2021年7月30日金曜日

ごましお

「東京で講習会があるから金曜日は休みます」はわりと簡単に言い出せる。でも、「金曜日にオンデマンドの講習会を受けたいので仕事を休みます」は言いづらい。

テレワーク、テレワークというけれど、テレの時点でワーク感はやはり薄れるのであった。医療系の仕事というのは現場にいてなんぼ。いくら脳だけで働いていると言っても、体が見えない職員は医療者として人数にカウントされないのである。これは理屈じゃない、感覚の問題だ。一度でいいから、土日にいっぱい動画で勉強したので月曜日は代休、をやってみたい。いつか部下が申告してきたら「いいよ!」と言ってあげたいが、さて、当科に部下はいつ入ってくるのだろう。



札幌市内の気温が21年ぶりに35度を上回ったという。一日中職場にいるから実感がわかない……はずが、デスクの横にある窓から輻射熱で伝わってくる外気温がやばいのでこの異常さはよくわかる。ぼくのデスクだけ検査室の中で2度ほど気温が高い気もする。汗だくに……ならない自分に老いを感じる。昔はこの暑さで働いていたら本当にびっしょびしょになったものだ。キーボードだって汗まみれだったはず。ぼくの職歴は20年には達していないから、今年の夏は働き始めて一番暑い夏のはずなのに、過去にないくらいサラサラしている(サラサラは言い過ぎ)。こまめに水分を取りトイレにも行っていて、水代謝は悪くないはずだが、汗の出が少しおとろえた。そんなことを黙々と考える。



昨年の4月以降、飲み会をしていない。おそらくもうこれで「うちの職場の飲み会」は滅亡するだろうという予感がある。似たようなことは、大学のサークル・部活などにも起こっているだろう。大学生にとって「2年間が空く」というのはほとんど世代が入れ替わってしまうということだ。先輩方の飲み方は、新人達が成人するころにはもう継承されていないに違いない。「飲み会」が死語になる。

当院の検査室の職員もいまや大半がぼくより若い。知らない顔はいないが、名前を覚えていないスタッフは何人かいる。ネットワークの切断がくり返されていく。想像したくないことだが、おそらく、うちの検査室の中には「ツイッターでしかぼくを知らない人」が何人かいる。つながっているようでつながっていない。表層のごく一部分でしかつながっていない。それが今のデフォルトなんだと思うし、振り返ってみると、飲み会ごときで検査室の全員と繋がった気になれていたこと自体がおかしかったのだと思う。思い出す限りでぼくは歴代の検査室のスタッフたちと年に何度も杯を酌み交わしてきたが、結局は何も見ていなかったし何も知らないままであった。なあんだ、べつに、時代がどうとか、ソーシャルディスタンシングがどうとか、IoTがどうとか言わなくても、ぼくらは元々断線していたということ。うん、まあ、そうなんだろうなあと言うことをコツコツと考える。



職場に顔を出さなければ働いていることにならないというのは、たぶん、「顔を見ないといよいよぼくらは断絶してしまうから」という古式の恐怖みたいなものが、ぼくら中年の頭にこびりついているからなのだろう。汗腺が減るようにしきたりも摩耗していく。だんだん、どうでもよくなっていく。熱力学は現象を不可逆であると言う。少しずつ多様性が高まって、秩序がノイズに溶けていく。ごましおにコショウを混ぜて振ったら、もう元のごましおには戻せない。

2021年7月29日木曜日

病理の話(560) 細胞の中身をどこまで見られるか

中学校・高校の生物の時間に、大半の人びとは細胞のことをちょっとだけ習う。細胞にどんな部品が含まれているのか、あなたは覚えているだろうか?


たいていの人が「あー、あったあった」と返事してくれるのは、


・核

・ミトコンドリア


のふたつではないかと思う。ちまたのイラストを探しても、この2つが描かれていることが圧倒的に多い。




ちなみに、「いらすとや」だとこんな感じ。


真ん中のタマゴの黄身みたいなのが「核」だろう。そしてまわりに点在している小器官のうち、楕円形のものがミトコンドリアをイメージしていると思われる。



実際の細胞においては、核とミトコンドリアはサイズがだいぶ異なる。核は光学顕微鏡だとまるでイラストのように「あっ、この丸いのが核だな」と判断することができるが、ミトコンドリアは病理医が本気で探しても見えない、つまりイラストよりはるかに小さい。クリームパン的な形状のものは電子顕微鏡を使わないとわからない。世にあるイラストは(教科書に用いられるようなものも含めて)強調がかかっている。

ただし、病理医がまったくミトコンドリアの存在を見つけることができないわけではない。「なんとなくこの細胞、ミトコンドリアが多いな……」というのを、間接的に見出すことはできる。細胞の色を見ればいい。


ミトコンドリアが豊富に含まれた細胞は、H&E染色という病理医がいつも使う染色を用いると、細胞質(細胞のボディの部分)のピンク色が濃くなる。「濃い薄いかよww」と笑われそうだが本当だ。肝細胞の細胞質は「好酸性顆粒状」と言って、ピンクが濃くて細かくつぶつぶとしていて、これはミトコンドリアの量が多いことを反映している。


ミトコンドリアというのはその名前が超絶有名なわりに何をしているのかあまり知られていないようなのだけれど、細胞のエネルギーを生み出す工場とされている。ミトコンドリアが多いというのはエネルギッシュだと言う事だ。肝細胞はいっぱい仕事をする細胞なので、エネルギーをめちゃくちゃ食うのである。




ただ、ここで難しいのが、細胞質が濃いピンクになる条件はミトコンドリアの量だけではないということだ。細胞内に大量の「骨組み」があると濃いピンクになるし、細胞内に特殊な粘液が詰まっていてもピンク色が濃くなることはある。「濃いピンク」という形容だけでは病理医の認識には追いつかない。ここはもっと言語化できる。




たとえて言うならば……。


渋谷のスクランブル交差点を上から眺めてみたら今日は妙に肌色ばかりが見えたとする、さあ、あなたはここで何を想像する?


渋谷駅前でお坊さんのイベントをやっていて剃髪した方々がいっせいに交差点を渡ったのかもしれない。


都知事が新種の日傘を発表し、肌色の楕円形のものをみんなが頭に乗せていたのかもしれない。


広告代理店がイベントで大量の半裸のモデルを渋谷に解き放って日焼け止めのCMを撮っているのかもしれない。


このあたり、雑にいうと、ぜんぶ、「上から見たらやけに肌色が多かった」になるだろう。でも、実際に渋谷のスタバから交差点を眺めた人は、お坊さんの頭と日傘とモデルの肌とを見間違えることはないと思う。なぜかというとそこには、「肌色が多い」以外にも形容できるさまざまなファクターがきちんと存在しているからだ。


それと一緒で、病理医も、細胞を見たときに「あーなんかピンクが濃いねー」以外にもじつはいっぱいいっぱい他のファクターを観察している。「細胞質がぼてっと分厚い印象で、細胞の輪郭がガキッガキッとしていて、核が細胞質に対してあまり大きくなくて、周囲との結合性がしっかりしているからこれは『細胞骨格タンパクが多いタイプの濃いピンク』で扁平上皮方向への分化を表す所見だな……」みたいなことを、言語化するともなくしないともない、わりと幽玄の世界みたいなかんじで診断をしているものなのだ。見てるっちゃー見てる。見てないっちゃー見てない……。

2021年7月28日水曜日

脳だけが石を積む

20代前半に聴いていた曲を、いろいろ掘り返して聴いている。PCに取り込んでいなかったCDがけっこうあることに気づいたからだ。


仕事の空き時間に、(この職場に入ったときからずっとデスクの横に置いてある)段ボール箱からCDを取り出して、1枚ずつ取り込んで、片っ端から聴いている。物持ちがよい自分を褒める。不思議なことに名曲揃いだ、まあそれはそうだろう、「ジャケット懐かしいなあ」と思うものから順番に聴いているのだからそういうことになる。1/3くらいのCDケースにヒビが入っている。日々が入っている。


懐かしい曲を聴いたからと言って、特になんらかの風景が蘇ってくるとか人の顔が思い出されるとか苦み走った記憶が引っ張りだされるなどということは意外とない。ただ、昔の免許証を見返したときのように、こちらを向いて無表情で写真に収まっている若い頃のぼくと目が合うようで合わない感覚だけが、もやりと訪れる。


今振り返ると、当時の曲はだいたい歌詞がスカスカである。婉曲表現がない。感情がひとつしか書かれていない。サビでくり返される言葉にほぼ意味がない。現代のボカロP全盛時代の曲に比べると、文字数が少ないのかもしれないが、そういうのは「解析班」にまかせるとして、「編曲が神で、メロディの耳当たりの良さも奇跡だが、歌詞は学校の日常会話レベル」みたいな曲をぼくは好んでよく聴いていたようである。


……と、軽く平成をdisりながら書いていると思うところがあり、あらためて歌詞カードを引っ張り出して読んでみた。すると、そこに書かれていることは、日常会話というよりも、どちらかというと、ぼくにとっての「常識」だったり、「前提」になってしまっているものなのであった。「くだらない歌詞だなあ」ではなく、「聴きすぎてしみ込みきってしまった歌詞だなあ」。この微妙にずれたピントを修正しているうちに、じんわり、「音楽の力というやつなのかもなあ」という気持ちが湧いてくる。


ぼくは、好きな曲を通じて、「今となっては当たり前のこと」を何度も何度も聴いていた。教室で大人に語られていたら二度目で飽きていただろう、それは道徳の時間に教科書で読んでもおかしくないくらいの言葉たちだった。再放送されたバラエティ番組やドラマに、初回ほどの熱量でのめり込むことはできないように、同じ言葉をくり返し摂取することもまたぼくにとっては難しかった。でも、音楽だけは、「当たり前になるまで」何度も何度もぼくの脳に入り込んできたのである。


……今、「音楽だけは」と書いたが、ほかにもあった。ぼくは同じマンガを何度も読む子どもだったし、アニメをビデオに録画して、同じ回を何度も何度も見る子どもだった。音楽、マンガ、アニメ、これらのコンテンツに乗っかった言葉をぼくは幾度も幾度も、油絵を塗り重ねて封じ込めるかのように取り入れた。くり返しとは積み重ねであった。自分を縦に割って断層を観察すると、地表から降りていっただいぶ深いところに、当時の音楽とマンガとアニメに込められていたコンテキストの数々が、化石のようになってぼくを根底から支えていた。




