね。

もちろんテレビ局はそのほうが視聴率がとれるからやってるのかなーって邪推するけれども、視聴率うんぬんじゃなくてもさ、再現モデルがあったほうがわかりやすいってのはもう間違いないと思うんですよ。




でね、科学者もね、けっこうそうだと思うわけ。

アインシュタインは脳内だけで相対性理論をつくりあげた、みたいな逸話があるけれどね、ぼくらはアインシュタインの言ってることを理解しようと思ったら、必ず「モデル」を考えるんだよね。アインシュタインの脳には勝てないので。

たとえば特殊相対性理論の説明では高速ですれちがう電車みたいなのを想定させられるし、一般相対性理論の説明では落下するエレベーターの話が必ず出てくるんだよ。あとは鉄の玉でへこんだクッションみたいな絵も必ず出てくるね。

これはつまり、高度な理論物理の世界であっても、人とイメージを共有しようと思ったらモデルを使うことが便利だってことが、みんな、なんとなくわかってるからだと思うんだ。




何を当たり前のことを……。

例え話したらわかりやすいのあたりまえだべや……。

再現VTRがあればそりゃわかりやすいべや……。

CGで説明してくれたほうが早いに決まってるべさ……。

って思った北海道人はこの中にいるかな。

でも、これ、いうほど当たり前じゃないと思うんだよ。ぼくらが当たり前だと思ってしまうくらいに、なじんでしまっているだけでね。

脳は、正確性よりも、「たとえ」とか「わかりやすさ」とか「モデル」を介したほうが結果的に全体像を理解するのが早くなっている。そういうふうにできている。

よーく考えるととっても不思議な話だ。

だって外界から余計なエピソードが入力されればされるほど、脳に関係ない情報が蓄積するんだよ。例え話ってのはそのものずばりじゃないわけで。情報処理の効率だけを考えるならば、本当にあったこととは微妙に細部が異なっているはずの「モデル」を介して情報を理解しようとするなんてのは、遠回りなはずなんだから。

でも実際には、脳はかたっぱしからいらない情報を捨てていくシステムを有している。だから、ある程度の回り道や、余計な修飾があっても、結果的には不要な部分を容赦なく捨てていくので、脳の限りあるストレージを無駄遣いしなくてすむようになっている。

捨てていくシステムって何かって? それは「忘れる」ということだ。

うーん、ここつなげちゃうと乱暴って言われるだろうな。

でも言っちゃおう。

脳ってのはね、忘れるシステムを内蔵しているから、乱流のように流れこむ情報の中で、文字通り取捨選択を行って、適切な情報だけを解析し続けることができる。

おかげで、本質をいったん例え話、すなわち「モデル」に落とし込むことで、全体像をぼうっと理解してから、次第に本質に近づいていくような解析も可能になるんだ。




ぼくらは忘れん坊なおかげで、わかりやすい例え話を介したフワフワした会話ができて、人生の幅が広がっているってことだよ。

まあ今ぼくが言ったこともすっごい雑な話で、ある意味、脳という複雑な機械を解釈するための、ひとつのモデルにすぎないんだけれどね……。

だって今回の記事自体、さいしょっから、「例え話でごめんね」っつってスタートしてるべさ?

2019年7月16日火曜日

harakiri kocoronoツアーというのが昔あっての

5年前、10年前の自分が考えていたことはたいてい、誰かに対する配慮が足りていない。

自分の目から全く見えていないところを、気遣うことができなかったからだろう。

いろんなものが見えてくることで、ああ、ここにこんな立場の人もいたんだなと、恥ずかしながら気づきませんでしたと、少しずつ気配りができるようにはなってきていると思う。

でも、今も、多くのものが見えていないままだ。だからずーっと配慮は足りないままだと思う。

気付いたところから少しずつ、ごめんねごめんねと直していく。修正パッチまみれになって年を取る。




あまねく世界を見通すことは一人の人間には無理だ。ネットワークが配備されてすみずみまで電気がいきわたり、あらゆる路地に光が当たって、はじめて、あーこりゃ全部見るなんて無理だなってことがわかる。

Google mapの全画面をみたことがある人が世の中にいるだろうか?

気配りつったって配る気も無限ではないのだ。





こういうことを書いて、だから自分はもう気配りはあきらめる、と結論するとさすがにひでぇなと思う。永遠に気配りを進化させていこうと決意することはたぶん論理的ではない。けれども感情的には気配りをあきらめてはだめなのだと思う。

ただ、他人の気配りに期待することはやめよう。ぼくはそう思った。

ほかの誰かが、自分の何かに対して全く気を配っていないときに、不快だとか辛いとか思うことが傲慢なのではないか、と感じ始めたのだ。

ああこの人は、ぼくのここにあるものが見えていないんだろう、それはしょうがない、だってこの人はぼく以外にも見るものがいっぱいあるんだもの。

そう考えないと、自分に対して気を配っていないあらゆる人に腹を立て続けなければいけなくなってしまう。





日替わりどころか秒替わりで、瞬間・瞬間ごとに、違う人のかけらが突き刺さってくるSNSに暮らしている。自分が目にするものの9割9分は自分に対して気を配っていない。あたりまえだ。だからいいのだ。それがいいのだ。自分に気配りをしてくれ、気を遣ってくれ、配慮してくれ、と、甘えて叫んだ声に誰かが答えてくれることはない。各自が自分のもっている「心」を、自分の目に見える範囲で、気まぐれ半分、優しさ半分くらいで、ちょっとずつおすそわけするくらいで手いっぱいなのだ。人間の心配りなんてものには、もう期待しない方がいい。





