2019年7月1日月曜日

2倍にすると何時間も煮込んだ放送禁止用語みたいになる

精神が着々と破壊されていっていた人のウェブ日記(ただし過去のもの)を読んでいたら、その人の文章が精神状態の悪化と反比例するようにどんどん研ぎ澄まされていくのがわかり、考え込んでしまった。

その人の日記は、精神が安定しているときには、いわゆる「共演者」的な人たちにずうっとお礼を言い続けている。サンキュー記録帳みたいになっていて、文章に色気があるからおもしろいけれど、でも、今のこの、お礼なんか言う余力もないときの文章に比べると、迫力みたいなものがひとつだけ足りない。

いや、それはね、当たり前ですよ、誰かにありがとうありがとうと書き続けているだけで相当おもしろい時点で、もう天賦の才能としか言いようがないんだけど、その人は別にありがとうと言い続けるのがうまいってだけの人じゃあない、もともと文章を書くステータスが図抜けて高いんだから、ありがとうから開放された状態でなんでも書いていいよとなったら、そのほうが圧倒的に炸裂できる。

これはもうしょうがないと思う。文章を書く人ってのはそうじゃないとおかしい。

我ながら残酷だとは思うんだけど、誰にもありがとうと言えないくらいに疲弊したその人が書く文章が一番読める。じっくりと一文一文を味わってしまう。法には問われないだろうが倫理的にはぼくのやっていることは暴力かいじめのたぐいなのかもしれない。

こんなこと書かないほうがいいんだろう。

でもそれくらいすごい文章だ。このほめだけは届けておかないといけない……

……届けるほどではないか、と思ってこのブログに書くことにしたのだけれども。





精神がずたぼろになった状態でその人が書く物は、うすい希死念慮をどうやって表現に変えるかという、芋類をいじっていたらタピオカになりましたというのと同じくらい素人にはどこをどうやったらそうなるのかがわからないシロモノになっている。ミシュランでべたぼめされる店のシェフってこういう調理をしてるんじゃないか。そういえばミシュランでべたぼめされた店でメシを食ったことがない。

最近読むものにはたいてい釈迦の苦悩みたいな概念がブレンドされている。どうもぼくがそういう文章に惹き付けられつつあるということなのだろう。生老病死、一切皆苦、意味の無い人生をどう考えていきましょう、みたいなことを、布教もせずに淡々と自分の中だけで考え続けている人が世の中のあちこちにいる。今までは「まあどっかにはいるだろう」くらいの気分でいたが、今は文章を読むことで、ああここにもいた、こっちにもいたぞと、一つ一つ確認するようなかんじだ。

いざ、自分が、生に対する執着との距離感がわからなくなって八方が塞がったときに、まだ天空と地べたが残っているよ、ほんとうは八方じゃなくて十六方くらい可能性はあるんだ、みたいな感じでスッと目の前に出てきてほしい。誰に出てきて欲しいかというと、それが仏教研究者だったり科学者だったり病人だったり大金持ちだったり、「○○○○」という言葉をどのタイミングで放り込んだら一番文章がきれいになるだろうかと毎日考え続けているような作家だったりする。




ところで最近、こういう話とは全く関係なく、日常にザナルカンド手前の祈り子みたいにはめこまれているさりげない(?)違和感だけを淡々と書き連ねたタイプの文章も好んで読んでいる。

生きるも死ぬも関係ない。

意味も意義も語らない。

違和感はエントロピーの局所的な低下によってもたらされるものだ。

今、自分で一瞬だけ、違和感というのはそこだけエントロピーが高い状態を言うのではないかとツッコんだのだが、それは経年劣化に対する哀愁みたいなもので、ぼくが今言及した違和感というのは、理由の付けようがない作為、調和の取れていない自己アピール、未必の故意みたいなところに生じてくるものだから、やっぱりそこだけエントロピーが回りより低くなっていて欲しい。





今日の日記の前段と後段、まるで関係ないことを書いたつもりでいたが、読み返してみると、完全に同じことを言っている。