令和の音楽のクオリティは昔よりもはるかに上がっていて、聞き比べると技術の差に呆然とする。その一方で、歌われている歌詞の数々は、昔よりはやや複雑になっているけれども、あいかわらず「なんだ、ペラいなあ」などと思うものが多いが、それはぼくが20年前に聴いていたものとたぶん一緒なのである。つまりは今の10代・20代も、無数にある曲のどれかをくり返し自分の中に積み重ねていって芯にしている。若い人たちの気持ちはわからないので勝手にそう予想しているだけだけれども、たぶん、絶対にいる。歌詞はペラいのではなく「積み重ねやすい形状をしている」だけだろう。


ただしぼくのときと比べてひとつ違うことがあるとしたら、それは、「あの歌詞がぼくを作ってくれたんだ」と20年後に語っても、その曲を知らない人がとても多いのではないかということだ。「流行りの音楽」というのが存在しにくい時代である。ランキングトップの音楽を知っている人が10%もいない。すばらしい音楽たちが世の隅々にまで行き渡ることはおそらくもう二度とない。それはとてもさみしいことだと思う。ぼくが「午前3時のゆらゆら帝国だよな」とか「Number Girlで焦燥したよな」と言って「そうだそうだ」と言ってくれる人がいるというのは、おそらくぼくの世代までしか通じない過去の僥倖なのだろう。エントロピーの増大し続ける世界で、末端のぼくらをつないでくれるはずのSNSは、もはや、カオスエッジの一端に自由落下していくように世界の混沌を深めるだけのツールになりつつある。くり返し、積み重ねを誰かと共有することができなくなる。それはなんだか三途の川のようだなと思ってしまった。

2021年7月27日火曜日

病理の話(559) 舌禍について

今日の記事は2014年頃にぼくが書いたものの転載です。一部、今風に表現をマイルドにしました。タイトルも微調整しておきます。



タイトル: 「戦う○○」を自称する人の戦いとは、舌禍によるいざこざである。




医療従事者の方に申し上げますと、TwitterやFacebookなどで仕事でのエピソードを書くというのは、相当な「情報発信のプロフェッショナル」であっても、ま、やめたほうがいいです。

  

今から架空の症例で、具体的に「どうだめなのか」を考えてみます。

いいですか?架空の症例ですからね。

 


Facebookに投稿された架空エピソード: 

「(初期研修医、女性、26歳): 池袋から少しはずれたところにある中規模病院で消化器内科のローテーション中ですが、病棟で患者にセクハラをうけました。回診の前に顔を見に行ったのがあだになりました。おかげんいかがですかって横に立ったらこっちの加減はいいなーって言われながらおしりをさわられたんですよ。そのことを指導医に相談したら、『まあーぼくも君のおしりさわりたいときあるからしょうがないよねーwww』って言われて。ひどい。こっちのほうがよっぽどセクハラだった。あの患者は末期の大腸癌で本人には告知してないけど絶食管理でもう1ヶ月経つし、アルブミンもじわじわ減っててどうせあと2,3週間くらいで死ぬだろうからまあ許してやるけど、この指導医にはまだ1年半くらい一緒にいなきゃいけないのに許せない」


こんなこと、SNSに書いたらだめです。

個人情報漏洩しまくってるし。自分の職場の恥をつらつら書いてるのもどうかと思います。次から次へと「本人を特定できそうな内容」が盛り込まれてしまっているのも問題。書いた本人にも不利益が及ぶでしょうし、患者さんやその家族がこれ読んだらいったいどんな気持ちになるか、そしてどのようにクレームをつけてくるか、わかったものではありません。

 

だめというのは、「モラル」という意味でもありますが、何より「自衛」のためでもあります。 

相手の方が悪くて自分は正しいとか、そういうのはあまり関係がありません。余計なトラブルを招く危険があります。

 

 

では次に、今の「架空のエピソード」を、がんがんそぎ落として、「ツイッターでよく見る投稿」っぽくしてみます。くり返しますが、これは架空のものです。

 

 

ツイート:(2013年5月22日夜23時33分)

「死にかけじいさんの性欲はともかく上司に視姦されるのきつい あと1年つら」


このツイートをした人のプロフィール欄には、このようなことが書いてあったとします。

「スーパーローテー徒。夢はgeneralist。」

 

ツイートを100個くらいさかのぼると、こんなツイートが書いてあったとします。

「Nsって年下でも社会人経験は長いから言い返せない」

 

こんなのもありました。

「0時過ぎのでんしゃくさい」

 

 

 

Facebookの投稿にくらべたらずいぶんと情報がボケた? いえ、そうでもありません。 

本人はいろいろマスクしたつもりでも、なんか、伝わってくるものです。 


・さかのぼったツイートにNsって書いてあるから医療関係者だろうなってわかる

・Nsとの関係で「年齢と社会人経験が逆転する」のだから、ツイ主は比較的若くてたぶん研修医である

・「スーパーローテート」というのは初期研修や後期研修のシステムのひとつである。この言葉をあえて使う(しかも「徒」という言葉でちょっとだけちゃかしてる)タイプ。「夢はgeneralist」ということは、将来は総合内科的な勉強をしようとしてるのかも。

・都内在住かも(終電が0時より後) 

・死にかけじいさんの性欲: 病棟でのセクハラを連想

・指導医にもなんかセクハラされてる

 

ほらね。ぼんやりと全体像がわかってしまいますよね。まして、関係者が見たら、ほぼわかってしまうのではないでしょうか。たとえば、セクハラをした上司が見たら……

「あれ……これ、まさかあいつ?」 

くらいの想像はできるでしょう。



あなたのそのツイート、隠せてません。


 

上司が気づくというだけでも十分に気まずいですが、「患者や、その家族」が自分のことだと気づいてしまった場合には、状況はさらに厳しくなります。

さらに言えば、

「全く関係が無い他人が、『自分のことを書かれたと思い込んで・被害妄想で・あるいは狙って』情報発信者を攻めてくる」ケースだってあります。

これが最悪です。



「わたしの父は都内の病院に入院して余命幾ばくもありませんが、担当が女性研修医だと言っていました。その上には男性の指導医がいるようです。どう考えてもうちの父の話ですよね!名誉毀損です!」 

こんなリプライが来ても全くおかしくないと思ってください。

 


このリプライに対しては釈明するのが非常に難しいです。まず、怒っている人が本当に患者やその関係者なのかどうかを確かめるすべがない。現実に「これあなたですか?」とたずねて、合っていても違っていても大変なことが起こるというのはわかりますよね。リプライを寄越した相手の身分を確認する方法がありません。そして、陰口自体は「あなたの真実」ではあるので、根本的な解決のしようがありません。

 

まして、医療関係者は、トラブルの標的にされています。あなたを困らせようと思って、赤の他人が「なんでこんなツイートするんだ」と炎上させにかかってくるかもしれません。

 

 

くり返しますが、相手の方が悪くて自分は正しいとか、そういうのはあまり関係がありません。

ストレス発散目的だろうが、身内トークであろうが、多少の匿名化を行っていようが、医療関係のエピソードをSNSに垂れ流すというのは、防御が甘い行為です。さらに、まあこれは私の価値観ですが、率直に言って下品だと思います。

  

やめましょう。

学校でも、こういう話、ちゃんと教えましょう。

読者の方にも、若手や学生を指導してらっしゃる方、いらっしゃいますよね。「職場でのできごとはSNSに書かない、ボカしてもだめ」というネットリテラシーをきちんと普及させましょう。

 

 

 

最後に。

今日のお話では、しつこいくらいに「架空のエピソードです」と書きました。

でも、世の中には、「架空って書いたってだめだ、これは本当にあった出来事だろう。おれは当人だから知ってる。この話のモデルは俺だろう!」って絡んでくる人がいます。本当にいます。

医療エピソードを題材にするというのはそれくらいナイーブなことで、入念な気配りがなければ、やるべきではありません。


SNSでは、ダジャレと推しトークと天気の話、それくらいにしておいたほうが安心・安全です。

2021年7月26日月曜日

推しの構造でがんばる

「弱い者いじめ」はだめだ! と言いながら「悪い者いじめ」をしている人がいっぱいいる。こいつは悪いことをしたのだから、こいつは○○に対して責任があるのだから、直すべきところは直さないとみんなに迷惑がかかるのだから、といった、「悪い者にはいじめられてもしかたがないだけの理由がある」という理論、これがいつしか拡張・敷衍されることで、弱い者いじめが発生しているように思う。「だってこいつが悪いんだ」を、許される言い訳にして良いのか?