それでも配ってほしいと願うならば、それはもう、人間の気や心のキャパシティを超えているのだから、社会とか、複雑系とか、AIとかに、心を与えていくしかないのではないか。

人間より心が広いものを作り出せば、あるいは、誰もが心を配られる世界というものが、見えてくるかもしれないではないか。





こう書くと、AIブームが嫌いな人に対する配慮が足りない、とののしられる可能性がある。

2019年7月12日金曜日

病理の話(343) きれいに整頓したいという本能と実益

「ゴミ箱診断」という言葉がある。

あんまり印象がよろしくない言葉だよね。

だから、たいていの医者は、市民の前では使わないようにしている。

けれどもこれはけっこう有名な概念だ。

なんと英語もある。

Wastebascket diagnosis ( https://en.wikipedia.org/wiki/Wastebasket_diagnosis ).

そのまんま「ゴミ箱 診断」である。



このイメージはひとことでは説明しづらいので、ちょっと想像力を働かせてほしい。




あなたは今、おもちゃがいっぱい転がっている部屋にいる。

レゴブロック。ダイヤブロック。

モノポリーとか人生ゲーム。

Nintendo 3DSやSwitch。

ぬいぐるみ。

仮面ライダーの変身ベルト。

シルバニアファミリー 森のおうち。

ポケモンカード。

まったく、こんなにちらかして……こまったものだね。

あなたは少しずつ整理整頓をする。

レゴはレゴでまとめて箱に入れよう。ダイヤブロックとまぜてはだめだ。

モノポリーのお金と人生ゲームのお金を一緒にしないように、注意。

Nintendoゲーム類はハードごとにまとめて……。

ぬいぐるみはどこか一か所にかわいく並べておこうかな。

仮面ライダーと戦隊モノを一緒にすると、大人はなんとも思わないけれど、子供は腹立つだろうな。

シルバニアファミリーのおうちの中に、お兄ちゃんのフィギュアをおいといたらだめだよ。

ポケモンカードと遊戯王をまぜてはいかんのじゃ。




部屋はあらかた片付いた。ところが、ひとつ、見たことのないおもちゃがある。

これはどうも新しいゲームのキャラクタなのかな。あるいはアニメかもしれない。ただ、あなたはこのキャラクタを見たことがない。いわゆる食玩の類いで、小さい人形みたいな形をしているのだが、一部を押すと光る。電池は入っているのかもしれない。

トイストーリーかなあ? でもデザインが違う気がする。

こういうものを、シルバニアファミリーのおうちの中に入れておくと、あとで怒られるだろう。

3DSで使うAmiiboにも似ているけれど反応しないようだ。

しょうがないので、「あとで子供に聞いてみて、なんのキャラクターかわかったらそこにしまう」ことにする。

それまでの間、「どこに入れたらわからないおもちゃのためのカゴ」というのを用意して、そこに入れておく。ほかのものと混ざらないように……。





みなさんもう予想しているだろう。

最後にでてきた、「どこに入れたらわからない、分類できないものを一時的に入れておくためのカゴ」のことを、英語でwastebascketと表現し、日本語でゴミ箱と言ってしまっている。

ゴミじゃないんだよ。分類不能ってことなんだ。価値はきっとある。わかる人にとってはね。

でも、おもちゃってのは無限にあるので、どうしたって分類して整頓できないものが出てくる。そういうのを、暫定的にしまっておく箱というのが必要なんです。

それが、おもちゃじゃなくて、病気を分類・整頓するときにも、起こりうる。




従来の病名決定法、診断法ではどうにも名前をつけられないものに、とりあえず仮の名前を付けておくことを、「ゴミ箱診断」と表現するのだ。

なんだか雑な名称だよね。患者からしたらあまりいい気分はしないだろうな。






でもこのゴミ箱、実は、科学的発見の宝庫でもある。

だって、それまでの知識ではどこにしまっていいかわからないってことは、未知だってことだからね。

これから新しく知識が増えることで、思いもよらなかった新しい病気の概念ができあがるかもしれない。

そして、治療法が決まるかもしれない。

病気の名前をつけるってのは、昆虫とか水生生物の名前を付けるのとはちょっと意味合いが違う。名前を付けて整理整頓すること自体にも大きな魅力はある、それはそうなんだけれど、病気の場合は、さらに「治療法が選べるようになる」というすごく大きな意味がある。

ゴミ箱診断されているものが、いずれ、その病気がおさまるべき正しい箱へと、整頓されますように……。

病理医は、ときおり、そんなことを願う。

2019年7月11日木曜日

イベントのことはすっかり忘れていた

のんびり働いていたらDMが来た。

大きな医療情報啓発関連イベントの企画に関するものだった。

ぼくは今回そのイベントに際し、ゲストではなく企画側として、立ち上げ時から関わってほしい、と事前に聞いていた。いよいよ企画が動き出したのだ。



ツイッターのDM通知はスマホに届くようにしてある。職場のデスクにおいてあるスマホがブーンブーンと長めに2回震えたらツイッターのDM。短く2回ならラインかSlackだ。3回だとメール。バイブレータのパターンがうまいことばらけてくれて、助かっている。

