2021年7月16日金曜日

光栄の残映

夏になるたびにどこかで水害が起こっている。スマホで撮影された映像。民家の前の小径に水があふれ、元は田んぼだったところが池になっている、そういう風景をネットやテレビで頻繁に目にする。

こういうのを見るようになったのは、つい最近のように思える。でも、昔に比べていまのほうが水害が増えたというわけではない気がする。

もちろん、全国の自治体の記録などを丹念に調べれば、実際に水害の頻度が上がったのか下がったのかを細かく判断できるとは思うのだが、それはそれとして。

ぼくが子どものころは、「全国各地の水害を放送する手段がなかった」んじゃないか。

スマホを持った市民がみな報道者となり得る今は、昔とくらべて、ぼくの手元に届く情報の「末端度合い」がぜんぜん違うのではないか。




中学生くらいのころ、居間のテレビでスーパーファミコン版「SUPER三国志II」をやっていた。「内政」の項目にたしか「治水」があった。

ぼくはそのとき「治水」という言葉がイマイチピンとこなかった。親に聞いたか、攻略本を探したか、どうやったのかは忘れてしまったのだけれど、「昔の中国では頻繁に黄河や長江が氾濫し、台風のシーズンが来る度に甚大な被害が出たので、時の為政者は治水工事によって人を守った」という意味のことをぼくは知った。そして確かそのとき、「今なら堤防ひとつ新たに作ったところで別に何もかわらんよなあ」と思ったのだ。一語一句同じとは思わないが、ぼくの心には確かにそういうざらりとした情があった。

きっと当時のぼくは「水害」というものを目にする機会が無かった。今よりはるかに社会に対する興味がなく、テレビでも報道番組など一切スルーしていたし、自分の住んでいる札幌にやってくる台風の進路を天気予報でたまに気に掛けるくらいで、いや、台風がやってきたとしても「通学路で傘を飛ばされる」くらいのものとしか考えていなくて、なぜならぼくが済んでいたのは札幌で、そう、台風は温帯低気圧になってから上陸するところであって、つまりは、深刻さがまったくわからなかった。



でも今もしぼくが中学生で、ツイッターやインスタグラム、TikTokなどを家のWi-Fiで無限にやっていて、毎日のように水害の情報を目にしていたら、やべえやべえと大騒ぎしていたら、SUPER三国志の「治水」にももう少し実感は湧いたのではないかと思う。



たぶん同じようなことは、スポーツにも、文学にも、ワクチンにも政治にも言える。昔より今のほうが、だんぜん、「突飛なもの」や「派手なもの」、「ひどいもの」、「びっくりするもの」、「誰かの家の軒先でだけ起こっているもの」を目にする機会が多くって、そしてぼくはたまたま目にしたそれらをまるで世界の代表であるかのように考えてしまうのだろう。そういうことをずっとくり返していくのだ。