弱い者をいじめるような発言者はミュートする。そして、「悪い者いじめをよかれとおもってやっている人」をもミュートする。その両者はだいたい同じことだ。世の大抵の人は、弱い者いじめも、悪い者いじめも、そんなに頻繁にはやっていないが、たまに、いじめという行動によって報酬回路が作動するようになってしまった人というのがいて、そういう人のツイートを遡るとほとんど全部政治や政策、環境や理念、ニュース、ウェブ記事、自分と立場の違う何モノかへの「いじめ」で埋め尽くされている。目に付くたびにミュートしていく。いつしかぼくのタイムラインには、好きな本や音楽、風景、美術などを他人にひたすらおすすめしていくアカウントばかりが表示されるようになった。「いじめ」の対局にあるのは「推し」なのだろう。



「あの人は社会悪と戦っていて、とてもがんばっているから、多少行きすぎた言い方があっても許してあげてください」と言われたことがある。でもぼくは、弱い者いじめをする人をよく観察してみて「すごくがんばっているなあ……」と感じたことがある。畑を耕すクワでそのまま隣人の家の壁を耕した人を見て「がんばっているから許す」というのはおかしい。努力している、がんばっている、だから多少過激な部分には目をつぶれ、という意見はピント外れだ。がんばって目と脳を研いで、自分の行きすぎをコントロールする、それこそが成熟した人間が本当に「がんばる」ということだ。



「あのアカウントはものすごく多くの人に悪影響を及ぼしている、だから自分の手を汚してでもぶっ潰さないとだめだ!」……そこまでの気概があるのならば、その迷惑なアカウントより圧倒的に強い発信力を持つべく、それこそ、どれだけ自分の手を汚してでも自分の強化に精魂を込めるべきである。「自分には発信力なんて望むべくもない、だからせめて、悪い人を叩くことで社会に貢献したい」というのはへりくつだ。発信する力がないのなら叩く力だってどのみち大したことはないし、「弱い者が強い者を叩く」という構造を許容している時点でその人は「いじめ」の相似形をひとつ世に残しているに過ぎない。



「いじめ」という構造は必要悪ではなく純粋悪に近い。結果的にいじめの構図になってしまった、みたいな、未必の故意のいじめであってもうなだれるくらいはしたほうがいいとすらぼくは考えている。



完璧な人間になんてなれない、誰にも迷惑をかけずに生ききることも難しい、それでも、みずからいじめの構造を許容することだけはしたくない。誰かを叩くことが社会をただ良くすることなんてない。かつて、「どこかの誰かがやらなければいけないことだ、きれいごとはともかく悪い者は誰かが叩き続けなければならない」と言い放った人がいた、いや、今もいる。そういう人の周りには暴力に引かれた屈強なインターネット戦士達が集まって天下一いじめ会を開催している。「悪い者を叩くことで悪い者の数を減らせる」というのは「ウイルス性のかぜに抗生物質を用いる」のと同じで有効性を示すエビデンスがない。非劣勢すら証明できないだろう。叩くことが世のためになる、と考える人は、もうそうしてずっと「いじめの構造」を世に生み出し続けている。



ぼくはいつまでも「いじめを生み出す正義」に抗う。「推しの構造」でいじめの総数をわずかずつでも世の中から減らし、結果的に「悪い者たちのツイート数」を「そう悪くないふつうのツイート数」が上回るように手を汚し続ける。そうすることが「がんばる」ということなのだと思う。なぜなら叩く方が脳を使わない。なぜなら推す方がエネルギーを消費する。なぜなら悪貨を良貨で駆逐することが一番難しくてしびれるほど手間がかかる。だからこそ「がんばる」必要があるのだ。

2021年7月21日水曜日

病理の話(558) ウォルターを探せるか

むかしから、「○○氏病」のように人の名前が付けられている病気がある。英語では○○'s diseaseなどと呼ぶ。(※ただし、近年は「氏」や「's」を使わない表記にだんだん改められているようだが。)


たとえばクローン病(Crohn病)という病気があるが、これは大多数の人が想像する「クローン(羊のドリーとかのやつ)」とは無関係で、Crohnさんという学者の名前から名付けられている。


Wikipediaによると……



Burrill Bernard Crohn, an American gastroenterologist at New York City's Mount Sinai Hospital, described fourteen cases in 1932, and submitted them to the American Medical Association under the rubric of "Terminal ileitis: A new clinical entity". 

ブリル・バーナード・クローンさん、ニューヨークのマウントサイナイ病院に勤める消化器内科医は、1932年に、14例の病気を解析して「回腸末端炎:あたらしい病気の概念!」という論文を米国医師会 AMAの雑誌に載っけた!



とのこと。

今のところを思わず流し読みしてしまった人のために、もう少しきちんと強調して書き直すので今度はしっかり読んで欲しい。




Burrill Bernard Crohn, an American gastroenterologist at New York City's Mount Sinai Hospital, described fourteen cases in 1932, and submitted them to the American Medical Association under the rubric of "Terminal ileitis: A new clinical entity". 

ブリル・バーナード・クローンさん、ニューヨークのマウントサイナイ病院に勤める消化器内科医は、1932年に、14例の病気をまとめて「回腸末端炎:あたらしい病気の概念!」という論文を書いて

米国医師会 AMAの

雑誌に

載っけた!


最後はなんだか懐かしの侍魂みたいになってしまったが(知らない人はほうっておきます)、この中でぼくがとりわけ大事だと思っている部分はどこかというと、「載っけた!」……ではなくて、「14例」のところである。

後世に自分の名前が残るほどの偉大な発見。しかし、その端緒となった論文で語られているのが、「14例」。たった14例!

ちなみに今のぼくはCrohn病は1年で数十例以上診断している。




ではこのCrohnさんは14例の珍しい症例を見つけて論文を書いたから偉いのかというと、もちろん、そういうことではないのだ。

「今まで世の中の多くの人が『仲間だ』と気づいていなかった、ひとまとまりにできるという概念自体がなかった病気を、それによく似た症状を示す数千例の患者の中からピックアップしてまとめたから偉い」

のである。14例というのは分数でいうところの分子でしかない。分母に数千(あるいは数万)という診療が隠れているから偉いのだ。


これがどれくらい難しいことかというと……。

絵本の「ウォーリーを探せ!」には、じつはウォーリー以外にもウォルターという人間が隠れている。しかも、このウォルターは「5つ子」であり、ひとつの画面に全く同じ顔をした5人が必ず紛れ込んでいる。ところが、絵本のどこにもウォルターの存在は書かれていないし、それが5人いるということも明かされていない。公式のホームページなどにも一切記載がない。つまり、読者の中から、「この中にはウォーリー以外にも、同じ顔をしたやつが5人ずつ紛れているな」と気づく人が出るまで、公式はダンマリを決め込んでいるのだ。あなたはこのことをご存じだったろうか?

→ はい
  いいえ

「はい」を選んだ人はおおうそつきである、なぜならウォルターの話は今ぼくが作ったウソだからだ。しかし、新しい病気を探してきてひとまとまりに記述するというのは、つまりはこういうことなのである。「誰もそこに一つのグループが見いだせるなんてわかっていない状況から、自分の眼と勘だけで、仲間を見つけ出さなければいけない」。




エルドハイム・チェスター病、キャッスルマン病、川崎病、木村病、菊地病、Sister Mary Joseph nodule……。これらの名前のついた病気すべてが、必ずしも「最初にまとめて報告した人」ではないというのがむずかしいところなのだが(あとからシレッと出てきて名前だけ付けた病気というのもあったりする)、基本的に、人名のついている病気というのは、医学史のどこかで誰かすごい人が「ウォルターを探せ!」をやった結果であったりする。

2021年7月20日火曜日

独創性の甲斐

(息子は)スマホに必要性を感じていないのよ、と別れた妻が教えてくれた。Spotifyでも入れて音楽聴こうとか思わないのかな、と聞いたら「ぜんぜん興味なさそう」。

とはいえ、iPadは持っているからインターネットから完全に離れているわけではない。彼はいわゆるデジタルネイティブだから、ぼくの若い頃よりネットリテラシーもインターフェースとの親和性も高い。それでも? だからこそ? 本人の中では、スマホでなければできないことというのが、特にないのだろう。パソコンとiPadさえあればなんとかなってしまう。

あらためて考えてみると、今のぼくにとっても、スマホはなんの役に立っているんだろうと思う。

携帯性が高いPC、あるいは、何千冊も入った文庫本。Kindleは役に立つが、スマホの画面はそろそろ小さくてしんどくなってきた。Kindle readerを別に買いたい。アプリ? ぜんぜん使っていない。他人との連絡はほとんどPC経由だ。コミュニケーションの大半がデスクで完結している。知人がLINEスタンプを出すたびに購入しているけれど送る相手がいない。

強いて言うならば、親兄弟も含めた家族が「いつでもぼくを呼び出せる安心」というのがスマホの最大の利点なのだ。ただしこれも本気でiPadに移行してしまえば特に困らないかもしれない。旅行に行かず外食もせず、テイクアウトを写真に撮るわけでもない今、スマホは一日中充電器に挿しっぱなしで、手に持つ機会も減っている。

ぼくは少しずつ脱スマホしつつあるのかもしれない。息子はぼくより早く気づいただけのことなのだ。きっと、それでいいのだと思う。カメラがあり、本があり、PCがあるのだから。


それでもぼくはきっとこの先もスマホを買い換える。




この世の中で傷をなるべく被らずに生きていくにあたっては、「人と違うことをしない」のがカギだ。もちろんクリエイティブな場面の話はしていない。創作においては傷を恐れずにぐんぐん突き進むことが必要になる、でもそういうシーンはいつでも何度でも訪れるわけではない。ここぞというときに人と違うことをすればいいし、いつもいつも逆張りしておくことにはデメリットも多い。

たとえば、だれもがスマホを持っているときに自分だけ持っていないと、「なぜスマホを持たないの?」と質問される、この質問には一切中身がなくなんの意味もないので非常にストレスである。「余計な質問をされる」ことで自分の時間がわずかに削られることが耐えがたい。無駄で無意味なコンフリクトを減らすためにスマホを持つ。そうすれば誰も「なぜスマホを持たないの?」と質問しないだろう、ぼくはわりとそういう考え方をするタイプである。

そういうぼくが、人と違うことをするにあたっては、「なぜ人と違うことをするの?」と質問されたときに答えられる程度の理論武装をあらかじめしておく。なぜツイッターをするの? なぜ医療情報にかかわるの? なぜ本を書くの? どれにも新書一冊分の答えがあるから、いくら尋ねられても平気だ、そういう準備が整ったあとで人と違うことをする。いつからかそういう風になった。瞬発力に若干のブレーキをかけることになるが、結果的に猪突猛進とは異なる大局的・陣形展開的な突撃ができるので、チャレンジのありかたとしては悪くない。



あと、もうひとつ、人と違うことをするのは、周りに人がいないとき。

誰かと同じなのか違うのかすらわからないことをするならば、孤独の真っ最中に限る。

周囲との接続を切断してしまったあとならば、誰に気兼ねをすることもないオリジナリティで勝負できる。

逆に言えば、誰ともつながっていない早朝4時ころに思い付いたことが「誰かと一緒」ならば、それは早起きをした甲斐がないということになる。

2021年7月19日月曜日

病理の話(557) 効率とニュアンス

病理医の中でも意見が分かれる話をしよう。


病理医ががんを診断するとき、「これは○○がんです」と名付けて終わりにはしない。たとえばこのように記載する(今てきとうに考えるので実際の報告書とはいろいろ違います)。



胃癌:1病巣

占拠部位:体下部前壁,

肉眼形態:pType 0-IIa+IIc,

大きさ:32×28 mm,

組織型:高分化型管状腺癌(tub1>tub2)

深達度:pT1b1(SM1, 粘膜筋板下端から280 μm)

浸潤様式:INFb

脈管侵襲:Ly0(D2-40), V0(EVG),

消化性潰瘍の有無:UL0,

リンパ節転移:pN0(0/22)

断端:pPM0(25 mm+迅速組織診供与分), pDM0(85 mm)

Stage IA: pT1b, pN0, M0




いきなりの暴力的な箇条書きで失礼。

これにはすべて意味がある。

子どものころからポケモンやモンハンのアルティメットマニア的極厚攻略本を読んでいた人だと、ビシビシ伝わるかもしれない。「がん」と一言で言っても多彩なパラメータがあって、それらを事細かに書き記すことが、一般的な病理医の通常業務である。



さあ、「意見が分かれる話」というのはここからだ。

これらの箇条書き項目を、「多すぎる」と感じる病理医と、「少ないくらいだ」と感じる病理医とがいる。FIGHT!