ブーンブーン。

これはツイッターのDMだとわかる。

この振動を聞いたら、パソコンでツイッターのDM欄を開く。リアルタイムでDMがストックされていく。いちいちスマホを手に取るよりも簡単でいい。スマホは伏せたまま放っておく。あとでまとめて通知を消去すればいい。

ぼくは公費PCに向かって仕事をしながら、私物PCの画面に表示されたスレッドにDMがたまっていく様子をちらちらと眺めていた。

グループのほかのメンバーがやってきた。

ブーンブーン。

4人目もやってきた。

ブーンブーン。

明日、Web会議をするという。

ブーンブーン。

ブーンブーン。

……あれ。

画面に確認できるメッセージの増え方と、スマホの鳴動とが、今、一致していなかったな。

数秒の違和感のあとに、ぼくは仕事の手を止めて、スマホをみた。

DMのアイコンが、1個ではなくて、2個表示されていた。

少しの混乱の後に、理由を察した。そうか、たまたま、このタイミングでもうひとつ、全く関係ないスジからDMがきたのだな。

ぼくはあらためてパソコンに向き合い、TwitterのDM画面を開き直す。

そこには確かにもう1通、先ほどのスレッドと関係ないDMが来ていた。

ある作家からだ。

送ってきて全く不思議というわけではないが、しかし、ぼくが尊敬するクリエイターである。唐突な連絡にぼくは瞬時におびえた。いったい何事だろう。

ツイッターのDMは、長文だったり、複数に分けて送られてきたりしている場合、メッセージの「一番新しい部分」が表示される。一番下の部分が出てくるわけだ。時系列順に読もうと思ったら、マウスを握って、スクロールで一番上に遡らないといけない。

果たしてそのDMも、チラ見しただけでは用件がわからない、長いものだった。

ぼくはマウスでメッセージの最初を探してスクロールをかけた。

……思った以上にずっと長い。

せいぜい0.5秒くらいのことだがぼくは不安になった。何があったんだ?

なんとそれは短編小説だった。ぼくはすかさずひとつの可能性に到る。

「送信相手を間違えたのだろう」。

おそらく編集者か誰かに送るはずだった原稿を、アイコンの色が似ていたなどの理由でぼくに送ってしまったのに違いない。

ぼくはこのDMは消去されるのではないか、と思って、5秒ほど待った。

しかし5秒後、ぼくはその小説を、冒頭から猛烈な勢いで読み始めた。

消えてしまう前に。ぼくはこれを読んでしまいたい。

尊敬する作家だ。できればすぐに、「送り先を間違えていらっしゃいませんか?」と返事すべきだと思った。

許される時間は5分。いや3分だ。

ぼくは2分で小説を読み終わった。

薄暗いライブハウスの中にぎっしりと人が詰まってモッシュを繰り返している、その中を、当たり判定を失った透明なぼくが、まっすぐ突っ切っていく。

高速で読み終わったぼくの頭の中は風景と情念で満ちてしまった。

落ち着きを取り戻さないままにDMを送る。

「送り先を間違えていませんか?」

しっかりと盗み見たあとで。





すると、何分もしないうちに、意外な返事が返ってきた。

「なんかそういうことをやりたかったのだ」という。

つまり送り相手はぼくでよかったのだ。

だったら、じっくりと読んでよかったのだ。

ぼくは、本当に読みたいと思っている作家の作品を、信じられないくらい早いスピードで駆け抜けるように読んだことになる。

空腹にボルタレンをビールで流し込んだような、にぶいダメージが一気に脳をゆさぶった。






ぼくはどう答えていいのかわからないままに小説の感想を述べた。2分で読んだ感想だ、どのみちたいしたものではない。けれどもぼくはそれでも揺さぶられていた。

脳しんとうの腹いせに、ぼくは以下のようなDMを送った。

「犬がいるでしょう。あの犬に、清少納言がDMを送ったら、犬はびっくりして心臓止まると思いますよ。あなたがぼくにDM送るというのはそういうことです。」





仕事に戻り、20分ほどまじめに働いた。

ふと顔をあげて、タイムラインを眺めると、そこに偶然、作家のツイッターアイコンがみえたが、表示名が変わっていた。

作家のアカウント名は、「清少納言」になっていた。

そういうことじゃねえ。

2019年7月10日水曜日

病理の話(342) 顕微鏡の役得と滅びの準備

病理医は患者から採取してきたあらゆるものを顕微鏡でみる仕事をしている。病理診断に使う顕微鏡は非常に高価な専門機器であり、おいそれと個人が買って使えるようなものではない。

ぼくの使っている顕微鏡は450万円もする。ぼくの乗っている車よりもはるかに高いのだからがっくりする。顕微鏡の横っちょには、病院の持ち物であるという意味の固定資産管理シールがべたべた貼ってある。メーカーの人がときどきやってきてレンズをきれいに磨くなどのメンテナンスをしてくれる。自分の顕微鏡と言いながら実際には自分のものではない。あくまで病院のものであり、多くの人が関わって大事に扱う虎の子である。

