研究会で、しゃべるのがヘタな人の話をずっと聞いている。
本当にヘタだ。つっかえまくる。何度も言い換える。聞きづらい。
聞きづらいが、わからなくはない。むしろ、豊潤である。今日はそういう話を書いてみる。
この人の脳内で、非常に早いスピードで思考が回っているのがわかる。たどたどしさを生んでいるのは、「摩擦」だ。すべらずに引っかかっている、その「引っかかり」はすなわち紋様である。指紋のような。脳紋。
あるいは、全く同じ事を考えている人が、もう少し上手にしゃべってしまうと……しゃべりを整えてしまうと、「思考のすじみち」を追跡できなくなるかもしれない。
そんな気がする。
最近そういうことをよく考える。
「よく伝えるための技術」に覆い隠されてしまって、素材のテクスチャ(手触り)が失われることがある。
丁寧に整えられた文章ばかりを読んで決まりの結末にたどり着いて、そこで何も花が開かないということがある。
「どこまでも曼荼羅のようにつながっていくかのように組み立てられた設計図通りの文章」が最終的に一切の違和を引き起こさずにそのまま心の真ん中で眠って死んでいくこともある。
「お里が知れるような幼弱な文章」の奥に、はっとするような深い悲しみが、布団を被って丸くなっていることがある。
窓口。あるいはもっと広く、間口。入り口。門。広げるべきもの。きれいに掃き清めるべきところ。話術や文章術が担当する役割の数十パーセントは、ウェルカムゲートの美麗さ、あるいは入室後のひとを落ち着かせるような調度としてのたたずまいにある。
一級建築士の建てた家。ジャケットを羽織らないとインターフォンを押せないような家。
あぐらもかけないような家がある。
だからと言って、森の中の熊の穴、リスの寝床、キノコの生い茂る湿った木の根元、そこまでの野生に浸るには我々は繊細になりすぎた。
ならば、花見のように。
ブルーシートをざっと引く。靴を脱いで足を踏み入れる。足裏に凹凸や摩擦を感じる。そうっと尻を下ろす。そういう経験を探していることがある。いつもではない。たまにでしかない。ぼくはもう、都会の暮らしに慣れすぎた。それでも、なお、と思うことはある。