2019年7月3日水曜日

会社のゆるキャラがいたら会社くんと名乗る

あるコンテンツの良さをいかに語れるか、という訓練をしているだけで人生は終わってしまうと思う。

それくらい、何かをほめることは奥が深い。

いかに作り手に感謝や感動を届けるか。

いかに周囲の人たちに、自分がよいと思ったものを拡散できるか。

そして、いかに自分が心を動かされたときの脳内風景を余すところなく言語化できるか。

もはや最後の部分なんてのは、作り手とか周囲の人のことなんてこれっぽっちも考えていなくて、自分の心を自分なりにどう解釈するか、みたいな話であって、修行とか禅の世界に近いような気もする。

自己満足といわれたらそれまでだが、他己を満足させる前に自己を満足させておかないと、満足していない人から何を言われても満足できない、などと言われてしまうこともある。だから自己を満足させることは大事だ。

ほめることは奥が深い。なかなか満足のいくほめにはたどり着かない。

おそらく、けなすこともきっと、奥は深いのだろう。

しかし、人間、あれもこれもと手を出していてはやっぱり人生が終わってしまう。

どうせ終わってしまう人生で何を先に済ませようかと考えた時、やはり、ほめるもけなすも深める、みたいに二兎を追うのではなく、まずはほめるほうを極めにいくことが、有効なのではないか、と、ぼくなどは思うのである。





と、ここまで書いて、何かをほめるためには自分の心を解釈しなければならないんだな、と気づいた。心を解釈するというフレーズについて、ちょっと脱線しようと思う。

心とか感情というものの正体を、科学者は特定しきっていない。

なぜ人には心があるのか。感情というのは生存していく上でなぜ必要なのか。そもそも、意識とはなんなのか。わかっていないことが多い。心と感情と意識はそれぞれ同じようで違うものを指しているかもしれない。それすらもよくわからない。

物理学者の大栗先生は以前に本の中で、

「意識というものが生存戦略としてどう役に立っているかというと、おそらく、世界をすばやく認識して解釈しようと思ったときに、意識というモデルで脳内に世界を(自分なりの視点によって)再構築することが、認識速度や深度を深める上で有効だったのではないか」

という内容のことを言っていた。

五感の刺激に脊髄反射して行動する意識なき原始的生物たちに比べ、世界を脳内にモデル化して仮想現実内で自分がどう動くかを瞬時にシミュレートして行動方針を選んだほうが生存に有利。

このモデルこそが意識の正体である、というのだ。なんとも魅力的な仮説である。

脳が得た外界の情報を単なる信号強度として扱わずに、情報同士を関連付け、あの情報とこの情報を紐付けて、とやっていると、そこには相関図ができ、曼荼羅となる。さらにこの曼荼羅は群像劇として、さながら大河ドラマのようにリアルタイムで動いているのだ。そこにはストーリーがあり、俯瞰もクローズアップもできる。ときに情報を取捨選択できるし、良くも悪くも特定の情報に肩入れしたり、あるいは嫌悪して排除することも可能だ。

人間は、文章を千個読むよりも、映像を眺めるほうが、あらゆる物事のストーリーを早く簡潔に把握することができる。司馬遼太郎の本を必死で読むよりも、大河ドラマのダイジェストをぱっと見たほうが、幕末の雰囲気をすばやく把握することができる。





つまり心というのはそれ自身が「解釈によってできあがったもの」なのだ。そして、自分の心を解釈するというのはすなわち、自分が世界をどう解釈しているかを解釈する、という作業にほかならない。

何かをほめるというのはどういうことか?



Aというものがある。 →  ぼくはそれを見てうれしい気分になる。ほこらしい気分になる。高揚する。しみじみする。じんわりとする。打ち震える。刺激をされて反応する。楽しくなる。突き動かされる。なでまわされたような気持ちになる。掛け声が聞こえる。むしろ静かになる。海原が目に浮かぶ。鳥の気分になる。昔の学者が今ここにいて話をしてくれている。亡くなった祖母が現れてぼくにカップケーキを焼いてくれている。 


以上はそもそも、Aというものを見たぼくの脳が「解釈」して作成された意識だ。この意識をさらに解釈することで、ぼくは世界をどのように解釈しているのだろうかということが解釈されていく。なんとも熱いサイクルではないか。



こんなキワッキワの検証を、金もかけず、手間もかけず、自分の脳内だけで行うことができるのだから、ほめるということには無限の可能性がある。

何かをほめようとするときぼくらは自分の脳の解釈を解釈しようとしている。