箇条書きが多すぎると感じる病理医は以下のように言う。

「これらの項目の中で、臨床医や患者にとって本当に役立つ情報は、『断端』、すなわちがんが採り切れているかどうかと、最後の『Stage』、つまり病期分類の部分だけじゃないか?

ほかは、書いてあってもなくても、ベッドサイドでの方針決定にはさほど関与しない。

それなのに、こんなに細かくパラメータを埋める作業にどれだけ意味があるのか。労力がかかってしょうがない。

やることが増えると、見落としや書き間違いだって増える。

最低限の、役に立つ情報だけに絞るべきだ。現に、WHO分類の評価項目はもっと少ない。」



逆に、書いている内容が足りないと感じる病理医もいる。だいたい以下のようなことを言う。

「現時点でのデータを元に、役に立つとされるパラメータばかり書いているレポートだが、しょせんは箇条書きに過ぎず、味気ない。

もっと細胞の具体的な性状をきちんと記載しないとだめだ。

どういう細胞質を持ち、どういった核の形状をした細胞が、どのように増えて広がっているのかを読み解けるのは病理医だけ。

パラメータはエビデンスが積み上がるごとに変わっていくが、細胞がどういう形状をしているのかは『時を超えて伝わる』。

素描を丁寧に行えば、後の世になって報告書を見直してもその価値が落ちない。

病理医とはエビデンスを作る仕事でもある。患者と医者の双方が苦労して体内から採ってきた検体を、雑な箇条書きのためだけに使い潰してはいけない。」


まあどちらにも一理ある。

だらだら書いたけれど、要は「効率」と「ニュアンス」のどちらを取るか、という話だ。

夜のスポーツニュースを見るときに、今日も大谷さんがオオタニサーンでした(訳:ホームランを打ちました)とわかればそれで満足、という人もいれば、大谷翔平選手の全打席・全球種を見て打席の外し方やベンチに返ってからの笑顔まで見たいという人もいる。これと一緒。

オオタニサーンだけ見ている人が悪いとも思わない。要はスカッとできればいい。

一方で、大谷翔平推しの方々にとっては、Twitterでも気軽に流れてくるホームラン映像だけでは夜のスポーツニュースを楽しみに待った甲斐がない。せっかく遅くまで起きて待っていたのだから、少しでも大谷さんのオオタニサン以外の部分を見てみたいと思うことだろう。



病理医の仕事は、どこか報道に似ているなあと感じることがある。病理診断レポートと、スポーツニュースリポート、慣習的にレとリの違いはあれど、reporterの重要性が問われることは共通している。

普通の人がたどり着けない情報、カメラが潜り込めない場所で、機材が揃っていないと撮れないレアものを見つけて、それにわかりやすい解説をかぶせて編集し、人に届ける。

このとき、編集の仕方はおそらく、それを見る人が「どういう視聴者層なのか」によって変わってくる。熱心な医療者を相手にしていれば自然とレポートも熱心になる。効率を取るか、ニュアンスを取るか。どっちもやる、それができたら一番いいだろう。相当がんばらないとうまくいかないだろうけれど。

2021年7月16日金曜日

光栄の残映

夏になるたびにどこかで水害が起こっている。スマホで撮影された映像。民家の前の小径に水があふれ、元は田んぼだったところが池になっている、そういう風景をネットやテレビで頻繁に目にする。

こういうのを見るようになったのは、つい最近のように思える。でも、昔に比べていまのほうが水害が増えたというわけではない気がする。

もちろん、全国の自治体の記録などを丹念に調べれば、実際に水害の頻度が上がったのか下がったのかを細かく判断できるとは思うのだが、それはそれとして。

ぼくが子どものころは、「全国各地の水害を放送する手段がなかった」んじゃないか。

スマホを持った市民がみな報道者となり得る今は、昔とくらべて、ぼくの手元に届く情報の「末端度合い」がぜんぜん違うのではないか。




中学生くらいのころ、居間のテレビでスーパーファミコン版「SUPER三国志II」をやっていた。「内政」の項目にたしか「治水」があった。

ぼくはそのとき「治水」という言葉がイマイチピンとこなかった。親に聞いたか、攻略本を探したか、どうやったのかは忘れてしまったのだけれど、「昔の中国では頻繁に黄河や長江が氾濫し、台風のシーズンが来る度に甚大な被害が出たので、時の為政者は治水工事によって人を守った」という意味のことをぼくは知った。そして確かそのとき、「今なら堤防ひとつ新たに作ったところで別に何もかわらんよなあ」と思ったのだ。一語一句同じとは思わないが、ぼくの心には確かにそういうざらりとした情があった。

きっと当時のぼくは「水害」というものを目にする機会が無かった。今よりはるかに社会に対する興味がなく、テレビでも報道番組など一切スルーしていたし、自分の住んでいる札幌にやってくる台風の進路を天気予報でたまに気に掛けるくらいで、いや、台風がやってきたとしても「通学路で傘を飛ばされる」くらいのものとしか考えていなくて、なぜならぼくが済んでいたのは札幌で、そう、台風は温帯低気圧になってから上陸するところであって、つまりは、深刻さがまったくわからなかった。



でも今もしぼくが中学生で、ツイッターやインスタグラム、TikTokなどを家のWi-Fiで無限にやっていて、毎日のように水害の情報を目にしていたら、やべえやべえと大騒ぎしていたら、SUPER三国志の「治水」にももう少し実感は湧いたのではないかと思う。



たぶん同じようなことは、スポーツにも、文学にも、ワクチンにも政治にも言える。昔より今のほうが、だんぜん、「突飛なもの」や「派手なもの」、「ひどいもの」、「びっくりするもの」、「誰かの家の軒先でだけ起こっているもの」を目にする機会が多くって、そしてぼくはたまたま目にしたそれらをまるで世界の代表であるかのように考えてしまうのだろう。そういうことをずっとくり返していくのだ。

2021年7月15日木曜日

病理の話(556) 病の理というスピンオフ

医者とひとことで言ってもさまざまなヤカラがいるわけだが、名前に「理(ことわり)」が入っているのは病理医くらいである。ほかの多くには、内とか外とか眼とか耳鼻ノドとか婦人とか、それは確かにヒトのイチブだねとわかる名称が冠されていることが多く、心臓血管、脳神経、あるいは精神なんてのもある中で、病理医という名称は、その、端的に言えば浮いている。

字面が四角い。硬い。大上段に振りかぶって正論を打ち込んでくる「印象」がある。


今は「印象」と書いたが実際に打ち込んでみよう。剣道で言うところの打突。




われわれはヤマイのコトワリを語る医者だ。病気の背景に存在するストーリーを描き出すことが職務として認められており、それによって給料が発生し家族を養っていいよと許されている。


病気はなぜ「そのような形で」存在するのか。


今の体調不良はいったいどういう病気によって引き起こされているものなのか。


このような「体内でのストーリー」に肉薄するために病理医はいる。医療者や患者を相手に、ぼくら病理医はとことん「病気の物語」を語って聞かせる。




しかし……。

冷静に考えてみると、やっていることはずいぶんと狭く、奥まっている。

そもそも病気というのは我々の人生の主人公ではない。大半の人にとっては、病気のストーリーが大事なのではなく、自分の人生のストーリーのほうが大事だ。病気とは人生という舞台に出てくる登場人物のひとりに過ぎない。すると我々のやっていることとは、「端役をめちゃくちゃクローズアップしている」みたいな話になってくる。


病気のストーリーを掘り進めていくことは、人生というメインストーリーに対する「スピンオフ」を語ることに等しい。スピンオフが本編ほど売れることは、まれである。


踊る大捜査線より先に交渉人真下正義が公開されても、ユースケサンタマリアのコアなファン以外は見に行かないだろう。


まずは踊る大捜査線をきっちり映画にすることが必要なのだ。織田裕二も柳葉敏郎も深津絵里も、酒井美紀……坂井真紀……いや違う水野美紀……水野真紀……?どれ……?も、いかりや長介も小泉今日子もつぶやきシローまでもが躍動する、ド級のエンタメが先に劇場公開されて、そこに登場したユースケサンタマリアが絶妙なスパイスとして視聴者の心に残ったからこそ、サイドストーリーとしてネゴシエーター・真下の活躍が世に受け入れられた(でも興行収入的にはたぶん死んでた)。


となると。


病理学を「届ける」ためには、スピンオフ作品を世に届ける監督の手腕が必要になるということだ。




先日、古賀史健さんという人がnoteにこんなことを書いていた。


”科学の答えは、さほどおもしろいものではない。きのうぼくが購入した止瀉薬の説明書きには、腸の蠕動運動が云々で、腸内の腐敗物を殺菌して云々といった文字列が並んでいたけれど、いまいちピンとこないし、即物的でおもしろみがない。腹のなかで小鬼が暴れ、それを聖なる霊力で鎮めるほうが物語としてずっと魅力的だ。”