これほど高い顕微鏡はさすがに性能がいい。見ていて酔うなどということはまずありえない(両眼の光軸がずれて乱視気味になっていると酔ってしまう)。

プレパラートの拡大写真を撮ることも自由自在だ。顕微鏡にカメラが組み込まれている。というか、高い顕微鏡を使わないと、プレパラートの写真を撮ることは事実上無理である。虫眼鏡+iPhoneで撮れたら苦労はないのだが。




そんなわけで、ぼくはしょっちゅう、臨床医や技師などの依頼を受けて、プレパラート写真を撮っている。「ミクロ写真家」というと少しかっこいいかもしれない。ただしモデルは細胞や血管たちだし、構図はわがままな細胞たちが勝手に決めてしまう。しがない雇われカメラマンである。

細胞を、400倍、600倍と拡大して写真を撮る。病院の中にいる誰もがそんな道具を持っていないので、すこし誇らし顔で撮影をする。

たとえば消化器内科医が、小さな胃癌や大腸癌を、胃カメラや大腸カメラを用いて切って取ってきたとする。彼らは、病変を切除する前にさんざん胃カメラなどで観察した様子と、とってきた細胞の性状とが、どれだけ関連しているかを、知りたがる。

胃カメラで表面に見えた細かい模様の差が、実際の細胞の性状差としてあらわれていれば、それはすごいことだ。だって、顕微鏡をみる前に、胃カメラをみただけで彼らが細胞を予測できたということなのだから。

かつて、顕微鏡でしかうかがうことのできなかったミクロの世界を、胃カメラや大腸カメラでみることができたらかっこいいではないか。

臨床医たちは、ぼくが撮影したプレパラート写真をみて、細胞の様子を観察しながら、ここまでは予測できた、この部分はわからなかった、と、議論を繰り返していく。




つまりぼくらがミクロ写真を撮る理由は、いずれ顕微鏡診断というものが必要なくなる世界にむけての、礎(いしずえ)作りなのだ。

450万円の顕微鏡を借りて我が物顔をしている病理医が、いずれ、胃カメラや大腸カメラの診断進歩によって、お役御免となる日を願って、細胞の細かい変化を写真に撮り、彼らのみてきたものと照らし合わせる作業をしているのである。




「画像・病理対比」は、たぶんマゾのやることだ。ポストアポカリプスな世界観が好きなマゾのやることだ。いずれ自分たちが不必要になることを願って、ライバルに手を貸し続ける行為に近い。

……まあ、見れば見るほど、対比すればするほど、顕微鏡の世界のおもしろさにどっぷり浸かっていくことになり、まさかこのせいで自分が滅びることになろうなんて、対比している間は思いもしないのだけれど……。

2019年7月9日火曜日

羊土社が怒りの表情でこっちを見ている

じっくりコトコト言葉を煮込んで、丁寧につくりあげたテキストというものは、テキスタイル(編み物)みたいなものだ。

やわらかく、包み込み、それでいてしっかりとしていて、多少の雨をはじいたり汗を吸ってくれたりする。

ゆったり流れる由無し事を、ていねいに時間で微分して、心の傾きみたいなものをちゃんと描く文章には、大きな包容力がある。

とてもまねができない、と思った。

だからたぶん言葉数でごまかしている。昨日も、今日も。



このブログを平日欠かさず更新しているのも同じことだろう。

長い時間をかけて少数のいいものを書けと言われたら、ぼくは逃げ出してしまうだろう。短時間で叩きつけるように、瞬間瞬間で少し雑なものをつくって積み上げていく。積分的なものの書き方しか、ぼくには残されていない。

しゃべる方のコミュ障といわれて、そこそこ長い年月が経った。学術講演では相変わらず、講談師のようにうねりながらしゃべりまくっていることが、学術を語るひとつのスタイルとしてフィットする。ぼくは、多弁な講演者として職務を果たす。ときおり疑問が通り過ぎていく。もうすこし言葉数を減らしたほうが、結果的に受け手の得る情報量は増えるのではないか? そうかもしれない。しかし無駄な動きをする道化が一番心に残るサーカスというのもあるだろう。




学術を遠ざかるごとにこのスタイルは通用しなくなる。




落語を聞いたり、一人芝居を見たりしてもみた。

そして自分と照らし合わせて思った。ぼくには手札がなさすぎる。リズムを自分で変えることがへたくそだ。





そこで幾人かにお願いをして、往復書簡形式の企画を一気に4つスタートさせた。独白のブログとは違ったものができていけばいいな、と思う。ほんとうのところ、書き手というより読み手として楽しみな気持ちが強い。その意味では編集者の気分を少しだけ、お試し的に味わわせてもらっている。

