2019年7月26日金曜日

きっと宇宙だったのだと思う

はじめて誰かに会うと喜び勇んでいっぱいしゃべってしまう。

このクセはいい加減直さないといけないなと思った。

せっかくはじめて出会う人なのだから、いっぱい話を聞きたいのに、自分ばかりしゃべって終わってしまう。もったいなさすぎる。

気付くと弾幕のように言葉を周りに張り巡らせて、未知の状況に対して防御を張り、新たな関係がそれ以上進んでいかないように、前のめりで場を塗りつぶしている。身の上話をすることで現在の自分を覆い隠すという戦術。ミノウエスキー粒子。今、また余計なことを言いました。




普段、じっと黙って働いているのがよくないのだろうか? だからいざというときに堰を切ったようにしゃべってしまうのか?

たとえばツイッターでガス抜きをすれば、少しはましになるかな。

でも、ツイッターはガス抜きとしての作用は持っていなかった。仮に、人間には”しゃべりたい欲求”というのがあるとして、ツイートをいっぱいしたところでその欲求が十全に満たされるわけではなかったのである。

雑な言い方をすると、「それはそれ、これはこれ」というやつだ。

ツイートしても、しゃべりは減らなかった。

なお悪いことに、ツイッターは、はじめて会った人もはじめてな気がしない、という、人によってはメリットなのかもしれないがぼくにとっては副作用に近い効果を有していた。つまりツイッターであらかじめ距離感を縮めることで、「初対面だけどネットでは見たことがある」という相手に対し、最初から遠慮なくしゃべることができるようになってしまい、ぼくの弾幕癖はかえって悪化してしまったのである。たとえばカツセマサヒコとは初対面のファーストコンタクトからすでにののしりあったが、それが非常に楽だったし、社会人の出会い方ではないなとしみじみ反省した。




「しゃべる方のコミュ障」については、もう、治すのは無理かなと、半ばあきらめかけていた。でも、実は最近、ついに、ようやく、対策を見つけた。

それは、なんと、noteだった。

noteで複数のマガジンをはじめて、複数の人と同時に文通をしはじめたところ、ぼくはリアルにおける言葉数がぐっと減ったのである。

はじめは、noteなんて所詮ちょっとおしゃれなブログやんけ、くらいにしか思っていなかったが、noteで文通をはじめると、ぼくはてきめんにカタルシスを得るようになった。ツイッターのリプライではあまりうまく満たされなかったぼくの心のペットボトルに、ほどよく液体が注ぎ込まれるようになったのだ。しかも、半分、定期的に。

おかげで最近は、あまり人に話しかけなくても平気です、みたいなムードが自らの皮膚の直上129.3 μmくらいに浮遊しているのが、自分でわかる。カモクスキー粒子と命名しよう。





ぼくは最近、あまり人に会いたいと思わない。人と人とが出会って楽しそうに飲み食いしながら何かをしゃべって盛り上がっている場を、遠巻きに眺めながら、もろきゅうかなにかをかじっていたい。

あるいはどこか地の果てにある無人駅のホームにあたたかい恰好をして座って、通過していく電車の中にいる人々が談笑している様子を一瞬だけ眺めて二度と思い出せないでいたい。たまに電車が去っていくところを、スマホで写真にとってインスタにあげておしまいにしたい。




これって剣道部のときのぼくだな。20年ほど遠回りをして、ようやくかえってきたということか。

当時のぼくもまた、人に話しかけないで自分のペットボトルを満たすことができていた。

あのころも、今と似ていた。誰にも求められていないのに、ホームページビルダーで、せこせこといくつも企画を作り上げた。本の紹介。日記。海外に越していった女の子に頼んで文章を送ってもらったこともあった。

ぼくは戻ってきたのだ。自分がもっとも快適であった、あのころに。

となると、今後ぼくが何をやりたがるかも、だいたい予想はできる。

いいことと悪いこと。





ああーと声がでた。あのころ失った自分の立場と、失ったことをきっかけに手に入れた大きな関係、そしてそれをどこか他人事のように眺めて、間違いなく自分の居場所であるにも関わらず、最後まで自分はここにいてはいけないのではないかと遠慮がちだった、20代のころの自分の脳を、思い出した。

あのころ、粒子も何もなく、ただ、しーんと音のする静寂だけが広がっていた。