このnoteはおもしろいので読んでもらいたいのだけれど、「科学の答えはさほどおもしろいものではない」については、反論しようと思えばできる。なぜなら、科学にも立派に物語が存在し、そのひとつは病理学と名付けられていて、「ぼくは」そのストーリーをつまらないなんて思ったことは一切ないからだ。でもそういう視点の違いによる「お前が言うならそうなんだろう、お前の中ではな」論をぶちあげたいわけではない。

病理学は「科学の目」を鍛えた人……というか一部の好事家にとっては十分おもしろいとは思うのだけれど、人生という本筋のストーリーに対して、科学のストーリーとはあくまでスピンオフにすぎない。より多くの人の心を掴む本道のナラティブに比べれば、スパイスにすぎず、後日譚や課金追加CGのように、収集癖のあるオタクに喜ばれているに過ぎない。



科学の物語が主役に躍り出ることはないと思う。それはユースケサンタマリアが単独作品の主役をとうとう張らずにここまで来ていることと無関係ではない……と書いて、いやそれはやっぱり無関係だし、「ぷっすま」ではユースケサンタマリアは確実に主役だったよな、と、自分の狭く奥まった見識を反省する。

2021年7月14日水曜日

リアクション10級

リアクション芸人は、一度のバラエティ番組の中でそうそう何度もビックリしない。

司会が何かひとこと言うたびにイスから落ちていたら、番組が前に進まない。

ゲストが何かひとつボケるたびに爆笑してたら、話がぶつ切れになってしまう。

ここぞというときだけリアクションするからいいのだ。

数少ないリアクションがおもしろいからこそ、「芸人」としてメシを食っていけている。

「数を打たないことで輝くワザ」を持っているのがリアクション芸人なのである。



こうやって文章にして読むと、あーそうだよなーほんとだよなと思うのだけれど、ぼくはたとえばYouTubeでもポッドキャストでも、「聞き役」にまわるときに、リアクションが過剰である。プロじゃないからヘタである、もちろんそういうことなのだが、さっき上に書いたように、理屈としてはわかっているのに、いざ、実践となると、「よく反応すればするほど相手は喜んでノリノリにしゃべってくれるに違いない」という錯覚に取り付かれてしまい、ずーっとうなずいたり声をあげたりのけぞったりしている。そんなにリアクションはいらないのだ。わかっていても唱えていても、だめなのである。

どうしても直らない。




プロのやっていることが正しくて、理屈にも合っていて、結果もきちんと出している。

そしてぼくのようなアマチュアは、現場に飲み込まれると、どれだけ理論を持っていても、その場その場で、ゆがんだ本能の声に従って、「よかれと思って」ズレたことをする。

この感覚をぼくは主に「しゃべりかた」と「リアクション」でいつも痛感する。



そして、おそらく、別の領域では、ぼくがどちらかというと「プロ」に近い場所に立っていて、ぼくより「アマチュア」な人びとがとる行動を、「なぜそんな理屈に合わないことをするんだ、ちょっと考えればわかるのに」と、なじっていたりするのかもしれないな、と思ったのだった。それはきっと医学がどうとか科学がどうとかいうわかりやすい話だけではなくて、もっと込み入った、「えっ、ぼくってこれプロだったの?」という部分もきっとあるのだ。そういうことを覚えておいたほうがいいのかもしれないな、と思ったのだ。いざとなったら忘れてしまうのだろうけれど……。

2021年7月13日火曜日

病理の話(555) 大事なことは何度でも

このブログは「病理の話」と「それ以外の話」をだいたい交互に更新している。そのときどきで思い付いた内容を書いている。お題の決め方としては、その日たまたま目に留まったもの、指がキーボードの上でタカタッと走った場所から連想を広げて、着地点を想像しないままにとりあえず5行くらい書いてみる。すると、それにつながるように文章が指とキーボードの接地面のあたりから湧き上がってきて、数方向に拡散していく(ツインビーでいうとキャンディーを食ったときのやつ)。それを逃さないように拾い集めて文章をつなげていく。そうこうしているうちに、どこかで「あっこれでオチになるな」というポイントが出てくるので、最初のオチポイントをスルーして、二度目のオチポイントあたりでおしまいにする。だいたいそういう流れになっている。


で、病理の話のほうは、なにせ病理の話なので、病理診断や病理学研究にかんする何かをドンとまず用意してタイトルを付けてしまう。タイトルは七五調になることが多く、七五調だとちょっとしたメッセージ性をまとう。そのまとった雰囲気に沿って、何かを書けばだいたいブログとしてほどよい分量になる(やや多すぎることもある)。


書き上がったものを見返して手を加える「推敲」というものが、ほんらいの記事には絶対必要なのだけれど、ぼくのブログはあまり推敲をしていない。なぜなら、推敲をしてひとつの記事のクオリティを良くすることよりも、「とりあえず指から生まれてきたもの」の冗長性や形状不整っぷりを残しておくことのほうが、この「個人ブログ」においてはけっこう大事なのではないかと本気で思っているからだ。そのときのぼく自身の考えの歪みや落とし穴が、記事の不親切さや重複表現などにそのまま現れる。対面で会話して相手に「わかってもらえなかったとき」、過不足なかったはずなのになんでかなあ、なんて考えるのだけれど、話しているときの思考回路でそのまま文章を書いて記事にして、公開後にそれを自分で読むと、必要なことが抜けていたり不必要なことがくり返されていたりすることに気づく。


そうやってぼくは病理の話とそうでない話を交互に書いて、いったい何がしたいのかというと、これはたぶん、半分くらいの目的が、「学生や研修医などに病理をうまく教えたい」というところにある。この話ブログで何度も読んだよ、と言われてもいい、なぜならぼくは学生や研修医に大事なことを何度も何度も説明したいのだから、同じような内容をくり返し記事にしていくことで「対面で会話しながら病理の話をするときの、自分の語彙」を増やし、あるいは磨いている。




さて、何度も何度も何度も書いてきた話をする。病理診断においては、臨床医が採取してきた検体をぼくら病理医が顕微鏡で見て、「病理診断報告書」というのを記載して、電子カルテにアップロードする。その報告書(レポート)を医療者達は見て患者の治療方針を決定する。ではそのレポートに何をどれくらい書くといいのか?


「細胞診断名」と「必要最低限の解説」だけを書けば仕事は十分だと考える病理医がたまにいる。ただしマイノリティだ。原則的に、病理診断を主業務としている病理医は、「なるべく丁寧でやさしいレポートを書いた方が読むほうは喜ぶ」と考えているように思う。少なくとも、その病理医が何にこだわり、どういうスタンスで患者(の検体)と向き合っているのかがわかるような文章を書いておいたほうが、レポートを読む医療者にとっても、あるいはそれを見る患者にとってもいいことが多い。


ある細胞の核と細胞質に異常があったからこれを私は「がん」と診断します。この一言がなく、単に「がん。」とだけ書かれたレポートは、臨床医と病理医との信頼関係が「阿吽の呼吸」にまで高められているときには有効である。大丈夫、あの病理医がまじめにやっていることをぼくは知っているよ、という臨床医に向けて書くレポートはシンプルでかまわない。逆に言えば、はじめて仕事をする臨床医相手に「がん。」とだけ書かれたレポートを出すとしたらそれはある種のメッセージを含んでいる。「詳しくはおたずねください」というやさしさ、あるいは、「てめえなんかこの一言だけで十分だ」という投げやり。どちらに転ぶかは関係性次第だ。


最近のぼくは「廊下や医局の待機スペースでよく顔を見る臨床医相手のレポートは基本的にシンプルに書く」ようになっている。詳しいことはいつでも話し合えるからそれで問題ないのだ。ただし、顔見知りの臨床医が相手であっても、ここぞという症例に出会ったときにはレポートの文章を何倍も何十倍も書く。この診断名はめずらしいのだ、参考文献としてこれとこれを読むべきである、私はこのような根拠でこのように診断するが、時代が進んでエビデンスが増えたら別のカテゴリーに分類されなおす病気かもしれない、追加検査の結果は私も確認するのでまた相談しよう、くらいのことをとにかく書きまくる。病理診断がAIではなく人間によって担当される一番の理由は、この無限のフレキシブルさが求められるコミュニケーションにあると思う。何度も何度も何度も何度も書いてきた話である。

2021年7月12日月曜日

暮らしやすさのビート

ぼくが自分の労働を自分でデザインできるようになったのは、年齢でいうと42歳のときである。つまりは去年のことだ。


科の主任部長になって権限が増えた。権限と言っても、スタッフに命令して何かをさせるとか、職場の決まり事を上意下達できるとかいうものではなく、「自分の裁量で仕事ができる権利」であるが、これを手に入れてとても楽になった。


思い通りに働ける。思う通りに動ける。タイムロスが少なくエネルギーロスも少ない。だから仕事が充実するし分量もこなせる。


主任部長という立場によって得られたものも多いが、そもそもぼくに経験と技能が備わったこともおそらく大切である。10年前は、診断の際に必ずおびえがあった。「全く知らない、歯が立たない病気に出会ったらどうすればいいのだろうか」と毎日不安だったし、そういうときにできることはボスや他施設のエライ人にプレパラートを持っていって聞くしかなかった。今もやっていることは大差ないが、どんなに難しい診断と遭遇しても、どうすれば解決できるのかのロードマップはだいたい描ける。この困難は何日で乗り越えられるというのがまあ一応は見える。


臨床医相手になんの気兼ねもなく電話していろいろ話が聞けるようになったのも、でかい。ぺーぺーのときは「お忙しいところすみません」の言葉に対して相手が露骨に「忙しい、迷惑だ」という雰囲気を隠さなかった。今は病院のシステムを把握したので、どの臨床医がどの時間に外来を担当しているか、どの時間は患者と面談しがちか、いつならわりと話を聞いてくれるか、みたいなことをわかって電話をかけることができるので、先方の反応がぜんぜん違う。あるいは、ぼくが不必要な内容では電話なんかしないことをどの科の臨床医もわかってくれている。