けれどもぼくはまだもう少し書いてみたい。

ぼくが昨日まで書けなかったものを、積分の形式で、もう少し積み上げていきたい。

ぼくはつまりインテグラル記号が突き刺さったまま歩いて行くことに決めたのだと思う。

そうでなければ、教科書の締め切りがまだもう1つ残っているこの時期に、新しい企画を4つもはじめようとは、思うまい。

2019年7月8日月曜日

病理の話(341) 正しい科学の知識

体の中から細胞をとってくることで、その細胞がどんなやつであるかというのを、かなり細かく知ることができる。

胃粘膜からつまんでとってきた細胞たちは、顕微鏡とか、免疫染色とか、遺伝子検査とか、いろんな手段で丸裸にできる。

外から見まくるだけじゃなくて、断面とかすごい見て、核とか超あらわになる。

はずかしいところまで全部みることができる。

科学的であろうとするとき、人は、真実をみる目の解像度をあげまくる。

どこまでもどこまでも見る。

拡大をあげればあげるほど、真実が見えてくる……。




んだけどさー拡大あげただけじゃわかんないんだよねーってことがあるんだ。

たとえばシブヤの交差点を歩いている人をさらってここに連れてくるとする。

若い兄ちゃんだった。横には彼女かだれかいたかもしれない。けれども構わずにさらってきてしまった。

連れてくる段階であちこちにぶつけてしまったので気を失っている。もう死んじゃったかもしれない。けれども、科学的に、どこまでも観察しよう。

何を着ているのか。どんな髪型か。好きなブランドがあるか。かばんのようなものを持っていたろうか。かばんには何が入っていたか。

すべてを丸裸にしていく。もう服も脱がせよう。皮膚も脱がせていいだろう。ていうかまっぷたつにしてやろう。

昼飯に何を食ったのかもわかった。

さて……。

それがわかったとして……。

この兄ちゃんが、シブヤの交差点で、これから何をしようとしていたかが、わかるだろうか?





自動小銃のようなものが見つかれば、あるいはシブヤでテロを起こすつもりだったのかもしれない、と予測はつく。

しかしそのテロにしてもだ。規模がわからない。

兄ちゃんひとりで自爆テロ的に何かと戦おうとしたのか。

それとも、周りに仲間がいたのか。





あるいは持ち物が特になかったとしたら彼は善人だと決めていいだろうか。





彼は誰と一緒に歩いていた? どこへ向かって歩いていた? どこで誰と合流し、その先何をしようとしていただろうか?

そういったことは、何一つわからない。

解像度をいくらあげても、見えてこない真実というものがある。





局所をサンプリングして、そこだけ超拡大する手段だけでは、真実とやらは見えてこない。いや、見えているのは確かに一面の真実なのだけれど、ほんとうに街にとって、日本にとって、世の中にとって、何か重要なことが起こっていなかっただろうかと考えるとき、つまりは物事の優先順位を考えた時に、どこかを拡大して得られる真実が「欲しい真実じゃない」ということがある。





病(やまい)の理(ことわり)を突き詰めるためには、だから、複数の手段が必要となる。

拡大する手段。

俯瞰する手段。

統計をもちいて、全体の傾向を、天気予報のように予測していく頭脳。

何が起こったら次は何が起こるはずだ、と、筋道をつないでいく、思考。

これらが一体となって、真実とやらが見えてくる。正しい医学というのが見えてくる……。





正しいというのは罪な言葉だ。正しさを追い求めれば求めるほど、わかりづらくなる。だれか、敏腕大河ドラマプロデューサーみたいな人が、人体という複雑系を記述してくれないだろうか。

そうすれば、わかりづらい群像劇の、登場人物ひとりに過剰に着目することなく、全体の流れをおもしろおかしく知ることができるかもしれないではないか……。





正しい科学の知識を語るには、物語を伝える語り部のような力が必要なのではないか?

2019年7月5日金曜日

特定ほっこり食品

買ったお茶、コンビニのレジで、値段が妙に高いなと思ったら「体脂肪を減らすのを助ける」と書いてあった。まあそのまま買ってしまった。

人の体脂肪を減らすのを助ける分、お給金が上乗せされている、ということらしい。

このお茶を夜に飲むと、深夜料金がとられて余計に高くつく。

大晦日や正月、大型連休などのときも、きっとこのお茶は高い。

それが、「人に金を払う」ということだ。ぼくは大人なので、世界の秘密を知っている。




ぼくは最近だれかを助けているだろうか。

だれかの体脂肪を減らすくらいの役には立っているだろうか。

人の役に立たないとお給料がもらえない。逆にいえば、お給料がもらえているならば、誰かの役には立っていると信じたい。

少なくともこのお給料は自分の役には立っているけれど。そういう言葉遊びのレベルではなくて。

だれかのお役に立ちたい、と、思うことはいっぱいある。泉野明だって「お役に立ちたい」と言っていたではないか。






しかし今あらためていろいろ見回してみると、人間ってのはそこまで他人の役に立とう役に立とうと肩に力を入れていなくても、わりとやっていけるいきものなのではないかな、と思わなくもない。

個人ががんばってどうこうしたっていずれつぶれるだけだ。だからほかの動物よりはるかに育った脳を使って、一人一人がそこまでがんばらなくてもなんかうまくいくモデルとかシステムみたいなものを必死で、何世代もかけて、組み上げてきた。

だから今はあんまり本気を出さなくていいはずなのだ。

お役に立たなくたってやっていけるのだ。






けどなあ、手元のお茶を見ながら思う。

どうせこのお茶は体脂肪なんて減らしてくれない。

体脂肪をコントロールすること、血圧をコントロールすること、かぜをひかないこと、このあたりが、お茶ひとつでほんとうに達成できたらそれはなんらかの賞をあげなければならないほどの快挙である。

人体は群像劇なのだ。お茶ひとつで戦局が変われば苦労はない。

つまりこのお茶だって、お役に立たないんだ、ほんとうは。

でも「役に立ってみせますが?」みたいな顔をして、無知なくせにさ、ラベルにきちんと「体脂肪を減らす」なんて書いちゃって、おかげで多少高い値段でも人々に買ってもらえる。





