2019年7月9日火曜日

羊土社が怒りの表情でこっちを見ている

じっくりコトコト言葉を煮込んで、丁寧につくりあげたテキストというものは、テキスタイル(編み物)みたいなものだ。

やわらかく、包み込み、それでいてしっかりとしていて、多少の雨をはじいたり汗を吸ってくれたりする。

ゆったり流れる由無し事を、ていねいに時間で微分して、心の傾きみたいなものをちゃんと描く文章には、大きな包容力がある。

とてもまねができない、と思った。

だからたぶん言葉数でごまかしている。昨日も、今日も。



このブログを平日欠かさず更新しているのも同じことだろう。

長い時間をかけて少数のいいものを書けと言われたら、ぼくは逃げ出してしまうだろう。短時間で叩きつけるように、瞬間瞬間で少し雑なものをつくって積み上げていく。積分的なものの書き方しか、ぼくには残されていない。

しゃべる方のコミュ障といわれて、そこそこ長い年月が経った。学術講演では相変わらず、講談師のようにうねりながらしゃべりまくっていることが、学術を語るひとつのスタイルとしてフィットする。ぼくは、多弁な講演者として職務を果たす。ときおり疑問が通り過ぎていく。もうすこし言葉数を減らしたほうが、結果的に受け手の得る情報量は増えるのではないか? そうかもしれない。しかし無駄な動きをする道化が一番心に残るサーカスというのもあるだろう。




学術を遠ざかるごとにこのスタイルは通用しなくなる。




落語を聞いたり、一人芝居を見たりしてもみた。

そして自分と照らし合わせて思った。ぼくには手札がなさすぎる。リズムを自分で変えることがへたくそだ。





そこで幾人かにお願いをして、往復書簡形式の企画を一気に4つスタートさせた。独白のブログとは違ったものができていけばいいな、と思う。ほんとうのところ、書き手というより読み手として楽しみな気持ちが強い。その意味では編集者の気分を少しだけ、お試し的に味わわせてもらっている。

けれどもぼくはまだもう少し書いてみたい。

ぼくが昨日まで書けなかったものを、積分の形式で、もう少し積み上げていきたい。

ぼくはつまりインテグラル記号が突き刺さったまま歩いて行くことに決めたのだと思う。

そうでなければ、教科書の締め切りがまだもう1つ残っているこの時期に、新しい企画を4つもはじめようとは、思うまい。