少なくとも仕事において、自分の思うデザインと周りが要求してくるデザインとが食い違うとほんとうに働きづらかった。25~28歳のころ、基礎研究をやっていて、ぼくはけっこう早い時期に自分は研究者には向いていないと実感させられた。根本的な頭脳のスペックが足りなかったのだが、それに加えて、あの頃はとにかく「自分の仕事を自分でデザインできないこと」に対するフラストレーションが強すぎた。優れた研究者はみな、多かれ少なかれ、「この作業で自分はこのようにしたい、なりたい」というビジョンを持っている。でもぼくは基礎研究の中で自分がどう立ち回ってどこにどう移動して行くのかをデザインできる気がしなかった。極論すれば、頭が悪くてもゆっくり勉強すればいずれ頭は良くなる。しかし、頭のよしあしとは別に、自分の動きをデザインできない場所ではどうやっても満足することはできないのだった。



いずれ公開されるPodcastの中で、ハウスワーカーの話が出てくる。そこではシュフが自分の行動をいかにデザインしているか、そのデザインを邪魔されることがどれだけ不快であるかを語る人がいた。ぼくはその話を聞いて深く納得した。じっさい、今の結婚生活でぼくはパートナーのデザインに乗っかってそこを邪魔しないことをかなり大切にしているのだけれど、20代のぼくにはそういう概念がなかった。行動をデザインするということがいかにその人にとっての根本的な欲求に繋がっていくのか、ということをわかったのはつい最近のことである。



TwitterやFacebookを見ていると、同じ医者、同じ病理医であっても、自分の今の仕事に不満しか感じていない人というのがたまに見つかる。そういう人が何にブツブツ文句を言っているかというと、結局のところ、自分の思い通りにならない部分にフラストレーションを感じているのだけれど、ここをなるべく丁寧に素描していくと、結局、自分の手の届く範囲がどこからどこまでかがうまく見えていない人が、周りの人の行動デザインと自分の行動デザインとのずれにツラミを感じているという、いわゆる「デザインのバッティング」が起こっているように思う。過去にぼくが「研究者には向いていなかった」みたいに感じたように、「私は医者に向いていない」とか「私は病理医に向いていない」という弱気な発言がなぜ出てくるのかもだんだんわかってきた。確かにデザインのミスマッチというのは向き不向きのひとつの側面なのかもしれない。ただし、中には、「自分はどういうデザインをしたくて、どういう他人のデザインだったら乗っかれるのか」を考えきっていない人も多いようで、まずは自分が快感に思えるデザインとは何なのかを自問自答してみてはどうなのだろうか。以上雑感である。

2021年7月9日金曜日

病理の話(554) 顕微鏡像を写真に撮る

「ほぼ日の學校」というアプリがあって( https://school.1101.com/ )、学校というからにはいろいろな先生が出てきて授業をすると思われがちだが、実際には15分弱のおもしろ動画がたくさん見られてじつに素敵なアプリであるのでおすすめしておく。

さいしょの1か月が無料ということでとりあえず登録。ここまで、詩人・谷川俊太郎さんと写真家・幡野広志さんの動画を見て、大変満足している。ひとつの授業が数本の動画に分かれており、字幕がついていて、途中でやめても翌日アプリを立ち上げればやめたところからまた見られる。UI(ユーザーインターフェース)もシンプルで使いやすい。


幡野さんの動画なら、まず5本目あたりを見ると迫力に感動すること間違いない。騙されたと思って見てみるといい。


さて、幡野さんの6本目(最後の動画)で、スマホやデジカメで撮った写真を「加工」する作業についての話があった。「RAW現像」である。こう聞くとむずかしそうだが、明るさを調整し、色味の青っぽさ・オレンジっぽさを軽くいじって、黒い部分を少し強調……と、やっていることはインスタのフィルターと変わらない。たしかにおしゃれフィルターかけると写真ってぜんぜん違うよねー、と納得できる。実例を見るとその効果の鮮やかさに驚く。とてもいい授業だ。クスッと笑える部分もあって楽しい。


ぼくはこれまで自分のデジカメで撮った写真をまともに「RAW現像」なんてしたことがなかったのだけれど……「アプリを使って写真の調整すること」自体はもう15年くらいやっているなあと気づいた。それはなにかというと、顕微鏡で撮影した病理組織像の調整なのである。

実際に何枚か見てもらおう。



加工前

加工後




加工前

加工後




加工前

加工後



いずれも、細胞が写っている写真なのだが、加工後のほうがキリッと見やすくなっているのではないか。

すべて、今から15年前にぼくが「とある研究会で病理診断の解説をするために」用意した写真である。

ご丁寧にも当時のぼくは、「加工前写真」と「加工後写真」をフォルダに分けて保存してあったので今回こうして並べてみた。若い頃のほうが几帳面だ。




加工前

加工後


フレームにあわせて画像を最大化し、明るさ、色温度、コントラストを調整して、会場でスクリーンを見る人々にわかりやすいように、写真をいじっている。こうやって見ると全然違うよね。




ただし……。




今度は「最近のぼく」がプレゼンに使っている写真を見てもらおう。





こちらは「ノー加工」である。ホワイトバランスがちょっとてきとう。色味が詰まっている感じがある。なんと画面左上に至っては少しボケている。でも、このままで、研究会に出してしまっている。

なぜぼくは写真の加工にあまり時間をかけなくなったのか。




それは、ベテランの病理医や臨床医たちが、「加工された写真を見るとなんだかモゾモゾする」と言い出したからなのだ。顕微鏡で見る色味に比べて、パワポの写真があまりにハッキリくっきりしすぎていると、「診断を誘導するために画像をコントロールされているような気がして気分が悪い」とのことである。



そもそも生体内の細胞に色はついていない。ピンクや青紫というのはあくまでヘマトキシリンやエオジンといった色素を使って、人間が恣意的に乗っけた色調に過ぎない。だから、「本来の細胞の色」なんてものすら存在しないのだけれど、熟達した臨床検査技師たちによって調整されたプレパラートの色をフォトショでちょっといじると、「お前、これ、なんかいじっただろ!」とバレてしまい、「核がキリッとしすぎている、これだとより『悪性っぽく』見えるぞ、あまり加工をするな!」とみんな困ってしまうのだった。


じつは、最後に出した写真にはものすごい量の「知恵」が詰めこまれている。具体的な症例の話だからここでは詳しくは説明しないが、この病変がどのように発育進展してきたのか、これを放置しておくとその後どうなるのか、といった「時間軸情報」が猛烈に含有された、ある意味「理想的な組織写真」なのだ。ピントはややボケているし、画面の右端に染色時の「ノイズ」的なものも入っている、しかし、「この写真を撮ることでぼくが病理医として伝えたいこと」は余すところなく組み込まれている。



幡野さんの写真はいずれも見た人に「ああ、これが好きだから、気に入ったから撮ったんだな」と、幡野さんの心を思わせるようなものばかりだ。アプリの調整技術があるとかレンズの選び方がうまいとか、光学的な理解が深いとか、そういった「写真技術」以上に、幡野さんは自らの写真を通じて見た人の網膜に幡野さんを写し出す気概がある。


つまりそういうことなんだよな、たぶん、「巧い組織写真」というのもおそらくあるんだけれど、「うまい・へた」を越えたところにある、「意図が伝わるいい組織写真」のほうがはるかに大事なのだろう。や、これも完全に幡野さんの授業の受け売りである。いいことを言っているなあ。いい学校だなあ。

2021年7月8日木曜日

花見

研究会で、しゃべるのがヘタな人の話をずっと聞いている。

本当にヘタだ。つっかえまくる。何度も言い換える。聞きづらい。

聞きづらいが、わからなくはない。むしろ、豊潤である。今日はそういう話を書いてみる。


この人の脳内で、非常に早いスピードで思考が回っているのがわかる。たどたどしさを生んでいるのは、「摩擦」だ。すべらずに引っかかっている、その「引っかかり」はすなわち紋様である。指紋のような。脳紋。


あるいは、全く同じ事を考えている人が、もう少し上手にしゃべってしまうと……しゃべりを整えてしまうと、「思考のすじみち」を追跡できなくなるかもしれない。

そんな気がする。

最近そういうことをよく考える。



「よく伝えるための技術」に覆い隠されてしまって、素材のテクスチャ(手触り)が失われることがある。

丁寧に整えられた文章ばかりを読んで決まりの結末にたどり着いて、そこで何も花が開かないということがある。

「どこまでも曼荼羅のようにつながっていくかのように組み立てられた設計図通りの文章」が最終的に一切の違和を引き起こさずにそのまま心の真ん中で眠って死んでいくこともある。

「お里が知れるような幼弱な文章」の奥に、はっとするような深い悲しみが、布団を被って丸くなっていることがある。




窓口。あるいはもっと広く、間口。入り口。門。広げるべきもの。きれいに掃き清めるべきところ。話術や文章術が担当する役割の数十パーセントは、ウェルカムゲートの美麗さ、あるいは入室後のひとを落ち着かせるような調度としてのたたずまいにある。


一級建築士の建てた家。ジャケットを羽織らないとインターフォンを押せないような家。


あぐらもかけないような家がある。


だからと言って、森の中の熊の穴、リスの寝床、キノコの生い茂る湿った木の根元、そこまでの野生に浸るには我々は繊細になりすぎた。


ならば、花見のように。


ブルーシートをざっと引く。靴を脱いで足を踏み入れる。足裏に凹凸や摩擦を感じる。そうっと尻を下ろす。そういう経験を探していることがある。いつもではない。たまにでしかない。ぼくはもう、都会の暮らしに慣れすぎた。それでも、なお、と思うことはある。

2021年7月7日水曜日

病理の話(553) AIとの対決

先日、とある共同研究をはじめた。研究相手は病理AIで名高いメドメイン株式会社。消化管のとある病気について、ぼくが過去に診断したプレパラートをデジタルデータに取り込み、機械学習モデルに病理診断させて、ぼくの診断と対決させ、その結果を論文にする。


機械学習モデルの病理診断にはヒートマップ方式を用いる。「この細胞はがん、この細胞は正常」と逐一判定するのではなく、「ここからここまでがかなりがんっぽい、ここからここはがんの可能性がある」と、あたかも天気予報のおねえさんが気象図に予想最高気温や雨量を色で塗り分けるかのように、プレパラートの写真上に「がんである確率」を色づけする。