あっいいなああーって思うのだ。

これくらい無責任にお金稼いでいいんだ、ぼくら人間は。

お茶にできて人にできないことがあるか。




……まあできないんだけどな。なぜって、お茶と違って、人間はけっこう誇りみたいなものを持っているからなのだ。

2019年7月4日木曜日

病理の話(340) 上皮細胞堺雅人説

すごい抽象的な話します。

人体ってけっこう入り組んだ洞窟みたいなもんだ。

外からやってくる有象無象のうち、人体に必要な酸素とか栄養は、洞窟の先で体内に取り込む。

そしていっしょにやってくる敵の類いは、洞窟の壁より内部には入れないようにがんばってはじきかえす。

入り組んではいるけど、とにかく、大事なのはこの、中に何を入れて何を入れないかっていう判断なの。

だからその端境にいる細胞は言ってみれば最前線にいる兵士みたいなもので。

最前線にいるやつらってのはいつでも元気に働いて、しっかり壁をつくっておかないといけないわけ。

そういう細胞を上皮と呼ぶ。



上皮細胞は最前線にいる。

で、最前線でしっかりしてないと、栄養は取り込めないし、敵ははじき返せないし、いろいろだめなことがおこるから、ほんとに、すごい、「しっかりしている」。

隣同士とがっちり手を繋いで、隙間ができないように働く。細胞結合性っていうんだけど、となりと手をつなぐ能力が高い。

そして、手をつなぐ能力が高いだけじゃなくて、そもそも、細胞がパンっと張っていて、みなぎっていて、強そう。

最前線で存在感出して働くために、上皮細胞内には、サイトケラチンっていう「梁」みたいなものが、縦横無尽に張り巡らされている。人呼んで細胞骨格という。まさに文字通り、細胞がふにゃふにゃにならないように支えてくれているんだ。





まあここまで書くと勘のよい人は気づくだろう、じゃあ最前線にいない細胞ってのはふにゃふにゃしてんのかよ、と。

その通りなのだ。

上皮と呼ばれる細胞以外。すなわち非上皮。雑だがそういう呼び方をする。非上皮細胞はどれもこれも、ふにゃふにゃだ。

サイトケラチンを持っていない……いや、ま、細胞骨格がまったくないわけじゃないんだけれど、最前線で体を張る役割じゃないから、そういうしっかりした梁を持っていない。

線維芽細胞とか。

脂肪細胞とか。

神経細胞とか。

炎症細胞とか……。

これらはふにゃふにゃしてて、形が不定形もしくは小さすぎて単なるマルになっている。上皮細胞のように、角張ったラグビー選手とかクレイ・フォーサイトみたいな形状をした細胞ではないのだ。





病理医は、免疫染色という技術で、サイトケラチンを特異的に光らせる(そこだけハイライトさせる)ことができる。

上皮細胞はサイトケラチンがビカッとハイライトされる。

非上皮細胞はサイトケラチンがないので、光らない。

こうしてぼくらは細胞を見分ける手段をまた一つ手に入れる。




上皮細胞がクレイ・フォーサイトみたいだと言ったのはたぶん世界でぼくが最初のはずですので覚えておいてください。

2019年7月3日水曜日

会社のゆるキャラがいたら会社くんと名乗る

あるコンテンツの良さをいかに語れるか、という訓練をしているだけで人生は終わってしまうと思う。

それくらい、何かをほめることは奥が深い。

いかに作り手に感謝や感動を届けるか。

いかに周囲の人たちに、自分がよいと思ったものを拡散できるか。

そして、いかに自分が心を動かされたときの脳内風景を余すところなく言語化できるか。

もはや最後の部分なんてのは、作り手とか周囲の人のことなんてこれっぽっちも考えていなくて、自分の心を自分なりにどう解釈するか、みたいな話であって、修行とか禅の世界に近いような気もする。

自己満足といわれたらそれまでだが、他己を満足させる前に自己を満足させておかないと、満足していない人から何を言われても満足できない、などと言われてしまうこともある。だから自己を満足させることは大事だ。

ほめることは奥が深い。なかなか満足のいくほめにはたどり着かない。

おそらく、けなすこともきっと、奥は深いのだろう。

しかし、人間、あれもこれもと手を出していてはやっぱり人生が終わってしまう。

どうせ終わってしまう人生で何を先に済ませようかと考えた時、やはり、ほめるもけなすも深める、みたいに二兎を追うのではなく、まずはほめるほうを極めにいくことが、有効なのではないか、と、ぼくなどは思うのである。





と、ここまで書いて、何かをほめるためには自分の心を解釈しなければならないんだな、と気づいた。心を解釈するというフレーズについて、ちょっと脱線しようと思う。

心とか感情というものの正体を、科学者は特定しきっていない。

なぜ人には心があるのか。感情というのは生存していく上でなぜ必要なのか。そもそも、意識とはなんなのか。わかっていないことが多い。心と感情と意識はそれぞれ同じようで違うものを指しているかもしれない。それすらもよくわからない。

物理学者の大栗先生は以前に本の中で、

「意識というものが生存戦略としてどう役に立っているかというと、おそらく、世界をすばやく認識して解釈しようと思ったときに、意識というモデルで脳内に世界を(自分なりの視点によって)再構築することが、認識速度や深度を深める上で有効だったのではないか」

