2021年7月13日火曜日

病理の話(555) 大事なことは何度でも

このブログは「病理の話」と「それ以外の話」をだいたい交互に更新している。そのときどきで思い付いた内容を書いている。お題の決め方としては、その日たまたま目に留まったもの、指がキーボードの上でタカタッと走った場所から連想を広げて、着地点を想像しないままにとりあえず5行くらい書いてみる。すると、それにつながるように文章が指とキーボードの接地面のあたりから湧き上がってきて、数方向に拡散していく(ツインビーでいうとキャンディーを食ったときのやつ)。それを逃さないように拾い集めて文章をつなげていく。そうこうしているうちに、どこかで「あっこれでオチになるな」というポイントが出てくるので、最初のオチポイントをスルーして、二度目のオチポイントあたりでおしまいにする。だいたいそういう流れになっている。


で、病理の話のほうは、なにせ病理の話なので、病理診断や病理学研究にかんする何かをドンとまず用意してタイトルを付けてしまう。タイトルは七五調になることが多く、七五調だとちょっとしたメッセージ性をまとう。そのまとった雰囲気に沿って、何かを書けばだいたいブログとしてほどよい分量になる(やや多すぎることもある)。


書き上がったものを見返して手を加える「推敲」というものが、ほんらいの記事には絶対必要なのだけれど、ぼくのブログはあまり推敲をしていない。なぜなら、推敲をしてひとつの記事のクオリティを良くすることよりも、「とりあえず指から生まれてきたもの」の冗長性や形状不整っぷりを残しておくことのほうが、この「個人ブログ」においてはけっこう大事なのではないかと本気で思っているからだ。そのときのぼく自身の考えの歪みや落とし穴が、記事の不親切さや重複表現などにそのまま現れる。対面で会話して相手に「わかってもらえなかったとき」、過不足なかったはずなのになんでかなあ、なんて考えるのだけれど、話しているときの思考回路でそのまま文章を書いて記事にして、公開後にそれを自分で読むと、必要なことが抜けていたり不必要なことがくり返されていたりすることに気づく。


そうやってぼくは病理の話とそうでない話を交互に書いて、いったい何がしたいのかというと、これはたぶん、半分くらいの目的が、「学生や研修医などに病理をうまく教えたい」というところにある。この話ブログで何度も読んだよ、と言われてもいい、なぜならぼくは学生や研修医に大事なことを何度も何度も説明したいのだから、同じような内容をくり返し記事にしていくことで「対面で会話しながら病理の話をするときの、自分の語彙」を増やし、あるいは磨いている。




さて、何度も何度も何度も書いてきた話をする。病理診断においては、臨床医が採取してきた検体をぼくら病理医が顕微鏡で見て、「病理診断報告書」というのを記載して、電子カルテにアップロードする。その報告書(レポート)を医療者達は見て患者の治療方針を決定する。ではそのレポートに何をどれくらい書くといいのか?


「細胞診断名」と「必要最低限の解説」だけを書けば仕事は十分だと考える病理医がたまにいる。ただしマイノリティだ。原則的に、病理診断を主業務としている病理医は、「なるべく丁寧でやさしいレポートを書いた方が読むほうは喜ぶ」と考えているように思う。少なくとも、その病理医が何にこだわり、どういうスタンスで患者(の検体)と向き合っているのかがわかるような文章を書いておいたほうが、レポートを読む医療者にとっても、あるいはそれを見る患者にとってもいいことが多い。


ある細胞の核と細胞質に異常があったからこれを私は「がん」と診断します。この一言がなく、単に「がん。」とだけ書かれたレポートは、臨床医と病理医との信頼関係が「阿吽の呼吸」にまで高められているときには有効である。大丈夫、あの病理医がまじめにやっていることをぼくは知っているよ、という臨床医に向けて書くレポートはシンプルでかまわない。逆に言えば、はじめて仕事をする臨床医相手に「がん。」とだけ書かれたレポートを出すとしたらそれはある種のメッセージを含んでいる。「詳しくはおたずねください」というやさしさ、あるいは、「てめえなんかこの一言だけで十分だ」という投げやり。どちらに転ぶかは関係性次第だ。


最近のぼくは「廊下や医局の待機スペースでよく顔を見る臨床医相手のレポートは基本的にシンプルに書く」ようになっている。詳しいことはいつでも話し合えるからそれで問題ないのだ。ただし、顔見知りの臨床医が相手であっても、ここぞという症例に出会ったときにはレポートの文章を何倍も何十倍も書く。この診断名はめずらしいのだ、参考文献としてこれとこれを読むべきである、私はこのような根拠でこのように診断するが、時代が進んでエビデンスが増えたら別のカテゴリーに分類されなおす病気かもしれない、追加検査の結果は私も確認するのでまた相談しよう、くらいのことをとにかく書きまくる。病理診断がAIではなく人間によって担当される一番の理由は、この無限のフレキシブルさが求められるコミュニケーションにあると思う。何度も何度も何度も何度も書いてきた話である。