なんだそんなやり方か、と思うことなかれ。かなりの精度でがんを正しく描き出してくれる。このモデルが本格的に稼働したらかなり便利なことは間違いない。


というわけで、ぼくは研究の準備をする。


まず、ぼくがこの10年で診断した人の中から、今回機械学習に読ませるプレパラートを選び出す。入力支援システムの検索機能によって、ぼくが過去10年に診断した、のべ40000人の患者の中から、今回の検討に合致する診断名を探り当てる。


数十分かけて検索をして、結果的に413名に絞り込まれた。40000件あるわけだから1%くらいだ。たったこれだけか……。


その413名の病理診断をこんどはひとつひとつ自分の目で確認していく。3名ほど、珍しい病気すぎて今回の検討では論点がブレブレになってしまう人を除く。また、1名、検体の状態があまりよくなくて診断に苦労した人を除く。これで409名。


では、409症例を検討するのかというと……。じつは、一度の手術で病変が2つあった患者や、3つあった患者というのがけっこう紛れている。そのあたりをきちんと確認する必要がある。結局、409例の患者に478病変が含まれていた。この症例を対象とする。


さて、478病変あるからプレパラートも478枚? いや、違う、ひとつの病変につき3~10枚程度のプレパラートがあるのだ。


これらのプレパラートは、しまってある倉庫から出す手間がある。2500枚以上のガラス、それも倉庫のあちこちに散らばっているガラスを慎重に取り出してこなければならない。このあたりでひとつ心折れる。


ようやく出してきたプレパラートはいずれも自分でかつて見て診断を書いたものであるが、今回、検討をするにあたって、すべて見直す必要がある(ガラスや染色の状態をチェックする)。ここでふたつ心折れる。


最後にプレパラートは共同研究施設のメドメインに送ってデジタルスキャナで画像を取り込んでもらい、バーチャルスライドにすることで機械学習が可能となるのだが、このガラスを箱に詰めて緩衝材に包んで箱詰めしてクロネコヤマトまで持っていく作業は人力である。ここでみっつ心折れる(ついでに背骨も何本か折れる)。


こうして多くの時間と多大なカロリーと精神力を使用してようやく検討できるのが、


人体病理

 ┗ 組織病理

   ┗ HE染色病理

     ┗ 消化管病理

       ┗ (ある臓器)病理 

         ┗ がん

           ┗ある分化度、ある深達度


なのである。ものすごく細分化した部分を必死でやっている。




もちろん、いちど構築したデータは人間と違ってAIは忘れない。しかし、もっといいプログラムができたらAIごと入れ替わってしまうこともある世界だ(『クララとお日さま』を思い出す)。


AIとの対決は人間の体力を奪う。診断の精度? それ以前の問題だ。ぼくはAIによって筋トレをしていると言っても過言ではない。AIは人間にとって夢のような存在で、ぼくらを健康にする手伝いをしてくれる。

2021年7月6日火曜日

反省文

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1409308605472329728 



「RTが数千を超えるとクソリプが増える」という現象はわりと知られているが、これを変奏すると、「どんなに破綻した主張であっても数千RTを超えると賛同者が集まる」になる。おかしな意見を引用RTして反論すると結果的にその人の味方もじわじわ増える。



毎回うまくやれるわけではないので「理想語り」として読んで欲しいのだが、もう何年も「ニセ医学を一切引用RTせず、炎上商法に手を貸さず、かつニセ医学を無効化するツイ」を目指している。「ツイ文章力」がうまく高まって空気とシンクロしたときにまれにうまくいく



ツイッターは手段のひとつに過ぎなくて、たとえば学会主導の医療セミナーや、学校教育、書籍やウェブ記事の執筆、YouTube LIVEなど、いろんな場面でさまざまな人たちと話し合ってきたけれど、「人を個別に叩く」が後から振り返ってあまり実効性に結びついていないのはどの世界の人からもわりとよく聞く



で、このスレッドのキモはたぶん次に書くことなのだが、以上のことをぼくはたぶん7年以上ツイートし続けてきたのだけれど、一定数の医療者たちがこれにめちゃくちゃキレてぼくのフォローを解除したりブロックしたりする。そういう人たちはその後も変わらず、ニセ医学的ツイを個別に叩き続けているが、



「ニセ医学を叩く行動がその人にとってのSOSサインになっている」かもしれないと思い始めた。ブロックされたニセ医学の人を別アカウントでスクショして叩き続ける医療者を見ていると、「あれ、この人、疲労困憊なのでは?」と感じることがある



「デマを個別に潰すことで救われる患者がいる!」と何年も連呼しながら結果的に相手の炎上商法に手を貸してしまっている状態は悲壮で、かつてのぼくは、責める気こそ起きずとも「医療者ならもう少しエビデンス考えてやれ」と思っていた。しかしそういう医療者たちこそケアを受けるべきなのかもしれず、



あるいは、かつてのぼくがそこまで考えず、「個別にデマを叩いても無効だ」と状況だけ俯瞰して発言し続けてきたことは、一部の医療者の孤立をどんどん深めてきたのかもしれない、と巡り巡って自らの考えの浅さに気づいたのが今朝のこと。



ただひたすらに悲しい中間報告なので特にオチもないですし、反省して微調整してやりくりしていくことしかぼくにはできません





(2021年6月28日午前9:32の連ツイ)



2021年7月5日月曜日

病理の話(552) まとめて面倒見てやらぁ

現代医療は分業がえげつない。胃の専門家と食道の専門家と、十二指腸の専門家と大腸の専門家がぜんぶ分かれているなんてことは普通である。胆管の専門家ですが中でも特に肝臓の中に通っている胆管に詳しいです、なんていう人もいる。右足の親指の専門家ですので右足の中指についてはよくわかりません、という人は……さすがにいないが……足の専門家なので手首はそんなに詳しくないよ、という整形外科医は本当にけっこういる。


そうやって細分化することで驚くべき進化を遂げた現代医療バンザイ、花火がドカーンと打ち上がる。大団円である。河原でそれを眺めてそっと手を握るカップルを遠目に眺めながら屋台で焼きそばを混ぜていた病理医は思った。


「専門が分かれていくことは結構だけど、複数の臓器にまたがる病気を診断する人も確保しておかないと、いざというときに困るよね……」


どこかひとつの臓器に病変が出る病気はいっぱいあるが、全身のいたるところに異常が出てくる病気もある。「全身疾患」などという通称、同時多発テロみたいで怖いけれど、みなさんもよく知っている病気にもこのパターンがあって、じつは結構ありふれている。


そのひとつの例はインフルエンザだ。インフルエンザでは、「熱が出て鼻水が出て、関節が痛くなる」ことがあるだろう。これって全身疾患だよね。ところで、「風邪で関節が痛くなる」というのが、学生のころのぼくはよくわからなかった。ハナから入ったインフルエンザウイルスが、なんで足腰とかに届くんだろう、と不思議だった。熱が上がるから関節の液体が沸騰するのかな? なんていう雑なイメージを持っていたこともある(40度で沸騰はしないだろう)。


インフルエンザウイルスに対しては全身が「ウイルス迎撃専用要塞」に変化する。エヴァに出てくる第3新東京市みたいなものだ。使徒が襲来するとアラームが鳴り響き、都市ひとつがまるごと装甲モードにチェンジする。中二病心を刺激してやまないあれが人体でも起こっている。アラームがわりのサイトカインが血液を介して全身に「鳴り響き」、迎撃モードに入る。だるくなって(余計な動きをせずエネルギー消費を抑えて免疫機能にウイルスと戦ってもらおうという合目的な体の反応)、熱が上がり、血管の性状がバトル用に変化し、戦闘員(免疫担当細胞)たちが血管内を駆け巡る。


あらゆる感染症が全身にアラームを鳴り響かせるわけではなく、一般的な鼻風邪とかノドの風邪は関節が痛くならないことも多いけれど、「熱が出ている」という時点で影響は全身に及んでいるわけだ。そう考えると、風邪とはマイルドな全身疾患なのであるな。


となるとやはり、胃や手首といった臓器ごとの専門家だけでは医療は行えない。ウイルスをはじめとする感染症については、「感染症内科」と呼ばれるエキスパートたちが牽引して、内科的な医者たちは全身をいっぺんに相手する手段を身につけている。でも、全身に症状が出る病気は感染症だけではない。


たとえば血管炎という病気や、内分泌(ホルモン)にかかわる病気。自己免疫に伴う病気。自己炎症性疾患という概念。これらはいずれも「全身に症状が出がちな」病気だ。こちらについては、感染症内科ではなく、リウマチ・膠原病内科などと呼ばれる、知名度は低いが業界内での信頼は熱い別のエキスパートが中心となって病態を整理する。また、神経疾患と呼ばれる病気も全身に症状が出る場合がある。こちらは感染症内科やリウマチ・膠原病内科ではなく脳神経内科の担当範囲だ。


そして、一部のがんにも「全身に病変があらわれるパターン」がある。


白血病や血管内リンパ腫、腫瘍随伴症候群を合併するがん、複数のがんが多発する特殊な遺伝子の異常……そして、多発転移。では、がんの場合、複数の科をまとめあげるのは何科の医者だろうか? 