という内容のことを言っていた。

五感の刺激に脊髄反射して行動する意識なき原始的生物たちに比べ、世界を脳内にモデル化して仮想現実内で自分がどう動くかを瞬時にシミュレートして行動方針を選んだほうが生存に有利。

このモデルこそが意識の正体である、というのだ。なんとも魅力的な仮説である。

脳が得た外界の情報を単なる信号強度として扱わずに、情報同士を関連付け、あの情報とこの情報を紐付けて、とやっていると、そこには相関図ができ、曼荼羅となる。さらにこの曼荼羅は群像劇として、さながら大河ドラマのようにリアルタイムで動いているのだ。そこにはストーリーがあり、俯瞰もクローズアップもできる。ときに情報を取捨選択できるし、良くも悪くも特定の情報に肩入れしたり、あるいは嫌悪して排除することも可能だ。

人間は、文章を千個読むよりも、映像を眺めるほうが、あらゆる物事のストーリーを早く簡潔に把握することができる。司馬遼太郎の本を必死で読むよりも、大河ドラマのダイジェストをぱっと見たほうが、幕末の雰囲気をすばやく把握することができる。





つまり心というのはそれ自身が「解釈によってできあがったもの」なのだ。そして、自分の心を解釈するというのはすなわち、自分が世界をどう解釈しているかを解釈する、という作業にほかならない。

何かをほめるというのはどういうことか?



Aというものがある。 →  ぼくはそれを見てうれしい気分になる。ほこらしい気分になる。高揚する。しみじみする。じんわりとする。打ち震える。刺激をされて反応する。楽しくなる。突き動かされる。なでまわされたような気持ちになる。掛け声が聞こえる。むしろ静かになる。海原が目に浮かぶ。鳥の気分になる。昔の学者が今ここにいて話をしてくれている。亡くなった祖母が現れてぼくにカップケーキを焼いてくれている。 


以上はそもそも、Aというものを見たぼくの脳が「解釈」して作成された意識だ。この意識をさらに解釈することで、ぼくは世界をどのように解釈しているのだろうかということが解釈されていく。なんとも熱いサイクルではないか。



こんなキワッキワの検証を、金もかけず、手間もかけず、自分の脳内だけで行うことができるのだから、ほめるということには無限の可能性がある。

何かをほめようとするときぼくらは自分の脳の解釈を解釈しようとしている。

2019年7月2日火曜日

病理の話(339) がん細胞の気持ちなんて誰にもわからない

がん細胞が何を考えて、どう動いているか、いつどこでどのように増えているか、みたいなことをしょっちゅう考えているので、気持ち悪がられる。



たとえば胃がん。

胃にがん細胞が発生することを考える。

まず、細胞1個が、がんになる。というか、1個のがん細胞が生まれる。

そこからがん細胞は分裂して、地道に仲間を増やしていく。

細胞1個だったがんが、目に見えるサイズ……たとえば5mmとか1cmという大きさまでに増えるまで、何年もかかるのだという。

そして、この前後で、最近の研究によると、胃の中にピロリ菌がいるときのほうが、ピロリ菌がいないときよりも、がん細胞が増えるスピードが若干早いのではないか、みたいな説がある。

ところがこれの検証はまあめちゃくちゃに難しい。だから決着がついていない。



たとえば、培養細胞をお皿で増やしてそれを観察したらがん細胞の増殖スピードはある程度わかるとは思うのだが、それはお皿で増えるときのがん細胞の挙動であって、胃で増えているわけではない。

がんだって人間だ(?)。環境に応じて、増えやすいなーと考えている(?)ときもあれば、なんか増えにくいなーといらだっている(?)ことだってある。

お皿は所詮お皿であって、胃の環境を完全には再現していない。胃にあるなんらかの物質ががん細胞を手助けしていたり、逆に邪魔していたりすることを再現できていない。

だからがん細胞の増殖スピードなんてものを調べるのはとても難しい。



人間の体の中で、がんがどれくらいの早さで大きくなるかを調べてみればいいじゃないか、と思うかもしれないが、それは結局のところ人体実験である。

5mmで見つけたがんが、2cmになるまで放っておくというのは倫理的に許されない。

もし、さまざまな理由で、たまたま5mmのがんが2cmになるまで治療ができない状態が達成されたとする。特殊な背景がある患者で、手術が絶対にできないとか、ほかにでかすぎる病気があるので小さい胃がんは放っておこうと判断されたとか。

そういうレアケースで、実際に、胃がんの大きくなるスピードが測定されたことはある。

けれどもその1回の研究が、胃がん全体の挙動を表しているとはいえない。

だって、ほかにでかすぎる病気をもっていない、普通の人に発生する胃がんが、その手術できない人のがんと同じとは限らないからだ。

でかすぎる病気とやらが全身になんらかのシグナルを発しており、それによって胃がんの挙動もコントロールされていたらどうなる?




というわけで医学者……というか科学者は、さまざまな理由で、がんが大きくなるスピードみたいなものを調べるときに非常に苦労する。

困った末に、統計学的な手法を使う。

多くのがん患者をみて、さまざまな統計を駆使することで、なんとなく、推定で、がんはこれくらいのスピードででかくなるんじゃないかなーと予想をたてる。そこまでしかできない。

おかげで科学者の統計学的な知識とか技術ばかりがめちゃくちゃに向上して、いまでは、統計学によってけっこうな量の推測がなされるようになった。

統計学以外にも推定の方法はいっぱいあるけどね。




でもぼくらはやっぱり、ときどき思うのだ。

がん細胞1個1個がどうやって動いて、どうやって増えているのか、もっとリアルに見てみたい。できればがん細胞の気持ちを聞いてみたい。お前らはいったいぜんたい、今のこの胃の環境だと、増えやすいと思っているのか、はたまた増えにくいと思っているのか。

犬のしゃべる言葉がわかる機械が開発できるっていうなら、がん細胞がしゃべる機械を開発してほしい。そして、がん細胞がいやがることばかりをする仕事につくのだ。どうだ、いやだろう、気持ち悪いだろう、増えづらいだろう、もうがんであることをやめたくなるだろう……とささやきながら反応を見るのだ……。




冒頭に書いた、

「がん細胞が何を考えて、どう動いているか、いつどこでどのように増えているか、みたいなことをしょっちゅう考えているので、気持ち悪がられる。」

という文章がどうも不完全だったようで、たぶん、ぼくが気持ち悪がられる理由はほかにもあるんだろうなあと、推測する。

2019年7月1日月曜日

2倍にすると何時間も煮込んだ放送禁止用語みたいになる

精神が着々と破壊されていっていた人のウェブ日記(ただし過去のもの)を読んでいたら、その人の文章が精神状態の悪化と反比例するようにどんどん研ぎ澄まされていくのがわかり、考え込んでしまった。

その人の日記は、精神が安定しているときには、いわゆる「共演者」的な人たちにずうっとお礼を言い続けている。サンキュー記録帳みたいになっていて、文章に色気があるからおもしろいけれど、でも、今のこの、お礼なんか言う余力もないときの文章に比べると、迫力みたいなものがひとつだけ足りない。

いや、それはね、当たり前ですよ、誰かにありがとうありがとうと書き続けているだけで相当おもしろい時点で、もう天賦の才能としか言いようがないんだけど、その人は別にありがとうと言い続けるのがうまいってだけの人じゃあない、もともと文章を書くステータスが図抜けて高いんだから、ありがとうから開放された状態でなんでも書いていいよとなったら、そのほうが圧倒的に炸裂できる。

これはもうしょうがないと思う。文章を書く人ってのはそうじゃないとおかしい。

我ながら残酷だとは思うんだけど、誰にもありがとうと言えないくらいに疲弊したその人が書く文章が一番読める。じっくりと一文一文を味わってしまう。法には問われないだろうが倫理的にはぼくのやっていることは暴力かいじめのたぐいなのかもしれない。

こんなこと書かないほうがいいんだろう。

でもそれくらいすごい文章だ。このほめだけは届けておかないといけない……

……届けるほどではないか、と思ってこのブログに書くことにしたのだけれども。





精神がずたぼろになった状態でその人が書く物は、うすい希死念慮をどうやって表現に変えるかという、芋類をいじっていたらタピオカになりましたというのと同じくらい素人にはどこをどうやったらそうなるのかがわからないシロモノになっている。ミシュランでべたぼめされる店のシェフってこういう調理をしてるんじゃないか。そういえばミシュランでべたぼめされた店でメシを食ったことがない。

最近読むものにはたいてい釈迦の苦悩みたいな概念がブレンドされている。どうもぼくがそういう文章に惹き付けられつつあるということなのだろう。生老病死、一切皆苦、意味の無い人生をどう考えていきましょう、みたいなことを、布教もせずに淡々と自分の中だけで考え続けている人が世の中のあちこちにいる。今までは「まあどっかにはいるだろう」くらいの気分でいたが、今は文章を読むことで、ああここにもいた、こっちにもいたぞと、一つ一つ確認するようなかんじだ。

いざ、自分が、生に対する執着との距離感がわからなくなって八方が塞がったときに、まだ天空と地べたが残っているよ、ほんとうは八方じゃなくて十六方くらい可能性はあるんだ、みたいな感じでスッと目の前に出てきてほしい。誰に出てきて欲しいかというと、それが仏教研究者だったり科学者だったり病人だったり大金持ちだったり、「○○○○」という言葉をどのタイミングで放り込んだら一番文章がきれいになるだろうかと毎日考え続けているような作家だったりする。




ところで最近、こういう話とは全く関係なく、日常にザナルカンド手前の祈り子みたいにはめこまれているさりげない(?)違和感だけを淡々と書き連ねたタイプの文章も好んで読んでいる。

生きるも死ぬも関係ない。

意味も意義も語らない。

違和感はエントロピーの局所的な低下によってもたらされるものだ。

今、自分で一瞬だけ、違和感というのはそこだけエントロピーが高い状態を言うのではないかとツッコんだのだが、それは経年劣化に対する哀愁みたいなもので、ぼくが今言及した違和感というのは、理由の付けようがない作為、調和の取れていない自己アピール、未必の故意みたいなところに生じてくるものだから、やっぱりそこだけエントロピーが回りより低くなっていて欲しい。





今日の日記の前段と後段、まるで関係ないことを書いたつもりでいたが、読み返してみると、完全に同じことを言っている。