腫瘍内科医や緩和ケア医、そして、病理医。




複数箇所に病変が出ている患者は、しばしば、複数の診療科を受診してそれぞれの科で臓器ごとのキュアとケアを受ける。これは、主治医が複数いるということになる。患者からすると大変だ。日替わりで違う医者に違う場所を診てもらわなければいけないのだから。

「入院している病棟を担当している医者」がいわゆる「メインの主治医」となったりする。しかし、あまりに複数の臓器に異なるトラブルが出ていると、そのすべてを理解しきることはメインの主治医にすらできない。

そこで、患者にかかわる医者どうしが頻繁に連絡を取り合うことが重要となってくる……。

と、今、「きれいごと」を書いたが、医者どうしが頻繁に連絡を取り合うというのはホントに大変なことである。医者ってそんなに頻繁に電話できる職業じゃない。

まず、科ごとに、外来のタイミングが違う。次に処置中は電話が取れない。そもそも患者やその家族と面談中だったらやはり電話は難しいだろう。手術に入っているときだってある。カンファレンスの時間も科ごとに異なる。日中も夜も、電話はなかなかつながらない。


そこで……病理医の出番なのだ(ぼく個人の考えですが後輩にはそう指導しています)。病理医は電話を秒で取れる数少ない医者なのである。病理医は「脳だけで仕事する」。処置はしないし手術もしない。切り出しはするけど患者と直接会わない。ものすごい量の書類仕事をし、顕微鏡を通じて人数だけで言えば誰よりも多くの患者を診ている(ただし患者の一部=細胞しか見ていない)けれど、誰と会話するわけではないから電話は基本的に最初のワンコールで必ず取れる。


そして、臨床のどの科の医者とも仲良くやれる。派閥もない、せめぎ合いもない。皮膚科医とも血液内科医とも呼吸器内科医とも外科医とも一緒に仕事をしている。だから、こと「がん」の診療においては、複数の科が検体を通じて集めてきた患者の情報を集約することは病理医が担える。いつでも病理医を拠点にして電話のやりとりをできる。


年に何度もあるわけではないが、難しい病気で複数の医者がかかわっている患者の情報を一番多く持っているのが病理医であるぼく、ということは存在する。そういうときのぼくは一日中何度も何度も電話をかけている。つながるまで。話が共有できるまで。「まとめて面倒見てやらぁ」ということである。

2021年7月2日金曜日

ほんとは25

これを書いているのはある日の早朝。
本日の午前中の宅配便で、2つほど荷物が届く予定だ。


ひとつはある教科書のゲラ。2年前に一度書き終わっている原稿だが、いろいろあって初校がこのタイミングになった。きっちり仕上げて世に出す。10冊目の単著。これまでぼくが書いてきた本のうち、病理診断という”職能” を用いて書いた代表作は『病理トレイル』(金芳堂)だが、3000円くらいする医学書だし、ターゲットも狭くてあまり売れない。でも、病理医としてのぼくを隅々まで文章にした本であり、分身みたいな感覚でとても気に入っている。そして、今日届くゲラは、『病理トレイル』に匹敵するくらいぼくの専門ど真ん中の本なのである。ということはこの本が完成するとぼくは残像拳から多重残像拳の男となる。なお、今回は「うまくやると」医学書としての上限を突破するほど売れるだろう。でも、うまくやらないかもしれない。堅実に届けるほうが大事な気がする。

もうひとつ届く荷物はコンサルテーション。他の病院の内科医から、「ある症例の病理プレパラートを見て欲しい」と頼まれて、病理診断に必要な資料一式が送られてくる。それを見て考えてぼくなりの診断を返す。形式としてはセカンドオピニオン的である。ただ、患者が「できれば複数の医師に診てもらいたい」と考えることと、医師が「できれば複数の病理医に診てもらいたい」と考えることは、シチュエーション的に似ているように見えて、思ったよりも相同性が低い。カメとコタツの関係(足があり、シェルがある。これを似ていると言うかどうか)。ではどう違うかというとまだうまく言語化しきれていない。五感によるインプットとその総和である感情とそこからアウトプットされる言語の間の部分が、磨りガラスのように曇ってよく見えない。あ、そういえば、「人間は言語で思考している」という言い方はよくわかるし、そのような哲学がいちジャンルとして存在しているのも知っているけれど、その場合、「人間の脳は思考以外のこともしている」と付け加えたほうがいい。言語を用いない部分の脳の仕事も含めてぼくは思考と呼んでいるけれど。たとえば形態診断学におけるスナップ・ダイアグノーシスはふつうに思考の産物だが、言語化できていない部分のほうが多い。

閑話休題。



このあと届く荷物は、両方とも時間がかかる仕事である。先方もそれをわかっているので、いずれも事前にメールで連絡があった。おかげで、荷物の到着に備えてぼくは、メンタルを整えつつ、他の仕事のピークをずらすことができる。複数の患者、複数の研究を同時に抱えるのは医療者の基本であるが、複数の仕事を同時にやる秘訣は、それぞれの仕事のピークを2時間以内に集中させないようにピークシフトすることだと思う。何かをやるために他の仕事を「全部終わらせる」というのは不可能である(若いときはそれができた気がするが今はもう無理)。ただし、ピークをずらすことならばわりとできる。経験上、どれだけ厳しい診断や厳しい文章書きであっても、一番MP(マジックパワー)を使う時間を3時間くらいずらせば同日に複数こなすことは十分可能だ。新たな仕事の連絡を事前にもらっておくと、ピーク調整がやりやすくなり、結果的にすべての仕事がうまく回る。



今日の本題はいつものごとく決めずに書き始めたが、たとえばブログというのは仕事のピークとピークの間だと思った瞬間に書く。脳がデフォルト・モード・ネットワークの活動を強め始める直前くらいに書く。結果的に、ピークを迎えたときのあの時間が遅くなる感覚だけはブログの中にうまく表出できなかったりもする。かと言ってなんらかのピークの最中にブログなんて書いていたらその仕事はうまくいかないのだ。「仕事中にブログなんて」「仕事中にツイッターなんて」と怒る人はたいてい仕事を1,2個しかやっていない印象がある。ぼくはおそらく今2500個くらいの仕事をやっているのでそういう人たちの仕事感覚とはまるで噛み合わない。一部うそです。

2021年7月1日木曜日

病理の話(551) 現役病理医によるフラジャイルの肉眼所見と組織所見

※本項はそのうち文学フリマに出す同人誌、


『フラジャイル 岸京一郎の所見』全話レビュー 史上最高の医療漫画の肉眼・組織所見を現役病理医がガチ解析し病理診断し参考文献まみれで書籍化してみた ~転生したらカンバーバッチ・クロス・ファイヤ(49 cc)だった件~


の序文です。現在「資料」を収集中。秋から冬にかけて刊行予定です。ご期待下さい。


----


 要らぬ能書きは印刷会社にとってインクの無駄であり読者にとって網膜の負荷であるから今すぐにでも本論に入りたいところだが、慣例に従って数行お付き合いいただきたい。お買い求め頂いた本書は、『フラジャイル 岸京一郎の所見』(草水敏/恵三朗、講談社)(以下、「原典」と称する)の全話レビューである。

 レビュアー(著者)は現役の病理医であり、正確には日本専門医機構及び日本病理学会認定病理専門医(002797号)、日本臨床細胞学会認定細胞診専門医(3230)で、500床の中規模市中病院(JA北海道厚生連札幌厚生病院)の病理診断科主任部長である。著者の職務は患者から採取された検体を肉眼・顕微鏡・遺伝子解析などを含めて病理診断する「病理診断」。胃、腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、乳腺、肺、甲状腺、リンパ節、骨髄、皮膚、子宮、卵巣、膀胱、前立腺など全身ほぼすべての臓器を担当し、がん、良性腫瘍、感染症、自己免疫疾患、自己炎症性疾患、変性疾患などの中から細胞学的に変化を見いだせる(器質的変化を有する)あらゆる疾病に対して確度の高い診断を行う。各臨床科との院内カンファレンス、及び院外で複数の医療者たちと執り行う研究会では、血液検査、画像検査、一般検査、感染症検査などと病理組織診断とを対比することで臨床と病理、基礎研究と病理の橋渡し(translational pathology)に尽力している。博士(医学)。博士論文は滑膜肉腫のキメラ遺伝子の解析であったが、現職における研究テーマは消化管・肝胆膵の病理診断、臨床画像(拡大・超拡大内視鏡、超音波、上部消化管バリウム検査、下部消化管3DCTなど)と病理組織像の対比、そして機械学習モデルによる病理診断である。

 自己紹介がてら「一例報告」として市中病院勤務の病理医の業務を概観した。著者の業務は大きく二種類に分類される。「診断」と「研究」。あらゆる病理医がそれぞれ診断と研究に邁進しているが、その比率は人によって異なる。たとえば著者の本職は病理診断であり、診断と研究の実務比率は6:4程度である。著者のように、病理診断を主たる業務とする病理医のことを一般に「病理診断医」と呼ぶ。これに対し、研究がメインと自認する病理医を「病理学者」と呼称する(確たる定義があるわけではなく便宜上である)。

 たとえば原典6巻に登場する一柳教授(慈救大教授)は「病理医/ただし病理学の研究専門で臨床での患者の病理診断はしない」と説明されているので「病理学者」に相当する。また、原典9巻に登場する手嶌禄は慶楼大学病院勤務の病理診断医から研究者へと舵を切ったエピソードが描かれており「病理診断医→病理学者」というキャリアと説明できる。

 これに対し、原典の主人公(岸京一郎)は市中病院で勤務する病理診断医である。ただし後述するように岸は原典の中でしばしば研究も行っている様子が窺える。また、原典の狂言回しでありもう一人の主人公である宮崎智尋は、病理専門医資格の受験を目指す病理「専攻医」と呼ばれる研修生であるが、作中ではもっぱら病理診断業務及び上司のデスクの損壊、患者の連れだし、病理ラボセンターへの殴り込み、勤務中にパンケーキを食すなど病理学者としての側面はまだ見られず純然たる病理診断医であると言える。従って、あくまで私見ではあるが、本書の細部を現場の臨場感を持って語るには病理学者よりも病理診断医の方が適任であると考える。ただし原典においては病理診断医だけでなく病理学者の奮闘や哀切も多様に描かれている。著者は病理学者→病理診断医のキャリアを歩んでおり、現在も臨床研究こそ遂行しているが純粋基礎研究には従事しておらず、令和3年現在のアカデミア中枢の空気感については門外漢である。この点を考慮し、本書の執筆においては「いんよう!」主宰・本同人誌の共著者である牧野曜(敬称略)にpeer reviewを依頼した。本書のアカデミアにかんする記載の中に誤りがあればそれはすべて著者自身の責任ではなく牧野曜に負うものであるのでご留意いただきたい。


それではさっそく一話から、いや第一話の扉前の導入から、一コマずつ病理診断医による所見の解析を行う。本書の目的はあくまで病理診断医の職能を活かした原典の病理組織学的解析であり、原典のストーリーそのものの精緻さや伏線回収の見事さ、描画・コマ割り・セリフ配置といった超絶漫画技巧、布施美玖の美しさなどをファン目線で蕩々と語ることは趣旨に反する。以上より本書のshort running titleを「『フラジャイル 岸京一郎の所見』の所見」(19文字)と定める。